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2015
11.29

Q&A(その16)確執のあった親をどう送ればよいか? ─人生を豊かにするもの─

2015112800052.jpg

 老いた親と容易ならぬ確執のあったAさんが、親の臨終間際を知り、人生相談に来られました。
「どのように送ったらよいか、わかりません」
 お応えしました。
「ただ、送るしかないでしょう。
 去る方は、生き続ける果てに、去って行きます。
 そのこと自体は純粋に個人的なものであり、誰もどうすることもできず、見送るしかありません。
 ただし、肉体としての死は、が遠ざかる〈過程〉として一定の時間、現れるだけで、何もかもが無に帰してしまうのではないことを、貴女もお気づきでしょう。
 問題は、貴女がいかなる気持でそれに立ち会い、〈その後〉を過ごすかにかかっています。
 小生は、いささか不謹慎であると知りながら、小説家西川美和氏作『ディア・ドクター』の言葉が忘れられません。

『親たちが自分たちを見つめて、人生を豊かにしたように、ぼくも親の絶えていくさまを、見つめて人生を肥やしていくんだ』


 不謹慎と言ったのは、誰かの死を自分の役に立てるという行為に、功利的で自己中心的な姿勢があるからです。
 しかし、〈その人の死〉は純粋に個人的なものであり、決して分かち合うことはできません。
 私たちは、そのことそのものに指一本、触れられません。
 斎場に行けば、泣いてお柩にとりすがろうと、冷静に炉の蓋が閉まる音を聞こうと、成り行きは同じなのです。

 でも、だからどうでもよい、と申しあげているのではありません。
 むしろ、おさんの死すらも、貴女とおさんの関係においては〈途中経過〉でしかないことをお考えいただきたいのです。
 おさんの肉体がこの世にある間、貴女にとってのおさんがおられたように、お母さんの肉体がお骨になり異界に住み家を変えても、貴女にとってのお母さんは貴女の心におられます。
 だから、今後、貴女がこれまでの心の苦しみを何とかしたいのなら、いささかも、死を頼りにしてはなりません。
 これは、他者の死を願うべきではないという道徳のお話ではなく、貴女が真に救われるための道筋を一緒に考えているのです。

 さっきの言葉を考えてみましょう。
 貴女のお母さんは、貴女の成長のため、真剣に努力してくださったはずです。
 貴女が今、ここでこうして生きておられるのが何よりの証拠です。
 もちろん、その努力は貴女のためだったはずですが、それだけではなく、貴女の存在がお母さんにとって生き甲斐でもあり、苦労の種でもあったことでしょう。
 育てる過程が、親であるお母さんをも、若い女性から分別ある女性へと成長させたのです。
 そこにある苦も楽もすべてひっくるめて、『人生を豊かにした』と言っているのです。
 貴女の存在は明らかに、お母さんの心の血肉になりました。
 しかもそれは同時に、お母さんの存在が貴女の血肉となってきたことも意味しています。
 この事実に嫌悪しようと、感謝しようと、まず、事実をまっすぐに、客観的に観なければなりません。
 そして、〝──そうだった……〟と真の意味で腑に落ちれば、死に行くという純粋に個人的なお母さんの事情が、貴女にとって何を意味するのか、これまでとは違った見解や感情が立ち顕れるかも知れません。
 こうして貴女にとって何か新しい地平が見えてきたならば、それが『人生を肥やしていく』という言葉の中身なのでしょう。

 数十年にわたるこれまでの関係性は簡単に変えられるものではないでしょうが、ここでしっかり振り返る価値はあります。
 お母さんはやがて、自分で自分の肉体を一ミリも意志のままに動かすことはできなくなります。
 そうなれば、血肉をもらった貴女がやるしかありません。
 何であろうと、人として──。
 そこで、〈してもらう〉他なくなったお母さんに手を差し伸べ、できる限りのことをしてあげる時、貴女は無償の思いやりを実践しておられます。
 しかも、確執のあった相手に対して。
 普通の人生にあれば、そうそう起こらないであろうこうした行為は、必ずや、貴女にとってかけがえのない何ごとかであるはずです。

 私たちは無限の〈おかげ〉で成長し、今を生きています。
 あの世へ行く時も、行ってからも同じです。
 私たちが〈おかげ〉によって存在している以上、私たちも誰かの何かの〈おかげ〉になっているはずです。
 しっかり、役割を果たそうではありませんか。」




