2014
12.01

メルマガがあります

 法楽寺メルマガがあります。ご希望の方はこちらからどうぞ。合掌
FC2 Management
2014
08.28

この世でもあの世でも、み仏に見守られ、お導きいただき、救われる私たち

201408280001.jpg
〈モノ金損得に翻弄されず、心の真実を貫きながら昭和という時代を生きた人々の姿は、私たちの心の汚れを気づかせてくれます〉

 ある時、Aさんのお姉さんが亡くなった。
 気丈で明るい故人は周囲の人々から慕われつつ、懸命に夫の生業を支えていたという。
 Aさんは、姉が生まれてまもなく父親を失い、年の離れた自分にはわからない苦労をしてきたことを知ってはいた。

 Aさんは、他界した姉の顔を見ているうちに、いかにも穏やかで安心しきったような表情に隠された寂しさ、悔しさ、辛さ、そして悲しみが一気に伝わってきて愕然とした。
「ああ、俺は今の今まで、姉の心を知らなかった。
 済まない……。
 ――姉さん」
 涙が溢れてきた。
 Aさんの心はもどかしいまま、行き場を失った。

 こうしたAさんの心も考慮し、故人のご遺族は切り詰めた生活をしていながらも、戒名を求め、引導を渡して欲しいと願われた。
 戒名の最初の熟語である院号に、寒風の中で健気に咲き、いち早く春の到来を告げる梅に惹かれる心を示す熟語が出た。
 生きた道を表す道号(ドウゴウ)である真ん中の熟語には、無類の明るさがストレートに出た。
 そして、み仏の御許へ歩む心を示す最後の熟語として、人々の心へ清涼な風を届ける二文字が並んだ。
 戒名をいただくようみ仏へ祈り、授かった導師の心へAさんの思いがどっと流れ込み、瞼が濡れた。

 澤地久枝氏は、懐かしい人々について綴った『昭和・遠い日 近いひと』の「―おしまいのページで―」に書いている。

「なつかしい『遠い日 近いひと』。
 疲れた心をそっと受け入れ、自身を失った心に『みんなそうだよ』と言ってくれる声。
『生きることほど素晴らしいことはない』とつぶやく声。」


 想い出の中で、人は皆、美しくなってゆく。
 この世での迷いや過ちが徐々に消え、み仏の子である本性が生者の心に、いつしか露わになってゆく。
 故人はいつしか、救う存在となり、故人の安寧を願い供養する人そのものが救われる。
 俗名で生きたこの世の人生が、戒名で生きるあの世の旅の道中において清められてゆくからに相違ない。
 お通夜の席で、導師から戒名について説明を受けた方々が流す涙は、死者にとっても生者にとっても尊い清めの聖水であろう。

 Aさんも、涙を隠そうとせず手を取らんばかりに感謝の言葉をくださったご遺族の方々も、真剣に法話を聴き涙ぐんだ参列者の方々も、そして、真実体験を重ねさせていただいた導師も救われた。
 こうした〈現場の真実〉とかけ離れた「戒名は要らない!」「葬儀は要らない!」といった声高な論議は、どこか遠い世界のできごととしか思えない。
 私たちは、この世において、人々のおかげで、自然のおかげで、仏神のおかげで、どうにか生きぬく。
 それなのに、自分の死を覚悟した方が、なぜ、あの世へ逝った途端に「自力だけでことは済む」と思えるのだろう。
 送る方々は、なぜ、「自力だけで安心の境地へ行ってください」と送り出せるのだろう。
 いつも、右手は仏神、左手は自分と観じて合掌している者には、どうも、ピンとこない。
(もちろん、熟慮した結果として戒名や葬儀を用いないと判断した方々の見解を否定するものではありません。
 その方なりの人生をかけたあらゆる見解を心から尊重しています。
 俗名での家族葬を求める方々が相継いでいます。
 率直に心の内を披瀝されるそうした方々も、こだわりなく引導を渡し、当山の共同墓や自然墓に受け入れ、区別や差別をせずにご供養しています)

 今日も仙台市で、仙北の町で、求める方々のために修法を行い、法話を行う。
 求める方々がおられる限り、み仏によって〈共に救われる道〉を皆さんと共に歩みたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
08.27

