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2016
05.08

苦しみと生き仏 ─瞑想・言葉・救済─

2016-05-08-0001.jpg

 救われた体験を記しておきたい。

1 苦しみの存在

 お釈迦様は「苦」と正面から対峙した。
 私たちの存在は苦と共にあると喝破(カッパ)した。
 苦の根本原因は何かと言えば、自分や自分の持ちものへの実体視であり、それに付随する執着心である。
 本来はままならぬ三つを思い通りにしようとしてあらゆる苦が生ずる。
 すなわち、生きること、死ぬこと、性衝動に代表される感覚の満足。
 これらを思い通りにしようとせずに済めば、苦はなくなる。
 煩悩(ボンノウ)の火が消えた状態である涅槃(ネハン)へ入られる。
 生きながらそうした状態へ入った人を「生き仏」と言い、死んで引導を渡された人は皆、悟った人同様に「仏」と呼ばれる。
 仏に成るための方法として八つの正しい道が説かれた。
 八正道(ハッショウドウ)である。
 この世への姿勢、考え方、話し方、思い方、生活パターン、などを正せば聖なる世界へ近づけると説かれた。
 だから、八正道は八聖道とも呼ばれる。

 お釈迦様が「まず、ありのままに観よ」と説かれたとおりの実態に気づき、納得、同感、理解できれば、次の行動へ入ることができる。
 こうして、このままではいられないのだ。
 信じて実践すれば必ず結果がもたらされる。
 こびりついた気まま勝手な考え方が変わり、真理に即した目と心を持てるようになれば、苦は薄れて行く。

2 苦を除く思いやり
 
 そこで力になるのが菩薩(ボサツ)である。
 私たちは、自分をわかってくれる人、特に、自分の苦しさや悲しさや辛さを我がことと感じてくれる人によって救われる。
 真の救済者は、誰かの苦しみを〈我がこと〉と感じたり、思ったりできる人だ。
 誰かが私たちの苦しみを我がことと感じてくれていると信じられるだけで、不思議にも苦しみは薄れる。
 その典型が病人である。
 倒れた時、誰にも声をかけられず、あるいは搬送された病院で生きられる方向へと手助けされず、あるいは誰一人、心のこもったいたわりの言葉をかけてくれないならば、病人は生きられないだろう。
 肉体が物理的な死を迎える前に、心が生きられなくなる。
 その反対に、心のこもった看護や見舞いは病人を勇気づけ、いのち分をまっとうする手助けになる。
 生きられるいのちいっぱいに生き尽くすことができるのだ。

3 瞑想で消える苦の原因

 さて、少々、これらとは異なった道筋で救われるケースもある。
 たとえば、古来行われてきた満月を眺めての瞑想などがそうだ。
 月は清らかである。
 月はさやかである。
 月は光に満ちあふれている。
 一方、我が身には、ガツガツとどこまでも貪る心がある。
 また、高慢心や頑なさなどから、他者を許せず怒る心がある。
 また、自己中心的な姿勢で勝手な考え方をする心がある。
 満月をじっと眺めて心の毒を消す月輪観(ガチリンカン)という瞑想法がここに生まれた。
 月の〈清浄〉と一体になって貪りを離れる。
 月の〈清涼〉と一体になって瞋(イカ)りを離れる。
 月の〈光明〉と一体になって癡(オロ)かさを離れる。
 満月と入我我入(ニュウガガニュウ)する深い瞑想は、貪瞋痴(トンジンチ)という地獄へ導く害毒を消し去る。

4 完成されたものとの同化

 一般的に私たちは、悪い心を起こさぬよう〈モグラ叩き〉的な行動をとる。
 出てきたらやっつける。
 実際、昔は、そうした観点から家庭でも学校でも体罰が広く行われてきた。
 しかし〈叩く〉エネルギーは、生命力や、すなおな心のはたらきそのものをも損ないかねない。
 副作用の強すぎる薬を服用するようなものであり、いつ、〈元〉を断てるのかもわからない。
 だから、本来持っている善い心を積極的に掘り起こそうとする方法が探求されても来た。
 それが即身成仏(ソクシンジョウブツ)を目ざす上記した月輪観のような瞑想法である。