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2015
04.21

ギブアンドテイクと宗教あれこれ

2015042000012.jpg

 お一人で暮らしておられるAさんがご兄弟たちと二度目のご来山をされた。
 お兄さんは、なかなか歯切れの良い方だ。

「妹からご住職の方針を聞いて思ったのは『そんなうまい話はないだろう』ということでした。
 私たちは娑婆でずいぶん苦労をしてきました。
 だから、世の中はギブアンドテイクだと身に沁みています。
 きちんともらうべきものをもらえないと、とんでもないことになります。
 人がよいと泣きを見るのです。
 ご住職のところと共同墓永代供養契約をしても、年間管理料はないし、檀家にならなくてもいいし、何十万円出してくれといきなり請求も来ないなら、いったい、どうやって妹は守ってもらえるんですか?」

 お応えした。

「私も娑婆で失敗してこの道へ入ったので、疑うお気持ちはわかります。
 しかし、お寺は娑婆ではありません。
 行者である僧侶は出家者です。
 そして、み仏は契約する相手ではないのです。
 そもそも、お釈迦様はどうやって教えを伝え、修法したのでしょう?
 あちこちと歩いては教えを必要とする人々と出会い、感謝の表現としての食べものや着るものや寝床を受け取り、また、歩かれました。
 お大師様も同じく、托鉢が出発点でした。
 小生もそうです。
 托鉢は、ギブアンドテイクではありません。
 ご縁となる方のために、ただ祈り、法を説き、法を修するというギブあるのみです。
 それを受けて〈救い〉と感じる方の心にある仏心(ブッシン)が動けば、おのづから、行者にとって必要なものを与えないではいられなくなります。
 ご縁の方と行者の間には何らの契約もありません。
 ご葬儀でも同じです。
 当山の修法によって死後が安心であると考え、生前に、あるいはご不幸の発生後に申し込まれた方のため、ただただ、お大師様から伝わるやり方で引導(インドウ)を渡すのみであり、一連の修法に値段のつけようはありません。
 人は皆、み仏の子であり、仏心が魂の中核にあるので、人間社会のお寺は結果的に成り立ち、今日も法務を続けていられます。
 み仏の〈おかげ〉で皆さんは救われ、救いの場も保たれる、ただ、それだけです。
 もしも、こうした宗教の場がなくなるとすれば、それには二つの理由しか考えられません。
 一つは宗教者がギブアンドテイクという方法に走り、み仏の〈おかげ〉を信じなくなること。
 もう一つは、娑婆の方々が、み仏の〈おかげ〉を感じなくなること。
 いずれも宗教心の消滅を意味します。
 お大師様が説かれたとおり、宗教は心によって興り、心によって滅ぶのでしょう。」

 ただし、宗教といってもさまざまである。
 4月19日付の産経新聞『読書』の欄で、情報学者吉田一彦神戸大名誉教授は、森本あんり著『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』について書いている。

「アメリカに移植されたキリスト教は、神と人間が対等な契約関係に立つというところから出発した。
 そうなると互いに権利と義務を有する結果になる。
『つまり、人間が信仰という義務を果たせば、神は祝福を与える義務を負い、人間はそれを権利として要求できる』(24ページ)。
 神の前で人は全て平等であり、学歴や教会の認知がなくても伝道者になれる。
 これがアメリカの反知性主義の根源である。」

 こうして「信じる者には必ず願う結果がもたらされる」と考え、〈結果〉が得られるまでお金も武器もいのちもかけて、どこまででも突っ走る。
 ――明るく、希望に満ちながら……。
 何しろ、約束してくれる相手は信用ならない人間ではなく、神なのだから、無敵の戦車に乗っているのと同じく、どこまで行こうと心配はないのだ。
 何とわかりやすい道筋だろう。
 日本でもこれまで、似たようなパターンで人々を熱狂させつつ新興宗教が勃興した。

 その点、仏教寺院は娑婆の方々から疑われて当然だ。
 娑婆的な契約と無縁の世界なのだから。
 すぐには理解していただきにくいが、理解してくださる方々がおられるので成り立っているだけのことである。
 み仏の〈おかげ〉と言うしかない。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
03.15

