2014
12.01

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2014
08.10

お盆供養の申込み

 ただ今、当山ではお盆供養の申込みを受けつけています。
 ご先祖様がない方は一人もおられません。
 年に一度の機会にしっかりご供養してはいかがでしょうか?
 詳しい内容はこちらからどうぞ。
 ◇ご希望の方は、申込書を印刷してFAXしてください。
 もしくは、メールにてお申し込みの方はこちらからどうぞ。
2014
07.30

遺体は死者からの贈りもの、弔う葬礼で弔う者も癒される ─東北関東大震災・被災の記(第154回)─

201407300001.jpg
〈11番目の『忘れな草をあなたに』は入魂の一曲です〉

 7月5日、大震災によって生まれた膨大な悲しみに人と社会がどう対処すればよいかを問うシンポジウム「震災と宗教―悼みと向き合える社会へ―」が開催された。
 場所は東北学院大土樋キャンパスである。
 7月27日に掲載された河北新報の記事を元に、宗教者としてかかわってみたい。

 パネリスト6名へ与えられたテーマは「〝悲しみの技術〟を巡って」である。

2 死者を悼む葬礼は誰のために行うのか

 東北学院大副学長、教養部教授である佐々木俊三氏は問を発した。
「死者を悼む葬礼は、生き残った者たちの悲しみを癒す技術なのか、死者を弔うためのものか。
 二者択一ではなくて、両方の意味があるのだろうか。」

 よく問われる問いである。
 祈る実践者としての答は一つしかない。
「死者を弔うためであり、結果的に弔う者のためにもなる。」

 そもそも、葬礼の始まりは、〈何かをしないではいられない思い〉だったはずである。
 科学が今ほど発達してはいない、それでいて戦争の絶えない時代には、今よりずっと、死は身近だったはずである。
 病気になれば簡単に亡くなり、戦に出かければ簡単に殺された。
 あるいは、気象に翻弄され、虫やケダモノにやられ、伝染病にもやられた。
 そうして心を通わせていた人が屍体になった場合、そのまま放置できようか?
 人間の屍体は〈遺体〉なのである。
 そもそも「遺」の文字は、財宝を両手で持つことを表す「貴」に発し、それを人に贈る意味で「遺」となった。
 遺体とは、魂の去りゆく死者が最後に私たちへ遺してくれた貴い贈りものなのである。

 霊性のある私たちはそのことを察知できるので、遺体を尊ぶ。
 ウクライナで撃墜されたマレーシア航空機乗っていた人々の遺体をきちんと確保するために国際社会が動いているのは、人類共通の大事だからである。
 それだけに、酔った親ロシア派の戦闘員が遺物に手をかける光景はあまりにもおぞましく感じられる。
 また、長崎県佐世保市のマンションで同級生をバラバラにした女子高生の精神状態にはかなり深刻な問題があったと推測される。

 さて、去りゆく魂と、遺された遺体を前に、私たちは何かをしないではいられない。
 そこに祈る心が起こり、宗教心が芽生えた。
 人々の心のありようにより、気候風土により、さまざまにはたらく霊性は、祈る形を徐々に創り上げ、洗練させもする。
 こうして、死者の心と身体に触発された者の霊性葬礼を形づくり、後に発生した仏教やキリスト級などの世界宗教は、先行したさまざまな葬礼と融合しつつ現在のスタイルを完成させた。

 あの震災後、始めは無事を祈り、徐々に遺体との対面を願うようになられたご遺族方は、遺体や遺品を前に「よく、帰ってきてくれた」と泣き崩れた。
 魂は去ったが、贈りものは届いたのである。
 そして、当山へも、たくさんの人々が足を運ばれた。
 あの時、自分の悲しみを癒すために葬儀を行おう、あるいは百か日や三回忌の供養を行おうと考えている人は誰一人おられなかったと思う。
 修法を終え、皆さんが涙を流しながら「ありがとうございました」と頭を垂れ、「ようやく立ち直れそうです」と吐露されたのは、故人を悼む思いが明確な形となり、人間としてなすべきことができたという安堵感を感じられたからだろう。
 悲しみが癒されたのは、あくまでも結果なのである。

 一方、こんなこともある。
 当山は、各種のお祓いを依頼される。
 たとえば、古い井戸を埋めたところ、完成写真にいるはずのない人の影や、ざんばら髪が映り込んでいたりする。
 その家の方や工事をした方は当然、放置できず、駆け込まれる。
 写真を観て、供養やお祓いの修法を行う。
 皆さん、安心してお帰りなられるが、その前に一言申しあげる。
「皆さんは、供養を待っていた御霊を安心の世界へお送りするという尊い行為をされたのですから、どうぞご安心ください」
 未成仏霊を救うことこそが根本であり、その結果として、金縛りなどがなくなるのである。
 このことの確認こそが人として大切な手順であると思う。
 たとえ、自分から〈気味の悪いもの〉を切り離したいと願ってご来山されても、善行の実践という徳積みによってもたらされた大きな安心感を持ってお帰りになられる。
 相手のためになったからこそ、自分も救われるのである。

