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2016
11.06

この世の人だけではない納骨時の立ち会い者

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〈複雑に切断加工した木材を嵌め込み叩きつつ、巧みに組み合わせて行く宮大工さんたちの仕事ぶり〉

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樹木葬『法楽陵』のベニカナメ〉

 夏から続いていた陽の力が去ってしまう寸前となったある日、古い墓所でお納骨を行った。
 東日本大震災にも耐えた伝統的なフォルムの墓石は、それほど大ぶりではないが、石質といい、無彩色にほんの少々、淡いパープルが溶け込んだ色合いといい、建て主のセンスが偲ばれる。
 皆さんにお線香を捧げていただき、いよいよ最後の一人になった。
 とは言え、いちいち後姿を視認するわけではなく、ほとんど瞑目して経文を唱えており、人の動きは気配として感じているのみだ。

 その時、妙なことが起こった。
 墓石の前へ足を運んだのは一人だけなのに、もう一人、誰かが脇で佇んでいる。
 足音が聞こえなかった割には、そこに居る存在感があまりに濃密だ。
 この世の人ではないだろう。
 ただし、結界の中へ入って来たのだから、魔ものの類ではない。
 お線香を上げた人の足音が正面から動いたのを合図に、次の所作へ移った。
 目を開けると午後の陽光が小生の右後から射し、墓石のパープルは画家ジョルジュ・スーラがカンバスへ置いた点たちのように、存在感を増していた。

 すべてが終わっても、喪主様が小さな声で感謝を口にしたのみで、あとは誰も口を開かない。
 無事、納まるべきところへ納まってご安心でしたね、とのみお話しし、静かに辞した。
 もちろん、〈あの人〉はもう、いない。
 振り返り「誰か参加する予定だった方がおられませんでしたか?」と訊ねたい衝動にかられたが、落ち葉たちの形を見ながら、そのまま歩を進めた。

 駐車場に着き、少し落ちついて霊園を眺めた。
 さっきの方々がゆらゆらと揺れるように墓石群の間に現れ始めた。
 それぞれの脳内に〈もう一人〉が浮かび、皆を寡黙にさせているのではないか、と勝手に思いつつ、早々に車をスタートさせた。
 エディ・コスタの「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」が流れ始めた。
 天才と呼ばれた彼は、勝負の一枚によって名声を不動のものにしたが、まもなく、31才で去ってしまった。
 もう、この先へは行けないと思えるほど深いタッチで響く低音は、あの世へ通じる扉の鍵までも弛めさせそうだった。

 この世あの世と通じ合う時間と空間は確かにある。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2016
10.04

マンダラの鬼たち ─み仏以外のものたちに学ぶ─

2016-10-02-00082.jpg

 10月2日に書いた「背き合いとマンダラ」についてご質問がありました。

「とても見るに耐えない画ですが、なぜ、これが修行に用いられるのですか?」

 疑問は当然です。
 では、図にある13人について詳しく見てみましょう。
 誰であるかは以下のとおりです。

・左上の一人…奪一切人命(ダツイッサイニンミョウ)
  閻魔天(エンマテン)に属し、すべての人々のいのちを奪う死に神。

 右手に持っているのは皮袋、左手には菩薩(ボサツ)のように花を持っています。
 生まれた私たちは死にたくありませんが、授かったいのちは必ずお返しせねばなりません。
 新たないのちが生まれ、育つために。
 東北を考え続けている山内明美氏は著書『こども東北学』の最後で、詩人谷川俊太郎氏からの質問「死んだらどこへ行きますか?」に、こう答えておられます。

「んだなぁ。
 どごさ行ぐのがなぁ。
 ふわふわどごさが飛んでいぐんだいが?
 土の中でねぇが?
 花の養分さでもなるんでねぇが?」

 生は時間の流れに生じ、流れは死も招きますが、いのちそのものは無になるのではなく、生から死へと姿を変えるのみであり、死はやがて生をもたらします。
 花は散っても、花びらは養分となり、生の準備をするのです。
 当山が造りつつある「お遍路道場」も土造りから始め、新たないのちと心の世界を招こうとしています。

