2016
07.30

般若心経の救い

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 皆さんのご関心が仏法に向かうこの時期、般若心経について少々述べてみます。

1 般若心経三蔵法師(サンゾウホウシ)が救われた話

 中国の敦煌(トンコウ)から見つかったお経が説く、般若心経の救いです。

 唐の時代、玄奘(ゲンジョウ)という意欲に満ちた僧侶がいました。
 彼は、学ぶ仏教に、自分ではどうしても解釈できない問題点を見つけました。
 そこで彼はインドへ行って直接、調べようと決心します。
 若き日のお大師様が、夢のお告げで『大日経』に巡り会った後、どうしても理解でない部分を解くために、唐の都長安を目ざしたのと同じです。

 しかし当時、長安から出ることは固く禁じられていました。
 それでも玄奘はこっそり出発します。
 やがてたどり着いた空恵寺(クウエジ)でインドから来て病気になった僧侶と出会い、手厚く看護します。
(空海とその師である恵果の「空」と「恵」が山号になっています……)
 すると僧侶は、インドへ向かう彼に、救済力のある経典として般若心経を教えてくれました。
 きっとこの僧侶は、般若心経にすがりながらインドからここまでの道中を生きてきたのでしょう。

 当時、道のない砂漠の中を進むには、人や馬などの骸骨が目印でした。
 白々としたお骨を求めて歩むある夜、突然、従者が剣を振りかざし、玄奘から路銀を奪おうとします。
 玄奘般若心経を唱えたところ、月光が刃となって従者の目を貫き、救われました。

 一難去ってまた一難、悪竜などが次々に襲ってきますが、般若心経はすべて退散させました。
 しかし、水がないのには困り果て、彼はついに故国へ踵(キビス)を返そうとします。
 その時、大音声が聞こえました。
「お前は何のために歩いているのだ。
 長安へ引き返して生きるよりも、西へ向かって死のう」
 突っ伏した彼に向かって一陣の涼風が吹き、顔を上げると、そこには草も水もありました。
 いつの間にか、天山(テンザン)山脈の麓にいたのです。

 あらためて勇気を奮い起こした玄奘は、山脈越えに挑みます。
 凍てついた平原や峻険な山、石つぶてのように叩きつける氷雪をものともせず、般若心経を先達(センダツ)として進んだ彼はついに、インドのナーランダー寺にたどり着きました。
 そこで彼を出迎えたのは、空恵寺で看病した僧侶でした。
「私は観世音菩薩である」
 こう告げた彼は消えます。
 般若心経と、その主尊観音様に救われた玄奘は懸命に励み、16年の歳月をかけ、インドから数々の経典を持ち帰りました。
 彼は三蔵法師(サンゾウホウシ)と称され、私たちは彼が翻訳した般若心経に救われ続けています。

2 お大師様が説いた般若心経の意義

 玄奘と同じように、真理を求めて荒海を渡り、長安へ行ったお大師様〈空〉海は、〈恵〉果阿闍梨(ケイカアジャリ)から密教のすべてを伝授され、帰国後、般若心経を解釈する「般若心経秘鍵(ヒケン)」を記しました。
 そこにはこんな文章が含まれています。

「仏法というものは、どこか遠くにあるのではなく、私たちの心の中にあり、誰にとっても身近なものだ。
 真実世界は自分から遠いところにあるのではなく、自分自身を捨ててどこかに探そうとしてはならない。
 迷いも悟りも自分自身にある。
 だから、真実世界を求めようと心の底から決心するならば、そこにこそ、悟りはある。
 迷いも悟りも、極楽も地獄も、遠くにあるのではない。
 教えを学び、信じ、実践すれば、それはたちまち明らかになる」

 原文です。

「夫(ソ)れ、仏法遥かに非ず、心中にして、即ち近し。
 真如(シンニョ)、外(ホカ)に非ず、身を棄てて何(イズク)にか求めん。
 迷悟(メイゴ)我れに在(ア)り。
 則ち発心(ホッシン)すれば、即ち到る。
 明暗(ミョウアン)、他に非(アラ)ず。
 則ち信修(シンシュ)すれば、忽(タチマ)ちに証す。」


