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2015
12.15

日常に潜む危機 ─小池光の「生存について」(その2)─

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 昭和22年に小説家を父にもち宮城県に生まれた小池光氏は、東北大学理学部物理学科から大学院を卒業し、短歌結社「短歌人」に入会し、高校の教師をしながら歌を詠んできた歌人である。
 昭和57年、氏が発表した歌集『廃駅』に「生存について」という連作がある。
 ここでは残りの6首を読んでみたい。

「充満を待つたゆたひにインフルエンザのわが子をすこし思つたであらう」


 ナチスの係官は、アウシュビッツでガス室に閉じ込めたユダヤ人の抹殺をはかり、ガスの注入に従事する。
 人びとが死に絶えるのに必要なだけガスが充満するには時間がかかる。
 待たねばならない。
 ガス室内の阿鼻叫喚とはまったく無関係に、係官にとっての時はゆったりと流れる。
 彼は手持ちぶさたなのだ。
 そんなおりには、インフルエンザで家にいる我が子を思い出し、心配になる。
 〝大丈夫だろうか?熱は上がっていないだろうか?食事はちゃんと摂れているだろうか?〟
 それも束の間、たちまち、時は満ち、役割が全うされる。
 だから、我が子を思いながら呼吸をしていたのは、ほんのいっときだった。
 係官は我が子を〈少し〉思っただけで、たちまち普通の仕事へ回帰した。

「クレゾールで洗ひたる手に誕生日の花束を抱へ帰つたであらう」


 ガス室で死んだ死者を扱えば、血や汚物などで手足も衣服も汚れ、クレゾールが活躍する。
 薬品で清められた手は清々しい香りをまとい、死の気配はどこにもなくなる。
 その手は、子供や家族の誕生日を祝う花束を抱えるにふさわしく清潔そのものである。
 法に則った仕事を終えた手のどこにも罪はないのだ。

「棒切れにすぎないものを処理しつつ妻の不機嫌を怖れたであらう」


 夥(オビタダ)しい屍体はそれぞれ硬直し、ただの棒きれでしかなくなる。
 運び、焼き、埋める処理は退屈だ。
 早く終わらせ家へ帰りたいと思った瞬間、今朝、出がけに不機嫌だった妻の顔を思い出し、げんなりする。
 人間を殺し、処理する役割に応じた正しい仕事は単調で飽き飽きし、家もつまらなければ、係官の一日は灰色になる。
 

「夏至(ゲシ)の日の夕餉(ユウゲ)をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして」


 一転して、場面は作者の自宅である。
 暑い盛りの夕餉に魚が出された。
 刺身でも作って食べたのだろうか、食べ終わった皿にはかすかに血がついている。
 自分はまぎれもなく、生きもののいのちを奪ったのだ。

「現世のわれら食ふための灯の下に栄螺(サザエ)のからだ引き出してゆく」


 サザエを焼いたのだろうか?
 箸か何かでつまむか刺すかして殻の中から身体を引っ張り出し、口に入れる。
 自分はまぎれもなく、生きもののいのちを奪っているのだ。

「沢蟹(サワガニ)のたまごにまじり沢がにの足落ちてゐたり朝のひかりに」


 また、場面は変わり、散歩途中の川べりとなる。
 沢ガニが何かに襲われ、いのちを落としたのだろうか?
 卵が散乱し、もがれた足もそばに落ちている。
 いのちが奪われた小さな光景も、朝陽は明るく照らし出している。

 作者は、アウシュビッツにおいて膨大な殺戮を行った下手人の〈日常性〉が、たった今、私たちが生きている〈日常性〉と何ら変わらないことを想像、感得した。
 狂気の行為も、社会的に〈正しく〉行われる仕事ならば、他の行為と同じように労働者へ恙(ツツガ)ない生活を保証する。
 オフィシャルな時間にも、プライベートな時間にも、神の祝福は平等にもたらされる。
 前の9首は、その世界を詠んだ。

 そして、続く2首は、日常的な殺戮がナチスの時代だけでなく、人間のあらゆる生にまといついていることの気づきを詠んだ。
 最後の一首は、他者のいのちを奪うことが自然界を成り立たせているという摂理そのものを詠んだ。
 こうして12首をあらためて眺めると、私たちが明らかに狂気と感じているものの実体があやふやくなってくる。

 ベルリン大学医科卒業試験受験者のフリッツ・メーゼは、ロレットオ高地で戦死する前に書いた。
「戦場ではみんな子供になる。
 どんなにひどい砲火を浴びても次の瞬間には無邪気に愉快になる。
 ──次の刹那のことを思はず、その瞬間の気分を捉へることを心得ている人間は幸福な存在だ。
 みんなそれを習ひ覚える。
 外では敵の砲声が轟いているが、内では自宅にいる──先づさういった所だ。
 ねえ、みんな、人はどんなに故郷を愛することを学ぶものだらう──ふだん誰もが理解しないことに堪へるやうになると。」(『ドイツ戦没学生の手紙』より)
 彼は勇敢に前進し、「列をなして倒れてゐる戦死者の上を」匍(ハ)って越えて行き、死んだ。