 いのちを奪う奪一切人命がなぜ、惨たらしい姿でないか?
 その理由がわかります。

・その他の8人…毘舎遮(ビシャシャ)
  餓鬼
  人肉を喰い、血をすすって飢えを凌ぐ。
  自分が喰い、飲むことにしか関心を持てず、同類なのに会話はできない。

 彼らは人を喰う鬼たちです。
 何とも哀れな姿で人肉を喰い、血をすすっていますが、一緒にいても決して目を合わせてはいません。
 自分の食欲が生存の全てであり、他者は目に入らないのです。
 彼らの表情を眺めていると、私たちが本当に飢えた時の様子が想像され、ブルッとなります。
 また、我がことしか考えない利己主義者たちの顔も想像され、貧富を問わず、〈奪う手〉を伸ばす者の浅ましさに目を背けたくなります。
 獲物がなくて焦る者にはもちろん、両手に食べものと飲みものを持った者にも、深い感謝や溢れる喜びは一欠片もありません。
 心に真の満足がないからでしょう。

 私たちもまた、我欲に追われている時は、自分で気づこうと気づくまいと、表面の顔の下にはこうした表情が現れているはずです。
 我が身を振り返ると同時に、戦争や飢饉によって食べられず、飲めず、奪うか死ぬかの瀬戸際に立たされている人々の境遇にも思いを致したいものです。
 
・その下の3人…荼吉尼(ダキニ)
  大黒天に属し、人の死を半年前に知り、心臓を奪って喰う。
  仏法に接して悔悛しながらも、喰わねばならぬ境遇を哀れんだみ仏のお慈悲により、死人の人肉を喰うことは許された。
  屍体を暴悪な羅刹(ラセツ)から守るための真言も授かった。

 この世でも、あの手この手で、死へ向かっている人々に近づき、その命綱を奪おうとする人々がいます。
 毘舎遮と違い、明らかに肥えているにもかかわらず、毘舎遮の持たない武器を持ち、まるで宴会をやっているような風情です。
 自分が生きるための範囲なら死人を喰うことを許されてはいますが、食べものはいつ、凶暴な羅刹などに奪われるかわかりません。
 まるで、オレオレ詐欺や悪徳商法を行う人々が暴力団などに狙われつつ、悪しき方法で奪った戦利品を誇り、ひとときの宴会をやっているようではありませんか? 

・一番下に横たわる人…死鬼
  亡者

 自分の死を理解し、観念しています。
 あとは屍体を何ものかに喰われようが、喰われまいが、そのことについては放念しているように見えます。
 諦念に導かれてあの世での旅を行けばきっと、み仏の世界へ溶け込めることでしょう。

 しかし、何かのきっかけでこの世へ怨みなどを残せば、文字どおりの鬼として悪しき影響力を持たないとも限りません。
 たとえば、自分の死後に備えて準備した葬儀代やお布施が誰かに流用され、望んだ旅立ちができなかったならば、どうでしょうか?
 亡くなった人が成仏できるかどうか、それは旅立つ人の心一つではありますが、送る人が当人の心をどう考え、何を行うかもまことに重大です。
 しかも、そうした人生上の重大場面でいかなる行動をとったかは、送る人のその後の人生に大きな影響を及ぼすことでしょう。
 私たちは、死鬼の表情を眺め、送られる心、送る心を考えたいものです。




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2016
09.04

Q&A(その28) 喪失と子供の不調について

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 子供神経質になった、急に成績が落ちた、などの場合、環境の激変が影響しているかも知れない。
 こうした子供や孫に関する人生相談もたくさんある。
 カール・ベッカー博士によると、小さなお子さんの〈喪失〉体験は7つのリスクをもたらすという。
 ここにおける喪失とは、親や兄弟など身近な人の死、あるいは親や仲間から見捨てられる、いじめられる、虐待される、といった人間関係の決定的な切断である。
 以下、博士著『愛する者の死とどう向き合うか』を参照しつつ、考えてみよう。

1 不安と恐怖が異常に高まる。

 ちょっとしたできごとや物音でも、不安になり、恐れる。

2 重度の抑うつになる確率が高まる。

 全員が抑うつ状態になるわけではなく、大人になってから強い落ち込みになりやすいという研究報告がある。
 
3 健康上の問題や事故などが増加する。

 喪失による悲嘆がストレスとなって健康を害しやすくなるし、周囲に対する注意力が散漫になったりもする。

4 学業成績が低下する。

 環境の激変により、誰かの手助けがないと、勉強へ集中しにくくなったりする。

5 自己評価(セルフ・エスティム)が低下する。

 生きるための杖を失ったように思うし、他者からの心ない言葉が、より所のない気持を強めたりもする。  

6 外的なLOC(統制の所在)が著しく高まる。

 不幸の多くが運の悪さから生じ、自分の運命は抗えない他者によって統制されていると感じる「外的統制者」になりやすい。
 反対に「人生の不幸の多くが自分の過ちから生じていると考える人間」は内的統制者である。

