2014
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2014
04.19

渥美清の寅さんに観る本ものの愛 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(23)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第四章 と慈、そして性

真実

○〈他〉も〈我〉と同じ幸福を享受する権利がある

真実の『』は大いに異なる。
 真実は〈他〉もまた自己と同様に、人間であり、一個の存在であることを認めるところから生まれる。
〈他〉もまた〈我〉となんら変わることなく、幸福を願い、痛苦を厭(イト)い、苦しみを克服し、平安を獲得したいと願う、生きとし生けるものである。
 これはひじょうに大切なことだ。
〈他〉もまた、〈我〉と同じ幸福を享受する権利を有している。」


 法王は、前項において、愛が憎しみへと変化する理由をし指摘し、そうした愛はねじれた愛であると説かれた。
 通常、私たちが感じる相手への親近の情(日常的に愛と呼ばれるもの)は、自分の好みによって相手を自分へつなぎとめたいという自分主体の欲望から発する場合が多い。
 自分の思いが満足させられれば相手への親近の情が高まって愛していると感じ、思い通りに満足できない状況になれば、不満が憎しみを生んでしまう。
 法王は恐ろしい言葉でその真実を衝いた。
他者は『私』の、いわゆる愛のために存在するにすぎない。」

 そこで、この項では「真実の『愛』」を説く。
 他者もまた、自分と何ら変わることのない一人の人間であり、自分が相手へ親近の情を持って心がときめき、潤うのと同じく、誰かを相手として同じく心が動く存在である。
 幸福になりたいし、不幸にはなりたくないのである。
 この真実に心から納得できれば、自分なりの〈好き嫌い〉のみを主人公にして相手へ接することの愚かさに気づく。
 同じ人間である相手が、相手なりの〈好き嫌い〉を感じながら自分に接して何の不思議があろうか。
 自分のそれと相手のそれとがすれ違いになった場合に、自分の感情のみを優先して相手を抱擁したり、蹴飛ばしたりする理由はどこにもない。
 自分がここにいるのとまったく同じように、相手はそこにいる。
 このことを客観的に眺められず、自己中心的な視野の中で愛と憎しみに右往左往する状態を、法王は「無知の上に現れる愛の形態」と呼んだ。

「ここから〈他〉、愛の対象への一体感、親近の情、〈他〉への本物の関心が育まれる。
 こうして現れるものが真実の愛である。
 たとえその〈他〉の態度、姿勢が受け容れがたいものであったとしても、そして、その〈他〉があなたに対して敵意に満ちた行為に出る仇敵であったとしても、あなたの心には、その〈他〉への思いやりの念が残されているはずだ。
 なぜなら、それでもなお、その〈他〉は人間であるあらである。
 彼はあなた自身と同様に、幸福を享受する権利を有する人間である。
 こうしたことに思い至ることこそが、真実の関心、思いやりを生み出す基盤になるであろう。
 その相手が友であるのか敵であるのかを問わない、まっすぐな愛はここから生まれるであろう。
 この基盤の上において、あなたはあなた自身が願うのと同様に、痛苦を克服し、幸福を獲得する〈他者たち〉への愛を育むことができるはずである。」


 法王は、自己中心的ではない「〈他〉への本物の関心」から「真実の愛」が顕れると指摘する。
 思慕する人の思慕が自分へ向かおうと、向かうまいと、心から幸せであって欲しいと願えるならば、真実の愛と言える。
 すぐに思い出されるのは、渥美清が演じた寅さんである。
 好意を持つ相手の好意は、せいぜい、〈そこそこ〉にしか自分へは向けられず、その主たる好意が他の男性へと向いたりするが、それでもなお、相手のためにならずにはいられない。
 渥美清がこうした微笑ましく、哀しく、愛おしいキャラクターを演じた、ほぼワンパターンと言える『男はつらいよ』シリーズは、他に代えようのない主演者渥美清が死ぬまで作られ続けた。
 私たちは、彼が演ずる寅さんの姿を観て、人を思慕し人に尽くすまこごろ、それがたとえ報いられないとわかっていても尽くさないではいられない純情の美しさに涙した。
 彼は日本人に流れる情緒を背景に「〈他〉への本物の関心」と「真実の愛」を演じきった希有の俳優だったのではなかろうか。




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2014
04.18

ねじれた愛とまっすぐな愛 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(22)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第四章 慈愛、そして性

1 真実の

○ねじれたと、まっすぐながある

「現代、人々は愛についてかまびすしく語る。
 愛にはさまざまなものがある。
 人を愛する、あるいは、金銭を愛する。
 あるいは、神の愛と言ったりもする。
 では、愛とは何か。
 それぞれの愛は異なるものなのか。
 異なるとすれば、どのように異なるのか。」