 集団に狂気の行為を行わせる思想は日常の中に生まれ、常に自分の〈日常〉を保てる者たちによって忠実に実行される。
 狂った個人は、集団的狂気に従えない。
 私たちはまるで、五右衛門風呂に入ったカエルのようなものだ。
 日々、適度な温度の中で(他の生きもののいのちを必要なだけ奪いつつ)生きているうちは、快適に過ごす。
 やがて、いのちと心の危機に瀕するほどの熱さになって(他のいのちを烈しく奪い、自分のいのちが奪われそうになって)きても、まだ、大丈夫、と耐えつつ過ごす。
 しかし最後は心が先に破壊されて狂うか、もしくは身体が先に破壊されて倒れるか、それが同時に起こるかして、いのちを失う。
 風呂に入っている状態が〈日常〉であり、それ自体、あるいはそこで起こりつつあることを客観的に観られない。

 歌人は、アウシュビッツの下手人に成り代わり、狂気を生きる日常を描き、そこから、自分の足元を観るところへ戻って来た。
 12首はあまりに重い。
 私たちが〈下手人〉にならないためには、米であれ、野菜であれ、魚であれ、他の生きもののいのちを奪わずには生きられない存在であることを忘れないようにせねばならない。
 感謝し、度を超して貪らぬようにしたい。
 度を超すものに違和感、嫌悪感、罪悪感、愚かさを感じられるようになれば大丈夫。
 そこを忘れると、いつしかアウシュビッツに行き着きかねない。
 また、私たちが生きていること自体がそのままそっくり〈日常〉であり、それは五右衛門風呂に入っているカエルの姿であることも忘れぬようにしたい。
 日常的であることは決して安心の土台であることを意味しない。
 私たちはあくまでも日常の中で、集団的狂気のふるまいをさせられてしまうのだ。
 五右衛門風呂に入っている自分の姿、友人や家族や同胞の姿を眺め、危機を察知したならば勇気を持って飛び出し、火勢を弱めねばならない。
 私たちにとって、小池光の「生存について」は宝ものである。




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2015
12.14

狂気と日常 ─小池光の「生存について」(その1)─

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昭和22年に小説家を父にもち宮城県に生まれた小池光氏は、東北大学理学部物理学科から大学院を卒業し、短歌結社「短歌人」に入会し、高校の教師をしながら歌を詠んできた歌人である。
 昭和57年、氏が発表した歌集『廃駅』に「生存について」という連作がある。
 以下の12首である。

「草群(クサムラ)に吐きつつなみだ溢れたりなんといふこの生のやさしさ」


 日本が太平洋戦争に敗れてから37年が経過したある日、ざくろの花が落ちるのを観ている氏の脳裏へ、アウシュビッツで生きるナチスの党員と交錯する世界が来襲した。
 イメージのおぞましさに耐えられず、吐いてしまったのだろう。
 吐く時は涙が流れる。
 何とも哀れな姿ではあるが、吐きつつ泣く身体は生を証明して余りある。
 草むらの上で、自分は確かに生きているのだ。
 嘔吐に伴った涙は、やがて、生の実感に伴う涙となる。
 殺し殺されているアウシュビッツに比べ、自分を存在させている生の世界はあまりに優しい。
 

ナチズムの生理のごとくほたほたとざくろの花は石の上に落つ」


 ざくろの花は濃い橙色であり、白が混じるものもある。
 葉の深緑とあいまって、いのちが強く輝く。
 その花が、硬い石の上へ一つ、また一つと落ちる。
 いのちは断ち切られるのに、枝に付いている時と何ら変わりなく、輝きつつ落ち、落ちても輝きを失わない。
 笑ったまま首を切られているかのようだ。
 狂気の饗宴は、人間の生と死を一括りにして続く。
 肉体の血も心の血も流されながら、現実は非現実へと反転させられている。

「かの年のアウシュビッツにも春くれば明朗にのぼる雲雀もありけむ」


 自然界の摂理は人間の愚行などお構いなしに時の流れを表現してやまない。
 阿鼻叫喚の地上であっても、春にはヒバリが高く舞い、無心に鳴く。
 ライプチヒ大学哲学科学生のリヒャルト・シュミーダーは、ベダンヴィルで死ぬ前に書いた。
「戦いの騒音と負傷者の呻き声の間に短い休止が生じると、高い青空に鳥が嬉々と歌い囀ってゐるのが聞こえました。
 故郷の春の鳥の歌!
 あゝ、心臓をむしり取ってしまいたひやうな気持です」(『ドイツ戦没学生の手紙』より)
 ベルリン大学神学科の学生パウル・ベーリッケもまた、ヴェルダンで戦死する直前に書き遺した。
「西の空は血のやうに赤く、赤いけしの花がなほ一層血の色に染まる。
 夕方が来た。
 ここで死を待っている無数の灰色の人びとの上に夕べはなごやかに横たはる」(『ドイツ戦没学生の手紙』より)