7 後の人生において、悲観的になりやすい。

 やれると思えばやれそうなことも、やれないと思うことによってやれなくなり、悪循環に陥りやすい。

 もちろん、喪失を体験した子供すべてがこうした問題を抱えるわけではないが、いくつかに当てはまると判断した場合は、適切な手を打つ必要がある。
 たとえば、こうしたポイントである。

遊びの時間を充実させる。

 遊ぶことによって、子供は自分がいる世界の意味を理解し、その理解は喪失の理解へとつながる。
「遊ぶ子は、ストレスに直面しても不安定になったり、人間として持っている自己治癒力を失ったりすることはめったにありません。」

○その子供なりの性質・性格のうち、立ち直りに役立ちそうなところをうまく動かす。

 自分でどんどん立ち直れる子供もいれば、ショックに弱い子供もいて、性格は簡単に変えられないことをよく理解した上で導く、

○家族間で何らかの信念や実践を共有する。

 なぜ、と疑問のまま、説明できないできごとにぶつかっても、家族として精神的な信念体系を持っていれば、できごとの意味を見つけやすい。
 たとえば、家族の中で掃除などの役割を淡々と果たしている子供は、不測の事態に適応しやすい力を持っている。
 大人も子供も、何かしらスピリチュアルな信念を持っている人と、持っていない人とでは、現実に耐え、適応する力が違う。
 自分の信念や行動によって〈自分の世界〉をつかんでいれば、そこに生じたできごとも、理解し、受け容れやすいのだろう。

○外部からのサポートを行う。

 家族以外に頼れる人がいない場合、第三者の手助けは力になる。

○状態を判断した上で、喪失した相手とのつながりを保たせる。

「(あの世へ逝った)お父さんは今、何を考えているんだろう」
 こうした姿勢が出てくれば、できごとはおさまりをつけつつあると言える。

 もしも、我が子に異変を感じた際は、学校でのいじめなどと共に、環境の激変によるストレスを考えてやるようにしたい。
 ただし、できごとが起こった時期と変化が生ずる時期の間にかなりなズレが生ずる場合もあり、慎重な検討が必要。
 いずれにしても、変化は必ず何かのシグナルである。
 キャッチしてあげたい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
08.16

お盆供養会を終えて ─あやふやで確かなもの─

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 午前4時を過ぎてもまだ薄暗く、だいぶ、日が短くなりました。
 真っ暗な中でのコオロギからツクツクボウシへとだんだんに主役は代わりますが、窓から流れ込む冷気はすっかり秋のものです。
 夏の気配と共に去り行く彼らのいのち……。
 むしろ、彼らの一匹、一匹がこの世を去りつつ、灼熱の余韻をも消して行くのでしょうか。

 おかげさまにて、今年もお盆供養会を無事、終えることができました。
 法話は、釈迦族滅亡の因縁にかかわるお話でした。
 本堂から廊下まであふれんばかりの善男善女が集い、ご先祖様や亡き人を偲び、施餓鬼の(セガキ)の趣旨を体して慰霊のまことを捧げました。
 これまでにないほどたくさんのお塔婆が申し込まれ、私たちの心に根付いている宗教心の確かさは、老体に残るエネルギーを活性化させました。

 午後から訪れた仙台市営いずみ墓園にも、たくさんの人々がおられました。
 杖をつきながら、ゆっくり一歩また一歩と歩む母親の手を引いた白髪の息子さん、摘んだらしいお花を両手いっぱいに持ち、ピンクのワンピースで駆ける女児、たった一人で芝墓地に佇み、じっと瞑目している黒衣のお婆さん、野球帽の男の子と二人で手をつなぎ、通路を黙って歩む若いお父さん。
 私たちの日常から肝腎なものはまだ消え去ってはいないと実感させられました。

 無数の死者がいたからこそ私たち一人一人がここにいるのであり、この世で生きた私たち一人一人の生きざまと死にざまは必ず、はてしなく続く〈この世〉のありようにかかわって消えません。
 私たちが箸を使ってご飯をいただくのも、手拭いで顔を拭くのも、皆、そうして生き、死んだ方々から伝えられたふるまい方です。
 
