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2011
02.13

寺子屋『法楽舘』 ─第十五回が終わりました─

 おかげさまで、春らしからぬ寒波と大雪の情報にもかかわらず、善男善女の熱気に包まれ、寺子屋の第15回目は無事、終了しました。
 今回は急遽、予定を変更してDVD『雪の下の炎』を観賞し、引き続き2月11日付の朝日新聞へ掲載された「お布施からリベート」についてお話ししました。

雪の下の炎』は、中国の侵略に対してチベット民族が蜂起した1959年に逮捕され、拷問にも屈せず33年間の獄中生活を耐え抜いたバルデン・ギャツォ師を描くドキュメンタリー映画です。
チベットに人権など存在しません。私がその生き証人です」。
 このフレーズに導かれて始まる75分間は、文字どおり想像を絶する権力者の暴虐と、死を覚悟して抵抗する不屈の魂を見せ、日常生活の惰眠をうち砕きます。
 
 2006年、トリノで行われた冬季オリンピックの会場外で、バルデン・ギャツォ師は、同志と共にハンガーストライキに入りました。
 2008年のオリンピックが中国で行われるという決定に反対するためです。
「人権侵害と女性差別でオリンピックから外されたパキスタンと、チベット全体を破壊し、殺人と自殺と飢餓で120万人ものいのちを奪い、今なお弾圧を続けている中国とどこが違うのか」というのが、その主張でした。

 78才になるバルデン・ギャツォ師は、世界中でチベットを救うための活動に邁進しています。

「獄中で仲間から言われた『もし君がこの苦難を生き延びたら、チベットのために闘ってほしい』という言葉は決して忘れない。
『この年齢になってもまだ闘い続けるのは、非業の死を遂げた彼らのため』。
 バルデンは、現在も世界各地を訪れ、チベットの自由を取り戻すために活動している。」

 監督楽真琴(サキ・マコト)氏は、ニューヨーク在住のおりにバルデン・ギャツォ師の自叙伝『雪の下の炎』に出会い、映画作成を決意しました。
 映画評論家佐藤忠男氏はコメントを寄せています。

「チベット人の苦難の途方もない重さに力いっぱい迫ろうとしている貴重なドキュメンタリーです」。

 ぜひ、多くの方々に本を読み、DVDを観ていただいきたいと願っています。

 法話では、釈尊が説かれた「苦・集・滅・道」と、苦を脱するための生き方「八正道(ハッショウドウ)」と、具体的実践方法としての「六波羅密(ロッパラミツ)」の関係をお話しし、バルデン・ギャツォ師こそ菩薩(ボサツ)であり、また、仏性を発揮しておられる皆さんも菩薩に見えると申し上げました。
 また、当山は「お布施からリベート」なる記事と無関係であること、寺院と僧侶のあるべき姿についての信念などにも言及しました。
 次回は、諸行無常を中心とした教えと、〈中国的な仏教〉〈日本的な仏教〉〈インド的な仏教〉の色合いなどについてお話し申し上げる予定です。

〈神々しい姿〉
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2011
02.12

お布施からリベート

 2月11日付の朝日新聞に「お布施からリベート 僧侶葬祭業者不透明な慣習」なる大見出しが踊った。
 当山にとっては、まことに驚天動地の情報である。
 一読したが、看過できない。

「葬儀で僧侶に包む『お布施』。
 その一部を僧侶葬祭業者に渡している慣習があることが朝日新聞の調べでわかった。
 読経の『仕事』を紹介してくれた業者に対する一種のリベートとみられる。
 お葬式の舞台裏で何が起きているのか」

 当山はこうした慣習を聞いたこともなければ、もちろん、たった一度たりとも葬祭業者リベートのやりとりをした歴史もない。
 リベートは売上割戻(ワリモドシ)あるいは仕入割戻(ワリモドシ)という商習慣であり、リベート=悪ではない。
 しかし、僧侶の修法は宗教行為であり、商習慣に取りこまれてはならない。

