2016
05.31

ご来迎と悪魔の襲来 ─その時に後悔しないよう─

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〈心と宇宙の象徴である五輪の塔〉

 心がけのよい人が死ぬ時はご来迎(ライゴウ)があるという。
 み仏が降りて来てお導きくださる。
 それを願う人々は、かつて、阿弥陀様や観音様のお像につながる五色の紐を手にして臨終を迎えたりした。
 紫がかった雲と光まばゆいみ仏の像は何を意味するか?

 それは仏心が開く様子だろう。
 感謝や満足感があふれ、人もモノも愛しくなり、美しく見えてくるのだろう。
 魂が本来の光そのものになっているに違いない。
 瞑想の月輪感(ガチリンカン)においては、すでにその体験ができる。

 心がけの悪い人は悪魔の襲来を受けるという。
 死に神の強大な力で、否応なく黄泉(ヨミ)の世界へ連れ去られる。
 お釈迦様は説かれた。
「その時は親族とて救いようがない」

 この悪魔は、執着心だろう。
 いのちもモノも失いたくないし、家族や好きな人やペットと別れたくないし、まだやり終わっていないことごとがある。
 残念で、悔しく、後悔や罪悪感に苛まれ、恐ろしい。
 佳きものから断ち切られ、悪しきものをどうしようもない。

 死を間近にした私たちは目が見えず、耳も聞こえなくなってゆくが、目や耳など五官のはたらきによって現象世界と接している時のさまざまな束縛から離れ、魂そのものの動きしかなくなるのだ。
 この時、すんなりとみ仏の心がはたらけば、極楽を感得できるだろう。
 はたらかなければ、辛いだろう。
 どちらになるかは、もちろん因果応報だが、いつでも、決定的なよき〈因〉をつくることができる。

 それは懺悔(サンゲ)と発心(ホッシン)である。
 我が身を振り返り、罪科(ツミトガ)を直視して悔い改めること。
 まっとうな人生に生き直しをしようと決心すること。
 これが日常生活においてはなかなか実践できないので、ご本尊様をお祀りする聖地がある。

 私たちは常々、五官六根に翻弄されてはいるが、用い方次第で、五官六根は心中のみ仏を活性化できる。
 聖なるものを目で見る、聖なる音を耳で聞く、聖なる香りを鼻で嗅ぐ、聖なる味を舌で味わう、聖なる感触を肌で感じる、聖なる雰囲気や気配を心で感じる。
 そうしたことを縁として懺悔発心の教えに心が開けば、私たちはこの身このままで〈本来のみ仏〉である心身に近づける。
 こうした体験を重ねておけば、死ぬ時の心配はない。

 ご来迎に会えるか悪魔の襲来を受けるか、それは自分次第である。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2016
05.30

メメント・モリについて ─死を忘れ、思いやりを忘れた私たち─

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 このところ、ご葬儀や遺言など、後のご相談に際して、真剣にを想う方々のお心に清浄なものを感じる機会が多い。
 
1 メメント・モリとは?

 古代ローマから言われてきた「メメント・モリ」という言葉がある。
 直訳すれば「を想え」となるらしい。
 ウィキペディアによれば、「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われ」、「将軍の後ろに立つ使用人」が「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ことを思い出させる役割を果たしていたという。

 私たちはこう読むと、〝そうか、古代ローマでも賢者は無常を忘れなかったのか〟と感心したりするかも知れないが、そうではなかった。
 趣旨は「今を楽しめ」であり、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日ぬから」だった。
 勝者となってなお、戦争でいつぬかわからない身であることを忘れず、今は旨酒にしっかり酔おうとわざわざ思う必要があった。
 それだけ、人を殺し、町を破壊し、仲間を失ったことが重く、恐ろしく、悔恨に満ち、将軍も戦士たちも、いたたまれない思いに苛まれていたことを示している。

