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2016
09.04

Q&A(その28) 喪失と子供の不調について

2016-09-04-0001.jpg

 子供神経質になった、急に成績が落ちた、などの場合、環境の激変が影響しているかも知れない。
 こうした子供や孫に関する人生相談もたくさんある。
 カール・ベッカー博士によると、小さなお子さんの〈喪失〉体験は7つのリスクをもたらすという。
 ここにおける喪失とは、親や兄弟など身近な人の死、あるいは親や仲間から見捨てられる、いじめられる、虐待される、といった人間関係の決定的な切断である。
 以下、博士著『愛する者の死とどう向き合うか』を参照しつつ、考えてみよう。

1 不安と恐怖が異常に高まる。

 ちょっとしたできごとや物音でも、不安になり、恐れる。

2 重度の抑うつになる確率が高まる。

 全員が抑うつ状態になるわけではなく、大人になってから強い落ち込みになりやすいという研究報告がある。
 
3 健康上の問題や事故などが増加する。

 喪失による悲嘆がストレスとなって健康を害しやすくなるし、周囲に対する注意力が散漫になったりもする。

4 学業成績が低下する。

 環境の激変により、誰かの手助けがないと、勉強へ集中しにくくなったりする。

5 自己評価(セルフ・エスティム)が低下する。

 生きるための杖を失ったように思うし、他者からの心ない言葉が、より所のない気持を強めたりもする。  

6 外的なLOC(統制の所在)が著しく高まる。

 不幸の多くが運の悪さから生じ、自分の運命は抗えない他者によって統制されていると感じる「外的統制者」になりやすい。
 反対に「人生の不幸の多くが自分の過ちから生じていると考える人間」は内的統制者である。

7 後の人生において、悲観的になりやすい。

 やれると思えばやれそうなことも、やれないと思うことによってやれなくなり、悪循環に陥りやすい。

 もちろん、喪失を体験した子供すべてがこうした問題を抱えるわけではないが、いくつかに当てはまると判断した場合は、適切な手を打つ必要がある。
 たとえば、こうしたポイントである。

遊びの時間を充実させる。

 遊ぶことによって、子供は自分がいる世界の意味を理解し、その理解は喪失の理解へとつながる。
「遊ぶ子は、ストレスに直面しても不安定になったり、人間として持っている自己治癒力を失ったりすることはめったにありません。」

○その子供なりの性質・性格のうち、立ち直りに役立ちそうなところをうまく動かす。

 自分でどんどん立ち直れる子供もいれば、ショックに弱い子供もいて、性格は簡単に変えられないことをよく理解した上で導く、

○家族間で何らかの信念や実践を共有する。

 なぜ、と疑問のまま、説明できないできごとにぶつかっても、家族として精神的な信念体系を持っていれば、できごとの意味を見つけやすい。
 たとえば、家族の中で掃除などの役割を淡々と果たしている子供は、不測の事態に適応しやすい力を持っている。
 大人も子供も、何かしらスピリチュアルな信念を持っている人と、持っていない人とでは、現実に耐え、適応する力が違う。
 自分の信念や行動によって〈自分の世界〉をつかんでいれば、そこに生じたできごとも、理解し、受け容れやすいのだろう。

○外部からのサポートを行う。

 家族以外に頼れる人がいない場合、第三者の手助けは力になる。

○状態を判断した上で、喪失した相手とのつながりを保たせる。

「(あの世へ逝った)お父さんは今、何を考えているんだろう」
 こうした姿勢が出てくれば、できごとはおさまりをつけつつあると言える。

 もしも、我が子に異変を感じた際は、学校でのいじめなどと共に、環境の激変によるストレスを考えてやるようにしたい。
 ただし、できごとが起こった時期と変化が生ずる時期の間にかなりなズレが生ずる場合もあり、慎重な検討が必要。
 いずれにしても、変化は必ず何かのシグナルである。
 キャッチしてあげたい。




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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
07.11

