2015
12.01

メルマガがあります

 法楽寺メルマガがあります。ご希望の方はこちらからどうぞ。合掌
2015
05.26

開かれた仏教と市場経済の話

201505260001005.jpg

 お釈迦様は説かれました。
宗教市場経済と同じであり、市場における自由売買にたとえられる」

 市場で野菜を売り買いする際に、社会的地位は問題になりません。
 売り手は買い手の身分を訊ねてから売りはしないのです。
 買い手もまた、売り手の人物とは無関係にモノを買います。
 お釈迦様は、宗教も同じであるとして、相手が王であろうと売春婦であろうと、等しく相手に必要な法を説かれました。

 バラモン教は師拳(シケン)と称し、社会的階級に合わせた宗教行為を行います。
 師の拳に隠された秘儀は階級によって選ばれた特定の人にしか明かされませんが、お釈迦様は相手を選ばず、最善を尽くされました。
 最善の手立ては、後に「方便」という仏教語となり、方便は万人に明かされ、与えられています。

 一方、お釈迦様は、宗教を医療行為にもたとえられました。
 熱冷ましや咳止めが与えられ、それを自分でまじめに飲み、指示に従って安静にしていれば風邪を治せます。
 しかし、外科手術が必要なら、技術のある執刀医に任せるしかありません。
 患者の理解と努力が関われる範囲は、病気の内容によって大きく異なります。
 それと同じように、求め、救われる道筋は万人に開かれていますが、どのように救われ得るかは千差万別です。

 教えは自由に選べるし、与えられるべきですが、求める人により、与えられる内容にはおのづから違いも限度もあります。
 5才の子供へ10才用のオモチャが与えられれば、使えず、壊すだけでなく、ケガをするかも知れないのと同じです。
 だから、それを見極める側の役割と責任は小さくありません。
 僧侶は必要な内容を説かなければ救えず、あえて説かなければ罪とされる一方で、相手の能力を超えたものを与えるのもまた、罪となります。

 こうした理由により、当山の人生相談は袈裟衣をまとい、三礼(サンライ)に始まる修法に入ってから行います。
 ちなみに、三礼とは、み仏と、教えと、み仏と教えを学び守り伝える人々、すなわち三宝を尊び、帰依(キエ)する礼拝です。

 仏教は、誰でもが求め、手に入れられる教えであり、救いです。
 しかし、教えも修法もお金に換算できず、いかにやりとりされるかは、み仏のご判断を仰ぐ行者に委ねられます。
 一方、三宝へ対する誠意として差し出されるお布施は、求める側の価値判断と経済事情に委ねられます。

 だから、お釈迦様が市場に例えてその開放性を説かれた仏教は、現実の市場経済に乗って売り買いされるべきものではありません。
 そもそも宗教は、一人一人が自分で心へ問い、人間へ問い、自然へ問い、世界へ問い、仏神へ問い、死者へ深く深く問うところからしか入れない世界ではないでしょうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
05.25

自然墓に個別タイプを設けます

201505250001.jpg

〈上記はイメージ図であり、実際は、豊富な天然石と樹木に囲まれた大きな墓域になります〉

 好評の自然墓に、一人用の個人墓も設けます。
 正面に笹倉山を望むなだらかな丘に芝を貼り、周囲は大きな自然石と、四季おりおりの変化に富んだ招霊木 (オガタマノキ)や桜や紅葉など多様な樹木で囲われます。
 実際にお納骨をしてから17回忌を迎えるまでの年間管理料込みで30万円。
 お納骨をするまでの年間管理料はかかりません。
 また、法楽寺のご本尊様である大日如来にお導きいただく時期となる17回忌に住職が墓地で修法し、その後、一番奥にある専用共同墓へお移しし、永代にご供養申し上げる費用も含まれます。
 この他に必要なのは、カロートを覆う御影石にご希望の文字を彫りたい場合の彫刻料と、墓地の横に設ける大きな掲示板へご希望の文字を表示する場合のプレート代のみです。
 芝生の生育を第一にし、お申し込みをお受けしてから芝生へカロートを造りますので、まず第一期として10区画を募集します。
 どうぞ、資料をご請求ください。
・電話:022(346)2106 ※午前9時より午後5時まで
・ファクス:022(346)2107
:メール:ryuuchi@hourakuji.net




