2015
12.01

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2014
11.28

今の苦労は水子やご先祖様のせいなのか

201411280001.jpg

 ご質問です。

「病気の子供や水子や生活などの苦労について、『供養がまちがっている、仏壇に家系図に基づく過去帳を入れていなかったり、お墓を建てて納骨していないせいだ』と言われましたが、納得できません」

 お答えしました。

 私たちは、嬉しいできごとにも、悲しいできごとにもぶつかります。
 前者においてはあまり、因果を考えません。
 せいぜい、自己中心的な方はいくらか高慢になるかも知れないし、謙虚な方は周囲へ感謝するかも知れないという程度です。
 後者が問題です。
 たとえば、お腹の子をとても大切にしていたのに、頑張ってはたらいているさなか、ふとしたはずみで流産してしまった場合、「どうして?」という疑問にとりつかれ、周囲の誰かのせいにしたり、あるいは自分のせいにしたりと、苦しみます。

 原因と結果の糸をすべて結びきれない私たちは、答の出ない疑問と後悔の念に悶々としている時、思いもよらぬ言葉を耳にする場合があります。
 家系に水子があったから、悪事をはたらいたご先祖様がいたから、あるいはお墓や仏壇や神棚や家相に問題があるから、などなど。
 藁にもすがる思いでいると、「そうか!」「当たっている……」と思いたくなるでしょうが、ここでは、深呼吸して客観的に考える必要があります。
「本当にそうだろうか?
 この推論に自分も心から納得できるだろうか?
 ご託宣をのたまう人は、慈悲心にあふれ、因果応報の糸をすべて見透せる仏神のような聖者だろうか?
 そもそも、水子のいない家系や、悪事をはたらく人がいなかった家系などあろうか?」

 そうすると、先亡の御霊に対する感謝や供養に欠けたり不足したりといった忸怩たる思いを持っていることに突き当たる程度がほとんでではないでしょうか。
 その場合は、自分なりにできることを行えばよいし、この時点で〝自分には恥じるところがない〟と思えれば、言った相手が誰であろうと、聞き流せばよいだけのことです。

 そもそも、猫や稲といった他の生きものでなく、精神を持った人間としてこの世に生まれ出ることは、ほとんどゼロに近い確率の難事です。
 稀少な機会が現実のものとなるためには幾多のチャレンジが当然、必要であり、水子とは貴重なチャレンジを一つ体験した存在です。
 そうした水子が怨んだり祟ったりするはずはありません。
 だから、このように励まして、供養しましょう。
「今回はごめんね。
 この次は、誰かのご縁で、きっと成功してね」

 ご先祖様については、自分がしっかり、まっとうに暮らし、生まれ持った過去の因縁を清めて行くしか、私たちの生きようはないので、ご先祖様方へ回向(エコウ…自分が積んだ功徳を回し向ける)する気持があり、自分にできることを実践していれば充分です。
 それ以外のことごとは、参考にして納得できれば実行し、納得できないなら聞き置くのみです。
 そもそも、私たちを必ず見守ってくださっているはずのご先祖様が、供養の仕方がどうこうという理由で私たちへ悪しきできごとをもたらすとは考えられません。 
 ただし、供養や納骨などの大切なことごとを、自分でやらねばとわかっていながらやらないままにしておけば、それは心の引っかかりとなり、どこかでマイナス要因を生んでいるかも知れません。

 お釈迦様は説かれました。
「善いことを行いなさい。
 悪いことはしなさんな。
 良心に従い、汚れをまとわぬように生きましょう」
 こう生きていれば、乗りこえられない難事はありません。
 皆様のご誠心に仏神のご加護がありますよう。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
11.27

三つの縁について

 仏教では、について三つの方向から考えます。

不動なる

 すべてのものは、原因があって生じています。
 大昔からあった山も、今、誕生したばかりの赤ん坊も、同じです。
 神様か誰かが、こうしようと意志をはたらかせ、勝手に創り出しているものではありません。
 このことをお釈迦様は説かれました。

「これがあるから、これが生じる」


 前の「これ」とは、山や赤ん坊を生じさせる原因です。
 後の「これ」とは、山や赤ん坊です。
 カラスも、車も、まったく同じです。
 カラスが生まれる原因と、車が出来上がる原因とはまったく異なるものであり、全部をひっくるめて神様か誰かのせい、と言ってみても仕方がありません。
 特定のものが生じるためには、必ず特定の原因があるということは古今東西、いつの世も変わりません。
 こうした不動のありようを「不動」と言います。