お葬式って何ですか? ―お葬式が必要な理由―

2015031500111.jpg
〈3月14日の寺子屋では、経済学博士・宮城県議会議員藤原のりすけ先生の講義が行われました〉

 これまで最も多いご質問の一つが「お葬式って何ですか?」でした。
 ご年配の方よりも、むしろ、親を送らねばならない状況に至った若年や中年の方から真剣な問いが問われました。
 それは、「本当のところ、住職は何を信じてお葬式をしているのですか?」という厳しい目で見られるということでもありました。
 国会の答弁で散見されるような通り一遍の〈公式的な文句〉や〈その場しのぎ〉は通じません。
 答える側の人間そのものが観察され、答が、本当に答える人間の存在をかけて発せられたものであるかどうかは、必ず見抜かれます。

 最近は、こんなふうに応じるケースが増えました。
「この世で開ききれなかった仏心を開くこの世で最後のチャンスです」

 私たちには善い心も悪しき心もあり、善悪こもごもの言葉を用い、善悪こもごもの行動をとります。
 誰かを深く怨みもすれば、見ず知らずの人の善行(ゼンギョウ)に目を瞠(ミハ)らされたり、唸らされたり、恥ずかしくなったり、希望を持ったり、発奮したりもします。
 そうした自分の心中をよく観察すると、人間の善き姿に接すれば心は爽やかで明るくなり、悪しき姿に接すれば心は乱れ暗くなることに気づきます。
 心身は明るい方向へ向かってこそ健全に保たれ、人間関係において互いの信頼感が増大します。
 つまり、私たちの心には、草花が自然に陽光へ向かって伸びるような〈ある力〉が具わっているのです。
 それが小生一人だけのありようだとは到底、思えません。
 この事実は、「万人の心中にみ仏がおられる」と説く仏教が真実であると信じさせます。
 もちろん、そうは思われない方もおられでしょうし、科学的に証明できるわけではなく、論理的に導き出せる結論でもありません。
 仏教を学び、実践し、考え続ける一行者の信念でしかなく、誰かと客観性を競うつもりはなく、誰かと議論して言い負かそうとするわけでもありません。

 こうした私たちは、仏心に添って善く生きる場面もあり、仏心を覆う煩悩(ボンノウ)に引っぱられて悪く生きる場面もあります。
 そういう一生の最後の最後に、複雑極まりない心の最奥にある仏心の扉を開け放ち、心の故郷へ還るチャンスが訪れます。
 それが死です。

 だから、お大師様は説かれました。

阿字(アジ)の子が 阿字の古里たちい出て またたち還る阿字の古里」


 梵字(ボンジ)の「阿」に象徴される大日如来の世界を心の古里とし、この世へ修行の旅にやって来た私たちは、死によって古里へたち還り、輪廻転生(リンネテンショウ)を繰り返すのです。
 ダライ・ラマ法王も説かれました。

「自分の死は、修行の成果や信念を確認する貴重な機会なので楽しみである」


 さて、私たちは、母胎に宿ってからずっと、無数の人々のおかげ、自然のおかげ、社会のおかげでいのちを長らえます。
 最初は親が、そして家族や先生や先輩などが〈師〉となって導いてくださればこそ、人の間の存在すなわち人間としてまっとうに生きられます。
 生意気盛りになったり、少々、富や地位や名声を得たりすると自分の力だけで生きているような錯覚を起こす時期もありますが、あらゆる動植物も含めて〈師〉ならざるものはありません。
 踏まれても咲くタンポポに教えられ、堂々たる楠に教えられ、子を守るヒヨドリやスズメダイにも教えられます。
 思い上がった錯覚のままでは必ず、人生を誤ります。
 思い上がった人は、よしんば富や地位や名声を失わずとも、〈地〉を見抜いた人からは尊敬されず、軽蔑され、せいぜいが、利用したい人から仮そめに持ち上げられるのみであり、棺に冷たい視線を浴びるかも知れません。
 
 迷い、誤りつつ生きる私たちは、その原因となっている肉体の束縛を離れる時、本来の「阿字の子」そのものになるチャンスを迎えますが、〈おかげ〉をきちんと理解し感得し、〈おかげ〉なるものに導かれるすなおな心を失わなければ、爽やかで明るい世界へと溶け込んで行けることでしょう。
 これが「仏心を開くこの世で最後のチャンス」の意味です。
 導き手はみ仏であり、み仏と去り行く人との糸を強化するのがお葬式導師です。
 だから導師を務める行者は、み仏の世界への扉を開けるため、先んじてその世界へ入る力をつけねば役割を果たせません。
 