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
05.25

家出する詩 ―若人へのある期待―

20150525029.jpg

 俳人中村苑子は少女の頃に家出を決意した。

故里

生きくる幾年
わが故里
出でむと思ひし今日なり
天城の山を眺むる我はも
故里捨てむと思ひ
幾日月睦みし人を
忘れんとはすれど
忘れかねつつ
ふと見やる心はむなし
ひろびろと
澄める秋空


 若き日には心の飢餓感がある。
 ここにいたままでは満たされないという不安や不満や予感もある。
 肉体の飢餓なら食事で消えるが、心の飢餓は何によって去るか、本人にもわからない。
 心が彷徨うだけではおさまらず、〈ここ〉にいるのに〈居場所〉を探す。
 そして、家を出る。
 故里を捨てる。
 行く先の茫漠たる広さだけが、あてもないのに、希望の受け皿となる。
 
 さて、フランスの社会学者ミシェル・ウェイビオルカ氏は、4月25日付の朝日新聞において、人と人とを「人種」や「文化」という言葉で分断しようとする思想・風潮の危うさを指摘している。

「必要なのはお互いに知り合いになることです。
 ある学校に貧しいイスラム教徒の子供しかいなくて、別の学校には中流家庭のユダヤ人の子供だけ、また別の学校には外交官や大企業のアメリカ人子弟しかいない。
 そんな風だと、みんな一緒に過ごした場合のようには、寛容で民主的になりにくい」

「異なる文化にこういう立場を採ります。
『私はあなたの特殊性を認める。あなたは私たちの文化の中で存在する権利がある』とした上でこう付け加えます。
『しかし、普遍的な価値は受け容れなければならない』

 例を挙げましょう。
 以前、アフリカのマリ系の移民の間で行われていた女子割礼について、フランスで問題になった。
 これは野蛮な行為です。
 普遍的な価値に反します。
 当事者たちには『あなたにはあなたの文化と共に暮らす権利はある。しかし、限界がある。女子割礼はそれを超える。ただ、それをわかってもらえるよう説明します』と」

「ほどほどの多文化主義というのは説明する多文化主義です。
 相当な時間もお金もやる気も民主的な精神も必要。
 しかし、この方向で進むしかないでしょう」


 今後、世界が一つになってゆく過程においては、無数の問題が出てくるに違いない。
 そうした場面では常に、先入見の縛りから離れた眼力と、柔軟な感受性や思考力、そして解決を目指して諦めない粘り強さが求められよう。
 それらは主として若い方々にある。
 異文化の人々と知り合いになり、お互いの文化の特殊性を認めつつ普遍的な価値について議論し、民主的な精神から離れず、多様で千変万化する状況へ勇敢に挑んで欲しい。
 年配者は、無謀さが何を招くか、頑なさが何を招くか、無慈悲さが何を招くか、思考停止が何を招くか、力に頼る安易な対立への傾斜がいかに危険で愚かしいか、これらのことごとを体験として語ればよいのではないか。
 
 中村苑子は87才で死を迎えるまで、この詩が納められた『表紙のとれた手帖』を持ち歩いていた。
 ならば、私たちはまっとうに老いるため、何を持ち歩こうか?




