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2014
01.15

モノの因果と生きものの因果 ─心ある者のみが行為を行う─

20140112004.jpg
意志による行為で造られた仏塔〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○「行為」も因果を引きおこす

因果があてはまるのは、形のあるものばかりではありません。
行為』にも因果の法則が成り立ちます。
 たとえば誰かの行為によって何か新しいことが生じた場合、その行為が『因』、起こったことが『果』ということになります。」


 当山では、ご葬儀の後に必ずといっていいほど、六波羅蜜(ロッパラミツ…最も霊性を輝かす方法)の法話を行います。
 その中に、み仏や御霊へお水を捧げる布施(フセ)行があります。
 時に応じ、ことに応じて自在に姿を変える水のように我を張らず、誰かの何かのために、自分ができることをさせていただく布施行の一例として、東日本大震災に際し、全国の子供たちが貯めていたお小遣いを被災地へ贈ったことを挙げます。
 また、お灯明に象徴されるのは、我欲(ガヨク)に引きずられた自己中心の考えでなく、その時、その場に当たって、仏性(ブッショウ…み仏の子としての本性)を持った人間として〈そうしないではいられない〉み仏の智慧です。
 この智慧をはたらかせた例として、東日本大震災のおりに、住民へマイクで避難を呼びかけながら犠牲となった南三陸町の危機管理課職員遠藤未希さん(25歳)を挙げます。
 あの災害が起こるまでは別な例を用いていましたが、被災された方々が今現在、苦しんでおられることを忘れないでいただくためにも、こうした話を続けようと考えています。
 法話の変化には明らかに、因があり、果があります。

「しかし、行為を行うのは、あくまでも命を持つ生き物だけです。
 物質である場合、自ら行為をすることはありえないので、行為による因果も起こりません。
 そのため、物質関係はシンプルで明確なものが多い。
 たとえばある物質が化学変化を起こして別の物質に形を変えるといった自然現象がこれに当たります。
 はるか昔、地球にまだ生物がいなかった頃は、きっとこの因果関係だけで世界は動いていたのでしょう。
 一方で、命あるものには行為が伴います。
 しかもそこには、色々な意志や感情が入り交じり、様々な人やものに影響を与えてしまう。
 そのため、因果関係に行為がからむと、その関係性は急に複雑になります。」


 アクリフーズ群馬工場生産の冷凍食品に農薬のマラチオンが混入し、事件となっていますが、捜査はモノと人間両方の特性に基づいて行われています。
 マラチオンの痕跡をたどりきれば〈動かぬ証拠〉となるのは、「物質関係はシンプルで明確」だからです。
 一方、誰が?なぜ?何の目的で?という面が絞りきれないのは、人間の思考の糸が「複雑」で、成り行きの因果関係を容易に判断できないからです。

 ダライ・ラマ法王は、人間における「行為」には三つのパターンがあるとされます。

・第一のパターン:運動による行為
・第二のパターン:言葉で何か伝える行為
・第三のパターン:心をはたらかせる行為

 そして、三つのうち、心における行為を最重要とされました。

「なぜなら、この心のはたらきがその人の意志や動機となって、新たな行動を起こさせたり、他人に発する言葉を生んだりするからです。
 たとえば誰かを助けるという行為を行うのは、その前に『その人のためになりたい』という心のはたらきがあったからです。
 逆に相手に意地悪な言葉を投げたときには、前から心の中で『この人のことが嫌いだ』という思いが渦巻いていたのでしょう。
 このように、因果は『心』によってしくみがかなり異なってきます。
 特に人間は心のはたらきが強いので、因果に与える影響もかなり大きいと思います。」


 いじめを考えてみましょう。
 弱い者をいじめて優越感に浸るのは薄汚れた悪しき心です。
 相手の心身を不当に攻撃し、ストレスを与え、いのちの勢いを削ぐだけでなく、悪行(アクギョウ)によって自分自身が悪業(アクゴウ)を積み、悪業は必ず〈因〉となり、自分の人生へ〈果〉としての性悪な性格や罪過や災厄をもたらすからです。
 心が悪くはたらかないためには、善くはたらかせる心の習慣づけが必要です。
 それが教育であり、しつけであり、勉強であり、稽古であり、修行です。