 後に、キリスト教世界では、「キリスト教徒にとっては、への思いは現世での楽しみ・贅沢・手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘引となった」。
 死によって行く先が天国と地獄とに分かれることを忘れず、信仰に励みなさいという意味で使われたのだ。

2 本当の死・本当の生

 さて、平成20年に出版された写真家藤原新也氏の『メメント・モリ』という単行本がある。
 氏は言う。

「この言葉は、ペストが蔓延(ハビコ)り、生が刹那(セツナ)、享楽的(キョウラクテキ)になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。」

本当の死が見えないと本当の生も生きられない。
 等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識(ココロ)を高めなくてはならない。
 死は生の水準器(スイジュンキ)のようなもの。
 死は生のアリバイである。」


 そして写真集は締め括られる。

「いま世界は疲弊し、迷い、ぼろぼろにほころび、亡びに向かいつつある。
 そんな中、つかみどころのない懈満(ケマン)な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている阿呆者(アホウモノ)の方が、この世の生命存在としては優位にあるように思える。
 わたしは後者の阿呆の方を選ぶ。
 わたしは、あきらめない。」


 懈満とは、怠惰に満ち、問題意識を持たず惰性に流される状態である。
 氏は、死を想わなくなった生の破綻を観ている。
 死を想うことなど何の得にもならぬと考え、前向きにならねばという強迫観念にとらわれている私たちは、いかなる死も〈向こう側〉や〈そちら側〉や〈脇〉へ追いやって、生の効率に取り憑かれた焦りの日々を過ごしているが、それはあたかも方肺飛行のような危ういものでしかない。
 はっきりと「本当の死」を見つつ生きる者は、惰性で生きる人々から「阿呆者」と思われるが、死の「効力」を知っている氏は、阿呆者であり続けたいと宣言する。

3 進化退化

 詩人白鳥光代氏は詩集・句集『ホモサピエンス』に収められた詩「ホモサピエンス」にこう書いた。

「何やら ホモサピエンスは
 どんどん進化し 止まるところを知らぬらしい
 ヒトの仮面をつけたまま
 動物の生き方を捨ててしまっている
 ゆがんだ地球に浮遊しながら」

「目を合わさず画面を見つめたままで
  会話が生まれ
 生きる糧を得るはずの仕事によって
  押しつぶされるパラドックス
 交尾をしなくても 子供が生まれ
 親が 子が 殺し合う
 アメーバは 何億年もアメーバだった
 ヒトは たった 数十万年で
 肥大化する脳に弄ばれ
 特有の情感を いやいや
  生き物の機能すらも失っていくのか」

「ホモサピエンスの五感は鈍くなるばかり
 そういえば
 進化とは 退化の意味も含むのだった


 死を感得し、死を思わないところに「情感」は生まれない。
 死が排除された架空の生において「五感は鈍く」なって行く。
 私たちは何かへ激しく反応する一方で、何かへはほとんど反応しなくなってしまった。
 どこが進化したのか、どこが退化したのか、世相を眺め、来し方を振り返って見ると恐ろしくなる。
 人間性を根本から崩すイジメは、子供の世界のみならず、セクハラ、パワハラとして大人の世界にも広がったように思える。
 はたらく人々は、使い捨てられる道具となり、はたらく人々もまた、仕事場を自分のために利用するのみであるように思える。
 財物や権力や健康に富む人や階層や国家は、それらに恵まれぬ人や階層や国家との距離を無限に広げて恬淡としているように思える。

 総体的に眺めて、自分の生にたいする執着心が無限に高まり、他人の生にたいする関心が無限に減少しているのではないか?
 それは、自他共に死すべき宿命を負っているという実感と視点の欠落によるところ大なのではないか?
 死を追いやり、死から遠ざかり、死を忘れたがゆえに、思いやりもまた、薄れたのではないか?
 共に死すべき存在として平等である「共死」を忘れれば、「共生」もまた成り立たないのだろう。
 メメント・モリは、現代においてこそ、不可欠の言葉である。