 私たちは一人残らず、み仏の子であり、仏性(ブッショウ)を魂の核としている。
 苦を生ずる要因は皆、月にかかる群雲のようなものである。
 しかも、いずれの雲にも実体がない。
 そして、雲がかかろうが晴れようが、月はいつも清浄で、清涼で、光明にあふれている。
 み仏も同じである。
 私たちが笑っている時も、泣いている時も、喜んでいる時も、起こっている時も、お地蔵様は、観音様は、文殊様は観ていてくださり、お不動様はいざという時に叱ってくださる。
 そして、お地蔵様も、観音様も、文殊様も、お不動様も、おられる場所は私たちの心中(シンチュウ)である。
 目の前のお地蔵様に〝ああ、ありがたい〟と思って手を合わせる時、手を合わせる私たちの心中のお地蔵様がおはたらきくださっているのだ。
 気づきは同化でもある。

5 お別れの言葉と生き仏

 あるご葬儀に際し、お孫さんがお祖父さんへ対して述べたお別れの言葉に文字どおり、目を見開かされた。
 その一部を掲載したい。
「2年ちょっとの闘病生活(入院生活)は辛いことの方が多かったかもしれないけれど、私達は、おじいちゃんが生きていてくれることだけで幸せでした。
 本当にありがとう。」

 これはおざなりの言い方ではない。
 それは締めくくりの文章でもわかる。
「今ごろは、ばあと天国で出会えていますか。
 つもりに積もった話をたくさんしてね。
 そして、2人の話の合間に私達を見守って下さい。
 今まで本当にありがとう!」

 幼い日のできごとがトラウマになり、祖父を憎み軽蔑し、祖父母を無視し、その記憶までほとんどなくしてしまった小生は、この問題が心に生じさせた氷塊をずっと意識してきた。
 氷塊は、自分だけにしか感じられない影響を与え続けてきた。
 冷たさが溶けないまま、ある種の欠陥人間として死ぬことを覚悟していた。
 しかし、すぐ目の前で少女が祖父へ呼びかけた言葉は、あまりにも温かかった。
 似たような言葉はこれまで幾度となく耳にしたはずだが、今回は今までにない明確さで心へ迫ってきた。
 心で涙が流れ、60年以上も居座った氷塊はついに溶け始めた。
 溶けて行く道の扉が開いた、道筋が見えてきた、溶かし切れるという確信が生まれた、そんな感じである。
 氷を認識し、砕こうとするハンマーの力ではなく、氷を持たない少女のまごころが、そこに在るだけでとてつもないパワーを発揮した。

 小生にとってあの少女は、同苦の心で寄りそい、慰め、励ます菩薩というよりも、圧倒的な霊光でまぎれもない仏界を示す如来なのかも知れない。
 姿を見ることのなかった少女は声だけで仏界を感得させた。
 生き仏である。合掌




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2016
02.07

イラク戦争と靖国神社への祈り(その20) ─生き仏の献身─

201602070003.jpg

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

 寺へ戻っての法務が続いている。

○個から普遍へ(2月28日)

 早朝から斎場へ行き、百カ日の法要まで終えて帰山したら、もう夕方になっていた。
 喪主は、ずっと病院へ泊まり込み、不治の病に倒れたご主人を献身的に看病した奥さんだった。
 供養の膳を前にして、親戚の方々は異口同音に奥さんを称讃し慰めておられたが、弟さんはちょっと違う感想を述べられた。
「最後は人間としてやってたんですよね」
 看病は当然〈妻としての務め〉に始まったのだろうが、文字通り24時間つきっきりの5カ月が、それを夫婦としての愛憎を超えた行為にまで高めていたのだろう。
 人間の霊性は、宇宙にただ一人しかいない〈自分〉そのものを懸けた誠意ある地道な行為によって磨かれる。
 