 お釈迦様は何を最も戒めたか?
 それは〈放逸(ホウイツ)〉です。
 心を野放しにすると、必ず自己中心的で我がままになり、自他を苦しめつつ生きるようになります。
 だから、繰り返し、「心をつなぎ止めよ」と説かれました。
 何に?
 人の道に、です。
 アリを踏んで楽しむのは〈人の道〉ではなく、他のいのちを大切にするのが〈人の道〉です。
 なぜならば、お互いにお互いのいのちを大切にしてこそ、お互いが安心に笑顔で暮らせるからです。
 そして、相手が笑顔になれば、相手が幸せなだけでなく、自分も又、善い〈果〉をもたらす善い〈因〉をつくったことになるからです。
 だから「不殺生(フセッショウ)」という戒めを説き、あっけらかんと放逸に暮らさず、心に念じつつ生きよと指導されたのです。

「ちなみに、草木や花などの植物は『行為』を起こすことがあるのでしょうか。
 植物もただの物質とは違って生物ですし、感覚に近いものが備わっているという考え方もあるようです。
 しかし物事の良し悪しを区別したり、幸せや苦しみを感じたりというような『心』は持っていません。
 ですから、動物がするような『行為』はないと言っていいでしょう。
 植物が花を咲かせたり実をつけたりと、ある種の変化を遂げたとしても、それは感情や意志に基づいているものではありません。
 花が咲くのは、植物そのものに組み込まれたはたらきのためです。
 色や形の違いも物質的な差違に過ぎず、そこに意志があるわけではない。
 植物は、物質と似たような単純な因果で廻っていると言っていいでしょう。」


 かつて、アメリカで、動物と植物の交感に関するポリグラフの実験が行われました。
 小さなエビを熱湯へ投げ込もうとする瞬間、別の部屋にある鉢植えの植物に電気的な異変が起きたというものです。
 言葉を交わさない生きもの同士の通じ合いがあるとは驚愕であり、いのちの不思議さや、広大さもあらためて感じさせられます。
 しかし、こと「意志」については、やはり、ある程度高等な生きものにのみ具わったはたらきのようです。
 



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2013
12.04

傷ついた日本人へ(その24) ─悟った人は見えなくなる─

20131203CIMG326803.jpg
〈お釈迦様の修行像〉

 誰でもが悟りを開く可能性を持っていることは、経典に明らかです。
 ダライ・ラマ法王は説かれます。

「経典『如来蔵(ニョライゾウ)経』にも、『どんな人間の心も、その本質は汚れもよどみもない清らかなものだ』と書かれています。
 誰もが少なからず『よい人間でありたい』と願うのも、この清らかな心による『自性清浄心(ジショウショウジョウシン)』があるからなのです。」


 さて、悟りを開き、〈本性だけ〉の存在に成り切った人の姿はどうなるのでしょうか。

「そのありようは、普通の人間の感覚器官を通じて見ることができないレベルなのです。
 ですから、ブッダになった釈尊もその瞬間に『本質的には見えなくなった』とされています。
 しかし、そのとき釈尊はまだ生きていましたし、その間は肉体もありましたから、当然周囲の人々にその姿は確認されていました。」


 以前も書きましたが、昭和36年に日本初の70ミリフィルム映画として公開された大映作『仏陀』に主演した仏陀役の本郷巧次郎は、悟りを開いた後はすべて〈影〉でしか登場しませんでした。
 まさに影現(ヨウゲン…それとは見えぬ影のようなものとして現れること)する尊い存在となったお釈迦様を見事に表現していました。

 法王は、仏陀のお身体すなわち仏身(ブッシン)には三種類あると説かれました。
法身(ホッシン)…究極の本性であり「見る方も仏陀になり、同じように究極の段階に至らなくては認知することができないもの」です。
化身(ケシン)…人間の姿をしており、「普通の人間が『人』として認知でき、目で見たり触ったりできる、世俗のための姿」です。
報身(ホウジン)…法身化身の「中間の相であり、これは修行を積み、さまざまな真理がわかった人だけが、その概念を捉えることができる」存在です。
 
