私たちは、〈自分〉は、自分の肉体によって〈自分〉と確認できると思っています。
しかし、仏教は「そうだろうか?」と考えます。
たとえば、〈自分〉が水を飲む際には自分の手を使います。
だから手は〈自分〉の一部です。
では、手を誤って切ってしまったならどうでしょうか?
同じように、目を失ったらどうでしょうか?
相変わらず〈自分〉はあるでしょう。
では、〈自分〉という意識が〈自分〉なのでしょうか。
もしも「自分だと思うから自分がいる」のだとすると、眠っている間はどうなのかということになります。
翌朝、目覚めた時に、眠っている間も自分の肉体は連続して存在していたはずだと推定できるだけです。
意識は確認できません。
もしも、見たくもない夢を見た場合などは、何かが自分へ夢を見させたように思えたりします。
また、病気によっては、〈自分〉という意識が危うくなります。
考えてみれば、自分はどこにあるのか解らなくなります。
「自分だと思うから自分がいる」のだとすると、眠っている間はどうなのかということになります。
翌朝、目覚めた時に、眠っている間も自分の肉体は連続して存在していたはずだと推定できるだけです。
見たくもない夢を見た場合などは、何かが自分へ夢を見させたように思えたりします。
あるいは、朝、起きてトイレへ行く時、「さあ起きた」「次は、ふとんをはがそう」「次は、立ち上がろう」「次はトイレへ向かって歩こう」などと、いちいち考えません。
ほとんど自動的に、〈いつもの行動〉をとります。
自分の身体は確かにそのように動きますが、〈自分〉という意識がさせているのではありません。
このあたりに来ると、気づかない〈自分〉もあることがわかります。
過去の行動が蓄えられて、〈気づかない自分〉となっているものをマナ識といいます。
心理学の潜在意識に似ています。
また、〈自分〉は男性か女性かどちらかです。
丸顔、細長い顔など、見た目にも特徴があります。
そして、穏やかな性格だったりケンカ早かったり、あるいは飽きやすかったり根気強かったりします。
これらはすべて〈自分〉の特徴ですが、別段、自分で決めたわけではなく、だんだんそうなってきたわけでもなく、そのように生まれついたのです。
なぜでしょう?
生まれる前に今の〈自分〉を特徴づける原因があったと考えるしかありません。
その原因は今の〈自分〉と無関係だと考える理由がありますか?
生まれる前からあり、今の自分を生まれながらに特徴づけている〈気づかない自分〉をアラヤ識といいます。
心理学の深層意識に似ています。
さらに、〈自分〉の思いが誰かにわかってもらえるということを考えてみましょう。
また、〈自分〉がまごころから仏神へ祈るということを考えてみましょう。
これらは、〈通じる〉できごとです。
なぜ通じるのでしょうか?
電気なら電線で通じるように、何か共通のネットワークなりベースがあると考える以外ありません。
お互いの〈自分〉を通じ合わせている無限定で広大な心をアンマラ識といいます。
そこはもはや、目で見て、耳で聞いて煩悩がはたらく〈自分〉の世界ではありません。
超越した霊性の海であり、み仏の世界です。
私たち全員がひとしく仏性を持っているとは、こうした意味です。
自分とは、自己意識だけではありません。
いわゆる自己意識を「第六識」といいます。
見たり聞いたりして動き、「第六識」につながる5つの意識を「前五識」といいます。
マナ識は「第七識」、アラヤ識は「第八識」、アンマラ識は「第九識」です。
三島由紀夫は最期を迎える前に、すべてをかけて「第八識」までの意識のうねりを書きました。
『豊饒の海』全四巻です。
自己意識にとらわれず教えによって想像できる、あるいは魂が震える体験や修行によって感得できる不可思議な世界もまた、自分です。
そして、仏性の大海が私たちのふるさとであることを想う時、至心にみ仏へ祈る時、今の〈自分〉という狭い自己意識は幻のように淡くなっています。
仏教が「自分に実体はない」と説く場合、こうした内容を含んでいます。
〈幽玄へみちびくもの〉
「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
[投票のご協力をお願いします。合掌]
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
しかし、仏教は「そうだろうか?」と考えます。
たとえば、〈自分〉が水を飲む際には自分の手を使います。
だから手は〈自分〉の一部です。
では、手を誤って切ってしまったならどうでしょうか?
