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2015
10.19

安心な死へと導くポワとは何か? ―「チベットの生と死の書」に学ぶ(その1)―

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〈絶好の秋晴れとなった日、講堂を埋め尽くした善男善女が、境内地で作った芋煮を堪能しました〉

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〈手作りのおにぎりなどもふるまわれ、誰もが浮き世の憂さを忘れたひとときでした〉

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〈地球の資源を守ろうという呼びかけもありました〉

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〈『法楽米』などが当たる抽選会もあり、盛り上がりました〉

 チベット密教の聖者ソギャル・リンポチェは若い頃、師ギャムヤン・キェンツェに導かれ、テント数30ほどの小さな集団で、巡礼の旅を行った。
 そのおり、60才を超えた老修行者ラマ・ツェテンが急病に罹った。
 死がさし迫り、看護していた弟子は、ギャムヤン・キェンツェを連れてこようとした。
 しかし、ラマ・ツェテンはこう言って止めた。
「彼をわずらわせるんじゃない。
 その必要はない。
 師とともにあって、距離などというものがあるか」
 そして微笑み、「しばし、空を見つめ、息を引き取った」。
 やがてギャムヤン・キェンツェが到着し、死者の「顔を見つめ、瞳をのぞきこみ、くすくすと笑いはじめ」、「そこにいるんじゃない!」と呼びかけた。
「その行を行っていると微妙な障害が起こってくることがある。
 さあ、わたしが導いてあげよう」
 呼ばれたラマ・ツェテンは「息を吹き返し」、それを目の当たりにしたソギャル・リンポチェは「呆然と立ちつくした」という。

「師はラマ・ツェテンのかたわらに腰をおろし、彼を〈ポワ〉へと導いた。
 ポワとは死の直前にある意識を転移させる行のことである。
 この行にはさまざまな方法があるが、そのとき師がもちいたのは『アー』という音を三度唱えながら、師とともに意識の高みに昇りつめてゆく方法だった。
 師がはじめの『アー』を唱えると、ラマ・ツェテンがそれに和する声がはっきりと聞こえた。
 二度目、彼の声は遠くなり、三度目には声は返ってこなかった。
 こうしてラマ・ツェテンは逝った」


 ソギャル・リンポチェはこの体験を振り返り、「精神の勝利」と考えている。
 小生も一度、忘れがたい体験をした。
 親の臨終に間に合わなかったお子さんが駆けつけたばかりの枕経において、〈通じる法〉を結んだ瞬間、死者がフーッと長い息をつき、その場に安堵の空気が広がったのだ。
 以来、小生はますますその修法に意識を集中している。
 引導を渡す葬儀では、もちろん、死者の気配をつかんでから法力を動かす。
 また、「アー」と唱える阿息観(アソクカン)は、阿字(アジ)に象徴される根本仏大日如来の世界へ融け入る修行であり、当山でも行われている。
 正統なポワの伝統はしっかりと受け継がれている。
 死に行く生きものたちの中で人間のみに許された「精神の勝利」は確かである。

 ソギャル・リンポチェは長じてデリー大学とケンブリッジ大学で比較宗教学を学び、ダライ・ラマ法王からこう評される「チベットの生と死の書」を著した。

「いかにして人生の真の意味を理解し、死を受容するか、死にゆく者や死者に救いの手をさしのべるか、に焦点をあわせた、まことに時宜を得た書物である」


 あまりにも大きく深い示唆に富んだ本書を、おりおりに読み進めて行きたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2010
10.10

ダライ・ラマ法王の独占インタビュー ―チベット仏教の叡智(その5)─

 DVDになっているNHKライブラリー『チベット 死者の書』へ特典として付いている「ダライ・ラマ法王の独占インタビュー」について記します。
※(その1)は、「NHK文化講座『生活と仏法』講義録 56 ―チベット仏教の叡智─」にあります。

 ダライ・ラマ法王は「ポワ」について説かれました。

5 ポワ

 チベットの儀礼には慣習化したものもある。
 そのレベルではさほどの意味はなく、単なる伝統習慣である。

 実際のポワの行は、修行体験を通じて自分のエネルギーと心をコントロールできる人が、数週間前に死が迫りつつあり、避けがたいと知ったなら、身体が衰弱し過ぎないうちに心を肉体から切り離した方が良い。
 身体が衰弱し過ぎると、必要とされるエネルギーも低下し、本来、すべき修行も困難になる。
 そこで、ポワを行うタイミングを見計らう必要がある。
 ポワは時に「跳ぶ」ことを意味する。
 自然な死のプロセスを迎える前に、自分の心を肉体から切り離してしまう。
 肉体から微細な心を切り離す。
 身体が衰弱しきらないうちに。

 自分のための行であるが、熟達すれば、死に行く人の手助けも可能である。
 死に行く人は、完全に死んでしまう直前に、ポワに精通した者の手を借りてある種の意志力を、新たな体験を得る。
 他人のために最も良いのは死のプロセスが起きる前。
 身体が充分機能しているうちにポワの行を行い、瞑想体験を得て行になじんでおく。
 死の瞬間がきたら、ポワを実践する。

 一種の慣習になっているポワもある。
 ポワの儀式を行う者も、死に行く者も、深い内面的体験を経ていなければ、芝居と変わりなく、何の意味もない。
 何もしないよりはましだが…。
 ポワの実践と比較すれば、真言を唱える、経典を読むなどは、さほどの意味がない。