 今、若者たちへ「何に最も関心がありますか?」と訊ねたならば、「愛です」という答が多いのではないだろうか。
 それは、流行歌に愛という言葉が氾濫していることによっても容易に想像できる。
 端的に言えば「君が欲しい」であり、具体的には「君の身体が欲しい」、「君の心が欲しい」となろう。
 また、「最も大切なものは何ですか?」との問いにも、「愛です」と答える若者が多いのではないか。
 東日本大震災において、善意の人々は心に愛を抱きながら、自分にできることで援助活動をしてきたはずだ。
 愛こそが人類にとっての宝ものであると考えている向きもたくさんおられることだろう。
 こうした〈愛〉とはいかなるものか?

「一般的な考え方によれば、愛とは愛する対象への親近の情を意味している。
 それを敷衍(フエン)してわれわれは日常、名声を愛するとか、財産を愛するとか、性欲をその感情の底にひそませて人を愛すると言ったりする。
 だが、こうした愛はねじれていると言わねばならない。
 無知の上に現れる愛の形態だと言わねばならない。」


 法王は、私たちが一般的に考えている「愛する対象への親近の情」は「ねじれている」と説く。
 それは「無知の上に現れる」姿だと言う。

「本物の愛、真実の愛、種々の宗教的伝統に根ざした、特に大乗仏教に根ざした愛(慈愛)とは、こうした個々の人間の感覚や情感の発露としての愛とは、まるで異なったものである。」


 法王は、仏教に根ざした愛は「慈愛」であり、「個々の人間の感覚や情感の発露としての愛」とはまったく別ものであると指摘する。
 み仏が持つ二つの力の一つは智慧であり、もう一つは慈悲、ここで言う慈愛である。
 それは私たちの心の中心にあり、ともすれば自己中心的あるいは自分勝手な思考によって隠されがちな霊性の核でもある。
 法王はまず、そうしたものではなく、私たちの感覚や情感に現れる愛の正体を観る。

所有欲に根ざす愛は、憎しみへと変容する

「よく言われる愛とは、往々にして自分自身を愛するための愛でしかない。
 それは自己の愛する対象を所有したいという感情に、ほぼ完全に依拠した感覚である。」

「この人、この物は私のもの、あるいは私のものであるはず、と言うような。
 こうした愛は、自分の欲望をより大きくしようとする、あるいは、自分の欲望を充足させようとする感情から起こっている。
 ひじょうにしばしば、これらの感情は、その愛の対象になったものへの顧慮、思いやりを欠いている。」


 冒頭に書いた「君の身体が欲しい」、「君の心が欲しい」にある心は何か?
 それは所有欲である。
 欲しいという言葉に明確ではないか。
 手に入れれば嬉しいし、入れられなければ悔しい。
 そこにあるのは、対象が自分の思う通りになるかならないか、である。
 法王はその点を「愛の対象になったものへの顧慮、思いやりを欠いている」と指摘する。
 自分と相手との人間関係において、主役はあくまでも自分でしかない。
 愛しているつもりなので、相手を思いやっているように錯覚するが、真の思いやりとは相手を主役にする姿勢であり、欲しがっている自分が主役である限り、思いやりは表面的なものでしかない。

「したがって、このような愛は、愛というより欲望そのものだが、自分の期待する結果が得られた場合にのみ、自分の努力に対する成果が得られた場合にのみ、成就することになる。」

「だが、もし、自分をも愛してくれていると考えていた愛する対象が、その態度を変えたり、振る舞いに愛の終わりを匂わせたりしたなら、あるいは、求愛を撥ね付けたり、

自分の期待に背くような行為に出たりしたなら、このときにはいったいどうなるか。
 自己の欲望を満足させようとする期待が裏切られたならどうなるか。
 こうした愛は、いともすみやかに憎しみへと変容する。」


 愛が憎しみへと変容する可能性があるのは当然である。
 自分の意志を動かしている「欲望」は、満たされていれば愛として現れ、満たされなければ憎しみとなるだけのことだ。
 私が高校生の頃、愛について話し合う授業があった。
 私は「思いやり」が核であると主張して愛が実践された例をいくつも挙げたが、A君は「性欲さ」と言って笑った。
 自分の浅はかさが情けなかった。
 自分にも思慕する相手がおり、A君の指摘は図星だったからである。
 慈悲の例を外に眺めつつ、関心はあっても自分にはまだそうした心が薄く、自分を突き動かしている内なる主人公は性欲だった。
 以来、A君は生涯、私にとっての北極星となった。
 私は北極星の光に照らされつつ、悩み、乱れ、のたうち回りながら半世紀を生きてきた。