自我は滅するか? ―仏教的視点から観た自我(3)―

201408270001.jpg

 仏教は、「〈永遠で、単一で、独立した〉自我はない」という意味で自我(クウ)であり、心と身体と無関係に存在する自我はないという意味で「無我」であると判断しています。
 この見解は、日常感覚における〈自分〉という経験的存在である意識を否定するものではなく、日常生活的思惟の範囲でつかむ真理を「世俗諦(セゾクタイ)」と言います。
 一方、「ここにいると思うからいる」といった判断の先を問い、お釈迦様のような深い瞑想を行ってつかむ真理を「真諦(シンタイ)」または「勝義諦(ショウギタイ)」と言います。
 仏教における無我は、そうした宗教的体験によって確信できる真諦の範疇(ハンチュウ)に入りますが、日常生活的思惟によっても、ある程度、論理的な理解を得ることは可能です。
 この「ある程度」とは、「理解した真理に添って生きられるかどうかは別にして」という意味です。
 たとえば、私たちは、わかっちゃいるけどやめられない場合が往々にしてあります。
 飲み過ぎ食べ過ぎの繰り返しや、各種の依存症などを見れば、明らかです。
 仏教は哲学ではなく宗教なので、つかんだ真理どおりに生きることを目ざす以上、真諦こそが羅針盤となります。

 また、「因と縁によって果がある」という真理によって、「『明らかで、ものを知ることができる』という本質を持つ意識」の因をどこまでさかのぼっても、因の始まりは見つけられません。
 だから、「意識の実質的な因にははじまりがないので、それに依存して名前を与えられただけの存在である『自我』にもはじまりがない」ということになります。

 ここまでが、(1)と(2)で検討した内容です。
 今回は、であり始まりがない自我は滅するものなのか、ということを考えましょう。
 最初に述べたとおり、一連の稿はダライ・ラマ法王著『ダライ・ラマの般若心経』をテキストとしており、さまざまな解き方がある最後の問題については、テキストを正確に追ってみます。

 法王は、この問題について仏教の中でも見解は分かれていることを示します。

「仏教の四つの哲学学派の中で、小乗(ショウジョウ)仏教の学派である説一切有部(セツイッサイウブ)には『無余涅槃(ムヨネハン…煩悩と肉体を滅して心身の束縛から離れた小乗における完全な涅槃)に至った時は意識の連続体の流れは途切れる』と主張している人たちがいます。」


 四つの哲学学派とは、小乗仏教の説一切有部(セツイッサイウブ)と経量部(キョウリョウブ)、大乗仏教の中観派(チュウガンハ)と唯識派(ユイシキハ)です。

「しかし、これ以外のすべての仏教の哲学学派は、『意識の連続体の流れが途切れることはない』と主張しています。
 なぜかというと、どのような現象であっても、その現象が存在し続けることを妨げる力を持つものが存在するならば、その現象は滅することがありますが、その現象が存在し続けることを妨げる力を持つものが存在しなければ、その現象が滅することはないからです。」


 仏教は「人間は死ねばゴミになる」とは考えません。
 なぜなら、ゴミになるのはあくまでも身体というモノが火に焼かれ、灰がやがてバクテリアに分解されるからであり、そうしたモノの世界をいくら精密に追っても、意識の世界における因果の理とは何の関係もないからです。

「たとえば、私たちが持っている間違ったものの考えかたには、それを滅することができる正しいものの考えかたが存在するため、間違ったものの考えかたは滅することができます。」


 たとえば、一昔前は、体育系の部活に兎跳びが欠かせませんでした。
 しかし、現在の体育理論により、兎跳びで神社の階段を登るような行動は否定されており、もしも今、部長がこれを採用すれば、暴力やいじめと非難されることでしょう。
 また、半世紀前は、DDTという薬品がノミやシラミの駆除に有効であると考えられ、子供たちは皆、頭が真っ白になるほどDDTをかけてもらったものですが、DDTの危険性が明らかになった今、それをやれば暴行や傷害の罪に問われかねません。

「しかし、『明らかで、ものを知ることができる』という心の本質を滅することができるものは存在しないので、意識の連続体の流れは存在し続けて、仏陀の境地に至るまでずっと続いていくのです。」