 まず〈自分〉は人間であり、同時に、男か女であり、日本人か異国の人かどちらかであり、あるいは子であり、あるいは親であり、あるいは妻であり、あるいは夫であり、あるいは商売人であり、あるいは勤め人であり、自分を限定している諸々の面を持っている。
 時に応じ事に応じ、それぞれの面にふさわしい役割を果たしてこそ、心が安定し、充足感が得られ、社会からも認められる。
 普遍的な人間性の次元は、その努力の先に結果として開ける世界であり、ただ漠然と〝人間らしく〟考え、自分を限定している諸条件を無理に無視しようとしても、観念の遊びに陥るおそれがある。

 もちろん、いわゆる「らしさ」へのこだわりが大事であるというわけではない。
 よく知られているように、平安時代あたりの物語で男性が殴り合いをする場面などはなく、すぐに決闘をしたがる西洋の男性たちとはかなり異なった生き方をしていたようだ。
 勇ましいイメージのある「大和魂」もまた、本来は、日本人らしい繊細な情緒の理解や感得の能力を表す言葉であり、ねじり鉢巻をして拳を振り上げる粗野・粗暴からは最も遠いありようを指す。
 この「らしさ」が強調される社会は危うい。
 なぜなら、「らしさ」は人間の区別を伴い、人間が明確に区別されればされるほど管理しやすくなり、統御されやくすなるからである。
 本来、人間はきわめてファジーな存在であり、お互いにファジーであればこそ、多様な人々との相互理解も共鳴や共生も可能であるということを忘れないようにしたい。

 とは言え、まずは、自分のありよう、自分が置かれた立場なりに素直な生き方をしたい。
 時には、さまざまな社会的・文化的な「らしさ」と、それに括りきれない「自分らしさ」との緊張関係をも素直に受け入れながら、真摯に生きたい。
 思考停止して枠にはまってしまうのも偏り、気ままな自己主張も偏りではないか。
 
 さて、冒頭の喪主様は、こうした意味でとらわれのないまごころによって看病の5ヶ月を生きられたのだろう。
 良心、仏心、霊性といったもののはたらきが明確に主役となった時、周囲の人の目に「人間らしく」生きていると見えたのではなかろうか。
 一人の〈個〉を普遍の広大な世界へ解放するのはまごころだろうと思う。
 あらためて思い出してみると、喪主様は生き仏だった。




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2015
02.24

真智の開発をめざして(その17) ─素直な心とは─

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〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が被災地を撮影しました。3月1日の供養会で会場に流れます〉

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事をがためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「優雅さ」について考えてみましょう。

1 有の人を尊敬する

 人の間にある人間である私たちが安心や喜びを得、同時に周囲の人々へ安心や喜びをもたらすためには、心にゆったりと穏やかな部分がなければなりません。
 ギスギス、ピリピリ、カリカリしたままでは自分が成長できないだけでなく、周囲へもよからぬ気配を漂わせ、安心や喜びの縁を自他から遠ざけます。
 こうした人は、もちろん、グループの指導者を務める資格もありません。
 打算でなく自然に人垣ができるタイプの人には必ず、太陽のような穏やかさがあるものです。
 こうした穏やかさを持った人が人を高め、深め、その人がまた優雅で大らかな心をつくるというよき循環をもたらすもの、それが素直さです。

 糸の束を染める際に、元のところで強く結ぶので、全体が染まっても結ばれた部分の内側は白いままで残ります。
 それが「素」です。
 目という文字は、目の縁と眼球を線書にしたものが縦に置かれています。
 それに飾りが付くと「直」になり、「正しく見る」というのが元々の意味です。
 直の上部にある十文字は呪力を表す飾りなので、正しく見て悪や邪を祓うという深意も含んでいます。
 だから、「素直」とは、何ものにも染められていないまっさらな目でものごとをありのままに見ることであり、そこではおのづから霊性がはたらきます。
 古人は霊性のはたらきが悪や邪を祓うことを知っており、〈直(ナオ)い人〉こそが神に仕え、神の意を問い、祓う力を持つと考えました。

 素直な人は必ず、周囲にいる有者を見つけます。
 周囲とは、向こう三軒両隣、あるいは学校の先生や先輩などとは限りません。
 魂がブルブルッと震えれば、書物の中にも、新聞やテレビの情報からでも発見できます。
 発見し、尊敬が生まれれば少しでも近づきたいという願いが起こり、学び、同化をイメージしているうちにいつしか自分のも高まります。