 また、般若心経の最後にある「ぎゃてい、ぎゃてい、~」という真言についてこう述べておられます。

真言は不思議である。
 ご本尊様を正しく観想しながら一心に唱えれば、根源的な無智の闇は取り除かれる。
 一字一字に無限の真理を含んでおり、
 真言に導かれるこの身このままに真実世界の救いが実感できる」

 原文です。

真言は不思議なり
 観誦(カンジュ)すれば無明(ムミョウ)を除く
 一字に千理を含み
 即身に法如(ホウニョ)を証す」


 そして得られる世界はこう説かれます。

「ぎゃてい、ぎゃてい、という真言と共に、絶対の安寧がもたらされ、
 ぎゃてい、ぎゃてい、という真言と共に、根源的なみ仏の世界へ還り着く。
 迷う世界は旅人が泊まる仮の宿のようなものであり、
 本来の居場所は、自分自身にある悟りの世界である」

 原文です。

「行行(ギョウギョウ)として円寂(エンジャク)に至り
 去去(ココ)として原初に入る
 三界(サンガイ)は客舎(カクシャ)の如(ゴト)し
 一心はこれ本居(ホンコ)なり」


 結びです。

「般若心経に説かれる一文字、一文章はすべて真実世界に充ち満ちており、
 終わりも始まりもなく、私たちの心中に存在している。
 心の目が曇っている人には、心が閉ざされていて見えないが、
 この経典の主尊である文殊菩薩と般若菩薩(ハンニャボサツ)は、曇りを取り除いてくださる。
 この救いの妙薬を迷う人々へ与えて苦しみや心の乾きを癒し、
 さらに、根源的な無智をうち払って魔ものたちの軍勢を破摧しよう」

 原文です。

「一字一文、法界(ホッカイ)に遍じ
 無終無始にして、我が心分(シンブン)なり
 翳眼(エンゲン)の衆生(シュジョウ)は、盲(メシイ)て見ず
 曼儒(マンジュ)・般若(ハンニャ)は能(ヨ)く紛(フン)を解く
 この甘露(カンロ)を灑(ソソ)いで迷者(メイジャ)を霑(ウルオし
 同じく無明(ムミョウ)を断じて魔軍(マグン)を破せん」


3 ある人生相談

 墓石などにかかわっておられるAさんがしみじみと言われました。
「こういう仕事をしていると、いろいろ考えさせられ、〝自分はこうしていていいのだろうか?〟と疑問に思えてきます。
 今は虫一匹を踏みつぶすこともできないし、縁になるお客様には心で合掌しています。
 生きなおしを考えています」
 Aさんに前述の物語と、お大師様の教えをお伝えしました。
 般若心経がますますありがたくなったと言うAさんの瞳に力ある光が宿りました。

 8月9日の講演「お盆・終括・生きなおし」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5155.html)では、こうしたお話も申し上げたいと考えています。(022ー224ー3384)
 どうぞふるってご参加ください。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2016
07.29

半世紀前の焼身自殺 ─死に行く目がとらえた戦争の実態─

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 かつて、100万人以上のいのちが奪われたベトナム戦争というものがあったことは、すでに、忘れ去られようとしているのではないだろうか。
 作家の開高健は、現場で自由に取材し、200人からなる部隊のうち17人しか生還できなかったという戦闘も、自分の目で確かめた。
 日本では数多くの学生が戦争反対を叫んで立ち上がり、各大学周辺などでデモが相次いだ。
 そんな中、昭和42年5月16日、女学生ニャト・チ(23才)がサイゴンの尼寺で抗議の焼身自殺を遂げた。
 アメリカのジョンソン大統領宛のものをはじめ遺書は10通を越えたが、当時のサイゴン政権は情報を完全に抹殺した。

 しかし、コピーした仏教徒たちが声を上げ、5月21日付の朝日新聞はトップで報じた。
 その一部を再掲しておきたい。
 約半世紀経った今なお、世界中で戦争が続き、彼女同様のまっとうな願いを持った人々が殺され続けている事実を忘れないためである。