無常なる

 すべての存在に原因がある以上、自分自身でまったく自立しているものは何もありません。
 いかにどっしりとしている富士山も少しづつ変化しており、もしも噴火すれば一気に姿を変えます。
 赤ん坊もいつまでも赤ん坊ではいません。
 子供になり、大人になり、やがて必ず死にます。
 自分の力で「常」に存在するものは「無」く、無常なるありようを「無常なる」と言います。

能力

 噂話が広がると、こう言われます。

「火の無いところに、煙は立たない」


 もやもやした煙が生じたならば、どこかに必ず、煙をもたらす火があるはずであって、火以外の水や土などがいくらあっても、煙を生じさせることはできません。
 煙がある以上、燃やす性質を持った火と、燃える性質を持った紙などのモノがあります。
 リンゴの実は、リンゴの木として育つ種があり、木となって初めてリンゴがなるのであり、リンゴの実をつける能力を持たない梨の木をいくら育てようと、決してリンゴは得られません。
 このように、特定の結果をもたらす特定の原因には必ず、結果をもたらす能力があるというありようを「能力の縁」と言います。

 今から1600年以上も前に、インドの天才アサンガ無着)は、こうした真理を見つけました。
 お釈迦様の「これがあるから、これが生じる」に始まる仏法の探求は、今も続いています。
 よく学び、原因と結果を考えながら、自分の人生や人格や行動をふり返ってみたいものです。
 きっと、眼前に広がるこの世の景色がこれまでとはいささか、違って見えることでしょう。
 生き方もいささか、変わるかも知れません。




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2014
11.27

平成26年12月の運勢に応じた留意点 ―陰に還る流れを使う―

 平成26年12月の運勢に関する留意点です。

 今月は、火が消されるような〈陰に還る〉流れに要注意です。
 もちろん、消えることがすべて凶事ではありません。
 火事が放水で消えればよく、家庭を壊す気ままな浮気の虫が冷静な判断と自制心によっていなくなればよく、圧制者の権力が民衆の抗議によって取り除かれればよいのです。
 ここで肝腎なのは言葉です。
 言葉を適切に用いて、還って行かせたいものをしっかり還せば、抑圧がはずれ、持っている力を十分に発揮できるかも知れません。
 相手へ適切な言葉をかけたり、相手から適切な言葉をかけられたりすることは、決して小さくないできごとです。

 元大リーガー松井秀喜氏は、河北新報に連載してきた『野球考』の最終回で、不振のおりにヤンキースのトーリ監督から言われた一言について記しました。

「選手は監督に言葉を期待するべきでないと思う。
 『何か言ってほしい』と考えるのは甘えにすぎない。
 だがそれでも追い込まれたときの一言には助けられる。」
「あの時は技術的な話の前に、数字に表れない貢献を見ているといわれ、心が動いた。」


 徹底的に自分へ厳しい松井氏は、他人からもらう言葉に期待したり、甘えたりはしません。
 それだけに、自分が発する言葉についても、連載の最後で「どこまで意図が伝わっているかという不安は常にあり、言葉を選ぶ難しさをあらためて感じた。」と書いています。
 そんな松井氏の「心が動いた」のはなぜか?
 そして、なぜ、いきなり「その試合で二塁打3本と本塁打を放つことができた」のか?
 それは、監督がいつも自分を〈信頼の目〉で見てくれていることを察知しており、それが言葉によって確かなものとして迫ってきたからではないでしょうか。
 人は〈本当に〉信じてもらえる時、勇気も覇気も自信も湧いてきます。
 問題なのは〈本当に〉であり、〈心の受け手〉をごまかすことはできません。

 また、元小結舞の海秀平氏は、あまりうだつの上がらない、それでいて人情家の先輩から聞かされた一言が今でも忘れられません。

四股を踏むときはな、一つ父ちゃんのため、二つ母ちゃんのため、三つばあちゃんのため…と思いながら踏むんだ


「実践すると地味で単調な稽古に自然と身が入った」そうです。
 小柄な舞の海氏は、自分より100キロも重い力士と対戦する日々にあって、こうした思いのこもった稽古を重ねているという自信が不安や恐怖心を払い、あれだけの活躍をもたらしたのでしょう。

 松井氏は監督の誠意が表れた言葉によって、スランプの雲をうち払いました。
 舞の海氏は先輩の人情味ある言葉によって、地味で単調な稽古に邁進できました。
 今月は、迂闊な言葉によって肝腎なものを失わぬよう、しっかりした言葉によって去らせるべきものを去らせるよう、自他の言葉に留意したいものです。




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2014
11.26

高倉健が言った「人間のことを想う美しさ」はなぜ、私たちの心をとらえているのか?