 法身にせよ、化身にせよ、報身にせよ、私たち凡夫が、悟りを開いた仏陀と会うことは極めて困難です。
 だから、寺院では、こう唱えています。

「人身(ジンシン)受け難し、今己(スデ)に受く。
 仏法(ブッポウ)聞き難し、今己(スデ)に受く。
 この身、今生(コンジョウ)に度(ド)せずんば、更に何(イズ)れの生(ショウ)に於(オ)いてか、この身を度(ド)せん。
 大衆(ダイシュウ)諸共(モロトモ)に、至心(シシン)に三宝(サンボウ)に帰依(キエ)したてまつる」


(人間としてこの世に生まれることはとても困難だが、今すでに人間として生きている。
 仏法を聞くこともとても困難だが、今すでに聞いた。
 希な生を受けたこの身を、今、この世で悟りの世界へ渡らせられなければ、いったい、いつ、迷いと苦しみから離脱できようか。
 だから、悟りの世界へ向かうため、人々皆と共に心から、み仏と仏法と僧侶の三宝を真のより所として尊崇申しあげる)

 チベット密教に有暇具足(ウカグソク)という言葉があります。
 それは、人間界にある者は、仏法を学ぶ余裕がある存在として生まれ、学べる条件のある環境で生きているということです。
 たとえば、人間界でなく、地獄界や餓鬼界などに生まれたならばとても学ぶ余裕などなく、また、仏法に接する機会のない時代や場所に生まれても、仏法は学べません。
 そして、私たちのいのちは、砂時計の砂が流れ落ちるように、絶え間なく減り続けています。
 余裕のある時間、学べる環境にいられる時間は、たちまち過ぎて行きます。
 今年の流行語「今でしょ!」ではありませんが、今、学ばねば、時を失してしまいます。
 貴重な生、貴重な時間があるうちに、真のより所に気づき、学び、実践したいものです。
 そうすることにより、たとえ、み仏そのものとお会いできなくても、み仏の世界を感得するのは充分に可能です。
 心からご本尊様へおすがりし、僧侶に訊きながら経典のとおりに観想や読誦を行えば、必ず自己中心や損得や執着心から離れた蓮華のような心が開くのです。

 法王は、ご自身について述べられました。

仏陀はこの世界の全てを悟ったものですが、私はとてもそんな高い悟りの境地に達していません。
 私はただの一人の人間で、皆さんと何も違いがないのです。
 強いて言えば、私の方がみなさんより長く密教や仏教の勉強をしているため、少々知識が多いということぐらいでしょうか。
 もしくは、仏教を熱心に勉強していた前世の力が、今の私にはたらいているのかもしれません。」






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2013
09.01

第九回法楽塾 ─『ダライ・ラマ法王の仏教哲学講義』を読む(10)仏教は論理を基盤とする宗教である─

201308310000001.jpg

ダライ・ラマ法王仏教哲学講義】       

第一章 仏教における論理的思考の重要性

 第六節  詳しい検証の必要性
 
 仏教は、迷信や狂信とはまったく無縁な道理をふまえた宗教です。
 仏教の根幹である「4つの聖なる真実」は、深く考察されています。
 確認のため、再掲しておきます。

1 諦(クタイ)……真のしみ
 輪廻(リンネ)の世界におけるわれわれの実情を、真のしみとして捉えたもの。   
2 集諦(ジッタイ)…しみの真の起源
 しみの生存の真の起源・原因が執着や欲望であると理解すること。
3 滅諦(メッタイ)…しみの真の消滅
 苦しみが真に消滅した状態についての教え。
4 道諦(ドウタイ)…苦しみの消滅への真の道
 真の消滅を実現するための修行方法の教え。

 ダライ・ラマ法王は説かれます。

「仏教では、苦しみは根源的無知(無明…ムミョウ)に根ざしていると説かれます。
 そして、その根源的無知は論理的思考によって破壊されるのです。
 論理的思考がその対象を考察するやり方に、六つの段階があります。