「『ご遺族をだましてお布施をつり上げているのも同然で申し訳ない。
 悪習でやめるべきだが、我々は弱い立場でどうしようもない』
 東京都品川区に住む浄土真宗本願寺派の僧侶(65)は、朝日新聞の取材にこう打ち明けた。
 葬祭業者から斎場に派遣され、読経する『仕事』を週2~3回ほど請け負っているという。
「拠点にしていた長野県内の寺の檀家が激減し、15年ほど前に東京に出てきた。
 初めて葬祭業者から仕事を紹介されたとき、リベートを求められた。
 驚いたが、『関東では慣習ですから』と言われ、渋々応じたという。
 半年後、別の業者からお布施の7割の支払いを要求された。
 『そんな罰当たりな』と断ると、『二度と頼まない』と言われ、その後3ヶ月ほどは、どの業者からも依頼が無くなった。
 今では自ら葬祭業者に『営業』をかけて、仕事をもらっているという。」
「横浜市にすむ僧侶(69)は、遺族からお布施を受け取ると、けさ姿のまま近くの銀行に行き、4割を現金自動出入機(ATM)から振り込んでいた。
 葬祭業者に指定された振込先は、聞いたこともない宗教法人名義の口座だったという。」

「食えないから」という理由で世俗の世界へ入るならば、衣を着ている資格はない。
 僧侶は法を結ぶ出世間の行者である。
 出世間で生きていればこそ、人の死において引導の修法を行い、せっぱ詰まって世間的解決方法に窮した皆さんの人生相談に乗り、み仏のご加護で、共に苦へ立ち向かうことができる。
 出世間でない者が衣を身にまとうのは、手術の技術がないのに手術室でメスを手にする外科医のようなものであり、欺瞞でしかない。
 僧侶が業者の使い走りになったら、おしまいである。
 僧侶はお経の〈読み上げ手〉として、一連の儀式に参加しているに過ぎなくなり、〈亡き人へ修法をもってこの世とあの世の区切りをつける〉厳粛な宗教行為である葬儀の根幹は崩壊する。
 僧侶の存在意義は、求めに応じて仏法を具現化できる法力を身につけ、世間的方法ではなし得ない宗教行為を行うところにあり、そのためにこそ出世間で生き、修行し、衣をまとって修法を行う。

 これまで数多くの他寺院の檀家さんたちが人生相談にご来山された。
お布施をお包みすると『これでは食えない』と言って突き返されました」。
 こうした類のお話は聞き飽きるほど耳にした。
 大寺の住職であろうが、貧乏寺の弟子であろうが、僧侶はひとしく生涯、〈一介の行者〉である。
 食えようが食えまいが、祈り、法務に邁進する以外、生きようはない。
 篤信の方からいただいた山里の古家で興した当山は当初、托鉢に歩いても文字どおり食うや食わずであり、夫婦してタンポポやツクシも食べた。
 百円のイワシの缶詰を分け合って食べた。
 しかし、生かしていただき、こうして息をしている。
 生きられるか生きられないかはご本尊様がお決めくださることである。
 なぜなら、たとえダイコン一本であろうとも、寺院へのお布施はすべてご本尊様へ対する善男善女からの尊い捧げものであり、世間的なりわいを離れ、み仏へお仕えする行者はその捧げものをご本尊様としてのみ仏からいただくしか、生きる方法はないからである。
「こんな愚かしく未熟な自分が、これをいただいて良いのか?」という自らへの問いかけを忘れた瞬間、行者としての堕落が始まる。