同じように、目を失ったらどうでしょうか?
相変わらず〈自分〉はあるでしょう。
では、〈自分〉という意識が〈自分〉なのでしょうか。
もしも「自分だと思うから自分がいる」のだとすると、眠っている間はどうなのかということになります。
翌朝、目覚めた時に、眠っている間も自分の肉体は連続して存在していたはずだと推定できるだけです。
意識は確認できません。
もしも、見たくもない夢を見た場合などは、何かが自分へ夢を見させたように思えたりします。
また、病気によっては、〈自分〉という意識が危うくなります。
考えてみれば、自分はどこにあるのか解らなくなります。
「自分だと思うから自分がいる」のだとすると、眠っている間はどうなのかということになります。
翌朝、目覚めた時に、眠っている間も自分の肉体は連続して存在していたはずだと推定できるだけです。
見たくもない夢を見た場合などは、何かが自分へ夢を見させたように思えたりします。
あるいは、朝、起きてトイレへ行く時、「さあ起きた」「次は、ふとんをはがそう」「次は、立ち上がろう」「次はトイレへ向かって歩こう」などと、いちいち考えません。
ほとんど自動的に、〈いつもの行動〉をとります。
自分の身体は確かにそのように動きますが、〈自分〉という意識がさせているのではありません。
このあたりに来ると、気づかない〈自分〉もあることがわかります。
過去の行動が蓄えられて、〈気づかない自分〉となっているものをマナ識といいます。
心理学の潜在意識に似ています。
また、〈自分〉は男性か女性かどちらかです。
丸顔、細長い顔など、見た目にも特徴があります。
そして、穏やかな性格だったりケンカ早かったり、あるいは飽きやすかったり根気強かったりします。
これらはすべて〈自分〉の特徴ですが、別段、自分で決めたわけではなく、だんだんそうなってきたわけでもなく、そのように生まれついたのです。
なぜでしょう?
生まれる前に今の〈自分〉を特徴づける原因があったと考えるしかありません。
その原因は今の〈自分〉と無関係だと考える理由がありますか?
生まれる前からあり、今の自分を生まれながらに特徴づけている〈気づかない自分〉をアラヤ識といいます。
心理学の深層意識に似ています。
さらに、〈自分〉の思いが誰かにわかってもらえるということを考えてみましょう。
また、〈自分〉がまごころから仏神へ祈るということを考えてみましょう。
これらは、〈通じる〉できごとです。
なぜ通じるのでしょうか?
