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2015
08.14

秋風やひとさし指は誰の墓 ―寺山修司のとまどい―

201508140001.jpg
〈田中一村『アダンの海辺』〉

 夜半の豪雨と雷鳴がおさまったら、とたんに虫たちが鳴き始めた。
 激しく空から降り、地を流れたであろう大量の水をかぶったはずの野辺にいる小さな虫たちは、どうやって災禍をやり過ごしたのだろう。
 明るみが増すに従って、声は小さくなる。
 外へ出てみればもう、無言の赤トンボが飛んでいることだろう。
 立秋が過ぎ、お盆に入った今、秋風がトンボを運び、数々の実りを運んでくる。

 そんな朝、ふと、寺山修司の一句を思い出した。
 

秋風やひとさし指は誰の


 秋風の吹く地で石たちを眺めている。
 そのどれもが、生きている人がいたことと、生きていた人が死んでいることを証している。
 誰のおも等しく……。
 途方もなく巨大な空虚に耐えかね、あれは誰のだろうと焦点を絞り、具体的に見ないではいられないが、その一方で言い伝えがふと、思い起こされる。
「おを指さすと、そのあたりにいる未成仏霊が憑いてくる」
 だから、心の人差し指は宙に浮く。
 人差し指は誰の墓をも指差せない。
 それでも、かつて人々がいたことは確かであり、それを特定するための指差しをやりたい衝動はおさまらない。
 揺れ動く心などにおかまいなく、秋風は飄々と吹き渡っている。

 寺山修司にはこうしたお墓の句もある。

「ちゝはゝの墓寄りそひぬ合歓のなか」


 合歓(ネム)の葉は、夜に閉じる就眠運動を行う。
 合掌するかのようである。
 合わせられた両手の内にこそ、歓びがある。
 ただし、これはあくまでも想像上の世界である。
 父親は出征先で病死し、母親は彼よりも長生きするのだ。
 早くに失った父親と、葛藤のあった母親……。
 合歓と同じであったろう彼の祈りは深い。
 
 今朝ももう、お墓を目指して善男善女が訪れている。
 誰のお墓も必ず、誰かのお墓である。
 誰々のお墓と人差し指を向けずとも、万霊供養の心でお参りをしたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2010
04.07

共同墓『法楽の礎』を始めた理由

 当山は、個別のお墓へ入らない方々の共同墓法楽の礎』と、孤独死などで行き場のない御霊のための無縁墓『五輪の塔』を運営しています。
 理由はいかなる方にも安心していただきたいからです。

 さて、4月6日付の朝日新聞へ「イエに縛られない墓」の記事が掲載されました。
 共同墓「安穏廟」です。
「イエにうんざりしていた」男の子のいない住職が「イエに関係ない墓」を造って「収益を基金にし、その利子で寺を運営」しています。
 この共同墓は大ヒットしましたが、それには相棒がいます。
 現東洋大学教授井上治代氏です。
「東京の核家族家庭に育った井上は、30歳のときに母を亡くし、墓の問題に直面した。父は次男だから、継承する墓はない。井上と姉は二人とも結婚で家を出ている。父が墓を作ってもだれが継ぐのか。親を無縁にする可能性がある」。
「なのに、なんでせっせと夫側の仏壇や墓を守らなくちゃいけないの」。
「イエ意識への違和感が抑えきれず、翌年、離婚。墓の問題を追いかけ始めた」。
 井上治代氏は「21世紀の結縁と墓を考える会」を作り、それ以来、二人三脚で安穏廟を買った人たちの輪を広げてきたそうです。

 この記事を読んだAさんから「住職と同じことをしているお寺があったんですね」と電話をいただきました。
 Aさんは、かねて『法楽の礎』に関心を持っておられ、わざわざご連絡をいただいたのはありがたいことです。
 しかし、記事を読むと、同じように共同墓を運営していても、発想はまったく違います。
 ここは明確にしておかねばならなりません。

 まず、貯めた収益の利子で寺院を運営するという考え方は、「ご本尊様へいのちをあずけた行者が修行と修法を行う道場である寺院はいかなる収益事業も行うべきでない」という当山の姿勢と反対ですが、今や、駐車場や貸しビルを経営する寺院すら珍しくない時代なので、これ以上触れません。
 肝心なのは「イエ」と仏法の関係です。