ある告発状 ―岩手県におけるイジメの現場へ―

201407080018ajisai.jpg

 悪い遊びが流行っていると耳にしました。
 突然、ターゲットとなった男の子のズボンを下ろす、あるいはパンツも下ろすというものです.
 女の子もいる前でそうした行為が、遊び、もしくはイジメとして行われている状態は、学校内に極めて不健全な心が育っていることを示してはいないでしょうか。

 当然のことながら、こうした行為は相手の人格を無視した〈辱め〉であり、それは、約束を破るとか、嘘を言うといった、やむにやまれぬ場合もあり得ることとは次元が異なり、もしも肉体に置き換えれば、土足で頭を踏むことにも匹敵する恐ろしい悪行だと言えましょう。
 被害者は、恥ずかしさ、悔しさ、惨めさに打ちのめされ、やがて、強い怨みや怒りの炎が燃え上がり、とんでもない復讐が行われるかも知れません。
 また、そうした相手への感情ではなく、自信の喪失や相手への嫌悪感や恐怖感などによる行動の萎縮などによって、不登校など生活のしかたが激変し、一瞬の遊びイジメが一生を左右するできごとになってしまいかねません。

 自分を被害者へ置き換え、自分がパンツを下げられたならどうか、泥靴で頭を踏みつけられたならばどんな気持になるか、具体的に想像し考えさせていただきたい、加害者の子供だけでなく、子供たち全員に対して強くご指導くださるよう心から願っています。
 今のうちに、子供たちへ、人の人格を傷つけることの恐ろしさ、罪深さを感じとらせてください。

 こうしたことごとは、決して〈家庭任せ〉にはできません。
 なぜなら、家庭で善悪を指導されて正しく育った子供も当然、学校という社会で被害者になり得るからです。
 大人の社会とは違い、まだ判断力も責任能力も充分ではない子供たちが集まる学校は、法律で白黒を決め刑罰を加えることに先んじて指導が行われるべき場であり、被害者を出さない責任があるからです。

 子供としての体験からも、親としての体験からも、祖父としての体験からも、小学校では知識を与えることと並んで、あるいはそれ以上に、子供たちがまっとうな社会生活を送れる人間に育つよう、ものごとの善悪をきちんと教える心の基礎訓練が行われねばならないと思っています。
 なぜなら、学校こそが、子供たちにとって、真の意味で他者と交わる社会体験の場だからです。
 もちろん、家庭でのしつけがなっていなければ話になりませんが、子供たちは、家庭で身につけたことを学校という社会で実践し、確かめ、膨らませ、修正し、育ってゆきます。
 しかし、そこで、あまりにも不条理不幸なできごとに遭ってしまえば、家庭で積み上げてきたものが一気に崩れかねません。

 特定の子供たちに起こった不幸なできごとを、加害者と被害者の問題だけでなく、学校という社会で起こったできごとと捉えられれば、子供たちが等しくよき指導を受ける貴重なきっかけになることでしょう。
 また、加害者も、被害者も、罪悪や災難を、学校や社会という広い視野から考えるきっかけになることでしょう。
 ぜひとも、子供たちへ賢明なるご指導をたまわりますよう、祈っております。




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2014
01.28

子供を不幸にする方法 ─ルソーとテルマエ・ロマエのヤマザキマリ氏に思う─

20140128001.jpg
ヤマザキマリ氏のご主人ベッピーノ氏。『男性論』からお借りして加工しました〉

 古い資料の中から、鉛筆書きしたメモが見つかった。 
 今からおよそ250年前、フランスで活躍した哲学書ジャン=ジャック・ルソーが書いた『エミール』からの抜粋である。

「あなた方は、子供を不幸にする一番確実な方法は何であるかご存じだろうか。
 それは、何でも手に入れるという習慣を子供につけることだ」


 不幸は、〈手に入らない〉ところに生ずる。
 たとえば、欲しい自転車があるのに、貧乏な家なので、買ってもらえない。
 隣家の子は売り出されてすぐ、乗り回しているのに、ウチでは1年待ってもまだ、買ってくれない。
 手に入れた人との比較〝どうして自分は……〟が、不満を募らせ、不幸という名の欠乏感を膨らませる。

 では、〈ないから不幸〉なのであれば、〈何でもあれば幸福〉か?
 理屈上はこうなるが、一生、何にも不自由しない、つまり欲が満たされない、言い換えれば、〈思い通りにならないことは何もない人〉はいるのだろうか?