「なぜこうした愛は憎しみへと変化するのか。
 それはこの種類の愛が〈我(ガ)〉の上に打ちたてられているからだ。
『私』が愛するからだ。
 それが理由のすべてである。
『私』はどうすれば彼女、あるいは彼の肉体を、心を所有できるか。
『私』の欲望はどうすれば満たされるか。
〈我〉があってそこには〈他〉がない。
 他者は『私』の、いわゆる愛のために存在するにすぎない。」


 法王は、〈他人〉を〈自分〉のための存在でしかなくしてしまう我欲に気づけと説かれる。
 愛という言葉をオブラートにしつつはたらく醜い我欲を直視せよと説かれる。




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2014
04.17

問題意識を持ち続けるのは心の修行をしていることに他ならない ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(21)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
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第三章 カルマの法則

2 平常心の心得

○初期の段階は、なしで自己を鍛えよ

「来世を生きるために自己を鍛えるには、かならずしもが不可欠であるわけではない。
 むしろ、初期の段階においては、あえてなしで取り組むことを勧めたい。」

に頼らず、一人で自己を鍛錬するについては、ふたつの有意義な点を指摘することができる。
 まず、一人で学び、修養を積めば、よりよきを見分けるに充分な知識と経験を得ることができる。
 次に、知識と経験とが充分に備わっていれば、の教えに簡単に満足してしまわずにすむ。」

「したがって、一人で励み、それがある程度の高さにまで至ったなら、はじめて師を求めればいい。
 修行の第二段階に入るための。」


 若い日、私は人生の目標を見失って彷徨った。
 あちこちの寺院や宗教団体を訪ね、他の大学の講座へもぐりこんだりした。
 自分で食うようになっても、心の根無し草状態は続いた。
 その時代は、ただ、霧の中にいたようだったが、もしかすると、「一人で自己を鍛錬」していたのかも知れない。
 人々の師であるたくさんの賢者に会ったが、自分にしっくりくる方との出会いはなかなか訪れなかった。
 この時期は、自分にとっての「よりよき師を見分ける」訓練になっていたのかも知れない。
 そして、人生の暗転と共に唯一の師として立ち現れた方から指導を受け始めた時、一日も欠かさず、疑問がわいてきた。
 師はたった一つの疑問も軽んじず、必ず教えをくださり、それはとりもなおさず修法の伝授となり、行者の血肉をつくった。
 このこともまた、行者へ対して手順通り行われる「師の教え」に「簡単に満足してしまわず」に済んだと言えるのかも知れない。

 ふり返ってみると、なかなか答の出ない問題意識を持ち、決してそこから離れずに苦しんでいたことが実質的には「初期の段階」だったのだろう。
 20年の迷いを経て師に出会った。
 そこで、自分ではようやく〈始められた〉と思ったが、実は、み仏が「修行の第二段階に入る」時をもたらしてくださったのだ。
 人生は実に、わからない。
 キーワードは問題意識ではなかろうか。

 最近、北海道から人生相談にご来山された方がある。
 Aさんは寺院の息子として仏事になじみつつ育ったが、どうしても嗣ぐ気になれず、寺院はとうとう住職である父親の意図しない形で運営されるようになったことが深い罪悪感として離れない。
 親戚縁者に顔向けができないとも言う。
 申しあげた。
「嗣がなかったのはAさんの良心がさせたことであり、立派な決断でした。
 住職のイスに座れば食えると考えず、出家が自分に向いているかどうかを見極めたことは、きっと、周囲から評価される日がくることでしょう。
 Aさんが宗教や寺院を軽んじていないからこそのできごとだからです。
 それに、寺院がどうなるかはさまざまな因と縁によるものであって、Aさんが嗣がないのは因縁の一つに過ぎません。
 辛さに耐えつつ、自分、父親、寺院、親戚、世の中などをよく観て、この世の〈ままならなさ〉に立ちすくむことは、真の宗教心が目覚めるきっかけの一つです。
 いつの日か、生まれ育った世界へ戻ろうとする気持になるかも知れませんよ」

 不条理無常や宿命に立ちすくみ、人生に対する深い問題意識が湧いてきた時は、眠っていた霊性が震え始めているのだろう。
 震えを抱えつつ生きているのが「初期の段階」であり、そこを過ごせばいつか「修行の第二段階」がやってくるとは、何という救いだろうか。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2014
04.16