 まず、言葉の意味、一つ一つの語句の意味を検証しなければなりません。
 第二に、その対象が内的であるか外的であるかを通じて、その実態を考察します。
 第三に、事物の本性を、そのものの独自の性質と他のものとも共通する一般的な性質に分けて検討します。
 第四に、その事物が好ましいものであるか好ましくないものであるかを通じて、その部類を考察します。
 第五に、時間を考察します。というのも、時間の中で事物は絶えず移り変わってゆくからです。
 第六に、法則を探求します。」


 ここには、仏教がいかなる宗教であるかが明確に説かれています。
 それは、人間とこの世の真理・真実を知らない根源的な無知があらゆる苦しみの元となっているのであり、共にそこから脱して苦を克服しようというものです。
 必要なのは論理的な思考であり、論理的ならば、能力さえあれば誰でも〈それは道理である〉と納得できるはずであるからこそ、救いの道は万人へ開かれているのです。
 特定の仏様さえ信じれば救われるとか、特定の経典にだけ真理があるとか、特定の文言さえ唱えれば救われるなどという姿勢がいかに非仏教的であるか、いかに開かれていないか、仏教に対するすなおな関心を持たれる方は、よく考えてみる必要があります。

 さて、ダライ・ラマ法王は、誰でもが持っている理性や悟性で考える方法を6つに分けて説かれました。
1 考える道具である言葉そのものをきちんと特定せねばなりません。
 もしも、「青」という言葉で赤い色を連想するなら、青い海についての思考も、赤い彼岸花についての思考もメチャメチャになります。
 もしも、Aさんにとっての青がBさんにとっての赤だったなら、対話は成り立ちません。
2 原発事故によって感じる恐怖は内的であり、原発事故によって故郷を離れるという事実は外的です。
3 ネコはニャーと鳴きますが。ネコによってそれぞれ異なる声色と、ニャーと鳴くというネコ特有の特性とは分けて考えねばなりません。
4 無慈悲な言葉を浴びせていじめるという卑劣な悪事と、論理をもって討論するという互いに必要な善事とは、まったく部類が異なります。
5 いつ起こったことか、あるいは、昨日と今日とでどうなのか、などといった時間の観念抜きにしては、思考に無理が生じます。
 もしも、江戸時代の長屋における味噌や醤油の〈貸し借り〉という美風をそのまま現代にもってこようとしても無理があります。
6 客観的に成り立つ法則をつかめば、思考の正誤を判断するのに役立つだけでなく、共通認識へ到達するにも便利です。
 
 ダライ・ラマ法王は、法則の4タイプ(四種道理)を挙げられました。

「1 依存性に関する法則、すなわち結果は原因に依存する。」


 結果は必ず原因によって起こり、原因のない結果はありません。
 だから、苦が生じているならば、必ずその原因があるはずです。

「2 作用に関する法則、たとえば火はものを焼く作用をもち、水はものを湿らす作用を持つ。」


 作用すなわちはたらきが変わることはありません。
 だから、火事が起こったならば、必ず火元を調べるのです。

「3 本性に関する法則、すなわち事物はそれぞれ固有の本性をもつ。たとえば火は熱性を本性とし、水は湿潤性を本性とする。」


 埋もれ火を上手に使い、火事を起こさないためには、その本性をよく認識しておかねばなりません。

「4 正しい認識方法による妥当性の検証、すなわち直接知覚と推論とに矛盾しないこと。」


 こうだと思った時、それが心に何の引っかかりも疑いもなく、妥当であると直感できるか、そして、推論して矛盾は生じないかを判断せねばなりません。

 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「正しい認識方法には二つのタイプしかありません。
 すなわち、直接知覚と推論です。
 さらに後者には三種類あります。
 すなわち事実に基づく推論、一般に承認されていることに拠る推論、信頼するに足る聖典に基づく推論です。」


 たとえば、肉親やペットの死によって、いのちの尊さやありがたさ、そして死の恐ろしさなどを認識する時は、否応なく〈わかってしまう〉のです。
 たとえば、人を殺してはいけないという決まりを考えると、事実をみても、一般的に承認されていることに照らし合わせても、さらに経典をひもといても、正しいと推論されます。
 もちろん、では戦争はどうなのか?という疑問も起こりますが、それは、傍証的に考えればよいのではないでしょうか。