 注意したいのは、「心の本質」を問題にしているという点です。
 もしも、「心の状態」であれば、病気や加齢によってさまざまに変化しますが、そうしたレベルの話ではありません。
 前回の(2)に書いたとおり、意識には身体のありようと密接につながった「粗いレベル」と、瞑想によってつかめる「微細なレベル」があり、法王はその全体を貫く本質について考察しています。

「以上の理由から、『自我』にははじまりがなく、終わりもない、と仏教では主張しているのです。」


 始まりがない無数の過去世(カコセ)における善業(ゼンゴウ)と悪業(アクゴウ)を背負った私たちは、それぞれに、特定の自分としてこの世へ生まれ出ました。
 いかなる自分に生まれたかは、過去世に、その原因があります。
 そして、この世で積み続ける善業悪業は必ず原因となり、来世(ライセ)のありようが決まります。
 因果応報は必然です。
 8月の機関誌『法楽』作りでは、『童子教』の一節を学びました。

「夫(ソ)れ積善(セキゼン)の家には  
 必ず余慶(ヨケイ)有(ア)り
 又好悪(コウオ)の処(トコロ)には  
 必ず余殃(ヨオウ)有(ア)り
 人として陰徳(イントク)有(ア)れば  
 必ず陽報(ヨウホウ)有(ア)り
 人として陰行(インコウ)有(ア)れば  
 必ず照名(ショウミョウ)有(ア)り」


(善行を重ねる家には、
 必ず後々まで良いことが起こる。
 悪行を好む家には、
 必ず後々まで悪しきことが起こる。
 まっとうな人間の道を歩むために目立たぬ徳行を積んでいれば、
 必ず良い報いがある。
 まっとうな人間の道を歩むために陰で善行を積んでいれば、
 必ず称賛を受ける時が来る)

 この教えは、この世だけを問題にしているのではありません。
 前世から来世へとつながる業(ゴウ)を説いています。

 明らかに、自我は無始、無終です。
 (クウ)なる自分として今、たまたま、ここにいられることに感謝し、これまでの善行(ゼンギョウ)と悪行(アクギョウ)をふり返り、自他のために善行を選択したいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
08.26

【現代の偉人伝 第195話】 ―徳は魔除けと活性化の力―

 午前3時、天地の主人公は秋の虫たちです。
 今朝は、目覚ましのために、貴重な2分21秒を使い、オリヴィエ・メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』第一楽章「水晶の礼拝」を聴きました。
 メシアンは解説しています。
「朝の3時と4時の間に、鳥たちは目覚める。
 光り輝く響きと木々のこずえ高く消えてゆくトリルの光輝のただ中で、ツグミ、あるいはナイチンゲールが即興的なソロをうたう。
 これを宗教的次元に移し換えよう。
 あなたは調和に満ちた静寂を得るだろう。」
 鳥たちはまだ寝ているし、ツグミはまだ、飛来していません。
 自然の音をバックにして、ほんのひととき流れた現代音楽が終わってみると、虫の声と静寂が不思議な共存をしていると感じます。

2014082600012.jpg
〈産経新聞様よりお借りして加工しました〉

1 亡き戦友へ詣でる人

 目に焼き付いた写真と記事を思い出しました。
 8月16日付の産経新聞が掲載した元陸軍兵士杉浦彦示氏(92才)です。
 初めて靖国神社を訪れた氏は、記者へ語りました。

「私が所属していた陸軍は行軍があって勝手に休めないから……。
 つらくて自決する人も少なくなかったんですよ」
「軍隊は『運隊』だとよく言っていた。
 弾が当たれば運が悪かったと思うしかない」


 記者は書きました。

「セミの鳴き声だけが響き渡る中、腰の曲がった杉浦さんは、少しでも姿勢を正そうと、必至につえで体を支えていた。
 少しでも鎮魂の思いが届くように、と。」


 今の自衛隊ですら、心が不調になる人々は後を絶ちません。
 勝手に休めない行軍ではいかなる気持だったのか……。 
 運に任せて撃ち合いの場にでかける若者は、いかなる気持で日々を生きていたのか……。
 学徒兵の遺稿集『きけ わだつみのこえ』などは涙なしに読めませんが、衆目を集める遺書とならなかった無数の方々の思いは、忖度しきれるものではありません。
 15才から志願して海軍にいた氏が、腰の曲がった今も戦友たちの前で姿勢を正そうとする強い目の光に、私たちの持つ根源的な〈の力〉を感じました。