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
05.24

真智の開発をめざして(その17) ─他者の善行に感応する心─

201505240001.jpg

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「優雅さ」について考えてみましょう。

2 善行者を讃歎する

 私たちが、餌や縄張りを争って醜く牙をむき出し、血を流す獣たちと違い、相手のためを思い合う優雅で穏やかな人間らしい心性を発揮しながら生きるためには、善行の人を素直に誉め称えられなければなりません。
 他人のき行いを見聞きして、自分が恥ずかしくなったり、相手が神々しく感じられたり、涙が滲んできたり、希望を持ったりする心を失わないようにしましょう。
 貶したり、無視したり、反発したりといった反応では情けないというしかありません。
 また、しきものを誉め称えてはなりません。

 ここで考えねばならないのは、そもそも、何がで何がかという問題です。
 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は明確に述べました。

仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすをといい、これに背くをという。
 本性に身口意(シンクイ)相応すれば十おのずから全きなり。」


(私たちが本来的に持っている〈み仏の子〉としての清浄な心の核に従って発せられた心のありようを善と言い、その核に背いて発せられた心のありようをという。
 人間が人間たる本来的な性根、性分に相応して身体と言葉と心がはたらけば、み仏が説かれた十の善き戒めは達成される)

 修法する身としては、経典に説かれている仏性を求めて心を深めて行けばすっかり解き放たれた状態となり、そこは「霊性の庭」とでも呼べるのではないかと感じています。
 この庭に立って行動しても、語っても、思っても、それ以外にありようはないので、普通のモノサシで白黒を判断するような意味での善ももありません。
 しかし、そここそが人間が人間であることを証す場であり、慈雲尊者が説かれた「善」は、この世界のことだろうと考えています。
 仏性霊性の「性」は決して観念的な文字ではなく、一身に実証できる〈本来性〉なのです。

 慈雲尊者はこうも説かれました。

「善は常に仏性に順ず。
 は常に仏性に背く。
 法として是の如し。
 ただ迷う者が迷う。
 知らぬ者が知らぬばかりなり。」


 最近、ドローンを飛ばし、他人や社会への迷惑を考慮しない少年(15才)と、その行為につながる人々の問題が報道されています。
 善悪の判断や法律の網を超えて広がったネット社会は、面白ければよい、ワクワクすればよい、珍しければよい、儲かればよい、目立てばよい、といったレベルの行動を広げつつあります。
 そこでは、自分の〈心の波の大きさ〉と、社会の〈反応の大きさ〉のみが問題であり、倫理は崩壊して行きます。

 また、親や配偶者の死を隠して年金を不正受給する事件が後を絶ちません。
 公私の別うんぬんという前に、人間は一人残らず〈おかげさま〉によって一生を生き抜く社会内存在であるという認識が消えて、死を個人的なものとしか考えられなくなった心の荒廃が背景にあります。
 また、最近、亡くなった妻のお骨を一部、スーパーのトイレに廃棄した男(68才)が逮捕されました。
 生前に苦労をさせられ、憎んでいたというのが男の言い分です。
 生まれる、死ぬ、といった人間の尊厳にかかわる決定的なできごとすら、損得勘定や憎しみといった感情と同列に置く社会は薄ら寒く感じられます。
 葬送に関することごとを壁や石に刻んだ古代人の温かな思いはどこへ行ってしまったのでしょうか。

 医学博士宮城音弥氏が『霊―死後、あなたはどうなるか』にこう書いたのは平成3年です。
「現代の日本には慣習的宗教はあっても、宗教心は希薄である。」
 宗教が消えれば倫理は基盤を失い、好き嫌いや激情が主役となり、善も悪もあまり意識されなくなります。
 それは、誰もが幸せを手に入れられなくなることを意味します。
 
 他者の善行に魂が震わされ、自分を省みられる人間であり続けるためには、自分の仏性を感得する必要があります。
 そのための導きが十善戒です。
 自分に「不殺生(フセッショウ)」と言い聞かせていれば、生きものを救う人の尊い行為に心が反応します。
 自分に「不瞋恚(フシンニ)」と言い聞かせていれば、じっと忍耐する人の尊い行為に心が反応します。
 何としても「ただ迷う」ばかりでなく、「知らぬ者」のままで過ごさぬよう、学びたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

back-to-top