 では「み仏と去り行く人との糸」は具体的にどうやって強化されるか?
 それが引導(インドウ…引き導く)という作法です。
 導師は、お釈迦様が養母マハー・プラジャパティーを送るご葬儀で説かれた教えをお伝えし、一瞬で開扉します。
 扉の先はお釈迦様が悟られた境地であり、それは「阿」で表される大日如来の世界です。
 扉がしっかりと開く瞬間は、大日如来と行者が一体になっていなければなりません。
 これができるうちは導師としての資格があり、できなくなれば引退あるのみです。
 引導を渡す作法は単なる形式ではなく、誰をごまかせようと、み仏はごまかせず、逝く人もごまかせず、もちろん自分もごまかせません。

 群馬大学医学部附属病院で腹腔鏡手術を受けた患者8人が平成22年から26年までの間に8人もに死亡し、3月3日、40代の男性医師が行った手術の「すべての事例において過失があった」という恐るべき調査報告が発表されました。
 この医師は手術前、いつも「すごく簡単な手術だから大丈夫」と言っていたそうです。
 目に見える科学の世界ではこうした〈その場しのぎ〉が明確な形で発覚しますが、目に見えない宗教の世界ではわかりにくいものです。
 しかし、ご遺族などが判別する方法はあります。
 それは、ご葬儀の現場で導師が法を結び創り出す異次元世界を感得することです。
 あるいは導師を務める僧侶と会って質問し、人物を確認することです。
  
 私たちは人間なので、〈おかげ〉が理解でき、感得もできます。
 仏神、自然、社会、あらゆるものの〈おかげ〉でこの世を生き抜く私たちは、あの世へ行く時も同じであり、〈おかげ〉によらず自分一人だけの力で行けるはずはありません。
 最後まで感謝を忘れず、〈おかげさま〉と手を合わせつつ、み仏のお導きによって安心世界を目ざしたいものです。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2012
10.12

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その30) ─身体を使おう─

20121012001

 ここでは、昭和6年に発行された小冊子を基にして子供たちの導き方を考えています。

30 「け」 健康第一。健康第一。健康第一。

 早寝、早起き、運動、深呼吸、冷水摩擦、快活の精神、みんな健康の泉だ。
 日課の規律を守って健康なれ。
 健康のない成功はない。

 

1 夜回り先生の指摘

 夜回り先生こと水谷修氏は、子供たちがストレスからノイローゼになり、やがては自殺へも至るプロセスに身体と心のアンバランスが表れていると指摘しています。
 心はテストや人間関係などで疲れているのに、身体を動かす機会が少ないので身体はあまり疲れておらず、そこから眠れなくなる現象が起きて夜更かしし、睡眠不足になり、心がますます疲れてしまうという悪循環です。
 健康を著しく破壊するものとして第一にゲーム依存症が挙げられ、「ゲームをやらない日」をつくっただけで、だいぶ違うそうです。

2 快活な精神

 当山でのご加持(カジ…心身のはたらきとバランスを回復する秘法)では、太鼓を叩くおりに「心も身体も健全でありますように」と願います。
 心が不調な方も、身体が不調な方も、片方だけではなく、両方とも活性化され、バランスがとれてこそ、ここで説く〈快活の精神〉が生まれます。
 快活とは「快」すなわち心地よい気持と、「活」すなわち活き活きと生命活動のエネルギーがはたらいている状態を指します。
 いわゆる「前向き志向」だけとは限りません。
 必ずしも前へ進めなかろうと、役立つものを作れなかろうと、人が活き活きしていること以上、大切な状態はありません。

3 少年岡真史(オカマサフミ)君のこと

 昭和50年の夏、12才の少年岡真史(オカマサフミ)君は、近所のマンションから飛び降り自殺しました。
 父親は作家、母親は教師という家庭に育ち、猛烈な読書家だったらしく、夏目漱石の『こころ』などを愛読し、死後、何編もの詩が発見され、後に詩集『ぼくは12歳』として広く世に知られることとなりました。
 自殺の動機は不明とされていますが、『ぼくは12歳』に「ひとり」と題する衝撃的な作品があります。

「ひとり

 ひとり
 ただくずれさるのを
 まつだけ」

 少年と夏目漱石を関連づける研究などが盛んに行われてきましたが、いずれにせよ、何ものかが12才の少年から快活の精神を奪い、「ひとり」の孤独へと追いやったことは否めません。
 自殺快活の精神は相容れないからです。

