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2016
11.24

被災者へのイジメ ─東日本大震災被災の記(第188回)─

2016-11-11-0271.jpg
〈共に咲く四国霊場の花たちのように〉

 福島原発事故により膨大な数の人々が生活を失い、住居を失い、職を失い、友を失い、いのちをも失いつつある。
 転校を余儀なくされた子供たちの行く先には、救いの手ではなく、イジメが待っている。
 かねて指摘されてきたことだが、転居や転校に伴う自死という最悪の事実までが報道されるようになった。
 データ上では子供たちの世界でイジメが増えているわけではなく、報道される機会が増えただけだとも言われる。
 しかし、幾度、報道されてなお、事態があまり改善されていないこともまた事実だろう。

 今回、横浜市でいじめを受けた男子中学生の手記が大きく報道された。

「いつもけられたり、なぐられたり」
「いままでいろんなはなしをしてきたけど(学校は)しんようしてくれなかった」
「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。」


 もはや登校はできなくなったが、「ぼくはいきるときめた」という。

 学校の対応も、教育委員会の対応も遅れに遅れた。
 その背景には、子供を指導する大人の側に巣くう偏見や誤解や無理解があると、各方面から指摘されている。
 それはそうだろうが、背景にはもっと大きな問題があると思う。
 一つは、〈自分だけ〉で生きる感覚の蔓延である。
 もう一つは、〈攻撃〉的心性が野放しになっている子供たちの生活環境である。

 まず、〈自分だけ〉の問題である。
 小さいうちから一人だけで過ごす空間が与えられ、自己中心の感覚が発達し、指導し抑制をかけてくる親や先生を煩わしく感じる。
 周囲と折り合いをつけて円滑にものごとを行う能力が開発されず、軋轢(アツレキ)や対立が起こると、相手を攻撃して自我を通すか、もしくは簡単に周囲との関係を断って逃げようとする。
 そうして大人になった人々の世界も似てきた。
 年をとっても同じである。
 それは心を邪慳にし、共生でしか安心して生きられない人間社会の真実とずれた邪見を育てている。

 もう一つ、〈攻撃〉の問題である。
 子供たちのゲームもマンガも暴力とセックスという二つの刺激に満ちている。
 その典型がセクシーな衣装で剣を手にする女性闘士の姿である。
 これほどまでにほとんどワンパターンの遊びが流行っている理由は一つしかない。
 子供たちをより刺激し、お金を使わせる商売で大人たちが儲けようとしているからだ。
 一方、親は子供になるべく時間をとられず、好きなことをしたり、はたらいたりするために、子供が何かに夢中になっている状況を放置する。
 そうしているうちに、繰り返し繰り返し〈攻撃〉に慣れた子供たちが、たやすく弱い者を攻撃し、勝者の気分を味わって平然としているようになったまでのことではないか。
 なお、韓国では禁止され、世界中で日本だけが異様に流行っているパチンコ店の光景も実に似ていることを無視はできない。
 経済と文化と生活のありように重大な歪みが認められるのではなかろうか。

 無惨な状況に立ち至った真の原因は、人々が自己中心で無慈悲になったところにある。
 私たちが安心して幸せに暮らせる社会を創るためには、共に生きるという生きものの真実に立った考え方や生き方を取り戻すしかない。
 攻撃し勝利するだけの浅薄な快感、弱者を痛めつける陰惨な悦楽よりも、誰かのためになって得られる深く揺るがない喜びにこそ惹かれる価値観や感性を育てねばならない。

 当山は「相互礼拝」「相互供養」の法話を行い、人生相談のおりおりに、親御さんにもお子さんにも「お互いさま」「おかげさま」「ありがとう」の実践を勧めている。
 生きとし生けるものを尊び、共に生かし合う共生と思いやりの心を育てることこそ肝要ではなかろうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2015
09.26