 決して、いない。
 お釈迦様が説かれたとおり、生まれる時点で、すでに、生きるか死ぬかのところを通らねばならない。
 老いて若さを失わない人はいないし、病気になって健康を失わない人もいないし、死んでいのちを失わない人もいない。
 また、愛する人やペットやモノとの別れが来ない人はいない。
 怨み憎まないではいられない人とめぐり会わない人もいない。
 不老長寿の薬を手に入れる人や、地上の富を独占する人や、空の星を手に入れる人もいない。
 見える目や話せる口があるために悩みや苦しみが発生し、スピードの出る車や電車があるために事故が起こり、ネットが発達したばかりに犯罪や不道徳行為が蔓延し、〈有るがゆえの苦しみ〉がない世に暮らす人もいない。
 お釈迦様が説かれたとおり、〈ままならぬ〉四苦八苦から誰も逃れられない。

 だから、冒頭の箴言(シンゲン)は、こうも言い換えられる。

「子供を不幸にしたいのなら、生まれなかったことを望ませなさい。
 子供を不幸にしたいもなら、老いないことを望ませなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、病気に罹らないことを望ませなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、死なないことを望ませなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、好きな人や生きものやモノやものごとを手放さないように望ませなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、気に入らない人や憎い人などと出会わないように望ませなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、手に入れてはいけないものや、決して手に入らないものまでをも欲しがらせなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、見るもの、聞くもの、触れるもの、食べるものに動かされるがままに生きさせなさい。」

 このとおりに育てれば必ず不幸になるだろう。
 叶わない望みを持つからである。
 しかし、振り返ってみれば、私たちはほとんど無意識の裡に、叶わぬ望みを持ちながら生きている。
 
 テルマエ・ロマエの作者ヤマザキマリ氏は、著書『男性論』においてアンチエイジングの狂騒へ警鐘を鳴らす。

「年を取らないと表れてこない美しさ、つまり成熟の美という概念があるということは忘れてはいけないと思うのです。
 時間の経過を恐れすぎるのではなく、時間との調和がとれているひとこそ最強です。」
「年を取ると男性にちやほやされなくなるからと、外見のアンチ・エイジングに躍起になるぐらいなが、年を取って、年相応のしわがあるのにちやほやされている知的でチャーミングな女性たちこそ、お手本にしてほしい。
 たとえそれが、ごく少数の女性であったとしても。
 そんなひとはたしかに存在するのですから。
 とにかく、妻候補や浮気相手というセクシュアリティを要に女性を見ている。
 そんな男性の評価だけが女性の美の価値観であってはいけないと思います。
 それを念頭に置きさえすれば、もっと女性である以前の、人間としての人生が楽しくなるのではないでしょうか。」


 年を取り、若さが失われていってなお、人生が楽しくなる。
 それは、必ず失われてゆくものを〈追わない〉からである。
 氏はそれを「時間との調和がとれている」と言う。
 ここには智慧のはたらきがある。
 智慧がなければ「時間の経過を恐れすぎる」。
 そして、死ぬまで、決して、この恐怖からは逃れきれない。
 智慧のあるなしで、追われる人生と楽しい人生に分かれる。

 ちなみに、ヤマザキマリ氏は14歳年下のイタリア人学者一家と暮らし、「結婚生活というものは、簡単ではないです。断言しておきましょう。まったく簡単ではない」と告白しつつ、このゆとりである。
 最近、72歳になるAさんからいただいた手紙である。
「~病弱な私がこの年まで生きてこられて感謝をしています。
 ~私も母のようにしたたかに優しく生きたいと願っています。
 ~今の時間がいつまで残っているかわかりませんが、一日一日を大切に感謝して暮らしたいです。
 春の猫 一番星に集まる」