「かつては地元の葬祭業者が『うちで手伝わせてください』と頼んで来たが、檀家の減少に伴って読経の依頼も減り、立場が逆転した。
『檀家は先祖代々引き継がれてきたので、さしたる〈努力〉をしなくても食べていけたが、今では普通の自営業者と同じ。
 寺の存続のためにはやむを得ない』」
「葬祭業者へのリベート分は、結果的に喪主側の支払うお布施に上乗せされている。
 千葉県柏市の会社員の男性(59)は一昨年、市内の斎場で父親の葬式をあげた。
 広島県にある菩提寺と付き合いが無くなり、斎場側に同じ宗派の僧侶を紹介してもらった。
『戒名料』として20万円を僧侶に包むと、お通夜でのお経は20分で終わった。
 斎場の係員に『20万円は最低ランクですから』と言われ、翌日に『お車代』として10万円包むと、告別式での読経は40分に伸びたという。
 この斎場を運営する業者も、お布施の一部を僧侶から受け取っていた。
 男性は『悪い慣習はやめて、きちんと個人の安楽を祈ってもらいたい』と話した。」

 なぜ、出世間的修法が金額によって左右されるのか?
 そこには、いかなる宗教的回答もない。
 だから、宗教行為しか行わない当山は一切、お布施の金額とかかわりなく祈ってご本尊様から戒名をいただき、引導を渡し、年忌供養を行う。
 よほどの事情がない限り、修法についての法話も行う。
 今、何が行われたかをお伝えしないでは申し訳ないし、教えに接していただくところまでが法務であると考えているからである。
 たとえ生活保護を受けておられる方であっても、100人以上の会葬者がある方であっても、一切区別も差別もしない。
 できないのである。
 なぜなら、修法が出世間的に確立された行為であるのはもちろん、「死者とは、肉体という衣を脱いでこの世での修行を終え、故郷である本源なる〈み仏の世界〉へ還り行く〈み仏の子〉である」という信念で引導を渡し、お送りするからである。
 死者は、たとえてみれば温泉につかる客のようなものであり、裸のつき合いとなる時、脱いだ衣裳が立派な背広であっても粗末なシャツであっても関係ないではないか。

 続いて、「宗教法人経由 課逃れも」と題し、慣習宗教法人の問題に切り込んでいる。
 北日本を中心に活動している冠婚葬祭業者は提携する各宗派の寺院に依頼して僧侶を斎場へ派遣し、僧侶は受け取ったお布施の2~5割を業者指定の口座へ振り込むが、口座名は宗教法人になっている。
 宗教法人は葬祭会館にあり、業者の役員が代表役員を勤めている。

「東京国局は、休眠状態の宗教法人を使い、僧侶からのリベートを『お布施』と偽って申告していなかった東京の準大手の葬儀会社に対し、05年6月期までの7年間で約8億円の所得隠しを指摘している。」

 実に、僧侶は〈派遣され〉、〈便利に使われる〉存在になり果てている。
 業者も、僧侶も、そして、葬儀を安易に安くしあげようと肝心の導師をきちんと選ばない会館利用者も、気づかぬうちに宗教行為を汚し、貶めている。
 最近は、各宗派の僧侶を取り揃え、堂々とカンバンを掲げて僧侶の派遣業を営む僧侶もある。
 人材派遣業なるれっきとした商売は、宗教行為であり得ようか?
 葬祭業者が宗教法人を手に入れてお寺を建てるなどという話もある。
 商売人がそうした建物を造る目的は何であろうか?

 当山は、葬祭業者も、納棺師も、仕出し業者も、花屋も、石材業者も、人を送るという尊い仕事を共に行う〈同志〉であると考え、おつき合いいただいている。
 同志に必要なのはただ一つ、〈プロとしての信頼〉である。
 確かに紹介する、あるいは紹介してもらうといった仕事への入り口はあるが、同志としての気持はまったく平等、上も下もなく、義理や恩義の貸し借りもない。
 プロとして恥ずかしくない仕事をしたい、同時に、ご縁の方に喜んでもらいたいという一心で、同志は信頼し合い、手を取り合い、支え合っている。
 当山は信念一つで法務を行い続けられることを、ただただ感謝している。
 かけがえのない同志へ、当山を信じ、金剛のような仏縁の糸を結んでくださる方々へ──。