ご葬儀は誰のために行うのか? ―送り方送られ方を考える―

201509250007.jpg
〈雨続きでも花が絶えない『自然墓』〉

 ご葬儀は、仏神のお導きによって死者が無事、あの世へ旅立つことを第一の目的とする。
 それは、生まれてから死ぬまで、親を初めとし、ありとあらゆる〈おかげ〉なくして過ごせないのと同じである。
 この世を〈おかげさま〉、〈お互いさま〉と生きる私たちが、死んだ途端に自力だけで安心世界へ逝けようはずはない。
 だから有史以来、目に見えぬものの力によって、目に見えぬ世界へ死者を確実に送ることごとが文化の根底を成してきた。
 送り方、送られ方にこそ、その時代、その場所で暮らした人々の文化の色合いが濃く映し出されている。

 また、ご葬儀は、〈おかげさま〉と感謝する人々へその思いを届ける人生最後のチャンスである。
 死に行く人にとっても、送る人にとっても。
 生まれるとは、社会との関わりが始まることであり、死ぬとは、社会との直接的な生きた関わりが消えることである。
 人は社会的動物であり、いかなる社会で、いかに社会と関わるかが人生であるとも言えよう。

 流行の家族葬を一概に否定するものではないが、こうした肝腎のところが蔑(ナイガシ)ろにされつつあるように思えてならない。
 一個人の死を、一個人に起こるできごととして考え、一個人のできごととして送るだけならば、それは、生きて在る人々がそれぞれの人生を一個人のできごととして過ごす態度に結びついては行かないだろうか?
 現代に顕著な個人主義の悪しき面はますます増長するのではなかろうか?
 こんにちわ、さようなら、この挨拶をきちんと行うところから私たちのまっとうな生活が創られるのではなかったか?
 ならば、膨大な〈おかげさま〉への最後の「さようなら」もそれなりに行われてこそ、まっとうな人生のまっとうな締め括りになるのではなかろうか?

 9月25日付の産経新聞に専門誌『SOGI』の碑文谷創編集長の所感が掲載された。

「死者と身近な関係者は血縁者とは限らない。
 死者と深く関わった人を『家族でない』と排除するのは、死者中心の弔いという観点からは大きく離れている。
 流行や経済的な理由だけで家族葬を選択すべきではないだろう」


 死に行く人としても、生きてこの世に残る人々にとっても、見過ごせない指摘であるように思えてならない。

 今朝も、路傍にご逝去とお別れを表示する掲示板が立っていた。
 小生が大和町宮床に居着いて間もなく掲げた「寺子屋建立」の傍に共鳴し、賛同し、ご指導もご助力もくださったAさんが逝かれた。
 機関紙「ゆかりびと」と機関誌「法楽」はずっとお送りしてきたものの、久しくお会いしていない大恩人の寛(ユル)やかな口調と落ちついた声が思い出され、溜息が出た。
 Aさんと小生には細(ササ)やかな接点しかなかった。
 しかし、Aさんはまぎれもなく〈師〉である。
 これまでも、これからも……。
 師のご冥福を心から祈りたい。
 そして、師のお導きに恥ずかしくない日々を送りたい。




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2014
11.04

苦しい時の「神頼み」から「おかげさま」へ

2014110400022.jpg

 ご質問がありました。
苦しい時の神頼みって、いいんですか?
 いつもは信仰心なんかない母親が、退院してから、いろいろ拝みはじめたんですが……」

 仏神は私たちの〈親〉であり、普段は何の連絡もしない息子が、お金がなくなった時だけ連絡をしても、親は、心で苦笑しつつお金や米などを送ってくれるのと同じで、こうした神頼みに咎(トガ)はありません。
 ダライ・ラマ法王著「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」にある、ややショッキングな項目を参考にして、少し、考えてみましょう。

【絶望からの信仰は、正しい態度ではない】

 以下、「」内は法王の言葉であり、読み解いてみます。

「~、今日、物質的に恵まれない人々に信仰心の篤い人が多く見られ、豊かな人々があまり宗教を顧みないと思われる場合が多々ある。
 そこで、信仰心、宗教的献身と物質について考えてみよう。」