2014082600022.jpg
〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

2 土砂災害で救済に当たった住民の方々

 8月25日付の朝日新聞は、広島市安佐北区の可部地区で、20日朝、土砂崩れが起こった直後に救助作業を行った住民たちについて報じました。
 午前5時過ぎ、元自治会役員の中村光政氏(68才)は、被害がでていると聞いてただちに役員へ招集をかけ、一人で現場へ行きました。
 押し潰された家にいる老夫婦の救助作業に駆けつけていた4人の消防隊員に言われました。

「命の保証はできんけど、手を貸してくれたら助かる」


 いつの間にか20人もの男性住民が集まり、茶碗で泥をかき出すなど必至の活動が始まり、午前8時頃にはかけつけた孫が「おじいちゃん、来たよ!」などと呼びかけました。
 近くの集会所に集まった女性たちは「おにぎりや味噌汁を作り、救出に当たる男性たちを支え」ました。
 正午過ぎに妻、午後2時過ぎには夫が意識のある状態で救出され、「住民たちは拍手して喜んだ」そうです。
 9月24日には、全国からボランティアの人々が駆けつけました。
 大事な仕事を休んだ方も、あるいは、あまり世間の光が当たらないところでひっそりと暮らしている方々もおられることでしょう。
 命の保証がないところに踏みとどまっても仲間を救おうとする人々、見ず知らずの相手へ身施(シンセ…身体を用いる布施)を実践する人々。
 こうした姿こそ、私たちが世界へ誇ることが許される〈ある文化〉を表していると言えるのではないでしょうか。

201408260008.jpg

3 福島第一原発の所長だった故吉田昌郎

 事故調査・検証委員会が故吉田昌郎元所長から聞き取った400頁に及ぶ調書がようやく公開されることになりました。
 すでにいろいろと報道されていますが、昨夜のNHKテレビでニュースの最後に紹介された氏の言葉は耳に残りました。

「口幅ったいようだが、ここの発電所の発電員、補修員は優秀だ。
 今までトラブルも経験し、肌身で作業してきた経験があるから、これだけのことができたと思う。
 私が指揮官として合格だったかどうか、私は全然できませんけども、部下たちはそういう意味では、日本で有数の手が動く技術屋だった。」


 ここに、〈現場の人々〉の矜恃も名誉も尽くされているのではないかと感じました。
 氏は、別の場で、爆発後の建屋へ向かう部下たちの背中を見て「菩薩(ボサツ)を感じた」とまで述べています。
 私たちは、経験したことのない危機的状況で右往左往する関係者たちへ狭い視野から批判を重ねるよりも、死の恐怖に耐えながら毅然と行動した現場の方々に想いを致し、自らの姿勢を正す気持になりたいものです。
 ここには、線路に落ちた人を救おうと線路へ飛び降りる人の思いと共通するものがあります。
「そうしないではいられなかったから、降りたのです」
 私たちが魂を揺すぶられるのは、彼らの〈の光〉に、眠っているが共鳴するからではないでしょうか。

4 は魔除けの力

 の文字はそもそも、呪力を孕む目が持つ魔除けの威力を指すものでした。
 白川静の『字統』は教えています。

「そのような威力が、呪飾による一時的なものでなく、その人に固有の内在的なものであることが自覚されるに及んで、それは徳となる」


 私たちの霊性が具体的な行動という形をとる時、それは徳の力、徳ある文化、徳の光として輝き、悪しきものや魔ものたちを自然に教化し、浄化し、人間として大切なものを守ることができます。
 兵士の鎮魂も、住民の救助活動も、事故現場のプロたる仕事も、ともすれば眠りかけている私たちの徳を活性化させてくれます。
 自分の得に走らず、自他の徳に感応し、霊性を持つ者として生き生きと歩もうではありませんか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
08.25

