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2013
01.02

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その41) ─明らかなことと明らかでないことを区別して話す─

2013010100004.jpg
〈皆さんのお心にお支えいただきながら、新たな年の修法が始まっています〉

 この欄では、昭和6年に発行された小冊子を基にして子供たちの導き方を考えています。

40 「し」 正直にまさる武器なし

「奮闘の武器は何だ。
 第一の武器は正直だ。
 元気、快活、不屈、熱心、みんな、正直から生まれる。
 最後の勝利も正直の者が握る。
 正直なれ。」


 十善戒を人の道の根本とした慈雲尊者は、第4番目の不妄語戒を、こう述べています。
正直不妄語戒」
 不妄語つまり、妄語を用いるべからずというだけでなく、妄語を脱した〈正直〉をめざすことにより、妄語を使わなくなる、あるいは妄語を口に出来なくなる境地をめざす指導を行いました。
 まさに、お釈迦様の人間づくりに通底した最高の導きです。
 では、正直とは何か?妄語とは何か?

 最もわかりやすいのが、見聞きした、あるいは知っているとするところに生じる妄語です。
 以下の状態は皆、正直とは言えません。

1 見たものを見ないと言う。
  見ないものを見たと言う。
2 聞いたものを聞かないと言う。
  聞かないものを聞いたと言う。
3 知っていることを知らないと言う。
  知らないことを知っていると言う。

 どうでしょう?
 まず、私たちは1と2について、かなり怪しい空気の中で生きていると思われます。
 曖昧な状態である「~という気がする」を、そのまま事実に〈格上げ〉してしまい、「見た」「聞いた」として語り、行動してはいないでしょうか?
 最も端的な例が、「肩が重い→何か憑いているような気がする→断定的にモノを言う人から悪霊が憑いているよと指摘された→憑いた悪霊に悩まされる」といったパターンです。
 現代はまさに先行きが不透明な不安の時代であり、それは「~という気がする」ビクビクした心に顕れています。
 昔、トイレが真っ暗だった時代に、子供が一人でトイレへ行けなかったり、お墓が陰気だった時代に、お墓で肝試しをやったのと同じ心理です。
 昔はそれを笑い飛ばす先輩や大人がおり、人生の一時期を過ぎればいつしかビクビク状態は忘れ去られましたが、今は、大の大人同士がずっと引きずっています。
 しかも、不安の原因となっている曖昧さについて「それは実体がある」と無責任に断定する人々が現れ、より過激に断定することによってマスコミからスターに祭り上げられ、今や〈人生の師〉らしい顔で世を渡っている様子を見ると、これで日本は大丈夫かと心配になる日もあります。
 たとえば、関東大震災直後の日本はどうだったでしょう。
 当山のブログ『彼岸 ―鶴見署長大川常吉に学ぶ─』(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-655.html)からの転載です。

 大正12年9月1日に起こった関東大震災は、実に340万人以上もの方々が被災し、犠牲者は死者行方不明者合わせて14万人以上に上る大災害でした。
 翌2日、政府は戒厳令を宣告し、3日には戒厳地境が東京府・神奈川県全域まで拡大されました。
 非常事態にあたり、朝鮮人が混乱に乗じて日本政府の転覆を計るのではないかと疑心暗鬼になった人々は、兵士や警察官はもちろん、自警団を組織する民間人なども、朝鮮人と見るや暴行し殺害しました。
 治安を乱そうと強盗や放火を行い、井戸に毒物を入れているなどという噂も飛び交っていたからです。
 そうした最中、横浜鶴見の警察署へたくさんの朝鮮人が救いを求めて訪れていました。
 鶴見署は彼らを総持寺へかくまいましたが、人数が多くて安全の確保は難しく、殺気立った群衆から守るため警察署へ連れ戻しました。
 それを知った群衆は鶴見署をとり囲んでどんどん膨れあがり、ついには千人以上の人々がだれ込みかねない様相を呈するほどになりました。
 危機に直面した当時の署長大川常吉は覚悟を決めて群衆の前へすすみ出、まず自分を殺してから朝鮮人を殺せと大音声で言い放ち、実際に井戸へ毒を入られたというのならそれを持って来いと告げました。
 そして、眼前へつき出された一升にもなろうかという水を群衆の面前で飲み干しました。
 この気迫に押された群衆は引き上げ、ことなきを得ました。
 後に、大川署長はこう語ったとされています。
「朝鮮人であれ、日本人であれ、自分の仕事は人のいのちを救うことなのであり、当然の行動だった」
 こうした使命感を支えたもの、それは、限りない思いやりと、是非善悪を判断して揺るがぬ智慧です。