 ダライ・ラマ法王は、さらに深い仏教論理学に言及されていますが、あまりに専門的になるので、ここでは取りあげません。
 最後に、科学の考察方について説かれた部分を読んでみましょう。

「第六番目の考察法法である論理の考察には、先に述べたように四つのタイプがありますが、西洋の科学の考察方法は、そのうち最初の三つのタイプによって行われていると言うことができるでしょう。
 まず、対象の本性が探求され、そのようにして見出された本性に基づいて、その対象が行う作用が探求され、そしてその対象が依存しているものが探求されるのです。」
 前述の四種道理のうち、三番目の本性に関する法則、二番目の作用に関する法則、一番目の依存性に関する法則を用いているのが科学の考察方なのです。
「先に挙げた論理的思考の六つの段階は、西洋の科学におけるような科学的な探求の原理も仏教における精神的な探求の原理も、合わせ持っているように思われます。
 わたしは、科学における探求性は、精神性における探求と密接に結びついていると思うのです。
 なぜならば、両者とも同じ対象に関わるものであるからです。
 前者は器具を使った実験を通じて探求し、後者は内的経験と瞑想を通じて探求する点に違いがあるだけです。
 大事なことは、科学によっては見出すことのできないものと、存在しないことが科学によって証明されたものを区別することです。
 科学によって『存在しない』と帰結されたことについては仏教徒も従わなければなりません。
 しかし、そのことと科学では確認できないものがあるということとは全く別のことなのです。」


 仏教の根幹である輪廻転生や、御霊が〈無〉になってしまわないことなどは、科学で確認できる範疇を超えています。

「世の中にはきわめて多くの神秘的な事柄があるのは明らかです。
 人間の感性には限界があります。
 しかし、わたしたちはわたしたちの五感を越えたものについて、それが存在しないと言うことはできないのです。
 わたしたちの祖先が五感によって知覚できなかったもので、現在のわたしたちが目の当たりにしているものは山ほどあります。
 それと同様に、現在わたしたちが知覚できないことでも、将来理解できるようになることがたくさんあるに違いないのです。」


 病気の原因となる細菌を確認できるようになったのは、人間の歴史からみれば、ごく最近のことでしかありません。
 暗黒物質(ダークマター)の存在もまた、これから先に知覚できる時代がくることでしょう。
 その時になれば、精神と物質の関連性についてもまた、新しい発見があるに違いありません。

「精神という別の領域に関して、人間を含めた生命あるものが何世紀にもわたって様々な経験を積み重ねたにも関わらず、わたしたちは、精神というものが本当にはどのようなものでああるか、それがどのような働きをもっているのか、その全性質を未だ知らないでいるのです。
 精神のように、形もなく、色もない事物は、外的事物を探求するような仕方では決して理解することのできないものなのです。」


 現代人は心の病気という大敵を相手にしつつあります。
 しかし、私たちの文明は進行する現象にあたふたしている段階です。
 この大敵は、物理的外的原因と精神的内的原因の複雑な絡み合いによって生じています。
 しかも、遺伝や過去世因縁などとも無関係ではないはずです。
 なぜなら、肉体には遺伝子が伴っており、精神には因縁が伴っているからです。
 私たちの文明はまだまだこれからであるという謙虚さと希望と探求心を持ち、道理をもって考えることが何よりも大切なのではないでしょうか。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2013
08.06

仲間として成長し、仲間を超える道 ─道徳・宗教・超宗教─

20130725006.jpg
〈ガラスの向こうにいる蛾。堂内へ入りたいのか入りたくないのか〉

 当山では、決して〈説き伏せる〉などという大それたことは行いません。
 修行途中の一介の行者が、それぞれの人生を懸命に歩んでいる方の腕を強引に引っ張れるはずがありません。
 また、当山は、決して〈どちらが正しいか〉を争いません。
 およそ論理は、前提の立て方や言葉の用い方などによっていかような結論へも達し得ます。
 その代表的なものとして、おそらくはいかなる宗教も共通して掲げる「不殺生」一つをとってみても、その正しさを論理的に証明しようとすれば容易ではありません。
 なぜ、恋愛のもつれからの殺人は死刑になり、戦場での大量殺人は英雄の称号に結びつくのか?