 もう一度、冒頭の箴言を言い換えてみよう。
「子供を不幸にしない方法は、手に入らないものを見分け、動じない習慣をつけさせることだ」
 ここまで読まれた方はもう、お気づきだろうが、これは、恐ろしいことに、子供たちだけにとって必要な習慣ではない。
 私たちが一生かけてやらねばならない習慣づけではなかろうか。
 智慧を磨きつつ……。

 この際、もういくつか、エミールからのメモを残しておきたい。

「人間における最も危険な時期は、出生から12歳までの間だ。
 それは誤謬と悪徳が芽生える時でありながら、まだそれを破壊するための手段を一切、持っていない時期なのである」

「最初の教育は純粋に消極的でなければならない。
 それは、美徳を教えることでも、真実を教えることでもなく、心を悪徳から、精神を誤謬から守ることである」

「最も幸福な人とは、一番苦しみをなめることの少ない人だ。
 最も不幸な人とは、一番楽しみを味わうことの少ない人だ。
 いつも苦しみの方が楽しみより多い。
 この差引勘定は全ての人に共通である。
 従って、この世の人間の幸福は消極的な状態に過ぎない。
 それは、人間の味わう不幸の最少量によって計られるべきものだ」

「我々の欲望と、我々の能力との不均衡にこそ我々の不幸は存するのである」

「人間のような儚い存在が、あんなにまれにしかやってこない未来をたえず遠くに眺めて、自分の確実に把握している現在をおろそかにするとは、何という困った癖を持ったことか」






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2012
09.17

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その7)不幸が生む愛─

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 有島武郎は、人間が哀しみや淋しさ、あるいは切なさに襲われることは深い人生体験であると肯定している。
 人生へ訪れるものをすばやくマイナスとプラスに分け、プラスの中でだけ明るく軽々と生きようとはしない。
 そうした懐の深さ、柔軟な強靱さは真の優しさを含んでいる。

「雨などが降りくらして悒鬱(ユウウツ)な気分が家の中に漲(ミナギ)る日などに、どうかするとお前たちの一人が黙って私の書斎に這入(ハイ)って来る。
 そして一言パパといったぎりで、私の膝ひざによりかかったまましくしくと泣き出してしまう。
 ああ何がお前たちの頑是(ガンゼ)ない眼に涙を要求するのだ。
 不幸なものたちよ。
 お前たちが謂(イワ)れもない悲しみにくずれるのを見るに増して、この世を淋しく思わせるものはない。
 またお前たちが元気よく私に朝の挨拶あいさつをしてから、母上の写真の前に駈けて行って、『ママちゃん御機嫌ごきげんよう』と快活に叫ぶ瞬間ほど、私の心の底までぐざと刮(エグ)り通す瞬間はない。
 私はその時、ぎょっとして無劫(ムゴウ)の世界を眼前に見る。
 世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。
 何故(ナゼ)なら妻の死とはそこにもここにも倦(ア)きはてる程夥(オビタダ)しくある事柄の一つに過ぎないからだ。
 そんな事を重大視する程世の中の人は閑散でない。
 それは確かにそうだ。
 然(シカ)しそれにもかかわらず、私といわず、お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく悲しく口惜しいものに思う時が来るのだ。
 世の中の人が無頓着だといってそれを恥じてはならない。
 それは恥ずべきことじゃない。
 私たちはそのありがちの事柄の中からも人生の淋しさに深くぶつかってみることが出来る。
 小さなことが小さなことでない。
 大きなことが大きなことでない。
 それは心一つだ。

 何しろお前たちは見るに痛ましい人生の芽生(メバ)えだ。
 泣くにつけ、笑うにつけ、面白がるにつけ淋しがるにつけ、お前たちを見守る父の心は痛ましく傷つく。

 然しこの悲しみがお前たちと私とにどれ程の強みであるかをお前たちはまだ知るまい。
 私たちはこの損失のお蔭で生活に一段と深入りしたのだ。
 私共の根はいくらかでも大地に延びたのだ。
 人生を生きる以上人生深入りしないものは災(ワザワイ)である。」