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2016
05.29

終活セミナーを行います ─終活と終括─

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〈東京出張で昼食を摂るコンビニ前のテラス。毎月のことゆえ、いつの間にか小生からおにぎりをもらう習慣になったスズメたちがいます〉

 6月8日(水)午前10時30分より(受付開始10時)「シティホール古川」様にて、(株)ベルコ様主催の法話とご相談の会を催します。
 まず法話を行い、その後、別室にて個別のご相談をうけたまわります。
 会費は無料ですので、どうぞお気軽におでかけください。
 なお、行政書士による生活無料相談会も同時開催されます。

○場所:(株)ベルコ「シティホール古川」大崎市古川字城西20ー1 0229ー21ー8555
○申込:6月3日(金)まで

 終活という言葉がさかんに用いられ、人生の終わりを迎えるに当たり、混乱のないよう、周囲へなるべく負担をかけぬよう準備を調える意識が高まっています。
 就職活動を縮めて就活と呼ぶことにちなんで、平成21年に「週刊朝日」が「終活」と表現し、この言葉は一気に広まりました。
 しかし、に行く方や、ぬ方を看取り、送る方、そして弔い、悼む方々と日々、接している者としては、「活」の字に少々、違和感を禁じ得ません。
 
 はまず、否応なく訪れるものです。
 そして、生きものは皆、を忌避しないではいられません。
 それだけには過酷で厳粛、人間がいかにぬかという問題は、その人の尊厳にかかわってきます。

 こうした死を迎える時の心持ちは、活躍の「活」で表現されるべきものでしょうか?
 小生は、私たちが生命保険へ入る時に起こしがちな錯覚と通じる危うさを感じます。
 私たちは、自分が死んだおりに大金が入る契約をする時、決して自分が手にするわけでなく、自分が使えるわけでもない〈大金〉に一瞬、嬉しくなりはしないでしょうか?

 今、死に近づいている私たちはいくつもの不安を抱えています。
 子や孫は、自分がいのちを永らえてきたように、活き活きと安心に生きられる社会をつくり、きちんと人生をまっとうできるだろうか?
 子孫は、ご先祖様やお墓を守って行けるだろうか?

 だから、自分が元気なうちに、自分の死後のことごとはなるべくやってしまおうと考えます。
 それはそれで結構ですが、気になるのはやはり、いつの間にか〈鼻先にニンジンをぶら下げられた馬〉のように、急(セ)かされる風潮です。
 私たちは、提供されるメニューから選択した手順さえ調えれば、もう、自分の〈死〉は解決したことになるのでしょうか?

 もしかすると私たちは、実際に死を目前にしてようやく、保険金は自分が意のままにできないこと、あるいは、相続人たちがそれぞれ当てにしていることを実感するかも知れません。
 もしかすると私たちは、実際に死を目前にしてようやく、「自分は死後、どこへゆくのだろうか?」という本質的な不安に直面し、その不安は遺体を処置する方法が万全であることによってまったく解消され得ないことに気づくかも知れません。
 もしかすると私たちは、実際に死を目前にしてようやく、貧困や病気や戦争によって死にゆく人々の苦しみがわかり、何らの手を差し伸べなかった自分の人生を悔いるかも知れません。

 死を迎えて本当に大切なことをよく考える必要があります。
 慌てて「活動」する前に、自分の人生を「総括」し、自分の人生に悔いはないか、人間としてやり残していることがないかどうか、深く省みるべきではないでしょうか?
 そうした意味において、当山は「終活」ではなく、終いを締め括る「終括」という言葉を提案します。


 皆さん、「終活」は結構ですが、それよりもむしろ「終括」をこそしっかりやろうではありませんか。
 当日は、「終活」については業者様へお任せし、小生は「終括」についてお話と対話を行います。
 どうぞおでかけください。
 



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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
05.28