「わたしは、才能も力ももち合わせていないただの女にすぎません。
 しかし、私の生まれた国の状態を考えますと、こうするよりほかなかったのです。
『ベトナムの自由と幸福を守る』というあなたのいい分は、すでに古くさく、そらぞらしいものとなっています。
 あなたがた紳士は、多くの爆弾を落とし、ベトナム人の命と勇気をうちくだいたことでしょう。
 それでも、あなたは幸福と自由を口にします。
 心の中では、ほとんどのベトナム人は、アメリカがベトナム戦争に持ち込んだことに愛想をつかしていることを、あなたはご存じないのでしょうか。
 あなたが戦争をエスカレート(段階的に拡大)させればさせるほど、ベトナムの人命、財産、経済全般をメチャクチャにしているのです。

 もう一度、ベトナム人の歴史を考えて下さい。
 ベトナム人の気持になって考えて下さい。
 アメリカ兵とその家族の気持ちを理解してあげて下さい。
 アメリカ軍だって、無意味なきたならしい戦争に無理やりにかりたてられているのです。
 こんなちっぽけなベトナムを20年以上も費やして勝ちとったところでアメリカの名誉になるといえるでしょうか。

 多数のベトナム人の命を救うため、アメリカ人と偉大なアメリカの名誉を救うために、わたしは、あえてささやかな解決策を敬意をこめて提案します。

1 南北ベトナムへの爆撃を停止すること。

2 少しづつ外国の軍隊をベトナムから引き揚げ、ベトナム人の運命は彼ら自身に決定させること。

3 国連の監視のもとで南北ベトナムの統一選挙を行うこと。(真の自由が与えられれば、ベトナム人は自らの幸福と自由を選ぶ能力を持っています)

4 アメリカの爆弾で破壊去れたベトナムの再建を援助すること。(ベトナム人はアメリカ人に同胞愛を感じ、あなたの国への感謝の気持を持ち続けるでしょう)

 そうして、はじめて、ベトナムの、アメリカの、いや全世界の歴史があなたの気品ある人道的な行為を書きとめることでしょう。
 敬意をこめて。
 ベトナムで平和のために命をささげるわたくし。」


 ちなみに、開高健は『ベトナム戦記』に記している。

「アメリカ市民の血税はどんどん流れこんだが、サイゴンから村へ豚や米や肥料がとどく途中でどんどん抜かれた。
 あるダナンの坊さんの表現によれば、この国にはネズミが多すぎるのである。
 そしてアメリカ市民の血税はサイゴン経由で本国の石油会社や武器会社に払いもどされていった。
 ベン・キャット砦の兵卒や将校の持っている、迫撃砲をも含めた火器類は大半が第二次大戦用に製造された年式の刻印を持っていた。
 ロケット弾や武装ヘリコプターやジェット機などは最新式である。
 漠然と私はアメリカの武器商人が古くなった武器の倉庫の戸をサイゴンに向けて全開しているのだという印象を受けた。」


 サイゴン政府やアメリカ軍に守られての〈視察〉ではなく、、カメラマンとたった2人で〈従軍〉に等しい形で行った取材から見えたものは重い。
 二人の文章は忘れられない。

 私たちは、自分の人間たる尊厳を失いたくないなら、何よりも自由意志を侵害されたくないはずだ。
 国家も同じである。
 女学生は「ベトナム人の運命は彼ら自身に決定させる」ようにと、いのちを賭して訴えた。
 しかし、軍事力で勢力範囲を広げたい国は、理由をつけてその願いを踏みにじる。
 イラク戦争も同じだったことは、戦争を検証した国々においてはもはや、明らかである。
 武器弾薬を消耗する他の戦乱にも又、似たような構図が見えはしないか。
 開高健の証言は、そこを衝いている。
 こうした真実に目を塞がない日本人でありたい。
 軍需産業で儲けようとしない品格ある日本人でありたい。
 武器を持った兵士が他国へ一歩たりとも踏み込まない日本でありたい。
 それが明治以来の戦乱でいのちを落とした先亡の御霊へ対する誠意ではなかろうか。




