昨日も、よくあるご質問を受けました。
「いろいろな
宗派があるようですが、結局、行く先は同じなんでしょう?」
時により、相手により返事の仕方は変えますが、ほとんどの場合「まあ、そんなものでしょう」と答えています。
修行の結果得られる境地がさまざまなのは経典に説かれているとおりであっても、冒頭の質問をする方は質問しながら実際は同意を求めており、それに一理あるのは確かだからです。
こうしたやりとりをしながら詳しく内容を吟味せずとも互いの間で通じている〈行く先〉のイメージを
法身仏(ホッシンブツ)といいます。
私たちがそこからやってきたいのちと心の故郷、宇宙であり海であるような無限で豊かな世界、俗世のいがみ合いや愛憎を離れた聖なる世界──。
こうした「万人共通」と確信できる聖性を持ち、想像と実感でとらえられる永遠なる存在──。
それを
法身仏といい、
大日如来といいます。
釈尊は、心をその世界そのものにして見せ、煩悩の巷でのたうち回る人々へその世界をかいま見せるたぐいまれな力で生涯、法を結び説法されました。
み仏になり切っておられた時の存在を
応身仏(オウジンブツ)といいます。
私たちはその業績を学び、釈尊が
法身仏の世界へ入られた方法を実践することによって、釈尊の悟りを追体験しようと修行します。
お大師様も同じく
応身仏であり、実証して見せられた
即身成仏(ソクシンジョウブツ)の方法を実践して
法身仏となることが密教僧の共通した願いです。
即身成仏を信じない密教僧はあり得ません。
ところで、
法身仏はその性格上、永遠や無限などの徳をお身体としておられ、いわば無限定の存在とでもいうべきものなので、私たちはなかなか具体的なイメージをもって近づくことができません。
だから、人により、願いにより、時代により、様々なみ仏が「
法身仏の世界へ入るのに解りやすいお姿」として感得されてきました。
願いという原因が報いという結果をもたらすので
報身仏(ホウジンブツ)といいます。
仏法が日本へ入って来た頃は、真理を具体的に説かれた釈尊の信仰が広まりました。
さまざまな経典を通じて、文殊菩薩の智慧や、薬師如来の治病や、普賢菩薩の延命などのお力が信じられ、信仰されました。
母なるイメージの観音菩薩、身近なイメージの地蔵菩薩、魔除けのイメージの不動明王などの信仰も広がりました。
社会に不安が増した時代は、極楽へ連れて行ってくださる阿弥陀如来が救いの王でした。
命がけの日々を過ごした山本勘助は
摩利支天(マリシテン)、上杉謙信は
毘沙門天(ビシャモンテン)を守り神としました。
私たちは、仏神をこうした
報身仏に対する感覚で祀っており、それを支えているのは
法身仏の世界があるという無意識の安心感です。
だから、「行く先は同じ」という感覚はとても大切なものです。
さて、釈尊もお大師様も
応身仏として崇められています。
釈尊は、ご自身が覚る以前にも覚った方々がおられると言明し、自分もその境地を知ったと述懐されました。
釈尊のように覚り真実世界の住人となった聖者はどれだけおられるか判りません。
お大師様の師である恵果様は、「やがてお前の弟子として転生しよう」と約束されました。
さあ、そうなると、今のこの世にも、隠れた
応身仏がおられるに違いありません。
布施を行う時、戒めを守る時、忍耐する時、精進する時、心を清浄に安定させている時、我欲を離れた智慧をはたらかせている時は、誰でもが
応身仏に近づいているはずです。
み仏の子である私たちは、例え一日数分間でも、
応身仏である時間を持ちたいものです。
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