4 孤独ゲーム

 少年の自殺の原因は不明でも、孤独自殺の関係を考えてみれば、子供たちがゲームをしている時間が〈孤独の時間〉であることは小さくない問題であると思われます。
 心地よく興奮するよう仕組まれた仮想の世界に遊んでいる時、精神は生身の人間から完全に隔離されています。
 そして、現実に戻った時、人々は仮想の世界とはまったく異なる様相で自分に接します。
 生身の人は、クリックするだけで予定されたように笑ったり、泣いたり、死んだり、生き返ったりするわけではありません。
 生身の人間との〈結果が予知できない接触〉によって孤独に陥らないためには、〈結果が予知できない接触〉を体験して自分に反応のバリエーションを増やすしかありません。
 文学は、この接触に含まれている内容を深く感得する情緒を活性化させ、生きる姿勢を教えてはくれますが、社会人として互いに相手を尊重し合うふるまいの感覚はやはり、接触を重ねながら磨いてゆくしかありません。
 一日24時間のうち、ゲームによる孤独の時間を何時間も持つのは恐ろしいことです。
 家族や友人や社会を構成する人々の〈おかげ〉を完全に忘れている時間は、孤独から逃げているようでも実は、実社会からの距離を大きくしながら孤独を深めている時間なのです。

5 結論

 規律正しい生活により身体も動かして快活の精神を保ち、ゲームを離れて心身の健康を創りましょう。
 これは孤独を深め自殺へ至る道を遮断する方法でもあります。




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「おん さんざんざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2010
05.26

戒名の不思議 (3)

 とても情に厚く、同窓会や町内会のまとめ役などを長年務めたAさんが、ほぼ平均寿命まで生きて、去りました。
 外へ、社会へと、役割を求めて走るご主人を支える奥さんは、人の道を深く考えるようになりました。
 五代目古今亭志ん生大津絵冬の夜』に登場する火消しではありませんが、〈求められる自分〉を生き尽くそうとする人と一緒に人生を歩むのは大変です。
 だから、人生の大事をなし終えた男性の多くは、「妻のおかげ」を口にします。
 たとえ闘っている最中は弾薬の補給などを当然と思っていた人も、勝敗が決する頃には必ず、そのありがたさがわかるのです。

 奥さんはいろいろと心について勉強し、自分を省み、夫の行動へ自分なりの価値判断は行いながらも、懸命に杖となり続けました。
 あらん限りの介護を受け、スーッと眠るように逝ってしまった夫を前にして、後悔と感謝の入り交じった気持でいます。
 後悔しているのは、「ありのままの夫を丸ごとそのまま受け容れてやれなかった」という念が残ったからです。
 感謝しているのは、妻へ向かって感謝の言葉を口にしたことのない昔気質(ムカシカタギ)の夫が、なくなる前日、何気なく「ありがとう」と言ってくれたからです。

 さて、戒名が出ました。
 そこには、とても強い力を思わせる文字がありました。
 お通夜の修法が終わり、戒名についてご説明申し上げた時、「ハイパワー」という言葉を用いたほどです。
 しかし、実際のAさんは、三度も手術を受けて死ぬか生きるかのところをくぐり抜け、最後の10年ほどはずっと闘病生活でした。
 ではなぜ、み仏は、そうした文字をくださったのか?
 小学校以来の友人が読む切々たる弔辞に、謎を解くカギがありました。
「貴男は、手術室へ入るたびに、お別れだと言っていたのに、たちまち元気になりました。
 貴男は、俺は50歳まで生きられたら本望だと言っていたのに、皆のお世話役を立派に務めながらここまで頑張りました。
 とても病弱とは思えない力強さで生き抜きました」
 み仏は、弱い身体を抱えながら全力疾走したAさんの真の力を観ていてくださったのです。

 また、すべてが終わった後の会食で、Aさんの妹さんから告げられました。
「住職さんは、姉の名前を知っていて戒名をつけられたのですか?」
 そんなことはありません。
 奥さんの名前にある文字が戒名へ入ったという事実を知り、奥さんの気持がこうした形で結晶したことに深く納得できました。
「思い」一つで走るご主人と、「考え」つつ生きる自分とのズレを感じながらも懸命に〈一つの人生〉を生きてきた奥さんの願いが、最後の最後に成就したのではないでしょうか。

220520 0322





「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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