〈出世間の祈りを共に祈る〉
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2010
09.23

脱「檀家」宣言の紹介文(その3)

 月刊『寺門興隆』の記事は当山の核心を明確に伝えてくださっており、数度にわたり、転載しておきます。
 冒頭で、脱「檀家」宣言へ至った経緯を「それはまさに無一物から始まった悪戦苦闘の末のことだったのだ」と書いてくださったのには涙の出るような思いがしました。
 今も続いており、これからも続くであろう「あるべき姿に徹する」悪戦苦闘をやり抜く力が強まりました。
 感謝をこめて連載します。

【必ず人生相談にのりなさい】

 遠藤住職に大きな影響を与えたのは、托鉢中に聞いた人々の声だ。
「お寺や僧侶への不信や不満、怒りの声を数限りなく聞かせていただきました」
 なかでも多いのは「菩提寺から、お布施を割り当てられて困っている」という訴えだった。
 今度はいくら請求されるかとビクビクしているのだった。
「寺院墓地から公営墓地に移ったという人も多いのです。
 理由は『お寺にいたらお金がかかり、子供や孫に申し訳ない』というのです。
 お寺が救いではなく、苦しみの場となっているのを知りました」

 出家から七年が過ぎた平成六年。
 独立の許可が出たため、自宅をお寺にすることにした。
 このとき師僧から言われたのは「人生相談にのりなさい」ということだった。
 だが、遠藤師は疑問だった。
「自分のように人生に失敗した者が、人生相談などできるのでしょうか、と聞きました。
 師は『必ずみ仏はお答えをくださる。
 お前の能力を超えた相談は来ないから、安心してやりなさい』とおっしゃいました。
 実際、その通りでした」

 また、「法楽の会」を作り、月二回の例祭を開くことにした。
 毎月、第一日曜日の午前と第三土曜日の午後、護摩を焚き、みんなで祈る。
 最初は十人ほどだったという。
 二年後の平成八年には「法楽の会」を母体に、宗教法人格も取得した。
 申請から取得までは約一年かかった。
「書類をすべて揃え、何回も県庁に足を運びましたが、なかなか認められませんでした。
『あと何をすれば認めてもらえるんですか?』と担当者に聞くと、『宗教法人はそんなに簡単にとれるものじゃありませんよ』というばかりでした」

 平成九年には、黒川郡大和町宮床に移った。
 そこは以前、息子が父親を殺害するという不幸な事件があった場所だ。
 ある日、放置されたままになっている家を供養してほしいと頼まれた。
 遠藤住職は三カ月間、毎晩通い、真剣に祈った。
 すると、土地の権利者が、土地と家屋を寄進してくれることになった。
 平屋建ての住宅を本堂にし、近くにあった作業用のプレハブをもらい、住居にすることにした。
 草の生い茂る土地を、夫婦二人で整備した。
 見かねたのか、タンクローリーに乗った工事現場の人が、仕事帰りに余ったコンクリートで荒れ果てていた通路を整備してくれた。
「多くの方に支えていただきました」と、遠藤住職は感無量の面持ちで振り返る。



〈いつしか開いていた花〉
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2006
08.02

譲れない一線

 ある事務所の最高責任者が来山されました。
 よその寺院では、各種会費やお布施などを役員や世話人が集金している。それがなかなか大変だから、だんだん自動振替に変わってきている、ついては、お宅もどうだろうかとのお誘いです。

 郵便局という日本で唯一の「安心」と「信頼」を保証する機関がなくなり、国民一人一人が「儲け」を目的とする機関しか選択できなくなった今、そうした業界の資金獲得競争にはすさまじいものがあります。
 それは、国民全部が、自己責任で儲かる機関、あるいは損をしないで済みそうな機関を選ばねばならず、汗水たらしてコツコツと貯めるお金は国家社会によって一切保証されない時代になったということを意味します。