 最近、東大大学院工学系研究科(医学系担当)の鄭雄一(テイ ユウイチ)教授は、「東大系教授が考える道徳のメカニズム」において興味深いことを書きました。

「普通『人』は人間一般を指す、と誰もが思います。
 その通りに解釈すると『人間一般を殺してはいけない』となりますが、この決まりは、今まで少しも守られず、守る努力もされなかった矛盾に満ちた規律ということになります。
 でも、戦争の例からわかるように、この場合の『人』には、敵の人間は含まれていないのです。
 すなわち、『人』が意味するのは、字面とは違って『仲間の人間』だけなのです。」


 教授は、〈仲間〉が〈仲間〉を殺す形になる死刑の成立理由も述べました。
 死刑囚は、「社会の大きな敵であり、しかも、今後も仲間になれる可能性の少ない人間である」とみなされた存在なのです。
 チャプリンの有名なセリフ「一人殺せば悪人で、百人ころせば英雄」については、こう指摘します。

「正しくは『仲間を殺せば悪人で、敵を殺せば英雄』と言うべきなのです。」


 教授が発した子供たちへのメッセージです。

「社会を成り立たせている最も重要な決まりである道徳は、『仲間らしくしなさい』と君たちへ教えているよ。
 この掟は、二つの決まりからできていて、第一の決まり、『仲間に気概を加えない』は、必ず守らねばならない決まりだよ。」
「第二の決まり、『仲間と同じに考え、行動する』には、異なる社会によってさまざまなバリエーションがあるので、柔軟に対応し、決して、自分の社会の考え方や行動の仕方を押しつけてはいけないよ。
 いじめや差別が起きるのは、これがうまくできていない場合だよ。」
「どんなに、バーチャルな出会いが増えて、社会が大きくなっても、世界で一番大事な仲間は、君たちが直接出会って、顔を見知っている家族や親友や先生なんだよ。
 どんなに地味で、規模が小さくても、それが君たちの人生の核なんだ。
 このことも絶対に忘れてはいけないよ。
 バーチャルな出会いでつくる仲間は、空間や時間を超えることができるし、とても大きくて、派手で、力を持っているけれど、決して鵜呑みにしたり、溺れてはいけないよ。
 いつも、自分が直接知っている現実と照らし合わせ、違っている場合は、バーチャルな方を修正しなさい。」


 教授が仲間という概念をもって道徳が適用される範囲を考えたのは新鮮な視点です。
 ここには宗教と道徳の根本的な問題が潜んでもいます。
 教授も紹介しているとおり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の経典となっている旧約聖書には征服の物語があります。

「旧約聖書のヨシュア記には、ヨシュアが神の命令に従い、イスラエルの民を率いて、他部族を攻撃し、多くの場合は女子供も含めて皆殺しにしていった様子が記載されています。」


 つまり、最初から、信じる者は救われる仲間であり、信じない者は救われず存在すべきでもないという人間一般への区別があります。
 ここから、仲間になるかならないかを厳しく問う形での布教が始まり、仲間へは手篤く救いの手を差し伸べる一方で、神の命とされる聖戦が絶え間なく行われています。
 一方、お釈迦様は、社会に差別があり、戦争があり、人間同士が傷つけ合いながら死んで行く現実への深い疑問から、人間一般が抱えている根本的な問題へ踏み込みました。
 だから、仏教には最初から、仲間とそうでない人間とを分けるという発想がありません。
 
 分けるタイプの宗教は、仲間という強靱な意識に支えられ、いつも外に敵がいるので戦闘能力が強くなります。
 分けないタイプの宗教は、仲間を固定せず、敵を想定しないので戦う意識はありません。
 宗教が仲間という道徳に関連する枠を設け、その枠が国家という単位になれば、いっそう強硬に正義を主張するようになります。
 仏教発祥の地インドで一時、仏教が滅んだのは、仲間意識の強いイスラム教やヒンズー教に対抗し得なかったという面もありそうです。