 最後にもう一度、祈りの現場にある者の確信を示しておきたい。

「遺体は、魂の去りゆく死者が最後に私たちへ遺してくれた貴い贈りものである」
「弔わずにいられぬまごころによる葬礼は、弔う者の悲しみを癒す救いともなる」





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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2014
07.29

苦しみや痛みを受け入れる人間的な伝統技術 ─東北関東大震災・被災の記(第153回)─

2014072800012.jpg

 7月5日、大震災によって生まれた膨大な悲しみに人と社会がどう対処すればよいかを問うシンポジウム「震災宗教―悼みと向き合える社会へ―」が開催された。
 場所は東北学院大土樋キャンパスである。
 7月27日に掲載された河北新報の記事を元に、宗教者としてかかわってみたい。

 パネリスト6名へ与えられたテーマは「〝悲しみの技術〟を巡って」である。

1 苦しみや痛みを受け入れる技術について

 会議の冒頭、東北学院大副学長、教養部教授である佐々木俊三氏はテーマの理由について語った。
「現代社会は工学的な技術一辺倒になっているが、苦しみや痛みを受け入れるのも人間的な伝統技術ではないのか」

 そのとおりである。
 苦しみや心の痛みがどうにもできぬほどのものであっても、私たちは今日を生きねばならない。
 それも、社会人として、人と人との間にある人間として。
 ここで発生する心の呻きは、平穏な日常生活のどこにも、溶け込ませることはできない。
 打ち寄せる波は砂浜に吸い込まれるようなわけにはゆかない。

 それを受けとめるのが祈りである。
 むろん、苦しむ人そのものが、自分で苦しみのエネルギーを祈る思いへと転換させることは難しい。
 そこで救いとなるのが、まさに「人間的な伝統技術」としての宗教である。

 人間はいつからか、両手を合わせて祈るようになった。
 合掌が自然発生的なものか、宗教的感覚に優れた行者がつかんだものかはわからないが、私たちは、「左手は自分、右手は聖なる存在を象徴する」といったシンボルとしての意義付けにまで到達した。
 こうした意義を知り、伝統的に行われてきた合掌を実践する時、自然に瞼が下がり、苦しみのエネルギーは確かに変容する。
 いつしか、合掌は、み仏の姿となった。
 み仏は、遙か彼方の山の向こうからやってくるのではない。
 天上高くおわすのでもない。
 祈りにより、私たちの心そのものに〈おられる〉ことが、明かになってくるのである。
 祈りが深まれば、山にも雲にも風にも、鳥の声にも、笹のそよぎにも〈おられる〉ことが感得できるようになる。

 さて、私たちのいのちのはたらきは、身体と、言葉と、心とによって営まれている。
 合掌は身体のはたらきである。
 遥か昔、呻きの中から発せられた言葉が「南無」となり、真言となり、経文ともなって整備されてきた。
「南無大師遍照金剛」「おん あびらうんけん ばざらだとばん」と唱えられ、般若心経を唱えられる現代人は幸せ者である。
 大きな大きな伝統のおかげで、唱えようを知り、言葉もはたらかせられるからである。
 また、み仏をはっきりと感得し、その世界へ深く入り込んだ宗教的天才たちが、観想(カンソウ)としてそのイメージを遺し、それも伝統として伝えられている。
 だから、凡夫である私たちは、苦悩の果てに道をつかめぬまま死んで行かずに済むようになった。
 イメージに導かれ、一種の他力によって、早く、救いの世界へ行くことができる。
 それは、スポーツの選手が監督やコーチや先輩の手ほどきを受けて技術と能力をアップさせるのと同じである。
 先に〈つかんだ〉実践者からの手ほどきは、まことにありがたい。
 こうして、私たちは、「人間的な伝統技術」によって、身体と言葉と心の用い方を学び、合掌し、真言を唱え、観想と瞑想を行い、波が砂に吸い込まれるように呻きを解消してゆくことができるのである。

 震災後、当山を訪ねた方々はご葬儀や供養や祈祷の場で異次元を感じ、呻きを和らげ、祈り方を学んだ方々は自力で呻きを解消されるようになった。
 宗教は、救いを求めないではいられない私たち人間が積み重ねてきた救いのための「人間的な伝統技術」そのものである。