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 高倉健の言葉が静かで大きな反響を巻き起こしている。

「人間が人間のことを想う、これ以上美しいものはない」


 それは、「美しいもの」が危うくなっている社会的状況のせいではないか。

 労働環境があまりにも無慈悲で、人間が人間扱いされなくなりつつあるのは厳然たる事実である。
 目の下にクマをつくり、憔悴しきって人生相談に訪れる若者たちの話を聞いていると、疑問がわいてくる。
 そもそも、人材派遣業という商売は社会正義上、許されるのだろうか?
 つい30年ほど前までは禁止されていた職業紹介業や労働者供給業がなぜ、大手を振って儲けてよいというきまりがつくられたのか?
 はたらき手と職場の間にはさまり恒常的に利益を上げる商売に漂う社会的不正義の匂いはもはや、誰も感じなくなったのか?
 これほど情報が共有され、職安も整備された時代に、いったい誰が、何のために、人材派遣業者を必要としているのか?
 今の仕組が正当なものならば、なぜ、これほど多くの人々が生活苦に喘ぎ、未来に希望を持てないでいるのか?
 
 国際労働機関(ILO)が昭和19年に行ったフィラデルフィア宣言の根本原則は以下の四つである。

(a) 労働は、商品ではない
(b) 表現及び結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。
(c) 一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
(d) 欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定にともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する。


 そして、平成11年には新しい世紀を迎えるにあたり、「21世紀におけるILOの目標」を掲げた。

「すべての人へのディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現」
 つまり、人間が行う労働はモノのような商品ではなく、国家社会は人間が労働を通じて人間らしく生きて行ける仕組みを探求すべきであり、欠乏や貧困に対しては国家社会が断固、解消をはからねばならない、ということではないか。
 これは自由競争や自己責任とはまったく異なる理念であり、国家社会はこれを実現すべきであるという国際的共通認識が表明されている。
 国連最初の専門機関であるILOはノーベル賞を受賞し、日本もアメリカも加盟している。

 それにもかかわらず、今や、労働市場は派遣業者に牛耳られ、労働はコンピューターで数値的に管理される〈商品〉となっている。
 人間は労働という〈性能〉のみが求められる機械と見なされている。
 若者たちの嘆きも不安も、その根源はここにある。
 今や日本の労働者の約3割、24才以下では約半分が、簡単に取り替えのきく非正規雇用である。
 ちなみに韓国では労働者の半数がすでに非正規雇用であり、このまま進めば、9割の労働者が非正規雇用のまま、生涯を終えるという。
 そんな韓国の人々には日本を敵視する雰囲気があり、日本の人々には韓国を蔑視する雰囲気がある。
 あまりに哀しく、虚しく、耐え難い。

 高倉健が言う「人間のことを想う」は、ただ「思い出す」といったことではない。
 ある人間の存在がいつも心に留まっており、それが「想う」という形で顕わになるたび、切なく、やるせなくなるという状態である。
 こうした情緒の活動は、情緒へ何かの形を与えさせないほど強い他の使命感や責務に生きる行動によって抑制される時、いっそう、輝きを増す。
 想いを胸に秘めたまま、口を真一文字に結んで死地へも赴く高倉健が演じた主人公たちの世界である。
 このあたりを知りたい方はまず、DVD『冬の華』を観られればよい。

 一方、使命感や責務を感じにくい労働環境と窮乏生活にあっては、情緒の高揚や深まりもなかなか得にくいのではないか。
 だから、哀しくも、冒頭の言葉が多くの人々の心をつかむのではないか。
 人間のことを想わない社会だからこそ、人々は真実をつきつけられ、ハッと我に返るのではないか。
 また、11月22日に起こった長野北部地震において死者が出なかったのは、互いを「想う」地域だったからではないか。
 当山はご葬儀後の法話でいつも、申しあげている。
「人は生きて人々のためになり、最後は死をもって周囲の人々を立ち止まらせ、人間にとって大切なことごとについて深く考える貴会を与えてくださいます」
 高倉健はまぎれもなく、私たちを立ち止まらせている。
 よく考え、ふり返り、「人間のことを想う」人になり、じっくり「人間のことを想う」ことのできる社会にしたいと、強く願う。




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