 昔から「病気と貧困が信仰に向かわせる」と言われ、実際、新興宗教の多くがそうした方々へ強いアプローチをかけて急激な膨張を成し遂げてきた。
 その一方で、恵まれた環境で生活している方々は別に〈神頼み〉をする必要もなく、自力で結果を出しているという認識があれば、信仰はあまり意識されないのではないか。

「貧しい人々、しいたげられた人々が宗教に帰依するとき、純粋な信仰心からというよりも絶望から身を信仰に捧げる場合がある。
 これは正しい態度だとは言えない。」


 あまりに貧しく、あまりに虐げられると、意志するものが何も実現されず、無力感や絶望感などに陥る場合がある。
 法王は、そこで信仰へ逃れることに問題があると指摘する。
 厳しいようだが、罠へ堕ちないためには、ハッとする必要がある。

「もし、あなたがたいへん貧しく、物質的にひじょうに窮乏しているにもかかわらず、『私は満たされている』と言うのは奇妙だろう。
 まるで何も持たずに、すべて所有していると信じるのは愚かだろう。
 あなたが今、現在、その手のうちに所有するものが不足していて、より多くのものを望む、その望むことの中に信仰の意味を見出しているなら、あなたの信仰とは、それが満たされている状態のことである。」


 法王は、〈苦しい時の神頼み〉がもたらす錯覚について説かれる。
 たとえば、お金がなくて困り、物質的ご利益があるとされている神様へ熱心に祈る心の状態はいかなるものか?
 宗教心があり「拝んでいるから、もう大丈夫」と考えるなら、それは本当の安心ではなく錯覚に過ぎない。
 客観的状況は変わっていないからである。
 そもそも、〈お金がない〉→〈お金を手にする方法を試みる〉→〈何をやってもお金が手に入らない〉→〈最後の方法として神様へ祈る〉となっている。
 ならば、目的はあくまでもお金を得ることにあり、祈ってもなお、お金がないなら、問題は解消していない。
 しかし、宗教団体によっては、熱心に拝むことを勧め、「拝んだから大丈夫ですよ」と暗示をかけて〈安心〉が手に入ったと思わせ、信者にする場合がある。
 それを、「窮乏しているにもかかわらず、『私は満たされている』と言うのは奇妙だろう」と指摘された。

 では、拝んだ結果、何かの成り行きでお金が手に入って喜んだなら、そこにある満足は〈宗教的安心〉と言えるだろうか?
 事実として、満たされたのは信仰の世界(心)ではなく、お金の世界(モノ)である。
 ただし、拝んだことが満たされた原因の一つだろうと判断すれば、お金のない時にはまた、拝むかも知れない。
 これでは、どこまで行っても、目的は、お金を手にするというモノの世界にあり、心の世界にはない。
 だから、もしも〈二匹目のドジョウ〉がいたとしても、〈三匹目のドジョウ〉がいなければ、拝む対象は、たやすく他の神様へ移行してしまう。
 より、効果がありそうな手段を求めるのは当然だ。
 かくして、〈拝んでいれば大丈夫〉ではないし、〈拝んで成果があれば真の信仰心が深まる〉わけでもない。
 だから、困っている時に、誰かから、拝めば安心と勧誘されたなら要注意である。
 また、ご利益があるからと手を合わせているだけなら、本当の安心は得難い。

 当山では、心願成就を祈るご祈祷を〈入り口〉と考えている。
 自分を超えた存在に対して真摯な気持になり、善き願いを心から祈るならば、願ったとおりに成就しようがしまいが、宗教的行為という観点からは、目的の半分が達成されていることになる。
 取るべき手立てのすべてを尽くしてあとは大いなるものへお任せするという姿勢そのものが、普段の自己中心的な態度ではないからである。
 そして、成就すればすなおに感謝の気持が起こり、不首尾に際しては自分の未熟を知ったり、願いそのものに対する反省が起こったりする。
 こうして、目的の残り半分も達成される。
 だから、藁(ワラ)にもすがる思いになった時は、本当の信仰心が目覚めるチャンスであり、そうした方向へと向かっていただくのが、ご祈祷に携わる宗教者の役割である。