 記事を読む限りにおいては、〈家〉へ反発していた住職と教授は、〈家〉の呪縛から離れて縁を結びましょうと社会へ呼びかけ、共同墓を発展させたと理解できます。
 そして、家をわざわざ「イエ」と書く記事は、明らかに、この運動を推奨しています。
 当山は同じような共同墓を運営している寺院ですが、理念は家の忌避と無関係です。

1 私は、日々の托鉢行にあって、ご縁となる方々からさまざまなご意見を聞き、世間様が求める寺院とはいかなるものか、僧侶へ何を期待しているかを重ね重ねて教えていただきました。 
 そうした中で、後継ぎ問題が深刻化していることを身に染みて知りました。
 また、日々行っている人生相談で、お墓に関する種々の問題が発生していることを知り、み仏の教えと救いにすがりながら、皆さんと共に解決方法を考えてきました。
 お墓を誰も継承できないのなら共同墓へ入れば良いと考えますが、どこの寺院でも共同墓は境内地の隅っこに小さな観音様が祀られた程度のものしかなく、撤去されたと思われる古い墓石が周囲に積み重ねられていたりもしました。
 後継ぎのなくなった御霊も、一人で眠ろうとする方も、安心できる状態ではありません。
 これでは、救い漏れのないはずの〈み仏の手〉が届かないではないか、誰も手を合わせてくれる人のいない御霊は、皆で供養しなければならないのではないかと思いました。
 そして、供養の根本は本尊供養であり万霊供養であるとの教えからしても、共同墓は墓地の主要部に造らねばならないと考え、初七日から三十三回忌までお導きくださる十三仏様をきちんとお祀りしたいと願うようになり、やがて、十三仏様を頂く共同墓『法楽の礎』のイメージが固まりました。

 何もないところからスタートした当山には当然墓地もありませんでしたが、その後、驚くしかないできごとの連続で、資金集めをせずとも墓地ができ、イメージは形になり、『法楽の礎』が完成しました。
 ただただ、寺院は〈救い漏れのないみ仏の世界〉でなければならないという使命感と、無縁になる方々や無縁になりたい方々を〈見捨ててはおけない〉という使命感とで祈り、語っているうちにいつしか姿を現したのが『法楽の礎』です。
 今、墓地を訪れる方々の多くは、聖地を守る十三仏様へ合掌されます。
 それは、十三仏様の下で眠る御霊方へのありがたい供養となっているのです。

2 当山には、家を否定するという発想はありません。
 むしろ、家や社会などへの帰属意識の欠落が今の乾いた社会を作らせた根本原因の一つであると考え、憂いています。
 家の否定は、つきつめれば親子関係の否定へ行きつきます。
 それで子供は健全に育つでしょうか。
 もちろん、子供が要らないと考えるのは自由であり、好きな男と女が適当に暮らせば良いと考えるのも自由であって誰にも否定されるべきではありませんが、それとこれとは別問題です。

 当山は、過去の大家族制が復活されるべきであると声高に主張するものではありません。
 世代の異なる家族の同居は人間性を陶冶すると同時に、心を荒ませるケースも少なくはありません。
 人生相談にはそうして傷ついた方々もたくさん訪れます。
 しかし、家を〈呪縛するもの〉として否定し、人間を一旦バラバラにしてしまい、また結びつけるという思想や方法が人間の持つ仏性を発揮させるために最も有効であるとはとても思えません。
 また、帰属意識を失った人間の作る社会が理想的であるとも考えられません。

 当山がこれまで毎月上映を続けてきた映画『チベット チベット』は、韓国人三世金森太郎監督によって作られました。
 日本で生まれ育った監督は「国籍とは何だろう」、「故郷とは何だろう」、「文化とは何だろう」、「自分は何者なのだろう」と考え、故国韓国を含む世界一周の旅に出ました。
 帰国したなら日本国籍になろうという気持もあったようです。
 しかし、祖国韓国の様子を眺め、中国軍によって民族も文化も破壊されつつあるチベットの現実を目の当たりにし、復興を願うダライ・ラマ法王や亡命者たちと接触しているうちに世界観がすっかり変わりました。
「自分の国や文化を大切にし、誇りを持てないならば、真に他の国や人々の文化を尊べない」と知ったのです。
 そして監督は、旅の最後に韓国の伝統に則った形で祖先のお墓参りを行い、疑問は解決しました。