 醜態をさらし続けている福井日銀総裁が自らそうした機関の一つと直接金銭に関わる契約をしていた事実が明らかになったことは、「一億総白痴化」という言葉に変わって「一億総……」を思わせ、この国民の品位が失われつつある速度に慄然としてしまいます。

 さて、冒頭のご依頼へはこう答えるしかなく、期待を裏切ってしまいました。

「いかなる名目であろうと、寺院へ納められる金品はすべて布施行によってご本尊様へといただくものであり、納めたいというまごころと願いが伴っています。
 たとえ一円であれ、行者である僧侶はそれをご本尊様からいただき、法務の目的に合わせて使います。
 寺院を守る者たちはたとえネギ一本であれ、ご本尊様からいただいてこそ生き長らえることができます。
 
 そうである以上、寺院は、自分の都合によって『効率よく集める』といった発想とは無縁です。
 もちろん、開山以来、人様を煩わせて『集金』したという歴史はまったくありません。
 他の寺院がどうであれ、それは関知しないできごとです。
 もしも目的があって資金を必要とするなら、住職は理想の旗幟を鮮明にし、あとはお一人お一人の自在なお心に委ねる以外の方法はあり得ません。
 
 たとえそう大きくないと思われる金額でも、時によってはきつい負担と感じられる方もあるはずです。
 托鉢の日々を送っていたかつての自分がそうだったように、世の中には、ガソリンを五百円や千円しか給油できない人がたくさんおられるのです。
 そもそも、人の生活はいつどうなるか判りません。
 事実、病気のためや家族の介護のためや家計の逼迫のためにに『法楽の会』を一時休会し、後に戻られた方々がおられます。
 ご連絡をいただけば「ああ、お元気になられたのか」「ああ、落ちつかれたのか」と我がことのように嬉しくなります。
 あるいは、寺院の運営に不満や不安を抱く方もあることでしょう。
 続いていたお布施が途切れた時は、壇信徒さんの身の上を案じ、当山のどこかに問題があるのではなかろうか?と考えもします。

 頭を丸めた人間がそうした心持から離れ、ただ通帳の数字を眺めているなど、想像するだにおぞましい光景です。
 聖職者である以上、あくまでも相手の立場に立つ視点を持ち、謙虚で、自省心を忘れずにありたいと、未熟ながら努力をしています。

 以上の理由から、当山では、自動引き落としや自動振替は、相手様が自ら望まぬ限り、採用できません」

 責任者は恥ずかしい申し出をしてしまいましたと謙虚に手をつき、頭を下げられましたが、手を上げていただきました。
 弱肉強食の世を勝ち抜いて生き、関係する人々を生かさねばならぬ立場の方の仕事としては、極々当然な成り行きだからです。
 そうしたお誘いにどう応えるかは、あくまでも寺院側の判断によるのであって、娑婆の方にどうこう申し上げるものは何もありません。

 当山は、たとえ日本中の寺院がどうであれ、こうした姿勢を貫く所存です。
 釈尊が
「人は生まれによって人格を判断されない、どう生きるかによって判断される」
と説かれたのと同じく、寺院は
「いかなる歴史がありいかなる伽藍があるかではなく、いかなる法務がいかにして行なわれているか、そして、行者である僧侶はいかに生きているか」
によってみ仏から、そして世間様から判断されるものと信じています。




2006
01.13

お寺はいつでも代えられます ―お布施の強要という暗黒― 

 今、指先から血が滲むような思いで、パソコンのキーを叩いています。
 後世に僧侶がこんなことを書かねばならない時代が来るとは、いかなる祖師様方もお考えにならなかったことでしょう。
 でも、書かねばなりません。仏法が歪められ、人々が救われぬ世へと退落しつつある事態を放置するわけにはゆきません。