 ポワについてはラマ・ケツン・サンポ師による『虹の階梯』が明確に書いています。

「ポワは、たとえいつ死が訪れても動ずることなく、確実に心(意識)を身体からぬきだして、より高い状態へと移し変えるための身体技法であり、チベットでは密教行者ばかりではなく、一般の人々にも広く学ばれてきたものである」


 つまり「意識の転移」がポワです。
 同書は5つの種類を示しており、一般の人も、「〈道〉を〈旅人〉が〈旅〉をする」というイメージをしっかり持てれば、阿弥陀の浄土へたどりつくポワが実践できます。
 とても納得できるのは以下の記述です。

「老人の場合、ポワは比較的簡単にできる。
 これはものにたとえれば、夏にはまだ青く振り落とすことも難しい果実が、秋になればすっかり熟れ切って、ちょっとさわっただけでぽろりと落ちてくるようなものである」


 息が絶えた瞬間から中有(チュウウ)という転生(テンショウ)前の状態へ入って行くまでの状態についての記述もまた、説得力があります。

「息絶える。普通いわれる死である。
 しかし、それですべて終わりと考えるのは、意識と生命の本質についてあまりにも無知な者たちの考えである」


 そのとおりです。
 息が絶えた瞬間ですべて終わりであれば、なぜ「枕経」が必用なのでしょうか。
 枕経は、この世に別れを告げたばかりの状態はとても不安定なので、迷わぬよう、悪しき者が近づかぬよう、死後の7日間をお守りくださる不動明王のご加護をいただくために修法します。
 ここにはいくつかの動かせないポイントがあります。
○人は「死んで終わり」ではない。
○死後の導きが必用である。
○導きはみ仏によって行われ、お力をくださるみ仏との縁を結ぶのが、法力を具えた行者である僧侶の仕事である。
 この三つを認めない方にとって、枕経は不要です。
 しかし、ご遺族の方々と共に、枕経によるとしか考えられない感動的な体験を重ねている者にとっては、「意義を知らないままに思考停止してしまうのはいかななものでしょうか」と言いたくなります。
 修法中に、苦悶の中で生命活動を終えたはずの方が「フーッ」と長く吐いた息の音を聞いたこと。
 残虐な事件で亡くなった方の表情が、修法後、見違えるように穏やかになったこと。
 修法後、臨終に間に合わなかったお身内の方が、修法後、死者のメッセージを感得したこと。
 こうしたできごとは、息が絶えた瞬間をもって故人は無になり、ご遺体もまた、ただのモノになったのではないという真実を示しています。

 真言密教における死後のポワは、引導法によって行われます。
 これまでに何度か書いたとおり、ご加持法によって疲労を感じることはほとんどありませんが、引導法を行うと心底疲れます。
 全身全霊でお送りするには、法力はもちろんですが、気力と体力が不可欠です。
 修法の力を確信できなくなった時が引退の時期であると思い定めています。
 もちろん、ご加持法は意識のある限り可能ですが、引導法だけは別ものです。
 だから、冒頭の言葉と最後の言葉は、そのまま真実であると確信できます。
チベットの儀礼には慣習化したものもある。そのレベルではさほどの意味はなく、単なる伝統習慣である」
「ポワの実践と比較すれば、真言を唱える、経典を読むなどは、さほどの意味がない」
 
 形をなぞっても法は動きません。
 そして、最近は、引導法がきちんと行われないまま、荼毘に付されてしまう御霊が増えています。
 人間の歴史が始まって以来さまざまな方法で行われてきた「送る」作業から、宗教的な手法がこれだけ疎かにさる時代があったでしょうか?
 生を謳歌するだけで死の尊厳を脇へ置き、さようならと手を振るだけで死者を彷徨わせたまま、私たちのこの世から〈乾いた〉〈無慈悲な〉〈愚かしい〉考えや行動がなくなるとは思えません。
 この世の荒(スサ)みの一因は送る心の荒みにあると考えているのは私だけなのでしょうか?

 ところで、死の真実を求めて足をはこんだ劇場で観た映画『必死剣 鳥刺し』もまた、以下の教えに合った成り行きになっています。 

「ポワは時に『跳ぶ』ことを意味する。
 自然な死のプロセスを迎える前に、自分の心を肉体から切り離してしまう。
 肉体から微細な心を切り離す。
 身体が衰弱しきらないうちに」


 豊川悦司が演ずる主人公兼見三左ェ門は秘剣「必死剣 鳥刺し」の使い手です。
 最後の場面で、大勢の侍に取り囲まれた三左ェ門はさんざんに斬られ、突っ伏したまま動かなくなります。
 恐る恐る近づいた者が息のないことを確認し、三左ェ門を裏切って死へ至らしめた上司は、哄笑を浮かべながら近づきます。
 その瞬間、三左ェ門の身体は飛鳥を刺すかのような鋭さで跳躍し、まっすぐに伸びた切っ先は確実に上司の心臓を一突きにします。

 以前、上司から秘剣を見たいと言われ、こう返事しています。

「この技を使う時、使い手はほとんど死んでいます」


 この秘剣が「必殺剣」ではなく「必死剣」である秘密はここにあります。
 必死剣の実践が可能だったのは、三左ェ門が武術者として「意識の転移」を含む修行をしていたからであると考えられます。

 人間の死は、モノを見るだけではつかめません。
 聖者の教えや、こうしたレベルの芸術などによって感性を磨き、真実へ迫る心を忘れないようにしたいものです。

〈この絶対性〉
221008 001




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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