電気なら電線で通じるように、何か共通のネットワークなりベースがあると考える以外ありません。
お互いの〈自分〉を通じ合わせている無限定で広大な心をアンマラ識といいます。
そこはもはや、目で見て、耳で聞いて煩悩がはたらく〈自分〉の世界ではありません。
超越した霊性の海であり、み仏の世界です。
私たち全員がひとしく仏性を持っているとは、こうした意味です。
自分とは、自己意識だけではありません。
いわゆる自己意識を「第六識」といいます。
見たり聞いたりして動き、「第六識」につながる5つの意識を「前五識」といいます。
マナ識は「第七識」、アラヤ識は「第八識」、アンマラ識は「第九識」です。
三島由紀夫は最期を迎える前に、すべてをかけて「第八識」までの意識のうねりを書きました。
『豊饒の海』全四巻です。
自己意識にとらわれず教えによって想像できる、あるいは魂が震える体験や修行によって感得できる不可思議な世界もまた、自分です。
そして、仏性の大海が私たちのふるさとであることを想う時、至心にみ仏へ祈る時、今の〈自分〉という狭い自己意識は幻のように淡くなっています。
仏教が「自分に実体はない」と説く場合、こうした内容を含んでいます。
〈幽玄へみちびくもの〉
「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
[投票のご協力をお願いします。合掌]
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
スポンサーサイト
当山では、例祭の最初に「お授け」を行っています。
これは、祈りに先んじて自分を清め、み仏へ帰依する姿勢を明確にすることによって、み仏への供養とみ仏からいただく心願へご加護を確かなものにするめの大切な修法です。
形は単純であり、導師が唱える言葉をなぞり至心に唱えるだけです。
1 懺悔文(サンゲモン)
(無始よりこのかた貪瞋痴の煩悩にまつわれて身と口と心とにつくるところのもろもろの罪科を、皆ことごとく懺悔したてまつる)
懺悔なくして祈りは始まりません。
いのちも心も〈いつ始まったか〉は判りませんが、親がありご先祖様方があってこそ自分へバトンタッチされたことは確かです。
無始と表現されるほど遠い過去から現在までの道のりの途中で、さまざまな善行と悪行を積み重ねてきたこともまた、確かです。
それは、数十年という短い人生をふり返ってみただけで、すぐに理解できます。
そうである以上、至高至尊の存在であるみ仏の前へ出る時、悪行による汚れを意識し、悔い改めずにはいられません。
これは、現前のみ仏を通して自分の心の奥におられるみ仏の心を輝かす唯一の方法でもあります。
(密教の瞑想には、実際にみ仏を自分の心中へお招きし、文字通り一体となる「入我我入観(ニュウガガニュウカン)があります)
み仏は、深い懺悔へ必ず救いの手をさしのべて浄化され、悔い改めて二度と同じ過ちを犯さなければ、ついには無明煩悩そのものを滅するところまで到達することも可能です。
身体と口と心のはたらきを行(ギョウ)といいます。
行はマナ識という潜在意識へ蓄えられて精神を動かし運勢を創る潜在的な力となります。
それを業といいます。
この世で人生と運命を創って役割を終えた業は、アラヤ識という深層意識を通じて次の世へと受け継がれ、特定の人格を形成します。
私たちはすべて、無始の過去から積み重ねられた善業と悪業を背負ったまったく独自の存在です。
同じ業はあり得ないので、同じ人格もあり得ません。
一方、私たちはみ仏の子でありながら、「自分が生き永らえたい」という根元的な欲求を持っているので、そこに現れる我(ガ)が心へ強い影響力を発揮します。
それが智慧の方面にはたらけば、み仏の智慧の明かりが出ない無明となり、意欲は、行いを誤らせる煩悩となって暴れます。
歯止めのきかない貪り、驕り高ぶって発する瞋(イカ)り、身勝手な考えを持つ痴(オロ)かさは、自他を傷つける諸刃の剣です。
こうした自分を認識し、ありとあらゆる罪科を深く深くみ仏へ懺悔するのが懺悔文です。
腹の底から「我昔所造諸悪業」と唱える時、私たちはみ仏が約束される浄化の世界の扉を開け、一歩入ることができるのです。