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2016
07.28

Q&A(その27)生まれ変わりって困りますか? ─最も困る再死(サイシ)─

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〈昭和の最後を飾る大傑作、杉浦日向子の『百物語』より「亡妻の姿の話」〉

 どうやら、〈再死〉という言葉はあまり知られていないらしい。

1 生まれ変わり死に変わり

 人が死ねば生まれ変わるという考え方は、古代インドのみでなく、世界中にあったらしい。
 この輪廻転生(リンネテンショウ)自体は、多くの人にとって〝そうかなあ〟で済むだろうし、志を立てた人なら〝この世でやり残した部分は来世でやろう〟と希望をつなぐかも知れない。
 小生も後者に近い感覚を持っているが、こうした受けとめ方だけなら、仏教は生まれなかっただろう。

 なぜ、インドの人々は輪廻転生を怖れたのか?
 一面の〈生まれ変わり〉はまだいい。
 生まれ変わりにはこんな想像も成り立つ。
 もし自分が稲に生まれ変わったなら、孫やひ孫の口に入る一粒になりたいし、蚊に生まれ変わったなら、孫やひ孫を刺さずに、世界中の誰にも知られることなく飢え死にしたい。
 お釈迦様もお大師様も、死後、いのちある何になって生まれ変わるかは、いかなる業(ゴウ)をつくるかによって決まると説かれており、いのちの世界はDNAの範疇を超えているので、決して荒唐無稽な話ではない。

2 死ねば無になるか

 今から約100年前に活躍したフランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルグソンは、こう言った。

「もし精神の生命が頭脳の生命からはみ出るとしたら、もし頭脳は意識の中で行われていることの一小部分だけを運動に移すにすぎないとすれば、死後の存続は確からしいということになり、それを肯定する人よりもむしろ否定する人の方が証明を必要とすることになる。
 なぜかというと、死後に意識が消滅すると信ずるための唯一の理由は肉体が破壊されるというだけのことだが、もし意識の大部分が肉体から独立しているということが確証されるとすれば、そういう理由はもはや価値がない」


 つまり、死後に意識もなくなるだろうと考える前提として、意識が100パーセント肉体という存在に包み込まれていなければならないが、意識が肉体から〈はみ出している〉とするならば、肉体の死は、そのまま意識の消滅につながらないと言うのだ。
 だから、目や耳や手足などの活動から遠く離れた世界まで届き、他者とつながりもする意識が、肉体の死と共になくなると主張するならば、それを証明せなばならない。
 意識が死後に消滅することは決して自明の理ではなく、むしろ、「死後の存続」を否定するならその根拠を示さねばならないのだ。

3 再死の恐怖

 本題に戻ろう。
 輪廻転生が怖れられたのはきっと、〈死に変わり〉が耐えられなかったのだろう。
 死は生きとし生けるものにとって最大の危機であり、恐怖でもある。
 だから、古代インドでバラモンがこう説いた効果は大きかった。

「バラモンに導かれた正しい祭祀を行わない者は、死後、再び死を繰り返さねばならない」

「男子の相続者がないと家の祭祀が断絶し、死者は地獄へ堕ちねばならない」


 お釈迦様は、こうした精神風土の中で、生まれや祭祀ではなく、個人個人の生き方がこの世での幸不幸につながり、来世での苦楽につながると説かれた。
 当時、お釈迦様が立ち向かった相手の大きさはとても計り知れるものではない。

 私たちにとっても〈再死〉は恐ろしい。
 苦しみ、息絶える断末魔が繰り返されることを想像して平気な人はいるだろうか?
 四苦八苦の中で、死ぬままならなさほど、私たちを怖れさせ、苦しめるものはない。
 それは、万人にとって否応ない宿命なのだ。

 だから、お釈迦様は、究極の救済として輪廻転生の鎖から解き放たれ、苦から脱する解脱(ゲダツ)を説かれた。
 輪廻転生の世界は広大であり、一個の生きもののDNAが問題ではない。
 肉体に宿ったいのちと心は肉体の耐用年数が過ぎれば、いのちと心の世界へ還って行く。
 そしていつか、新たな肉体が形づくられる時、その肉体にふさわしいものとしていのちと心が宿り、はたらき出す。
 そこには必ず苦という〈ままならなさ〉が影のように貼り付いている。
 死に変わりを厭うなら、苦を脱したいなら、このままではいられない。

 仏教の説く理を信じる方も、信じられない方も、無関心な方もおられよう。
 ただ、いかなる人も死を免れない中で、もしも〈再死〉があり得たとしたらどうか、これだけは想像してみてもよいのではなかろうか。
 これこそが最も困ることではなかろうか?