 昨夜もまた、憔悴した顔のご婦人が来山されました。
 文字どおりいのちがけで看護し、看取った父親が亡くなって菩提寺へ連絡したところ、ただちに呼びつけられ、百万円単位の戒名料を請求されたそうです。
 病人の長期入院などで家族全員が金銭肉体共に疲弊し切っておりとても無理です、何とか考慮してもらえませんかと必死の懇請をしたところ、お布施を値切るのかとすごまれました。
 そして、お通夜までに全額そろえて仏様のそばへ置くように命じられました。
 しかも、これから控えている数億円かかる計画まで聞かされました。
 驚いたご遺族は慌てて何とか用意したものの、全員、今後のことが不安になりました。当然、誰もあとを継ぐ勇気がありません。
 僧侶の送り迎えはもちろん何もかも一方的に命じられるままにすべてを終え、勇気を出してご相談に来られました。
「お寺を変えることはできるんでしょうか?」

 もちろんです。
 仏神のことは心の問題であり、まったく自由です。行く先を告げるだけで縁を切ることができます。
 墓地は、お骨を引き取り、更地にして返せば良いのです。
 離檀料と称して法外な金銭を請求された話をたくさんお聞きしていますが、それは無茶というものです。
 縁あってお寺を支えてくださった檀家さんが訳あって離れる場合、お寺はお礼を言って送り出すべきです。
 檀家さんが「これまでお世話になりました」とご喜捨をするならともかく、縁切り料を求めるなどあってはならないことです。
 身近な形に置き換えてみればすぐに解ります。
 もちろん檀家さんは〈お客様〉ではありませんが、お得意さんが引っ越しなどでご挨拶に来られた時、お餞別を渡すならともかく、縁切り料を請求するお店がどこにありましょうか。

 ここでまたお布施の何たるかを書かねばならないとは、情なくてなりません。
 布施行は、僧侶はもちろん、人間修行の第一番目とされているものだからです。
 でも、必要がありそうです。三輪清浄(サンリンショウジョウ)について簡単に復習しましょう。
 
 まず、布施をする人の心が清らかでなければ布施ではありません
 何の下心もなく、何のわだかまりもなく、心から差し出すもの。差し出させていただくもの。それが布施です。
 子供が乗りものの席を譲り、悲しんでいる友人へ優しい言葉をかけ、亡き人の弔いが終わってご喜捨をする時、いかなる曇りがありましょうか。
 
 もちろん、布施を受ける側の心も清らかでなければなりません
 自分の都合による勝手な請求や強制は、最も布施を汚すものです。「これこれ欲しいからください」などということは、布施にはあり得ません。なぜなら、布施を受ける側は、〈完全な受け身〉でなければならないからです。
 ましてやみ仏に仕える者の受ける布施は、ご縁の方からみ仏へいただくものであり、聖職者は空(クウ)の心でそれを〈み仏から〉おしいただいて生き、法務に励まねばなりません。

 当山では、何かをいただいたならば、必ず「ありがたく、ご本尊様へいただきます」と申し上げ、ただちに須弥壇へお供えして合掌します。

 差し出そうとする方の苦境を知りながら、ばちが当たりますよとばかり強制するなど、考えも及ばないことです。
 
 そして、布施行に用いられるものもまた、清らかでなければなりません
 泣きの涙でかき集められた戒名料が清らかであり得ましょうか。
 
 ご婦人の体験は、あまりに哀れであり、あまりに情けなく、あまりに恐ろしくてなりません。
 人生で最大の悲しみに襲われている方々は慰撫されるべきです。
 驚愕や困惑や恐怖や不安を与えるとは何たることでしょう。
 亡き方をいかように送るかは、当然、ご遺族のご意向を最大限に尊重する形で決められねばならず、寺院が命令すべきではありません
 
 同じようなご相談が後を絶たず、このままでは仏法は滅びてしまいかねないという危惧がだんだんと深まっています。
 どなたにおかれても、真の納得と安心の得られる寺院とご縁になっていただきたい、そして、仏法を大切にしていただきたいという一念で「最も書きたくなかったテーマ」について書きました。
 自らを切り刻むような思いで書きました。―――嗚呼。




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