これは、祈りに先んじて自分を清め、み仏へ帰依する姿勢を明確にすることによって、み仏への供養とみ仏からいただく心願へご加護を確かなものにするめの大切な修法です。
形は単純であり、導師が唱える言葉をなぞり至心に唱えるだけです。
1 懺悔文(サンゲモン)
「我昔所造諸悪業 (ガシャクショゾウショアクゴウ)
皆由無始貪瞋痴 (カイユムシトンジンチ)
従身語意之所生 (ジュウシンゴイシショショウ)
一切我今皆懺悔 (イッサイガコンカイサンゲ)」
(無始よりこのかた貪瞋痴の煩悩にまつわれて身と口と心とにつくるところのもろもろの罪科を、皆ことごとく懺悔したてまつる)
懺悔なくして祈りは始まりません。
いのちも心も〈いつ始まったか〉は判りませんが、親がありご先祖様方があってこそ自分へバトンタッチされたことは確かです。
無始と表現されるほど遠い過去から現在までの道のりの途中で、さまざまな善行と悪行を積み重ねてきたこともまた、確かです。
それは、数十年という短い人生をふり返ってみただけで、すぐに理解できます。
そうである以上、至高至尊の存在であるみ仏の前へ出る時、悪行による汚れを意識し、悔い改めずにはいられません。
これは、現前のみ仏を通して自分の心の奥におられるみ仏の心を輝かす唯一の方法でもあります。
(密教の瞑想には、実際にみ仏を自分の心中へお招きし、文字通り一体となる「入我我入観(ニュウガガニュウカン)があります)
み仏は、深い懺悔へ必ず救いの手をさしのべて浄化され、悔い改めて二度と同じ過ちを犯さなければ、ついには無明煩悩そのものを滅するところまで到達することも可能です。
身体と口と心のはたらきを行(ギョウ)といいます。
行はマナ識という潜在意識へ蓄えられて精神を動かし運勢を創る潜在的な力となります。
それを業といいます。
この世で人生と運命を創って役割を終えた業は、アラヤ識という深層意識を通じて次の世へと受け継がれ、特定の人格を形成します。
私たちはすべて、無始の過去から積み重ねられた善業と悪業を背負ったまったく独自の存在です。
同じ業はあり得ないので、同じ人格もあり得ません。
一方、私たちはみ仏の子でありながら、「自分が生き永らえたい」という根元的な欲求を持っているので、そこに現れる我(ガ)が心へ強い影響力を発揮します。
それが智慧の方面にはたらけば、み仏の智慧の明かりが出ない無明となり、意欲は、行いを誤らせる煩悩となって暴れます。
歯止めのきかない貪り、驕り高ぶって発する瞋(イカ)り、身勝手な考えを持つ痴(オロ)かさは、自他を傷つける諸刃の剣です。
こうした自分を認識し、ありとあらゆる罪科を深く深くみ仏へ懺悔するのが懺悔文です。
腹の底から「我昔所造諸悪業」と唱える時、私たちはみ仏が約束される浄化の世界の扉を開け、一歩入ることができるのです。
通りゃんせ
作詞:不詳 編曲:本居長世
そうした意識を仏法ではマナ識やアラヤ識といい、潜在意識や深層意識とも呼ばれている。
この歌は、意識されない意識、言い換えれば記憶として思い出せない遙かな記憶の領域に根を持ち、茎を伸ばし、咲いた花ではなかろうか。
「童謡の父」とまで称される本居長世が見つけ、洗練させ、生涯お気に入りだった童歌(ワラベウタ)は、日本人が共有している情緒を動かす。
高く、遠い神々が、いかなる地域にもご近所さんの延長として居た時代。
おりおりの、あるいは節目節目の催しは必ず神々と共に行われた時代。
「ちっと通して くだしゃんせ ご用の無いもの 通しゃせぬ」というやりとりに続いて「この子の七つの お祝いに」とトーンが上がるところには、あたかも、天皇に呼ばれた者が宮中へ入ろうと門をくぐる時のごとく、何者も遮ることのできない強さと晴れやかさがある。
誰かが神に祝福されることは、住民共通の慶びだったのだろう。
最後の「こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」は、青い天空へ魂が溶け込んでゆくような安堵と救済をもたらしている。
こうしたレベルの歌を持っている日本の子どもたちは幸せ者である。
子どもたちと一緒に唄い、語り、一緒に、清浄な世界への扉を開きたい。
作詞:不詳 編曲:本居長世