平常心で転生するには ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(20)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
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第三章 カルマの法則

2 平常心の心得

来世への究極のゴールに進むために必要なこと

「物質的な成功と宗教的な伝統とを合一し、より高い境地へと至る方法があると私は信じる。
 では、いかにすればいいのか。」

 モノの獲得に追われず、かつ、歴史の風雪に磨かれた叡智に導かれれば、心は高い境地へと進むことができる。
 法王は、そう信じておられる。

「僧侶に頼るか、宗教の教えに耳を傾けるか、否である。」


 宗教者に頼り、教えを知っただけでは、なかなかそこまで到達できない。

「今日、現代医療の科学は、精神的なゆとりや平安が、肉体的な健康、長寿にとって根本的な要因となっている事実を受け容れている。
 心静かにすれば血液は正しく循環し、脈拍は正常を保ち、身体全体が正しく活動する。
 そして、それが長く健康な生命を約束してくれる。」


 ストレスの少ない心身の安寧が、心身の健康には欠かせない。
 このことは現代科学が証明している。 

「では、どうすれば心静かでいられるか。
 それが問題になってくる。
 まず、宗教的な実践が最初に目ざすものと言えば、生きとし生けるものとして、正常でよりよい生活を実現することである。
 それができてはじめて、より深い宗教的体験の世界に入ることができる。」


 ここで法王が「生きとし生けるものとして、正常でよりよい生活」と指摘しておられることは重要である。
 宗教的実践は、やおら、何かを繰り返し唱えたり、座禅を組んだり、滝に打たれたり山登りをしたりといったいわゆる〈修行〉から始まるのではない。
 生きるために身体をきちんと養いつつ、自他共に〈良かれ〉と心から願えるような生活。
 お釈迦様が説かれた「八正道(ハッショウドウ)」の一つ「正命(ショウミョウ…規則正しい生活で、まっとうにいのちを養うこと)」である。
 これが確保できなければ、現世の苦を根本から超越できるような高い宗教的次元へは入れない。
 それは、お釈迦様が悟られた経緯を見れば明らかである。

 食うや食わずの難行苦行を6年間行ったお釈迦様は、自らを痛めつける苦行だけでは悟りを開けないと気づき、身体を清めてやりなおそうとネーランジャラー川で沐浴をした。
 それを見た下女から「樹神がいる」と教えられたスジャータは、喜んで乳粥を供養した。
 滋養を補給し、心身をリラックスさせ、心にも身体にも力を漲らせたお釈迦様はよういやく、悟りを求める瞑想へ入った。
 お釈迦様に〈その時〉を得させてはならないと怖れた魔ものたちの大群が、恐怖心や色欲をかき立てて妨害しようと企てるが、一日の攻防を経て、お釈迦様はついに悟りを得られる。
 第一のポイントは、〈痛めつけられ、追いつめられた者〉としてではなく、〈いのちと心の力に覆いがかからず、持てる力を充分に発揮できる者〉としてこそ、悟りが得られたということである。
 第二のポイントは、すでに得ていたたぐいまれな法力により、降魔の印を結び結界を張ったからこそ、世界中の魔ものたちの誰もがお釈迦様の身体に触れられず、心を乱せなかったということである。
 降魔成道のシーンにおける第一のポイントが、行者においても、娑婆の方々においても「正常でよりよい生活」と言えるのではなかろうか。
 

平常心の境地である。
 究極の自然現象のような境地である。
 これはすでに宗教的な実践の第二段階である。
 この段階は自動的にやってくる。
 意図して求める必要はない。
 なぜなら、その段階に入る人は、すでに幸福な生活のなんたるかを知り、それを追求する集中力を養い、瞑想か、あるいは、他の宗教的実践の中で平常心を会得しているからである。」


 何ものにも乱されない平常心
 これは、降魔成道における第二のポイントに近い。
 お釈迦様のような法力は持てなくとも、ゆったりした心身は、魔ものを容易に寄せつけないほど大きな力を発揮できる。
 「究極の自然現象のような境地」になれば、心身は山となり、川となり、雲となり、鹿となり、ウグイスとなり、蝶となる。

平常心を知り、心が果たす役割を熟知するなら、後は自然に人は目指すべきゴールへと進んで行くことができる。
 来世を生きるという究極のゴールへ。」


 平常心となり、心中の仏神に出会えれば、もう、怖いものはない。
 死は、死に神の到来ではなく、より良き転生のチャンスとなる。
 こうして「来世を生きる」時の到来を悠然と待つのである。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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