 今の私たちに、朝鮮人を狙って暴徒化した群衆に似た心理が発生しつつありはしないでしょうか?
 大川常吉のようなわけへだてのない思いやりと、ことの真偽を確かめ見分ける肝の据わった智力、そして、その慈悲と智慧に裏付けられた行動が可能でしょうか?
 ここではすでに、前掲した3、すなわち知っていることと知らないことを峻別し、責任をもって話す正直さも問われています。

 忘れ去られそうになっている言葉に「世迷(ヨマ)い言(ゴト)」があります。
 わけのわからぬバカバカしい言葉を指しますが、迷い、フワフワした心理から発せられる言葉は、自分の心理を表しているだけでなく、世を迷わせる危険性までも含む場合があります。
 お化けがいそうだと不安を口にする人々、そこにお化けがいるぞと断定する人々が加わったならどうなるか?
 やはり、正直であれと説く、こうした心の訓練は貴重であると思われます。
 当山の隠形流(オンギョウリュウ)居合でも、稽古の前に必ず唱和します。

「我、明と暗の区別をするは、人を惑わさず、自他の発展を願うがゆえなり」


 自分が、明らかであることと明らかでないことを区別できなければ、自分が迷うだけでなく、他人をも迷わせてしまいかねません。
「正直なれ」を胸に抱いてやりましょう。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
01.07

あらためて十善戒を考える(その2)

 年のはじめに、あらためて「十善戒」を考えています。

4 不妄語(フモウゴ)

 妄語とは、妄りな言葉であり、です。
 がいけないのはなぜか。
 それは、言葉が真実から外れていれば、思考も崩れ、言霊に左右される行動も誤ってしまうからです。
 当然、誰かを傷つけもします。
 私たちはさまざまな理由でをつきます。
 自己弁護のため、自分がよく思われたいため、自分を有利な立場に置きたいため、その場しのぎのため、あるいは何かを奪うため、……。

 ある日、インドの国王が他国で托鉢していたところ、牝牛に突き殺されるという事件が起こりました。
 牛の持ち主は怖くなって売り渡しましたが、今度は、新たな持ち主が同じように殺されました。
 持ち主の子供が怒って牛を殺し、肉を売りに出しました。
 市場でその頭を買った人が田舎へ帰る途中、木の枝に引っかけて休息していたところ、突然、牛の頭が落下して、またもや人を突き殺しました。
 一日のうちに一頭の牛にからんで三人も死ぬのは何かの知らせに違いないと感じた国王は釈尊の元を訪ねました。
 釈尊は驚くべき因縁譚を語ります。
「昔、三人の商人が老婆一人でやっている宿に泊まり、代金を踏み倒して逃げた。
 近所の人に教えられた老婆はやっとの思いで三人に追いつき、支払いを求めた。
 ところが三人は揃って『払った』と言い張り、老婆を罵った。
 老婆は呪詛を口にした。
『困窮している私は我慢に耐えない。
 どこに生まれ変わろうと、必ずお前たちを殺す。
 たとえお前たちが悟りを得ていたとしても許さない。
 この思いはお前たちを殺すまで止むことはない』
 今日、老婆の思いが叶えられたのである」
 そして、詩になった教えを説かれました。
「暴言や罵りの言葉をはき、
 おごり高ぶって他人を侮る。
 こうした行動は怨みを生ずる。