 こうした歴史を考えてみると、77才のダライ・ラマ法王が「宗教を超えて」を世に問う必要性、必然性が理解できます。

「もちろん世界の大宗教はどれしも、慈しみの心、あわれみの心、忍耐、寛容さ、赦しの大切さを強調していますし、内なる心の徳性を育むことをやってきています。
 しかし今日の世界において、宗教に立脚した倫理はすでにふさわしいものではなくなってきているのです。
 そのようなわけで、宗教を超えた倫理と精神性の道を見出すべきときがきていると私は思っているのです。」


 ダライ・ラマ法王は説かれます。

「第一の原則は、誰もが幸福を望み、苦しみから逃れたいと願っていること、また人類全体が共通して持っている人間性を認識することです。
 第二の原則は、人には生物的に、また社会的動物として相互に依存しあうという特徴があると理解することです。
 これら二つの原則に立てば、自分の幸福が他人の幸福と分かちがたい結びつきを持っていることが理解でき、そこで他人の幸せを真に考慮できるようになるのです。
 倫理的な目覚めと、内的な徳性のふさわしい基盤となってくれるのは、まさにこの二つの原則なのです。
 そして、このような徳性を養うことで、私たちは他人との結びつきを感じ取り、矮小な利己主義を乗り越えて人生の意義や目的や満足感を得られるようになるのです。」


 ここは、もはや、仏教という枠を超えかかっています。
 そもそも、お釈迦様は、人間一般が抱えている普遍的な問題への普遍的な解決法を求めた結果、真理を観て悟られました。
 お釈迦様が観て説いて遺された真理の教えをまとめたのは、後世の人々です。
 そこから仏教が形づくられましたが、お釈迦様が説かれたのは、社会制度やバラモン教や煩悩によって押し潰されている人間が〈本来の人間〉へと解放される道ではなかったでしょうか。
 現代のダライ・ラマ法王もまた、万人共通の倫理に基づく人間性の発露こそが人類にとって最も必要であり、最優先されねばならないと訴えておられます。

 私たちは、〈仲間〉としてのふるまい方を身につけつつ、一人前でまっとうな大人になります。
 そして、〈仲間〉と接し〈仲間〉でない人々とも接しながら、〈仲間〉としての決まりが通用する場面も、通用しない場面も体験し、成長します。
 もしも叶うならば、周囲の人々と確かな〈仲間〉でありつつ、心には〈超仲間〉の広い精神世界を持ちたいものです。
 そうすれば、きっと、〈仲間〉を相手にしても、〈仲間〉でない人を相手にしても、愚かしいぶつかり合いはしなくなることでしょう。
 確かな〈仲間〉の間により、あたたかさをもたらすかも知れません。




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2013
08.04

第七回法楽塾 ─『ダライ・ラマ法王の仏教哲学講義』を読む(9)苦しみと安楽の真実─

20130803001.jpg
〈『京都環境学』よりお借りして加工しました〉

ダライ・ラマ法王仏教哲学講義】       

第一章 仏教における論理的思考の重要性

 第五節  四つの聖なる真実

 4つの聖なる真実とは、お釈迦様が悟りを開き、最初に説法した時に説かれた教えであり、仏教の根幹です。
 
1 苦諦(クタイ)……真の苦しみ
           輪廻(リンネ)の世界におけるわれわれの実情を、真の苦しみとして捉えたもの。   
2 集諦(ジッタイ)…苦しみの真の起源
           苦しみの生存の真の起源・原因が執着や欲望であると理解すること。
3 滅諦(メッタイ)…苦しみの真の消滅
           苦しみが真に消滅した状態についての教え。
4 道諦(ドウタイ)…苦しみの消滅への真の道
           真の消滅を実現するための修行法法の教え。

 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「お釈迦様が説かれた4つの聖なる真実について、二つの説明の仕方があります。
 一つは汚れたものについての因果関係であり、もう一つは清浄なるものについての因果関係です。」