 さて、「本当の信仰心」をもう少し考えてみよう。
 それは、まず第一に、どうしようもない壁にぶつかることによって自分の矮小さ、未熟さなどを知り、同時に、大自然やご本尊様などに対して自分と異次元の何かを感得する心である。
 この世の無情、非情、不条理、そして情けない自分などに心の奥底から呻きつつ、自暴自棄にならず、〈人でなし〉にもならず、歯をくいしばる時、具体的対象があろうがなかろうが「神様!」「お母さん!」などという心の叫びが生ずることである。
 お不動様に親しんでいれば「お不動様!」となり、お地蔵様に親しんでいれば「お地蔵様!」となることだろう。
 自分が当てにならなければ、自己中心的な我執(ガシュウ)は消えている。
 第二には、成就における感謝と不首尾における反省である。
 成就に際しては、今の自分が最大の力を発揮してなお、届きそうにないところへ届いたのだから、感謝の気持が起こるのは当然である。
 心の底から「おかげさま」と手を合わせたい。
 また不首尾に際しては、大いなるもののお力にすがりながらなお、届かなかったのだから、〈そもそも〉のところをふり返ってみる必要がある。
 自信過剰だったのではないか、高望みだったのではないか、力を出し切っていなかったのではないか、あるいは方向が狂っていたのではないか……。
 がむしゃらに前へ、という姿勢だったところに立ち止まる時間が生じ、自分自身を冷静に省みると、気づかなかった事実が見えてきたりする。
 これもまた「おかげさま」なのである。
 日々、「おかげさま」で生きる宗教者も、敬虔な信者さん方も以心伝心で、すがる方々の心にある「おかげさま」という心の音叉へ共鳴を起こさねばならない。

「あなたがまだ物質的な充足の限界を知らない、信仰の限界も、心的世界の限界も知らない、それこそが正しい状態だと言えるだろう。」


 私たちは、本当に〈満ち足りている〉という状況がなかなかわからない。
 それは、欲しいモノが無限に手に入るということではないからである。
 信仰についても、本当に〈救われている〉という状況がなかなかわからない。
 たとえ、祈ることによって一種の安心感を持てたとしても、それが、思い込まされているだけかも知れないし、いつ、いかなる場合でも揺るがないという保証はないからである。
 心的世界についても、本当に〈モノの原理とは異なる流れである〉ことは理解し難い。
 モノは目に見えて納得が簡単でも、心は目に見えず、理性と感性を総動員した省察や感得がなければ納得へたどりつきにくいからである。
 だから私たちは、自分がまだ、よくわかっていないと自覚しつつ学び、考え、実践したい。
 たとえ恵まれていようと、いまいと、本当の信仰心は、〈可能性〉として等しく与えられていると言えよう。
 苦しい時の神頼みは、可能性が現実となるチャンスである。




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「おん あらはしゃのう」
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2013
11.24

命の根・世の根

2013112400011.jpg
〈あの夏の日〉

 江戸中期、18世紀の全般に活躍した安藤昌益(アンドウショウエキ)に印象的な教えがあります。

(イネ)はの根

 を主食とする私たちにとって、はまさにの根です。
 ご寄進いただいた『法楽農園』のうち田んぼ3枚で初めて作を行い、そのことが実感できました。
 カメムシはいましたが、農薬に頼らなくてもすくすくと育って行くの強さには圧倒される思いでした。
 炎天の中、午前から午後にかけて草取りをしてくださった80才過ぎの方もおられましたが、いかんせん、時期を逸したために、他のものたちはを追い抜く勢いで伸び、最後は「がんばれよ」と励ますしかありませんでした。
 大風などで2割以上が倒れ、残った稲をご寄進いただいたバインダーで刈り取った時、雑草の手強さを知りました。
 稲より長く伸びた雑草がからみつき、動かなくなったバインダーは5回以上、メーカーさんの修理を受けたのです。
 くい棒と竹で造った天日干しの柵は台風で倒れ、雑草も被ったままで干された稲の何割かは腐りました。
 おかげで、午前中で終わるはずのコンバインによる脱穀は夕刻までかかりました。
 それでも無農薬、無肥料という条件下、立派に粒となった稲は、とても香ばしく、やや固めに炊いた時の味はたまりません。
 味噌汁と梅干しさえあれば、もう何もいらず、一汁一菜で人間は生きられる、つまり「稲はの根」であると実感できました。

