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2007
04.26

十善戒の歌8 ―不両舌―

とにかくに あしくいひもて あしがきの なかをへだつる ことぞいやしき
(とにかくに 悪しく言いもて 葦垣の 中を隔てつる 言ぞ卑しき)

「慈悲」という言葉は、「慈」と「悲」から成っています。
「慈」の原語マイトリは、ミトラ(友情)の抽象名詞です。
 いわば最高の友情が「慈」であり、人々へ楽を与えたいという「与楽(ヨラク)」の心とされています。
「悲」の原語カルナーは、衆生の悲しみを共にすることです。
 悲しんでいる人のそばにそっと寄り添い、悲しみを和らげたいという「抜苦(バック)」の心とされています。

 こうしてみると、慈悲の根本には、他人を「他人だから」と突き放さず、人々はもちろん生きとし生けるものは皆いのちを分かち合っている友であるという姿勢があります。
 自分と無関係ないのちは、どこにもありません。
 
 仏法における「唯願わくば慈悲をもって哀れみを垂れたまえ」という祈りの文は、サンスクリット語の「どうぞ」に発します。
 考えてみれば「どうぞ」には浅からぬ意味があります。
 仏神へ「どうぞ、この病気を治してください」と祈る場合は、自分の幸せを求めており、誰かへ「どうぞ、どうぞ」と勧めたり承諾の返事をする時は、相手へ幸せを与えようとしています。

 良かれと思う純粋で強い気持が起こった時、私たちは「どうぞ」と言うようです。
 そこに、自他を分ける分別はありません。自分が自分にとってかけがえのない存在であるならば、他人も同じくかけがえのない存在なのです。
 この「存在」を友というのではないでしょうか。

 自分可愛さや誰かを貶めようとする憎しみなどから相手によって使い分ける二枚舌は、慈悲心すなわち仏心に背く醜いものです。
 僧月照は「二枚舌は、寄り添い合って生きている葦たちをバラバラにして枯れさせるような卑しいものである」と説き、慈雲尊者は「交友を尊び、二枚舌を離れよ」と説かれました。
 不両舌戒を守り、誠の道を生きたいものです。




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