自分という意識より深いところにある意識は、通常、認識の対象にならない。通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して くだしゃんせ
ご用の無いもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
おふだをおさめに まいります
いきはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
そうした意識を仏法ではマナ識やアラヤ識といい、潜在意識や深層意識とも呼ばれている。
この歌は、意識されない意識、言い換えれば記憶として思い出せない遙かな記憶の領域に根を持ち、茎を伸ばし、咲いた花ではなかろうか。
「童謡の父」とまで称される本居長世が見つけ、洗練させ、生涯お気に入りだった童歌(ワラベウタ)は、日本人が共有している情緒を動かす。
高く、遠い神々が、いかなる地域にもご近所さんの延長として居た時代。
おりおりの、あるいは節目節目の催しは必ず神々と共に行われた時代。
「ちっと通して くだしゃんせ ご用の無いもの 通しゃせぬ」というやりとりに続いて「この子の七つの お祝いに」とトーンが上がるところには、あたかも、天皇に呼ばれた者が宮中へ入ろうと門をくぐる時のごとく、何者も遮ることのできない強さと晴れやかさがある。
誰かが神に祝福されることは、住民共通の慶びだったのだろう。
最後の「こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」は、青い天空へ魂が溶け込んでゆくような安堵と救済をもたらしている。
こうしたレベルの歌を持っている日本の子どもたちは幸せ者である。
子どもたちと一緒に唄い、語り、一緒に、清浄な世界への扉を開きたい。
本厄年の守本尊は千手観音様です。
過去世のありさまを知る智慧をもって私たちをお救いくださるこの時期は、「歴史に学び、ご先祖様に学び、目上に学ぶ」ことと、「自らの因縁を知る」ことが困難克服のための大きな力となります。
大切なのは、学んだものを活かして目下や困っている人々のために施すことです。
また、因縁を知ると言っても、占い師などに「貴方は誰々の生まれ変わりです」などと告げてもらうのではなく、自分の生まれ持った性向と、これまで生きてきた歴史とをよく省みねばなりません。
人は必ず過去を背負って生まれて来ます。
心に溜まった生前の歴史をアラヤ識(西洋心理学の深層意識に近い)といい、これは過去の事実なので動かせません。
「きかん坊」として生まれたならば、その傾向は一生、心のどこかに保たれます。
ただし、生き方が必ずしもそれに引きずられるとは限りません。
なぜならば、この世で生きた歴史であるマナ識(西洋心理学の潜在意識に近い)がどんどん溜まって「ものごとに反応する習慣」を創り、人生を重ねれば重ねるほど、アラヤ識は主役の座から遠ざかるからです。
たとえば、「きかん坊」が小さい頃に友だちを傷つけてしまい、深く後悔して暴れるのをやめ、むしろ暴力をふるう友だちを止める人になるようなものです。
こうなると、幼い頃の姿はどこかへ行ってしまったようですが、性向が消えたわけではありません。
それは暴力を止める勇気となって昇華され、表面に出なくとも確かに心を支えているのです。
こうした真理をふまえれば、私たちがいかに生きるべきかは自ずから明らかになります。
1 生まれ持ったアラヤ識は動かしようがなく、しっかり見つめ、宝ものとして尊ぶこと。これは、親やご先祖様への感謝にもなります。この世へ生まれ出たことは文字通り「有り難く」、ありがたいのです。
2 表面の意識(自分という感覚を持った、いわゆる「意識」)で悪を避け、善を選び取り、そうして生きることによってマナ識へ善きもの・良きもの・佳きものをたくさん蓄えること。
これが、み仏のいのちの世界からこの世へ人生修行に来た私たち旅人の尊い宿命です。
百年足らずの旅が終われば、積み重ねることをやめたマナ識はアラヤ識へ融けこんで、転生の時を待ちます。
原因には必ず結果が伴うはずであり、できあがったアラヤ識は、いつの日か「誰かの生まれ持ったもの」として日の目を見るに違いありません。