 家や家族の問題は、家を〈古いもの〉として否定し、家族のつながりを切る方向でなく、人間関係の希薄化と社会不安の増大という重大問題へ対処するために、そうして切られた〈他人同士の結びつきを作る〉よりもむしろ、まず〈親子や家族のつながりの回復方法〉を考える方向で検討すべきであると思います。
 もちろん、〈切れてしまった方〉や〈切りたい方〉のケアは疎かにすべきではありませんが、家を否定したり、孤独者として生きることを勧めるたりするのは、行者としての私の仕事ではありません。

3 仏法は、いのちを活かす方法を説きます。
 人間のいのちとは心であり、身体であり、文化です。
 それを支えるのは、〈継承〉です。
 心に深層意識や潜在意識があるということは、西洋で科学者が気づく数百年も前に、偉大な仏法修行者たちによって説かれています。
 身体はDNAによって個体として特徴づけられています。
 文化は過去の人間が心と身体を用いて生きた証として伝えられ、今も時々刻々と創造され続けており、文化のない人間社会はありません。
 この3つはすべて時間によって運ばれ、私たちの〈今〉を成立させています。
 そして、私たちが生き、死ねば、心も身体も文化も自動的に後代へバトンタッチされます。
 こうしたいのちを生かす仏法は〈断絶〉を説きません。
 聖徳太子の説いた「和」にも、弘法大師が説いた「マンダラ」にも、断や絶はありません。
 時間に支えられたいのちを活かす仏法が日本人古来の祖先を大切にするという文化とあいまって、今の日本仏教を形作りました。
 時間軸では祖先を敬い子孫を想い、空間面では差別せずに手を差しのべ合う、ここを根とするのが私たちにとって活きた仏法であり、釈尊が最も尊んだいのちを活かす〈道理〉です。

 当山はこうした信念によって一般墓地も共同墓『法楽の礎』も運営しています。
 ご理解いただければ幸甚です。

 なお、当山では、お彼岸やお盆はもちろん、お花見や草苅などで皆さんが集い親しむ機会をいろいろ設けていますが、共同墓関係の方々だけの集いは行っておりません。
 それは、いかなる形であろうと、当山の仏法とご本尊様のご加護に安寧を求める方々の心はつながっており、一般的な墓地を造る方々と、共同墓へ入る方々とを区別すべきではないと考えるからです。
 実際、いかなる仏縁の方々も一切のこだわりなく、集い、笑顔を交わし合い、お寺を支えてくださっています。



「おん さんざんざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2007
07.23

お墓に入れない人はいるか?ペットは?

 昨日、ご友人同士が同じ聖地で眠るべく、一区画へ石が二組並んだおが完成しました。中央に敬愛してやまない不動明王像を配した品格のあるできばえで、感心しました。
 また、当山には、故人が生前可愛がっていた番犬の姿をそのまま石で造り、おへ置いた方もおられます。
 この際、以前書いた文章を元にして、姓の異なる人やペットを同じおへ入れられるかどうかという問題についてはっきりさせておきましょう。
 
 俗信は山ほどあり、それを恭しくあるいは断定的に宣って人を不安にさせる手合はいつの世にもいるものです。
 見聞きしたことを鵜呑みにせず、「正思」をもって考えてみましょう。
 思惑や都合を小とし、み仏の教えに立つならば、姓の違いで決定的に区別し同じおへ入れないなどというのは、今の世にふさわしくない考え方です。
 一族に連なる人々はどなたであれ共に弔って当然です。
 また、心が通じ合う人同士が同じおへ入られるのも、お墓が供養の場である以上「理の当然」です。
 そもそも、供養の根本は万霊供養にあり、それは生者が死者を供養するだけでなく死者も生者を供養し(ご守護です)、死者と死者、生者と生者の間でもわけへだてなく行われるものである以上、この世で縁の深かった人々があの世でも縁を深くして悪いはずはありません。