(ヨネ)は世の根
 
 昔は「子」あるいは「よね子」さんという名の女性がたくさんおられました。
 宮城県には登(トヨマ)市山(ヨネヤマ)町があり、日本将棋連盟会長だった故長(ヨネナガ)邦雄氏の名はよく知られています。
 私たちは知恵を絞り、汗を流して育てた稲から米をもらい、いのちをつなぎ、社会を営んでいます。
 山も森も川も田んぼを守り、田んぼを育て、そこで主食を得つつ生きる人々が集まって集落となり、里や村や町ができました。
 田んぼのない街には米が届けられ、日本列島は一つの文化圏として存在しています。
 
 私たちは、お金でモノが手に入るという意味では豊かになりましたが、一方で肝心なことを忘れがちにもなりました。
 買えるものが誰かの手と努力によって作られたという事実に思いをいたさなくなったのです。
 自分が稼いだお金を払い米を買って帰れば、自分の力で食事ができるとしか感じなくなってはいないでしょうか?
 米は自動的に店に並んでいると錯覚してはいないでしょうか?
 もしもお金という道具を介さず、苦労して獲った一羽の鳥と米を交換してもらったならば、自分と同じような苦労が農家にもあってこそ、今、米を手にできたのだという実感があるはずです。
 自分が「ありがとう」と言い、農家の方も「ありがとう」と言い交わせば、自然に〈お互いさま〉〈おかげさま〉の心になれたのではないでしょうか。
 お金は便利ですが、肝心な真実を観る心の眼を隠す魔ものという一面もあります。

 魔ものにやられないための方法は二つあります。

 一つは、人の世を無心に眺めることです。
 道路掃除をしているお婆さんはいませんか。
 新聞配達をしているお兄さんはいませんか。
 寒い日も工事現場で交通整理をする警備員はいませんか。
 そうした人々が皆、自分の生活を支えてくださっているのです。
 ちなみに私は、お墓ができあがる過程に関心を持ち続けています。
 土を掘る、鉄筋を組む、型枠を作りコンクリートを流す、養生シートをかける、こうした土台作りがあってこそ石が慎重に組み上げられ、美しく安定感のあるお墓ができあがります。
 過程をまったく見なかったならば、と思うと、ゾッとします。
 お墓を建てる皆さん、どうぞ、工事現場へ足をはこんでください。 

 もう一つは、想像力をはたらかせることです。
 湯気の立つ白い米粒たちを見ては、農村や農家を想い、虹のような光をチラリと放つマグロの一片を箸にしては、漁村や漁師を想うのです。
 そうすれば、自然に〈ご苦労様〉〈おかげさま〉という気持になることでしょう。
 昌益の言った「米は世の根」を忘れないはずです。

 最近、ある中国人から言われました。
「心ある中国人は日本人へ感謝しています。
 それは、日本人が中国から伝わった仏教を500年も守り発展させてくれたからです。
 今の中国政府も中国人も、毛沢東がいた乱暴な時代と違い、仏教を大切にする気持を持っています。
 かつて破壊された仏教の復活にかかわる人々の間では、仏教を守っていてくれた日本人へ感謝する人が少なくありません。
 私も日本の仏教文化へ感謝している一人です」
 実に〈文化圏〉はかけがえのないものです。
 それは、同じ文化圏で呼吸している一人一人の心によってつくられます。
 300年前に安藤昌益が指摘した「稲(イネ)はの根」「米(ヨネ)は世の根」を忘れず、米に感謝し、お金を魔ものにさせない心で生きましょう。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2013
11.11

第四十六回寺子屋『法楽館』「うつ病を克服する文明は?」(その1)