絶望と次の瞬間について ─『罪と罰』『夢十夜』─

2016-05-27-0008水子地蔵

 恋愛をしている時は、「もしも彼を失ったなら、私は生きていられない」などと思う。
 実際、恋愛の破綻で人生を狂わせてしまう場合がある。

 仕事に打ち込んでいる時は、「仕事ができなくなったら早めに死のう」などと思う。
 そして、仕事から離れた途端、腑抜けのようになってしまう場合がある。

 柔道一直線の時は、「俺から柔道をとったら何も残らない」などと思う。
 ケガや病気などで闘えなくなり、絶望人生への熱意も消してしまう場合がある。

 しかし決意も熱意も絶望も、いずれも〈その時点での人生観〉でしかない。
 自分の人生にこれから訪れるシーンをすべて脳裏に描き出せる人はいないし、未知のシーンで自分がどう考えるかをあらかじめわかっている人もいない。

 私たちの人生の基本は割合、単純だ。
 次々と現れるシーンにおいて、私たちは、それまでの考え方をつないで行くか、それとも新たな考え方が起こるか、それともそれまでの考え方に磨きをかけるか、それだけである。

 自分自身が銃殺刑を宣告され、執行の直前に特赦で助かったドストエフスキーは『罪と罰』でラスコーリニコフへこう言わせている。

「どこで読んだんだったけ?
 なんでも死刑を宣告された男が、死の一時間前に言ったとか、考えたとかいうんだった。
 もしどこか高い岸壁の上で、それも、やっと二本の足で立てるくらいの狭い場所で、絶壁と、太陽と、永遠の闇と、永遠の孤独と、永遠の嵐に囲まれて生なければならないとしても、そして、その一アルシン四方の場所に一生涯、千年も万年も、永久に立ちつづけなければならないとしても、それでも、いま死んでしまうよりは、そうやって生きたほうがいい、というんだった。
 なんとか生きていたい、生きて、生きていたい! どんな生き方でもいいから、生きていたい!
 ……なんという真実だろう!
 ああ、なんという真実の声だろう!」


 夏目漱石も短編集『夢十夜』の第七夜に、海へ飛び込んだ男の心を描いた。

「自分はますますつまらなくなった。
 とうとう死ぬ事に決心した。
 それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。
 ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。
 心の底からよせばよかったと思った。
 けれども、もう遅い。
 自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。
 ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。
 しかし捕かまえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。
 いくら足を縮めても近づいて来る。水の色は黒かった。

 そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。
 自分はどこへ行くんだか判らない船でも、
 やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。」


 私たちは落胆し、絶望する時がある。
 そして、「人生はこのまま続く」あるいは「人生はもうおしまい」などと思う。
 しかし、実際は、死なない限り、〈一瞬後〉が必ずやってくる。
 それが何であるか、そして、その時に自分が何を感じ、何を考え、何を思い、何を語り、何をするかは決してわからない。

 行き詰まり、絶望したなら、こう思いたい。
〝──これは〈今の〉考えなんだ……〟
 こうして〈今〉と見る瞬間、絶望している自分を眺める客観的な自分が登場している。
 それはきっと、ラスコーリニコフのような気づきを与え、「夢十夜」の失敗をさせないはずだ。
 私たちは、自分の人生の〈次の瞬間〉を知らない。
 生きている者として生きてみるしかない。
 何という救いだろうか……。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2016
05.27

オバマ大統領が広島を訪問するにあたって ─月に住もう─

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 アメリカのオバマ大統領が広島を訪問するという歴史的な日を迎えるにあたり、お大師様の教えを思い出した。

 お大師様は『大日経』について説かれた。

「直(ジカ)に月の宮に住む法門である」


 直住月宮(ジキジュウゲツグウ)という。

 満月を眺めている私たちは、群雲がかかってくると〝早く晴れればいいなあ〟と思う。
 また、心中で輝いている満月のような〈み仏の心〉に覆いかぶさる煩悩(ボンノウ)の雲が問題なので、雲をうち払ってしまおうと戦う。
 しかし、お大師様は、月と雲を眺めて右往左往するのではなく、月そのものになってしまうのが『大日経』の教えであると言う。
 月になれば、晴れようが曇ろうが宇宙の節理に過ぎず、動ずることはない。