「名」というものについても、世間には多くの誤解があるようです。
 名は体や形や価値を示すのみで、姓名は持つ人の意識へ多少の影響を与えても、それが生死の大事に関わったり運命を大きく動かしたりはしません。
 それは、親が子供へ名前をつける場合を考えればすぐに解ることです。
 親は、自分の希望や夢を子供に託して「こうあって欲しい」と必ず良いもの、善いもの、佳いもの、好いものを考えます。
 考えられる限りのすばらしい名前をつけます。
 しかし、子供たちの現状、あるいは子供だった人たちの行く末はどうでしょう。
 地獄へ迷いこんだ子供や極悪非道な行為をした人間の名前に価値ある文字は入っていないでしょうか。
 尊ぶべきは、より吉祥をもたらす名前をつけてやりたいと努力し、子供の幸せを願う親心です。
「親は懸命に親の役割をはたす、子供は感謝する」それがすべてです。

 戒名を並べて吉凶や成仏や一族の家運をうんぬんすることもあるやに聞きますが、戒名が子孫へ影響を与える影響は、それほど大きくはありません。
 戒名は、御霊そのものの心や人生などに含まれるを表現したものだからです。
 何よりも大切なのは、戒名をよく読んでそのを偲ぶことです。
 そして、一族の者として感謝と誇りを持つことです。そうすれば「人の道」を歩む力が授かることでしょう。

 また、人間と他の生きものとは、役割やが異なるのみで、根本的な差別はありません。
 輪廻転生の理によれば、人に生まれる場合と他のものに生まれる場合とでは、が違ってそうなっただけです。
 金のために人を苦しめ、殺し、食欲にまかせて生きものを殺し、恩を仇で返し、権力のために矜恃を捨て、我欲のままに生きて事たれりとし、日々地獄道や畜生道などの六道を輪廻している人間が、自然界の掟に従って生きている動物などを差別する資格がありましょうか。
 ましてや、縁があって同じ屋根の下であるいは同じ敷地で暮らした生きもの同士が、死んだからといってすぐにバラバラになり、片方は手厚く弔われ片方はゴミになるなど、道理ではありません。
 ただし、が異なる以上、お骨を一緒にするわけには行きませんから、同じ墓地であっても、区別すべきところははっきり区別をし、それなりの法を結ぶ必要があります。
(「差別」と「区別」は別ものです。それを混同している世間の迷いに毒されないようにしましょう)
 当山では、ご希望により、ペットをも弔う正統な形をご指導させていただき、この世で畜生であった者も成仏し、やがては畜生道を脱することができるようきっちりと修法しておりますからご安心下さい。



2006
08.12

お盆と施餓鬼

 お盆に行なう施餓鬼(セガキ)会は餓鬼界に迷う諸精霊へ施しご供養するもので、万霊供養の基(モトイ)です。 その心をもって、それぞれの家の、あるいはご縁の御霊をご供養してください。

 生きものとして「食べられない」という最も辛いところにおられる精霊へ施すことができれば、万霊への供養ができます。
 かつて、欧米列国の世界支配計画へ抵抗して日本が断固立ち上がり、日露戦争が起った時、昭憲皇太后は自らの居所を女性たちへ提供し、前線で戦う傷兵を思いやりながら、日夜、包帯づくりに勤しまれました。
 国民を思い、平和を願うそのお心は、後にノーベル平和賞の候補者に挙げられたほどです。
 自分がいかなる境遇にあっても、世の中にはとても辛い思いをしている人々がいることへの想像力と、縁に応じての思いやりを忘れぬようにしたいものです。

 修法では、清らかな飯食を加持して鬼神となっている方々すべてへ捧げ、貪りの心を捨てて満足が得られ、迷いの悪道から善き世界へと抜け出られるよう、三宝へ帰依して悟りを求める心を発してこの上ない安心が得られるよう、そして、その功徳によって一切の生きとし生けるものが飲食に不自由せずに済むよう願いをこめます。

 導師の修法と善男善女の祈りによって、五如来様方が、

貪る心を離れて福智円満に
醜い姿を離れて円満な姿に
心身を護っていただいて心豊かに
喉を開いて飲食物を摂れるように
恐怖が消えて餓鬼界から離れるように

と、精霊の手を引き、安心の境地へとお連れくださいます。

 この大きな功徳を諸精霊へ回向すれば、必ずや極楽浄土へと進まれることでしょう。
 それは、この世の私たちが、布施行によってより早く迷いを脱する道でもあるのです。




2005
07.23

お墓へ入れない人はどういう人か?ペットは人間の墓所へ入れないか?