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 11月10日、恒例の芋煮会と一緒に開催した寺子屋には、これまでで最多の方々がご来山されました。
 当初の計画では「最近、心に残ったできごと」という題で、勇気づけられるできごとなどをお話し申しあげる予定でしたが、急遽、変更しました。
 それは、どうしても10月20日にNHKで放映された「うつ病 ~防衛本能がもたらす宿命~」についてのまとめをしておきたかったからです。

 この番組については、これまで5回にわたって書いていますが、その後も、うつ病の患者さんやご家族から人生相談を受け、ご加持を行っているうちに、現代人の宿命ともされているこの病気に社会全体が立ち向かうには、二つの方法があるという思いが日に日に高まっています。

1 うつ病発症の歴史

 5億2000万年前、人類の先祖である魚類は節足類を天敵とし、厳しい生存競争をくり広げていました。
 ここで、敵を察知すると脳の一部である扁桃体がはたらいてストレスホルモンを分泌し、全身の筋肉が活性化することによって敵から逃れるシステムができました。
 
 次いで、魚類からは虫類、そしてほ乳類へと進化をたどる過程において、人類は扁桃体のおかげで生き延びましたが、扁桃体は天敵以外にも反応するようになり、うつ病の新たな原因が生じました。
 仲間との絆がなければいきられない種となった人間は、孤立や孤独によって不安や恐怖がもたらされ、その結果、扁桃体が暴走してうつ病をもたらすのです。

 そして、およそ370万年前、アフリカのサバンナにいた人類は猛獣に襲われるようになり、生き延びるために、恐怖体験の記憶を海馬(カイバ)へ溜め込むようになりました。
 恐ろしい目に遭った場所などへは二度と近づかないなどの知恵をはたらかせて、ご先祖様方は生き延びられましたが、今度は、記憶がたくだん溜め込まれたため、実際は何でもないのに、何かのおりに思い出すだけで扁桃体が過剰にはたらき、ストレスを発生させるようになりました。
 東日本大震災で被災した建物などを遺して置くかどうかが長期間、真剣に検討され、あるいは遺し、あるいは処理するという苦渋の決断が相次いでいることの重さが実感されます。
 遺すことによって、目にするよみがえる記憶の辛さに耐えきれない方々がおられる一方、なくしてしまえば、歴史に学ぶための大切な資料を失ってしまうという危機感を感じる方々がおられるからです。

 さらに、およそ190万年前になると、人類の脳にはブローカ野(ヤ)という言語をつかさどる部位が生じ声を用いて情報を伝え合うようになりました。
 しかし、ここでも扁桃体が暴走する機会をまた一つ、増やしたのです。
 それは、他人から恐怖の体験について聞かされただけでも扁桃体が強く活動するようになったからです。

 想像力と言葉という人間のいわば聖性にかかわる二つの道具が、あらたにストレスを発生させ得るものとなりました。
 こうして私たちは、より高度な生きものへの歴史をたどってきましたが、それは同時に、うつ病発症の可能性を高める歴史でもありました。

2 豊かな生活と平等な生活

 魚も始終、天敵がそばにいれば、うつ病的状態になり、生命力が低下します。
 チンパンジーも一匹だけ隔離されれば、群れに戻っても仲間にとけ込めず、うつ病的状態になり、生命力が低下します。
 そして、思い出しても、聞いても、扁桃体が暴走して過剰なストレスが生まれ、うつ病になりかねない私たちは、なぜ、ここまで生き延びられたのでしょうか。
 また、なぜ現代に至って、急速にうつ病の罹患が増えたのでしょうか?
 