 よき同化の反対が悪しき感化によるカルトへの、のめり込みや、犯罪への傾斜です。
 同化のイメージが狂った方向へと向かわないようにするためには、〈ものごとをありのままに見る〉真の素直さが必要です。
 そこにこそ科学や芸術や宗教の出発点があります。
 素直でない余分なものが科学を歪め、芸術を堕落させ、宗教を思考停止の狂信や盲信へ追いやります。

 さて、自分は大切な素直さを失ってはいないか、素直さが錆び付いてはいないか、時折、調べてみたいものです。
 方法は簡単で、「自分は誰を有の人として尊敬しているだろうか?」と問うだけです。
 もしも、「徳のあるやつなんていない。友人も先輩も先生も親も尊敬できないし、本当に徳がある人になんか会ったことがない」と思うならば危険です。
 それは周囲の誰にも霊性の光を発見できないということであり、「素」の部分に〈(ガ)〉という余分な色が濃くついているか、「直」の目に〈好き嫌い〉という煩悩(ボンノウ)のフィルターがあまりにも強くかけられている可能性が高いからです。
 バカな友人は、本当にバカなだけなのか?
 意地悪な先輩は、本当に意地悪なだけなのか?
 居丈高な先生は、本当に居丈高なだけなのか?
 口うるさい親は、本当にう口うるさいだけなのか?
 実は、それらの人々が持っているまごころや徳に、自分が気づいていないだけではないのか……。

 ここで言う有徳の人とは絵に描いたような聖人君子だけではありません。
 有徳の人を尊敬するとは、言い換えれば、「他人様に徳を発見し、それを尊敬できる」という意味なのです。
 小説であり映画化もされた『悼む人』の主人公坂築静人は、亡くなったいかなる人にも愛し愛された人生の一幕があり、誰かに喜びを与えた一瞬があることを信じ、そうして生き、死んだ人を忘れないと誓うことによって死者を悼みます。
 悼みつつ、いつしか自分が救われ、周囲の人々も自然に救われます。
 これも又、〈徳の発見〉と言えるのではないでしょうか?

 素直な心を取り戻しましょう。
 誰かの徳に感応する心が穏やかになり、安心と喜びを得られますよう。




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2014
12.28

葬儀社様の商行為と寺院の宗教行為とは別ものであり車の両輪です ―安心なご葬儀とご供養のために―

201412280001.jpg
〈仙台市の『春昼堂(シュンチュウドウ)』さんにあります〉

 今年最後のQ&Aです。
 お寺とのできごとがいろいろあったAさんは、ネット上で質問、憤激、悔悟、落胆をされました。
仏教とは、お坊さんとは、供養とは…。
 何が本当なのかわからなくなり、だんだんと仏壇のお務め、供養もいい加減になりつつあります。
 これから供養を続けていく自信がなくなりました。」
 まず、冒頭に、仏教界の状況に問題があることを心よりお詫び申しあげます。
 以下、当山で最も多い人生相談の一つについて、少々突っこんだ視点から考えてみます。

1 亡き方を供養し、慰霊しないではいられないまごころに気づく

 人は太古の昔から、死と死人と御霊とを畏怖してきました。
 そもそも「畏」は鬼の頭をかたどっており、霊的な力の前でかしこまる気持のことです。
 そして「怖」は、怖い、と、おののく様子です。
 どこにでもあるのに、日常的感覚からの強烈な断絶を感じさせずにはおかない死も、逝く人も、そして、去ってしまった人も放置できないのは、私たちに霊性があるからです。
 一個の動物として見聞きできる範囲を超えた世界を感じとる能力を持っているからです。
 昨日生きたように今日を生き、明日もこれが続くと無意識に信じ、漫然と生きている自分をふり返り、もしも一瞬後に、あるいは明日、あるいは来月、自分が死ぬことをリアルに想像してみましょう。
 また、故人となった人々を想い、自分との関係をゆっくりと思い出してみましょう。
 きっと、目先のことごとに追われている時とは異なる心が動くはずです。
 いつの間にか合掌しているかも知れません。
 畏怖を伴う霊性のはたらき、言い換えれば一種の〈まごころ〉の活動は、他人との関係によって揺るがず、お寺がどうこうとは別問題です。
 ここのところをしっかり確認しておかないと、「寺がけしからん、僧侶がけしからん、だから仏教も葬式も要らない」といった短絡的な主張に乗せられ、自分のまごころから葬送供養の方法学び、考えるという大切な姿勢を失いかねません。