 謙遜した言葉や従順な言葉を語り、
 人を尊敬し、
 煩悩を捨てて暴言に耐えれば、
 怨みは自ずから滅する。

 人は生まれながらにして、
 口に斧を持っている。
 身を斬るのは、
 その暴言による」


 口から出た言葉はもう、飲み込めません。
 因果応報は確かです。
 ただし、自分ではない誰かのため、あるいは何かのために事実と異なることを言わねばならない場合があります。

 有名なのが、『法華経』にある「三車火宅」の話です。

 ある長者の家が火事になりましたが、火の恐ろしさを知らない数十人の子供たちは、いくら言って聞かせても危険と思わず、遊び回っています。
 そこで長者は「外へ出てごらん。お前たちが欲しがっている羊の車と鹿の車と牛の車があるよ」と声をかけました。
 外に出れば車があると信じた子供たちは我先に家から飛び出し、全員無事でした。


 この場合、長者はつきになるか?
 経典は、「方便をもって子供たちを救い出そう」という意志が事実と異なることを言わせたので、をついたことにはならないと説いています。
 だから、事実と言葉の関係において最も大切なのは意志です。

 ここで学ぶべきは、やはり、智慧と慈悲の大切さです。
 自己中心の愚かな心は、自分の都合によって事実と異なることを口にし、もしくは真理からずれた確信を主張します。
 たとえば、返すつもりもないのにお金を集めて逃げたり、悟ってもいないのに私は解脱したなどとホラを吹いたりします。
 また、言うべきでない事実を告げるのも、いわゆるではありませんが「妄りな言葉」に分類されるべきかも知れません。
 たとえば、小さな子供へ思慮もなく、あるいは悪意をもって「あなたのお母さんは別にいます」と教えることなどです。
 一方、真理を考え智慧と思いやりのある心は、前述の長者のような方便を使い、あるいは、小さな子供が懸命にやっていることを「上手!上手!」と誉めたりします。
 つまり、言葉へまことの心をこめることが大切なのです。

 なお、「方便」は『大日経』によってさらに意味が深められ、「具体的な手立て」を指すようになります。
 愚かな自分が悟って誰かのためになりたいと願う心が原因となり、深い思いやりに根ざした具体的な手立て(方便)こそが、人間にとって最も大切なものとされています。
 妄語を離れて自らを欺かず、他を欺かず、真の意味での方便として、言葉を大切に用いたいものです。

20120102 001



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2009
05.09

お授け 4

 例祭で行うお授けです。

4 十善戒(ジュウゼンカイ)

「弟子某甲(デシムコウ)
盡未来際(ジンミライサイ)
不殺生(フセッショウ) 
不偸盗(フチュウトウ) 
不邪淫(フジャイン)
不妄語(フモウゴ) 
不綺語(フキゴ) 
不悪口(フアック) 
不両舌(フリョウゼツ) 
不慳貪(フケンドン) 
不瞋恚(フシンニ) 
不邪見(フジャケン)」


「み仏の弟子である私は、未来永劫にわたって、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見の悪行から離れます」と、善行に生きることを誓います。
 宗教の価値は救いにあります。
 足をとられ、転んで汚れ、泥水を飲み、そして溺れ死ぬ恐怖を与える底なし沼から脱しようとする時、初めて目の前にある山へ登りたいと切望します。
 底なし沼に足を突っ込んでいると自覚しない人にとっては、山は見えず、あるいは見えていても眺める対象でしかありません。

 生に尊厳を与える智慧のない「無明(ムミョウ)」、そして汚らわしく悲しい行動へ走らせる「煩悩(ボンノウ)」、この二つに動かされていると強い苦が起こります。
 あるいは、この二つに動かされている人との縁が深まると、強い苦が起こります。
 どうしようもないという焦りや、不安、あるいは怒りなどに苛まれ、頭の中で発展性も出口もない思考が堂々巡りし、暗く愚かな妄想が起こったりもします。
 こうしたところから抜け出るための動きをもたらすものが十善戒です。

 自分でつくる苦であろうと、他からもたらされる苦であろうと、脱するために必要不可欠なのが十善戒であり、ここを離れるのは、み仏の救いから遠ざかることを意味します。
2007
04.06