 生き延びられたのは、敵から身を守る知恵が発達し、同時に助け合い、危機から救い合ってもいたからであろうと思われます。
 辛い体験を思い出し胸が固まりそうになる時、あるいは恐ろしい話に身のすくむ時、自分で好きなことをしてそれを解消したり、あるいは仲間といる安心感がそこから救い出したりしてくれました。

 では、なぜ、急速にそうした救いが薄くなり、うつ病に苦しむ人々が増えたのか?
 それは、あまりに不平等感が強い社会になったからです。
 実験によれば、人は他人より少なく持っていればストレスを発生させ、他人より多く持っていてもストレスを発生させます。
 少なければ劣等感や怨念が生まれ、多ければ高慢心や無慈悲な心になります。
 持てるものが少なくても、多くてもストレスが生まれるという恐ろしい宿命的システム(煩悩が原因です)が強く刺激される不平等な社会になり、うつ病を防ぐ体制が追いつかなくなったのが実態ではないでしょうか。

 その証拠に、今でも狩猟生活を続けるハッザ族の人々は、うつ病とまったく無縁な暮らしをしています。
 彼らの証言です。
「朝起きたなら、それだけで幸せです」
「不眠の体験はありません」
「私は家族にとって価値のある人間です」
「どんなに空腹でも、獲物を独り占めすることはありません」
 その日、狩りで得たものを平等に分け、その日を生きる人々に不平等感はまったくありません。
 ストレスはなく、うつ病も又、ないのです。
 しかし、農耕を覚えた私たちは、同時に、収穫物を溜める者と溜めない、あるいは溜められない者とを分け、やがては物質的不平等、そして社会的権力の不平等をも拡大しつつここまで来ました。
 不安定な狩猟生活から安定的な農耕生活へと進み、より安全で豊かに暮らし、余暇で文化も深化させた一方、どんどん不平等社会へと突き進み、心への負担を高めて来たとは……。

 こと、ここに至り、私たちはもはや、ハッザ族のような生活へと時計の針を逆回しするわけにはゆきません。
 安心で豊かな生活と不平等感が引き起こすストレスの解消をどう両立させるか?

3 平等への努力

 もはや、モノの世界の平等は取り戻し得ません。
 ならば、まず、私たちのやるべきことは、せめて不平等感のより薄い社会にすることではないでしょうか。
 いわゆる格差の是正です。
 これを脇へ置いたままのいかなる施策も、私たちをうつ病の危険性から救うことはできません。
 いかなる医術の発達も、病気の生滅以上に救いとなることはあり得ないからです。
 安倍総理ご自身も、かつて、ストレスによる腸の病気を体験しておられるではありませんか。
 権力があればあったでストレスにより心も身体も壊れ、ない苦しみはもちろん大きなストレスとなり、心も身体も壊すのです。
 そして、権力や財力のある人々と、ない人々との間で、うつ病発症の確率がまったく異なるという厳然たる事実に目をつむったままの、いかなる理想社会もないのではないでしょうか。

 そして、私たち一人一人にできる〈平等の達成〉は、互いを思いやることです。
 誰一人、〈おかげさま〉と言うしかないこの生活空間のおかげで生きていない人はいません。
 すべての人が、得に言われぬ〈おかげさま〉のおかげで生きているならば、私たちにできることは、〈おかげさま〉へ感謝し、恩返しをし、〈おかげさま〉の存続に寄与することです。
 ではどうすればよいか?
 それは、〈おかげさま〉の顕れである身近な人や、生きとし生けるものや、社会や自然のために、できることを行うことです。
 感謝を伴うその行為はすべて〈させていただく〉のです。
 たとえば、介護をする人は、介護をしてやるのではなく、させていただく気持になって初めて、平等の達成へ寄与できます。
 してやるという気持には高慢心があり、知らぬ間にストレスを生んでいます。
 ありがたく、させていただくならば、ストレスはありません。
 介護を受ける人もそうです。
 お金を払ってやっているのだから気ままに命じるといった気持ではなりません。
 おかげさまで赤の他人へ手をかけていただき、生かしていただいているのだから、ありがたく支払いをさせていただくのです。
 互いに感謝し相手を思いやれば自然に〈おたがいさま〉の心が生じ、心の平等が現出します。
 私たちは、〈おかげさま〉と〈おやがいさま〉の心により、平等という人間として重要な維持機能を心に保持したまま、原理的に不平等なこの世を生きられるのです。

 社会的平等の是正と、各々の心の平等は、二つとも、達成可能な目標です。
 目標を共有し、文明病であるうつ病へ共に立ち向かおうではありませんか。




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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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