悪しき性向をたくさん持った人間となるか、善き性向をたくさん持った人間となるかは、私たちがこの一瞬をどう生きるかにかかっています。
それは、自分の来世を決めるだけでなく、未来の日本がどうなるか、未来のこの世がどうなるかを決めることです。
「現在がかけがえのない一瞬である」とは、こういうことなのです。
[:ニコニコ:]昨夜の勉強会で厄年についてのさわりをお話したところ、「聞いたことがありません」「そうだったのか」と驚かれました。
ここに記していることごとには、伝授されたものもあり、自ら学んだものもあり、そして、人生相談やご祈祷やご供養に訪れる善男善女と苦楽を共にしながら感じとったものもあります。
だから、市販されている本に書いていないのは当然です。
内容が学術的にどうなのかは知りません。
一行者が信じるに至った人生の真実を記し、読んだ結果、役に立つと思ったどなたかためになれば良いだけのことです。
にほんブログ村
過去世のありさまを知る智慧をもって私たちをお救いくださるこの時期は、「歴史に学び、ご先祖様に学び、目上に学ぶ」ことと、「自らの因縁を知る」ことが困難克服のための大きな力となります。
大切なのは、学んだものを活かして目下や困っている人々のために施すことです。
また、因縁を知ると言っても、占い師などに「貴方は誰々の生まれ変わりです」などと告げてもらうのではなく、自分の生まれ持った性向と、これまで生きてきた歴史とをよく省みねばなりません。
人は必ず過去を背負って生まれて来ます。
心に溜まった生前の歴史をアラヤ識(西洋心理学の深層意識に近い)といい、これは過去の事実なので動かせません。
「きかん坊」として生まれたならば、その傾向は一生、心のどこかに保たれます。
ただし、生き方が必ずしもそれに引きずられるとは限りません。
なぜならば、この世で生きた歴史であるマナ識(西洋心理学の潜在意識に近い)がどんどん溜まって「ものごとに反応する習慣」を創り、人生を重ねれば重ねるほど、アラヤ識は主役の座から遠ざかるからです。
たとえば、「きかん坊」が小さい頃に友だちを傷つけてしまい、深く後悔して暴れるのをやめ、むしろ暴力をふるう友だちを止める人になるようなものです。
こうなると、幼い頃の姿はどこかへ行ってしまったようですが、性向が消えたわけではありません。
それは暴力を止める勇気となって昇華され、表面に出なくとも確かに心を支えているのです。
こうした真理をふまえれば、私たちがいかに生きるべきかは自ずから明らかになります。
1 生まれ持ったアラヤ識は動かしようがなく、しっかり見つめ、宝ものとして尊ぶこと。これは、親やご先祖様への感謝にもなります。この世へ生まれ出たことは文字通り「有り難く」、ありがたいのです。
2 表面の意識(自分という感覚を持った、いわゆる「意識」)で悪を避け、善を選び取り、そうして生きることによってマナ識へ善きもの・良きもの・佳きものをたくさん蓄えること。
これが、み仏のいのちの世界からこの世へ人生修行に来た私たち旅人の尊い宿命です。
百年足らずの旅が終われば、積み重ねることをやめたマナ識はアラヤ識へ融けこんで、転生の時を待ちます。
原因には必ず結果が伴うはずであり、できあがったアラヤ識は、いつの日か「誰かの生まれ持ったもの」として日の目を見るに違いありません。
悪しき性向をたくさん持った人間となるか、善き性向をたくさん持った人間となるかは、私たちがこの一瞬をどう生きるかにかかっています。
それは、自分の来世を決めるだけでなく、未来の日本がどうなるか、未来のこの世がどうなるかを決めることです。
「現在がかけがえのない一瞬である」とは、こういうことなのです。
[:ニコニコ:]昨夜の勉強会で厄年についてのさわりをお話したところ、「聞いたことがありません」「そうだったのか」と驚かれました。
ここに記していることごとには、伝授されたものもあり、自ら学んだものもあり、そして、人生相談やご祈祷やご供養に訪れる善男善女と苦楽を共にしながら感じとったものもあります。
だから、市販されている本に書いていないのは当然です。
内容が学術的にどうなのかは知りません。
一行者が信じるに至った人生の真実を記し、読んだ結果、役に立つと思ったどなたかためになれば良いだけのことです。
にほんブログ村