 ここでの「汚れたもの」とは、苦しみに関する面であり、欲望や執着が問題になります。
 ここでの「清浄なるもの」とは、安楽に関する面であり、悟りが問題になります。

「それらはわたしたちが安楽を求め、苦しみを望まない、ということを前提として述べられています。」


 仏教倫理の基礎は〈生きとし生けるものは安楽を求め、苦しみを望まない〉という事実にあります。
 自分が望み他も望む安楽を共に求め、自分が望まず他も望まない苦しみを共に脱することから逸脱した倫理はあり得ません。

 四つの聖なる真実についての因果関係は、時系列的に、あるいは客観的側面から説かれる場合と、実現の順序、あるいは主観的側面から説かれる場合があります。
 ダライ・ラマ法王は、前者について、マイトレーャの言葉をとりあげます。

「原因と道、そしてくるしみとその寂滅という順に従って、云々」


 また、後者について、同じくマイトレーャの言葉をとりあげます。

「病は認識されるべきである。
 病の原因は除去されるべきである。
 健康な状態は達成されるべきである。
 薬は取るべきである。
 同様に、苦しみは認識されるべきであり、原因は除去されるべきであり、苦しみの消滅は達成されるべきであり、そして道は採用されるべきである。」

 
 もしも病気になって苦しむ時、私たちは誰も、その状態を喜ばず、そこから脱したいと願います。
 原因を知り、原因を取り除くことによって苦しみから逃れたいと望みます。
 原因が塩分の取りすぎであるとわかったなら、誰しもが塩分を控えめにするし、原因が酒の飲み過ぎであるとわかったなら、誰しもが酒をストップするか控えめにすることでしょう。
 苦しみから逃れるためには、小さな苦しみは我慢できます。
 こうして我慢でき、努力できることは人間が理性ある存在である証拠です。
 このプロセスは、四つの聖なる真実の教えと一致します。

 第一に、ぶつかり合い、傷つけ合う私たちの苦しみをしっかり認識しましょう。(病状の認識)
 第二に、その苦しみが続くことを望まない以上、原因を考えましょう。(病気の原因の探求)
 第三に、原因が取り除かれれば苦しみはなくなると確信しましょう。(快癒した状態への希望)
 第四に、原因を取り除く方法を実践するため、努力しましょう。(快癒への努力)

 こうした、問題のありかを的確に掴み、その原因を調べ、原因を取り除く方法を考案し、方法を実行する努力によって問題を解決するというパターンは、社会的にも通用します。
 琵琶湖疎水はその例です。
 以下、『京都環境学』からの抜粋です。
「明治時代を迎えた京都は、東京遷都にともなって、1100年余りにおよぶ都の座を奪われ、あらゆる面で衰微の一途をたどりました。」
 その時、第三代京都府知事北垣国道は説きます。
「京都の再生・繁栄のカギは工業の振興である。
 内陸都市京都にとって、琵琶湖の水を京都市中に引き込めば、あたかも石炭の山が京都の真ん中にできるようなものである。」
 そして、23才の技師田邊朔郎を責任者に抜擢し、田邊は、琵琶湖疎水を完成させただけでなく、日本初の事業用水力発電所を造り、日本最初の路面電車を走らせるという快挙を成し遂げました。
 彼のノートが残っています。

「It is not how much we do,but how well. The will to do,the soul to dare.」
(如何に多くするかではなく、如何に良くするかが大事だ。
 やろうとする意志、チャレンジしようとする魂が大事だ。)


 自他を不幸にする原因を根本から取り除き、自他に真の幸福をもたらそうとするならば、愚かしくまちがいやすい自分を謙虚にふり返るところから始め、このように道理をもって考え、実践したいものです。
 お釈迦様は、〈多く〉する難行苦行から離れ、〈良く〉する瞑想によって悟りを開き、道理をもって説法されました。
 2500年以上にもわたる人間の叡智が蓄積された伝統仏教には、幸福への道筋がはっきりと示されています。
 四つの聖なる真実に立脚し、田邊朔郎のようなチャレンジ精神で生きたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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