2 葬送慰霊供養が人生において大切なものであると考えるならば、それを依頼し、学ぶ相手を自分で探す

 私たちは病気になると、真剣に薬を求め、医者や病院を探します。
 自分で納得できない薬は服用せず、適当に医院の門を叩きもしません。
 病気は自分が処置できる能力の範囲を超えたできごとなので、信頼できるプロの力にすがらずにはいられません。
 ならば、〈死〉や〈死後〉について考え、何かを行おうとするならば、信頼できる宗教者や寺院などを探すのが当然ではないでしょうか。
 Aさんは「葬式業者数社と契約して、葬式ばかりして儲けるお寺もあると聞きました」と言われますが、商行為と宗教行為はまったく別世界の問題であることを、まず、確認しておかねばなりません。
 自分で宗教のプロを探し、納得や安心を得るというプロセスなしに端(ハナ)から業者任せにするならば、宗教行為が商行為、あるいは商行為の延長として行わてもよいと認める〈消費者〉になることを意味します。
 葬祭業者様は商行為として正当な業務を行い、僧侶宗教行為として異次元の法務を行い、両者が車の両輪としてそれぞれの持分を充分に発揮すればこそ、葬送がまっとうに行われます。
 そうした葬送を可能にさせるかどうかは、商業ベースに乗らず、あなた任せではなく、別々なものを別々な視点から〈自分で選ぶ〉方々の姿勢にかかわるところ、大なるものがあります。
 賢い消費者になることが正直な店を存続させ、消費社会のペースに呑み込まれない生活を確立させるのと同じではないでしょうか?
 最近は、お元気な方でも〈事前〉のご相談にご来山されます。
 そして、共同墓の生前契約をしたり、一代墓の図面を眺めたり、生前戒名の取得を申し出たりする方々も多くなりました。
 信念や方針が明確に掲げられている寺院を訪ね、住職と会い、重大事を〈託せる〉かどうか、ご自身の霊性で判断されるようお勧めします。




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2013
11.08

戒名料やご葬儀料の決め方(2)

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 ゆかりびとの会会員Aさんから、「戒名料やご葬儀料の決め方─〈相場〉へ逃げず、人生の大事については自分で考え判断しましょう─」を読んだご感想をいただきました。
「確かに住職が書いたとおりだと思いますが、本当にまごころに応じてご本尊様へお布施をすると莫大なものになってしまうので、皆さん、困るのではないでしょうか。
 お金に余裕がなければ、どうしようもないのではないでしょうか。
 大きなお布施を求めている、あるいは、貧しい方々を切り捨てるといった誤解もありはしないでしょうか」

 お応えしました。

 私は「申しわけない」と思いつつ、お布施をしています。
 それは、み仏を対象とするご喜捨だけの話ではありません。
 わけへだてなく生きとし生けるものを潤す水の心で布施行を行う時は、決して「こんなに納めた」とか、「これだけしてやった」という考えにはなりません。
「これしかできないけれど、せめてこれだけでもさせていただく」
 こうでしかあり得ません。
 なぜなら、いかなる場合も、布施をする相手の〈おかげ〉は大きく、自分は非力で、〈おかげ〉の大きさや重さに比べれば、自分のできることなど、たかが知れています。
 謝りたくなるのは当然です。

 娑婆にいた頃の私は、こうは考えられませんでした。
 だから、人生を左右するような大問題に関して、み仏へ願をかけた時も、そして成就した時も、さしたることはしませんでした。
 お金をけちったというよりは、それでも結果として〈間に合った〉からです。
 ここで言う〈間に合った〉とは、時の流れの中で支障なく、ことがはこんだという意味です。
 み仏へお布施を差し出すことは、商売上の取引とあまり変わらない、み仏との〝やりとり〟の一部でした。
 み仏はご加護をくださり、私はお布施でお返しをしたのです。