 昨日、ご友人同士が同じ聖地で眠るべく、一区画へ墓石が二組並んだお墓が完成しました。中央に敬愛してやまない不動明王像を配した品格のあるできばえで、感心しました。
 また、当山には、故人が生前可愛がっていた番犬の姿をそのまま石で造り、お墓へ置いた方もおられます。
 この際、以前書いた文章を元にして、姓の異なる人やペットを同じお墓へ入れられるかどうかという問題についてはっきりさせておきましょう。
 
 俗信は山ほどあり、それを恭しくあるいは断定的に宣って人を不安にさせる手合はいつの世にもいるものです。
 見聞きしたことを鵜呑みにせず、「正思」をもって考えてみましょう。
 思惑や都合を小とし、み仏の教えに立つならば、姓の違いで決定的に区別し同じお墓へ入れないなどというのは、今の世にふさわしくない考え方です。
 一族に連なる人々はどなたであれ共に弔って当然です。
 また、心が通じ合う人同士が同じお墓へ入られるのも、お墓が供養の場である以上「理の当然」です。
 そもそも、供養の根本は万霊供養にあり、それは生者が死者を供養するだけでなく死者も生者を供養し(ご守護です)、死者と死者、生者と生者の間でもわけへだてなく行われるものである以上、この世で縁の深かった人々があの世でも縁を深くして悪いはずはありません。

「名」というものについても、世間には多くの誤解があるようです。
 名は体や形や価値を示すのみで、姓名は持つ人の意識へ多少の影響を与えても、それが生死の大事に関わったり運命を大きく動かしたりはしません。
 それは、親が子供へ名前をつける場合を考えればすぐに解ることです。
 親は、自分の希望や夢を子供に託して「こうあって欲しい」と必ず良いもの、善いもの、佳いもの、好いものを考えます。
 考えられる限りのすばらしい名前をつけます。
 しかし、子供たちの現状、あるいは子供だった人たちの行く末はどうでしょう。
 地獄へ迷いこんだ子供や極悪非道な行為をした人間の名前に価値ある文字は入っていないでしょうか。
 尊ぶべきは、より吉祥をもたらす名前をつけてやりたいと努力し、子供の幸せを願う親心です。
「親は懸命に親の役割をはたす、子供は感謝する」それがすべてです。

 戒名を並べて吉凶や成仏や一族の家運をうんぬんすることもあるやに聞きますが、戒名が子孫へ影響を与える影響は、それほど大きくはありません。
 戒名は、御霊そのものの心や人生などに含まれる徳を表現したものだからです。
 何よりも大切なのは、戒名をよく読んでその徳を偲ぶことです。
 そして、一族の者として感謝と誇りを持つことです。そうすれば「人の道」を歩む力が授かることでしょう。

 また、人間と他の生きものとは、役割や徳が異なるのみで、根本的な差別はありません。
 輪廻転生の理によれば、人に生まれる場合と他のものに生まれる場合とでは、徳が違ってそうなっただけです。
 金のために人を苦しめ、殺し、食欲にまかせて生きものを殺し、恩を仇で返し、権力のために矜恃を捨て、我欲のままに生きて事たれりとし、日々地獄道や畜生道などの六道を輪廻している人間が、自然界の掟に従って生きている動物などを差別する資格がありましょうか。
 ましてや、縁があって同じ屋根の下であるいは同じ敷地で暮らした生きもの同士が、死んだからといってすぐにバラバラになり、片方は手厚く弔われ片方はゴミになるなど、道理ではありません。
 ただし、徳が異なる以上、お骨を一緒にするわけには行きませんから、同じ墓地であっても、区別すべきところははっきり区別をし、それなりの法を結ぶ必要があります。
(「差別」と「区別」は別ものです。それを混同している世間の迷いに毒されないようにしましょう)
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