 ところで、5月26日、オバマ大統領は、広島訪問に先立って述べた。

「第2次世界大戦の甚大な被害と罪のない人々の犠牲を思い出させるだけでなく、まだ我々の仕事が終わっていないことを思い出させるものだ」

「紛争を減らし、平和を構築し核戦争の可能性を減らさなければならない

 一日前の5月25日、作家塩野七生(シオノナナミ)氏の所感が朝日新聞によってまとめられた。
 以下、要点を転載する。

謝罪を求めず、無言で静かに迎える方が、謝罪を声高に求めるよりも、断じて品位の高さを強く印象づけることになるのです

「少し前に、アジアの二つの強国のトップが、相前後してヨーロッパ諸国を歴訪したことがありました。
 その際にこのお二人は、訪問先の国々でまるで決まったように、日本は過去に悪事を働いただけでなく謝罪もしないのだ、と非難してまわったのです」

「ところがその成果はと言えば、迎えた側の政府は礼儀は守りながらも実際上は聞き流しただけ。
 マスコミに至っては、それこそ『スルー』で終始したのです」

ただ静かに、無言のうちに迎えることです。
 大統領には、頭を下げることさえも求めず。
 そしてその後も、静かに無言で送り出すことです


原爆を投下した国の大統領が、70年後とはいえ、広島に来ると決めたのですよ。
 当日はデモや集会などはいっさいやめて、静かに大人のやり方で迎えてほしい」

われわれ日本人は、深い哀(かな)しみで胸はいっぱいでも、それは抑えて客人に対するのを知っているはずではないですか。
 泣き叫ぶよりも無言で静かにふるまう方が、その人の品格を示すことになるのです。
 星条旗を振りながら歓声をあげて迎えるのは、子どもたちにまかせましょう」

「ここイタリアでも、原爆投下の日には、テレビは特別番組を放送します。
 毎年ですよ。
 あれから70年が過ぎても、犠牲の大きさに心を痛めている人が少なくないことの証しです。
 心を痛めている人は、アメリカにも多いに違いありません」

「『謝罪は求めない』は、『訪れて自分の目で見ることは求めない』ではありません。
 米国大統領オバマ広島訪問は、アメリカで心を痛めている人たちに、まず、自分たちが抱いていた心の痛みは正当だった、と思わせる効果がある。
 そうなれば、感受性の豊かな人びとの足も、自然に広島や長崎に向かうようになるでしょう」

広島の夏の行事の灯籠(とうろう)流しに多くの外国人が参加するのも、見慣れた光景になるかもしれないのです。
 そうなれば、原爆死没者慰霊碑の『過ちは繰返しませぬから』という碑文も、日本人の間だけの『誓い』ではなくなり、世界中の人びとの『誓い』に昇華していくことも夢ではなくなる。
 それが日本が獲得できる得点です」

「そしてこれこそが、原爆の犠牲者たちを真の意味で弔うことではないでしょうか」

 塩野七生氏はローマ在住だが、まさに日本人ここにあり、と思わせる。
 慰霊碑の「過ちは繰返しませぬから」は、日本人として奥歯が歯茎にめり込んでしまうほど屈辱的で悔しい文言である。
 しかし、耐え忍び、それもこの際、措こう。
 客人を淡々と、私たち本来のふるまい方に従って迎えよう。
 まさに、ここ一番、である。
 敗戦後70年、私たちが失ったものと失わなかったものとが問われている。
 私たちは自然に、本来持っている叡智と徳に従ったふるまい方ができるか?
 一部の跳ね返り分子によって台無しにならぬよう願ってやまない。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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