 しかし、本格的に仏道を歩み始め、驚きを伴って気づきました。
 仏神のご加護はあまりにも大きいのです。
 国や社会の恩、親やご先祖様の恩、生きとし生けるものの恩、師の恩、そして仏法僧の恩はあまりにも大きいのです。
 それに対して、自分は何をさせていただけるか?
 日夜、安全と生存を保証する国家社会へいかなる恩返しができるか?
 生み育くんでくれた親、輪廻転生(リンネテンショウ)しつつ私の心身へとその影響力を及ぼしている無限のご先祖様方へいかなる恩返しができるか?
 たとえ何をしようとも、すべては「これしか」の範囲を超えられません。
 そして、〈する〉のではなく、すべては〈させていただく〉のです。
 なぜならば、布施や恩返しといった善行は、仏神や社会や親といった相手があればこそ実践できるのであり、善行の実践はすべて善業(ゼンゴウ)となり、自分の未来をよきものとする力として見えぬ世界へ蓄積されるからです。
 実践を可能にしてくださる相手は常に、自分よりも気高く、尊く、文字どおり有り難い存在です。
 真の布施も恩返しも、遜(ヘリクダ)る心からしか実践できません。
 ここが欠けていれば、前述のような〝やりとり〟に堕してしまいます。

 ある日、岩沼市で〈読み聞かせ〉を行っているグループのリーダーBさんから小冊子『おとしぶみ』をいただきました。
 東日本大震災で被災した方々から聴き取った話を手作りでまとめられたのです。
 その時、80才を超えたBさんの口から、「私にはこれしかできません」という言葉が添えられました。
 胸も言葉も詰まってしまった記憶は今も鮮明です。

 ある日、関東在住のCさんから突然、お布施が振り込まれました。
 Cさんは困難を抱えながらも、世のため人のためになれる自分をめざし、学びつつ生きようとしておられます。
 一通の短いメールが届きました。
「み仏に対する信仰が強まり、ご縁の皆様にご加護がありますように。」
 ご自身の生活費を切り詰めてお送りくださったお布施は千金の値があり、私などにはあまりの重さです。

 ある日、ご自身の〝その時〟に備え、年金から積み立てておられるDさんからご葬儀のご依頼がありました。
 独り暮らしの妹さんを亡くされたのです。
 ほとんどが年配者数名の家族葬でしたが、しきたりをふまえた手ぬかりのない見事なものでした。
 ご自身の人生をかけた最後の仕事の一つとして妹さんをきちんと送るため、常日頃からどれだけの思いで準備をされていたのか。
 覚悟と節約の日々を想像しようとしても、私などには到底、できません。

 ある日、大病を抱えたEさんのご主人から、当山の『みやぎ四国八十八か所巡り道場』へご寄進がありました。
 Eさんは若き日、四国八十八か所をお詣りしていた時、子供の頃に拝んでいたある菩薩様とめぐり会い、ご自身の守本尊であると深い確信を持たれました。
 いつ、どうなるかわからない状態に陥り、人生最後の仕事として、その菩薩様がご本尊様となっているお堂を造りたいと決心されたのです。
 ご高齢でもあり、ほとんど当山へ足を運ばれないEさんの篤い願いに、さらなる精進へと奮い立たせられました。

 前回の文章で「まごころに応じて」と書いたのは、〈おかげさま〉の真実に立ち、損得や計算による〈やりとり〉でなく、〈させていただく〉姿勢こそが真の布施であり、それは大きな善業(ゼンゴウ)となって実践する方の未来を尊く気高い方向へと導くからです。
 そして、その方の実践は、ご本人の未来を明るくするだけでなく、お線香の香りが周辺へ広がって周囲の人々の心を潤すのと同じく、周囲の人々からもよき心を引き出し、この世を浄土にするための大きな力ともなるからです。
 Bさん、Cさん、Dさん、Eさんの実践に感じとっていただけるとおり、決して、金額そのものの問題ではなく、まごころ、すなわち心の清らかさの問題であることをご理解いただきたいと思います。

 Aさんから「わかりました。皆さんにご理解いただければいいですね」とご返事いただき、ホッとしました。




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