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2016
07.27

江戸時代の懺悔 ─暴力事件の温床は?─

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 ふと、思いついて杉浦日向子の『百物語』を繙(ヒモト)いた。
 江戸時代の不思議話をあつめたマンガである。
 第十三話はこうだった。

 ある夜、男が目覚めると、囲炉裏(イロリ)を囲み、男女を相手に尼僧が懺悔話をしていた。
 尼僧は昔、独りっ子で、村の裕福な夫婦に育てられていたが、15、6才になる頃、妻の方が病気になったという。
 夫とこの娘を枕元に呼んだ妻は、自分の亡き後、夫の後添いになってくれと娘に頼んだ。
 夫も娘も、そんな気弱なことを言わずに養生して、早くよくなって欲しいと応じた。

 ある日の夕暮れ、妻は、調子がよいので近くの観音様をお詣りしたいと言い、娘は背負って千手観音様へお詣りさせた。
 帰宅したところ、背中で眠っていたはずの妻は息絶えていた。
 死んだ妻は背中から降ろそうとしてもなかなか離れず、数日かけてようやく娘から引きはがした。
 娘の肩には、妻が後からおぶさった時につかんだ指の痕が痣(アザ)となり、くっきりと残っていた。
 娘は菩提心(ボダイシン)を起こし、尼僧となった。

 この娘は気立ても器量もよかったのだろう。
 夫婦共々、手塩にかけて育てたのだろう。
 もちろん、主人との性的関係などなかったのだろう。
 だからこそ、寝付いてしまった妻は、自分の死後、夫の面倒をみて欲しいと願った。

 それでもなお、死に行く妻は、溌剌とした娘に嫉妬しないではいられなかった。
 娘の肩に残った痣は、夫を頼むという思いと、狂ってしまいそうな嫉妬と、両方を物語っていた。
 それに気づいた娘はどうしても、そのまま主人の後添えにはなれず、母親代わりだった人の菩提(ボダイ)を弔うために出家するしかなかった。
 これは『尼君ざんげの話』と題されている。
 
 あたらめて江戸の文化が持つ深みを感じ、できごとと話の全体が、まるで作者の体験であるかのような臨場感に参ってしまった。
 一番のポイントは、懺悔という点にある。
 もちろん、娘が主人の妻に対して懺悔しているのだろうが、夫婦へ懸命に尽くし、不倫などの悪行もはたらいていないのになぜ、懺悔せねばならないのだろうか?

「自分に悪いことをする意思はないし、悪いことをしてもいないのだから、そういう自分に対して誰かがいかなる気持を持とうが〈自分の責任ではない〉、〈自分には関係ない〉」
 こうした現代的な考え方とは、天と地ほどにかけ離れている。
 相手の気持は自分との関係において生じたのだから、嫉妬が起こったという現実に対する責任の一端は自分にもあるという〈感覚〉は、何とも奥ゆかしく、溜息が出る思いである。

 若い人や元気な人は、お年寄りや病人に対して〈な〉存在と成り得る。
 富や権力や名声や才能などを持っている人は、持っていない人に対して〈な〉存在と成り得る。
 そして、このようにはたらく人間の心理に無頓着であることこそ、人間が〈な〉存在である証ではないか?
 無頓着は無慈悲に限りなく近い。
 そして、人知れず膨張しているこの〈〉が、世界中に蔓延する不可解な暴力的行為の温床となりつつあるのではないか?