 ちなみに、この世あの世との間に川が流れているという感覚は昔から、世界中にあったようです。
 ギリシャでは、カロンという老人が渡し守で、死者は銀貨を求められました。
 エジプトでは呪文を知っていれば無事、渡れました。
 ペルシャでは、善人だけが橋の向こうにある楽園へ行ける一方、悪人は渡れずに地獄へ堕ちるとされていたので、死を向かえた人々は大変だったと思われます。
 私たちの霊性は、こうした素朴な〈感じ〉を伴っています。
 それは、自分のいのちがどこからどこまで広がっているのか、その縁(ヘリ)を確かめられず、眼前のネコのいのちと自分のいのちとの境界線もわからないのと同じくらい、あやふやでありながら、いのちがここにある真実は疑えないほど確かなことであるのと同じです。

 遥か関西からもお塔婆供養を申し込まれました。
 当山はこれからも、今に生きる仏法を目ざして正統な修法を続けます。
 皆々様に仏神と諸精霊のご加護がありますよう。
 



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2016
07.15

魂の行方は? ─供養のきっかけ─

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 私たちは人の死に際し、その魂の行方を気づかっているだろうか?
 死んだ途端になぜ、もう大丈夫、と言えるのだろう?

「これまでご苦労様でした。
 どうぞゆっくりお休みください」

 あの世へ行けば安寧が待っていると考える根拠は何か?
 ただ、そうあって欲しいと思うだけで、ことを済ませてはいないか?

 私たちはほとんど、この世でさんざんやらかし、結末をつけられないことごとを山ほど残してあの世へ旅立つ。
 子供の教育、夫婦の約束、仕事の責任、人間関係の信義などなどに関する問題行動や失敗は、真剣に数え始めたらきりがないはずだし、年をとれば無論、多くを忘れてしまってもいる。
 自分がそうなら、旅立つ人もあまり変わりはなかろう。
 だからこそ、お釈迦様の高弟で神通第一と称される目連尊者(モクレンソンジャ)は、亡き母親がいかなる境遇にあるか、気づかった。

 神通力で観たところ、意外にも餓鬼界(カキカイ)に堕ちており、自力では救いようのない尊者はお釈迦様に救済法を請い、雨季の修行を終える行者たちへ供養し、祈るよう指導された。
 それが現代にまで伝えられ、日本ではお盆供養会とドッキングしているが、そもそも、尊者が〈魂の行方〉を気づかったことに由来するという事実は重い。

 たとえ愛憎こもごもあったとしても、哀惜を抱きつつ送るのならば、その行く先であるあの世を深く想わずにいられない。
 お大師様は愛弟子の死に際し、言葉を手向けた。

「覚りの朝(アシタ)には夢虎(ボウコ)無く、悟りの日には幻象(ゲンゾウ)莫(ナ)しと云うと雖(イエド)も、然れども猶(ナオ)夢夜(ボウヤ)の別れ不覚の涙に忍びず」


(覚れば、何があっても、夢で見る虎を恐れぬように心乱れず、目には見えていても所詮幻でしかない象を気にせぬように、眼前のものごとに心乱れることない。
 とは言うものの、貴男との死別がこの世のかりそめのできごととは解っていても、不覚にも涙が流れてならない)
 天皇の前で即身成仏(ソクシンジョウブツ)の法を結び、帰依(キエ)を受けたほどのお大師様であってなお、涙を流された。
 そして、貴人であれ庶民であれ、死者への供養を生涯、欠かさなかった。

 死んだからといって、善行(ゼンギョウ)も悪行(アクギョウ)もすべてがチャラになりはしない。
 私たちは、自分がやってきたことの結果が〈今〉、すべて出てはいないことを知っている。
 だから、〝あと少し〟と頑張れるし、〝まだ謝りに行っていない〟と倫理感を保てる。
 しかし、その〈今〉は永遠に続かず、否応なく、自分の意思とはほぼ無関係に終止符が打たれる。
 ──残りの結果はどうなるか?

 この〈未だ出ていない結果〉こそが、死に行く人の深い意識に蓄えられているものだろう。
 それを知っている目連尊者は、気づかい、怖れ、供養を行った。
 それを知っているお大師様は、気づかい、哀しみ、供養を行った。

 私たちは、亡き人をふと、想う。
 命日はもちろん、夕陽が空を橙色や紫色に染める時、ヒグラシが鳴き始める頃、お彼岸やお盆の時期。
 そして、気づかいが兆したならば、すなおに供養を行いたい。

 静かに合掌する、真言やお経を唱える、供養を申し込む、供養会に参加する。
 いずれであれ、魂の行方に想いをいたす時、それは私たちの仏心が動き、あの世の仏心と共鳴し、共に(ゴウ)が清められる兆しなのだろう。
 ふとした〈その時〉を大切にしたい。




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