自我に始まりがあるか? ―仏教的視点から観た自我(2)―

20408150002.jpg

 前回、書きました。
「仏教は、他の宗教と異なり、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はないと考えています。
 いわゆる『無我』が仏教の根本的立場です。」
 そして、今、ここに自分がいるといった感覚は、日常的なものとしては認めても、根源に迫る仏教は、その先を問います。
 いると思う自分を突き詰め、一体、自分そのものは〈どこに〉見出せるか?
 そうすると、手にも足にも目にもどこにも見出せず、ただ、五つの要素が集まっている特定のものとして、名づけられ固定されたというしかありません。
 ダライ・ラマ法王は端的に述べられました。

自我五蘊(ゴウン…心とからだの構成要素の集まり)に依存して名前を与えられた存在である」


 五蘊とは、つねれば痛いこの身体(色蘊…シキウン)、見聞きしてはたらく感受作用(受蘊…ジュウン)、あれこれを分ける識別作用(想蘊…ソウウン)、どうこうしようという意志作用(行蘊…ギョウウン)、自分がいるなどとわかる認識作用(識蘊…シキウン)の5つです。
 これらがうまく集まり、共存している特定の者としてのみ、自分はここにいるのであって、ガラス細工のような自分の核となっている自我の存在など、どこにも確認できません。

 論を進めましょう。
 どうして、たまたま五蘊が集まっているかといえば、集まる原があるからです。
 何もかもが、原と結果のつながりとして生じているのであり、この因果の法から外れるものは何一つありません。
 一瞬も止まらず変化し続けると果の流れにあるありとあらゆるもののありようは、固定した実体を持たない(クウ)です。
 だから、仏教では、因果の理から外れ、(クウ)でもない創造主とされる神の存在を認めません。

 一口に因果と言っても、果をもたらす因には直接的なものと間接的なものとがあります。
 因とがある、とも言えます。
 因があってもがないと果が生じないのは、種があっても水が与えられなければ芽が出ないことでわかります。
 
 さて、私たちは、モノとしての身体と心としての意識が精妙にからみあって存在しています。
 意識には、身体のありようと密接につながった「粗いレベル」と、「微細なレベル」とがあります。
 モノとしての身体が切られれば痛いと意識するし、モノとしての身体がケガや加齢ではたらきを失えば、意識の行方も定かではなくなります。
 これが粗いレベルの意識です。
 一方、生まれつき性格が荒々しかったり、おとなしかったりといった性格に彩られた微細な意識の違いは、生まれる前の前世(ゼンセ)に原因があり、意識はこの世での生活ぶりによって知らぬ間に変化し続けます。
 これが微細なレベルの意識です。

 意識も因とによって仮そめにありますが、〈今ある意識〉の因は、あくまでも〈その前の意識〉にありす。
 決して、樹木や雲や鳥といったモノに原因を求められはしません。
 ダライ・ラマ法王は述べられました。

「実質的な因の連続体がないと、間接的な因だけではひとつの現象の存在は成立しないので、実質的な因は必ず必要です。」


 間接的な因としてのがあるだけでは現象が成立せず、実質的な因がなければならないのは、水があっても種がなければ芽が出ないのと同じです。

「意識は『明らかで、ものを知ることができる』という本質を持つものなので、意識の実質的な因も、そのような本質を持つ因でなければなりません。」


 ここで説かれる「そのような本質を持つ因」となっている意識もまた、その因を求めれば「そのような本質を持つ因」でしかありません。

「意識の実質的な因をずっとさかのぼっていくと、その因のはじまりを見つけることはできないので、意識にははじまりがない、といわれているのです。」


 もしも、こうした意識に始まりがあるとすれば、その原因となっているものは意識以外のものということになりますが、そうした事態はあり得ません。
 意識と物質的なものとは種類が異なっており、意識が物質的なものの実質的な因になれないのと同じく、物質的なものもまた、意識の実質的な因になれないからです。
 かつて、インドのサイババは、ビブーティという灰や指輪などを念力で生じさせると称して世界中から信者を集めましたが、彼が外国旅行中に仕入れを行っている現場が目撃され、騒動は終結しました。

 ダライ・ラマ法王の結論です。

「人を規定するときの土台となりうるのは、五蘊の中でも主に意識であり、意識の実質的な因にははじまりがないので、それに依存して名前を与えられただけの存在である『自我』にもはじまりがない、ということになります。」

 
 自我に始まりはないのです。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



back-to-top