十善戒の歌5 ―不妄語(フモウゴ)―

いつはりて かたらんよりは しらつゆと みはいさぎよく きえもはてなん
(偽りて 語らんよりは 白露と 身は潔く 消えも果てなん)

 嘘を言うよりは信念を通して死んだ方がましであるとの厳しい表明です。
 不妄語戒にいのちをかけています。
 僧侶が口にする以上、当然、自らに課している戒律であり、その峻厳さは彼の行動が示しています。

 月照は幕末の文化10年、大阪で医者の長男として生まれましたが14歳で出家し、22歳で清水寺成就院の住職になりました。
 尊皇攘夷の志が強く、弟に寺院を譲り、肝胆相照らす仲になった西郷隆盛と行動を共にしているうちに、井伊直弼から危険人物して追われる身となって薩摩藩へ逃れました。
 水戸藩が攘夷へ傾いたのは月照のしわざであると判断されたのです。
 ところが薩摩藩は幕府との軋轢を恐れて藩を追放しようとしたため、安政5年、日向の国へ送られる途中、鹿児島錦江湾で西郷隆盛と共に船から身を投げました。
 数刻の後に二人の身体は海面へ浮き上がり、西郷隆盛は蘇生しましたが、月照はそのまま他界しました。
 
 月照が行年46歳で残した辞世の句です。
「大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」

 西郷隆盛は31歳。今からおよそ150年前のできごとです。
 月照は、かつて島津斉彬の死に際して西郷隆盛が殉死を試みたおりに諫め、錦江湾でもまた生き延びさせました。
 その後、西郷隆盛は7年後に大政奉還を成し遂げ、その12年後に50歳の生涯を閉じました。
 月照は隆盛を守り、西郷隆盛を通じて大望を成就させたと言えるのではないでしょうか。




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2007
03.13

十善戒の歌1

 文化10年(1813)、大阪に生まれた僧月照は、22歳で清水寺成就院の住職になった後、西郷隆盛と共に時代を動かし、安政5年(1858)、入水しました。
 彼が残した「十善戒歌」です。

1 不殺生(フセッショウ)
よのなかに いきとしいける ものはみな ただたまのをの ながかれとこそ
(世の中に 生きとし生けるものは皆 ただ玉の緒の 永かれとこそ)

2 不偸盗(フチュウトウ)
やまもりの ゆるさぬほどは たにかげに おちたるくりも ひろはざるなむ
(山守の 許さぬほどは 谷陰に 落ちたる栗も 拾わざるなん)

3 不邪淫(フジャイン)
おみなへし にほふあたりは こころせよ いろかにみちを わすれもぞする
(女郎花 匂うあたりは 心せよ 色香に道を 忘れもぞする)

4 不妄語(フモウゴ)
いつはりて かたらんよりは しらつゆと みはいさぎよく きえもはてなん
(偽りて 語らんよりは 白露と 身は潔く 消えも果てなん)

5 不綺語(フキゴ)
くもとりの あやをりなして いひたつる ことにまことは すくなかりかりけり
(雲鳥の 綾織なして 言い立つる 言に誠は 少なかりけり)

6 不悪口(フアック)
わがやどに やしないおける いぬだにも しかりたけりて せめじとぞおもふ
(我が宿に 養いおける 犬だにも 叱り猛りて 責めじとぞ思う)

7 不両舌(フリョウゼツ)
とにかくに あしくいひもて あしがきの なかをへだつる ことぞいやしき
(とにかくに 悪しく言いもて 葦垣の 中を隔てつる 言ぞ卑しき)

8 不慳貪(フケンドン)
さくをまち ちるをばおしむ くるしみは はなほりうへし とがとこそしれ
(咲くを待ち 散るをば惜しむ 苦しみは 花掘り植えし 咎とこそ知れ)

9 不瞋恚(フシンニ)
ちりばかり いからでしのべ しのびなば やまよりたかく とくはつもらん
(塵ばかり 怒らで忍べ 忍びなば 山より高く 徳は積もらん)

10 不邪見(フジャケン)
みにかげの はなれぬがごと よしあしの わざのおしへの なかるべしやは
(身に影の 離れぬがごと 善し悪しの 業の教えの 無かるべしやは)




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