 ほとんどの場合そうであるように、このシンポジウムにも、僧侶は参加していない。
 今回を第一回とし、今後、幾度かにわたって、この日のテーマに関し、祈りの現場からの発言しておきたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2014
07.28

もう一つの『心』 ―平成26年8月の運勢―

201407280001.jpg

 平成26年8月の運勢です。
 今月は、ものごとが停滞しがちでも、焦って早くやろうとすれば地雷を踏みかねず、迷えばどこまでも迷ってしかねない「警戒警報発令」の時期です。
 事態が難しければ難しいほど、至にものごとの本義を確認してから行動に移らねばならず、自分に都合のよい考え方で思考停止のまま突っ走ったり、を惹かれる相手のペースに乗って進むようでは危険極まりありません。

 夏目漱石に『』という短篇小説があります。
 あの『こころ』があまりにも有名なため、この上品な香水の小瓶にも似た作品は、あまり注目されていないと思われますが、実に新鮮な感覚で示唆に富んでいます。
 一部を抜き書きします。

 二階の手摺りから外を眺めていた男の目の前へ、小さな小鳥が飛来します。

「自分と鳥との間はわずか一尺ほどに過ぎない。
 自分は半ば無意識に右手(メテ)を美しい鳥の方に出した。鳥は柔かな翼と、華奢な足と、漣(サザナミ)の打つ胸のすべてを挙げて、その運命を自分に託するもののごとく、向うからわが手の中に、安らかに飛び移った。
 自分はその時丸味のある頭を上から眺めて、この鳥は……と思った。
 しかしこの鳥は……の後はどうしても思い出せなかった。
 ただの底の方にその後が潜んでいて、総体を薄く暈(ボカ)すように見えた。
 このの底一面に煮染(ニジ)んだものを、ある不可思議の力で、一所(ヒトトコロ)に集めて判然(ハッキリ)と熟視したら、その形は、――やっぱりこの時、この場に、自分の手のうちにある鳥と同じ色の同じ物であったろうと思う。
 自分は直(タダチ)に籠の中に鳥を入れて、春の日影(ヒカゲ)の傾くまで眺めていた。
 そうしてこの鳥はどんな持で自分を見ているのだろうかと考えた。」


 散歩に出たら、五六間先の小路の入り口に立っている女の顔に、心の照準がロックオンとなってしまいます。

「その顔は、眼と云い、口と云い、鼻と云って、離れ離れに叙述する事のむずかしい――否、眼と口と鼻と眉と額といっしょになって、たった一つ自分のために作り上げられた顔である。
 百年の昔からここに立って、眼も口もひとしく自分を待っていた顔である。
 百年の後まで自分を従えてどこまでも行く顔である。黙って物を云う顔である。」


 後を向いたので追いかけて行くと小路を曲がった女は不意にふり返り、急に右へ曲がります。

「その時自分の頭は突然さっきの鳥の心持に変化した。
 そうして女に尾(ツ)いて、すぐ右へ曲がった。
 右へ曲がると、前よりも長い路次(ロジ)が、細く薄暗く、ずっと続いている。
 自分は女の黙って思惟するままに、この細く薄暗く、しかもずっと続いている路次の中を鳥のようにどこまでも跟(ツ)いて行った。」


 主人公は小鳥に惹かれた瞬間、〈自分〉が希薄になりました。
 手に飛び移ってきた小鳥と飛び移られた自分と、どちらがどちらに惹かれたのかわからなくなりました。
 自分よりも、手中に収め、籠へ入れた小鳥が主人公になりました。
 そうした気持のまま、でかけた先で、見知らぬ女性に惹かれ、たちまち、自分は〈小鳥〉になりました。
 あとは、〈籠に入れられる〉まで、ついて行くことでしょう。

 実に心は不可思議です。
 何かの拍子に情報の処理が少しずれ、いつもの自分から少しずれてしまうと、ずれたままで行き着くところまで行ったりしかねません。
 警察官までが危険ドラッグにはまってしまうのは、ほんのわずかな心の綻びを放置しておくためです。
 誰しもが、常に、揺るぎない日常生活を送れるわけではありません。
 人生は想定外のできごとの連続です。
 いつものように安定した情報処理ができず、あまり考えないままに、ちょっと違う方法や方向へ半歩、向きかけた時が分岐点です。

 相手が異性でも、あるいは宗教政治でも、自分の中で〈夢中〉や〈熱狂〉が始まった時は、〝これはどういう事態なのか?〟と客観的に状況を眺めてみたいものです。
 もちろん、世間の〈夢中〉や〈熱狂〉にも警戒は怠れません。
 時折、ピンと背筋を伸ばし、深呼吸し、万事「知らぬ間に」とならぬよう注意しましょう。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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