「夜の淵わが底知れぬ彼方にてナチ党員にして良き父がゐる」


 深夜、自分の心の階段を静かに降りて行くと、凶悪な暴力、残虐行為も厭わない憎しみ、あるいは黒いサディズムがある。
 何かに同調し思考停止した単略的な帰属意識を頼りに、正義の拳を振り上げ、ささやかな存在意義を叫びたい浅はかな自分がいる。
 その一方で、子供へ正邪善悪を教え、何者からも家族を守るよき父親たらんとする自分もいる。
 父親の転勤で宮城県第三女子高等学校に在籍した作家小池真理子氏は、昨年、開校90周年の式典で訴えた。
「スマホばかりをのぞいているのではなく、人と会い、本を読み、自分で考えて」
 自分で考えない限り知性は、はたらかない。
 現実を肌身で感じとり、根源的矛盾や不条理に気づき、世界へも自分へも疑問を持たない限り、真に自分で考えることはできない。
 自分で考えなければ、意のままに世の中を動かそうと企む者たちから都合良く与えられた餌に絡め取られ、感情が利用され、思考は停止させられる。
 自立して尊厳を守るためには、情報を客観的に眺める幅広い視点と、心の余裕を持たねばならない。
 そうして立ち止まり、〈ナチ党員〉的な行動に走らぬよう、常に気をつけねばならない。
 さもないと、〈良き父〉のまま、いかなる愚行に加担してしまうかわからない。

「ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せに行つたであらう」


 ナチ党員も夫であり、父親であった。
 ユダヤ人をガス室へ送り込みつつ、〈仕事〉の合間には家族を誘って公園へでかけ、普通の夫として、父親として真っ白なスワンに見とれたことだろう。
 そこでは、スワンの白さによって罪悪感が呼び起こされ、苦しむこともない。
 殺人は国家から与えられた公的な仕事であり、苦しみつつ行っては身が保たない。
 もちろん、多くのドイツ人が苦しみつつ仕事をこなしたことだろうが、少なくとも、この句の世界にはそうした煩悶が感じられない。
 一般的国民の一人として、郵便配達や列車の運行などと同じ感覚で仕事が行われている淡々とした日常が描かれている。
 ただし、「であらう」は見逃せない。
 推量する歌人の思いはいかなるものであったか、それには言及されていない。
 この歌を詠んだ人ではなく、読む人へ託されているものは膨大だ。
 人類が行った過去の愚行は日常と直結していただけに、私たちの日常と直結してたった今、再び行われたとしても何ら不思議はない。
 〈~だったであろう〉光景が〈である〉となり得る恐ろしさを直感する感覚だけは失いたくない。

「隣室にガス充満のときの間を爪しやぶりつつ越えたであらう」


 これも上記の作品と同じである。
 ユダヤ人たちを閉じ込めたガス室では、ガスの濃度が高まるにつれて人びとは倒れ、死んで行く。
 その時間を過ごす下手人は普通の人間だ。
 爪をしゃぶりながら時計を眺めていたとて、何の不思議もない。
 醜悪な行為が勤勉な公務員によって正確に行われる。
 狂気は日常の中にたやすく包み込まれてしまう。




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2011
12.06

映画『チベット難民~世代を超えた闘い~』鑑賞会

チベット難民~世代を超えた闘い~』の鑑賞会が近づきました。
 
 チベットでは、人も文化も消滅させられつつあります。
 12月2日にはまた、僧侶弾圧へ抗議する焼身自殺をはかり、重体になりました。
 チャムド地区で10月26日に爆発事件が起こっており、中国政府は、関係したとの疑いからチベット寺院への取り締まりを強化しています。
 しかし、3月から12人もの僧侶焼身自殺をはかったことでもわかるとおり、僧侶がイスラム過激派と同様の無差別殺人的な手段を用いるはずはありません。
 すべては、寺院から僧侶と仏教を消し去る動きに違いありません。

 最近、中国のあちこちを旅した方から聞くところによると、お大師様が訪れた寺院などは観光客であふれかえっています。
 高さ3メートルに及ぶ弘法大師像も建てられています。
 しかし、いずれの寺院であれ、修行に勤しんでいる僧侶の姿も気配もなく、完全に観光地化しているそうです。
 宗教は消滅させられ、お金を生むモノとしてのみ、寺院は存続しています。
 チベット寺院も〈宗教なき観光地〉とするため、あらゆる手段が用いられているものと思われます。

 ぜひ、この貴重な資料を観て、たった今も隣国で怖ろしい弾圧が行われている現実を知り、想像力をはたらかせ、何かの声を上げようではありませんか。
 ご自身で津波の被災地へ足をはこばれたダライ・ラマ法王のお心にお応えするためにも。

・日 時 12月17日(土)午後4時より6時まで
・場 所 法楽寺講堂
・参加費 無料

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アウシュビッツで殺された子供が遺した絵〉
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