 ようやく、書棚から『百物語』を探し出した意味がわかった。
 幕末から明治維新以降の〈力こぶ〉に過大な理想を見出し、夜郎自大(ヤロウジダイ)的な誇りを持つよりも、懺悔忖度(ソンタク)といった高尚で繊細な精神活動が庶民にまで及んでいた江戸の空気を思い出したいものである。




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2016
07.26

ポケモンGOが持つ共生の可能性

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 これまで二度、仏教瞑想などによって迷いや苦しみから離れる実践的視点から、ポケモンGOが持つ問題点について書いた。
 批判に対し、仏教の包括的、かつ、すべてを生かす視点や姿勢からはどうなのかというご意見をいただいた。
 確かにそのとおりであり、まして、この世を大日如来の〈密厳国土(ミツゴンコクド)…仏菩薩の徳に満ちた世界〉と観る密教の立場からすれば、何一つとして、み仏のおはからいから外れるものはないはずだ。
 何ものをも生かすのが、み仏の慈悲であり、智慧である。
 方手落ちにならぬよう考えてみたい。

1 仏教的観点
 あらゆる人は〈本来のみ仏〉に成り切ることのできる可能性、つまり仏性(ブッショウ)を具えている。
 そして、いのちあるものも、いのちを持たぬものも、すべては本来、密厳国土を構成し得る。
 また、一切の差別(シャベツ)なくあらゆる人を救うみ仏には、密厳国土へ向かわせる方法、つまり方便(ホウベン)が具わっている。

2  ポケモンGOの恩恵

 さて、このアプリは、この世の幸せとあの世の安心につながるいかなる要素を持っているか?
 恩恵の第一は、驚きを伴う素朴な達成感ではなかろうか?
 誰でもが努力への報酬を手にすることができるという面は、閉塞感のある現代にあって、一種の心理的救いかも知れない。

 これらは、日常生活における仕事上の因果応報とは異なり、上司や同僚や取引先などの思惑や動きなどに左右されず、自分の目と手と足と運とによっていつか必ず達成されるもので、ことがうまくいった時の喜びや満足感にはかなりの力があることだろう。
 また、屋外への誘いを伴っているので、あまり屋外へ出ない人々が、つられて日光の降りそそぐ世界へ出るきっかけとなる点も見逃せない。
 実際、自閉症の人が別人のような行動をとるようになった例も報告されている。

 もっとも、自閉症の人が門から外へ出たからといって急に回復したわけではなく、家族など周囲の人は、その人が家の中にいる時よりも余計に注意を向けなければ、いかなる状態になるかわからないので、決して、出たから安心なわけではない。
 ただし、身体心理学によれば、〈からだ〉と〈こころ〉は二元的なものではないので、〈からだ〉の動きは必ず〈こころ〉に影響を及ぼすとされ、落ち込めば俯(ウツム)くが、俯きがさらなる落ち込みにつながり、顔を上げることによって落ち込みを改善するといった療法も用いられていることを考えれば、「外へ出る」「外へ出た」変化は必ず何ごとかであるはずだ。
 変化を生かす智慧が生まれ、智慧が広く共有されるようになれば、人々の〈歩み〉には、ポケモンを探すという目先の目的以上の意義をも見出せることになるかも知れない。

 また、アプリにまつわる周辺産業の拡大や活性化、あるいは人が集まる場所の有効活用など、産業界への波及効果もあろう。
 そして、個々人の行動はすべて膨大な情報となり、管理者には無限の利用法が待っていることだろう。
 ただし、管理社会化は個人の尊厳を脅かす危険性に満ちており、そうならぬよう防止する方策が後手に廻ることなく整備されねばならない。

3 キーワードは共生

 文化に新たな局面を拓いたポケモンGOはこの先、光の面と闇の面と、さまざまな可能性を持って進展して行くことだろう。
 東北大学名誉教授白鳥則郎氏が「人類とIT環境との〈共生〉」を説かれるように、人類はポケモンとうまく〈共生〉して行けるかどうか、すべての試みは始まったばかりである。
 人間の手によって生み出されながら、人間の手に負えなくなりつつある核爆弾、核発電のような運命をたどらぬよう願うしかない。

※以下もご覧ください。
ポケモンGOが抱える根本的問題 ─背景とフィルター─(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5157.html)
ポケモンGOが抱える根本的問題(その2) ─視線・場・映画館─(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-5158.html)




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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