 有島武郎は、心を傷つけ、悩ます不幸な状況が「人生に深入り」させ、人生に意義をもたらすと言う。
 私たちの多くは、不幸を望まない。
 自然に幸福を求める。
 しかし、不幸を体験しない人はいない。
 時として、生まれてきたことさえ、不幸と感じる。
 求めつつ得られない幸福、求めはしないのにやってくる不幸、こうした不如意の中でこそ「深入り」するとは、人生は何と不思議なしくみであろうか。

 ふり返ってみれば、現代の私たちは、あまりにも「深入り」を避けているとは言えないだろうか?
 生老病死は根源的な不如意である。
 するものとの別離も、憎み怨むものとの出会いも、求め尽くせない欲求も、生きている限りを免れない心身の縛りも、逃れられない宿命である。
 お釈迦様はそれをと言われた。
 私たちはややもすると、を〈なかったこと〉あるいは〈ないもの〉として、いつも蝶のように気ままに軽々と生きようとしてはいないだろうか?
 傷つくことを常に怖れ、小さな傷にたちまち呑み込まれてしまっているのではなかろうか?
 もしかすると、「深入り」しないで済むという幻想こそ現代の日本人が陥っている最大の錯覚であり、錯覚が卑劣、怯懦(キョウダ)、無慈悲などの温床となっているのではなかろうか?

 有島武郎は、幼くして母親を失った「不幸な」子供たちへ、さらに「不幸な」他者への眼を持てと説く。

「同時に私たちは自分の悲しみにばかり浸(ヒタ)っていてはならない。
 お前たちの母上は亡くなるまで、金銭の累(ワズラ)いからは自由だった。
 飲みたい薬は何んでも飲む事が出来た。
 食いたい食物は何んでも食う事が出来た。
 私たちは偶然な社会組織の結果からこんな特権ならざる特権を享楽した。
 お前たちの或(ア)るものはかすかながらU氏一家の模様を覚えているだろう。
 死んだ細君から結核を伝えられたU氏があの理智的な性情を有(モ)ちながら、天理教を信じて、その御祈祷で病気を癒そうとしたその心持を考えると、私はたまらなくなる。
 薬がきくものか祈祷がきくものかそれは知らない。
 然(シカ)しU氏は医者の薬が飲みたかったのだ。
 然(シカ)しそれが出来なかったのだ。
 U氏は毎日下血しながら役所に通った。
 ハンケチを巻き通した喉からは皺嗄(シワガ)れた声しか出なかった。
 働けば病気が重(オモ)る事は知れきっていた。
 それを知りながらU氏は御祈祷を頼みにして、老母と二人の子供との生活を続けるために、勇ましく飽くまで働いた。
 そして病気が重(オモ)ってから、なけなしの金を出してして貰った古賀液の注射は、田舎の医師の不注意から静脈を外れて、激烈な熱を引起した。
 そしてU氏は無資産の老母と幼児とを後に残してその為めに斃(タオ)れてしまった。
 その人たちは私たちの隣りに住んでいたのだ。
 何んという運命の皮肉だ。
 お前たちは母上の死を思い出すと共に、U氏を思い出すことを忘れてはならない。
 そしてこの恐ろしい溝を埋める工夫をしなければならない。
 お前たちの母上の死はお前たちのをそこまで拡げさすに十分だと思うから私はいうのだ。」


 お前たちは「不幸なもの」だが、不幸を通して「人生に深入り」した地点から生まれるを他の「不幸なもの」へ向けよと言う。
 お前たちの母親は、それだけのをお前たちにかけたのだと言う。




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2012
09.15

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その5)─

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〈『小さき者へ』が書かれた年と同じ大正7年に造られた滋賀県近江八幡市の近江療養院(サナトリウム)から画像をお借りして加工しました〉

 有島武郎の時代は、結核はほとんど不治の病だった。
 季候の温暖な場所で過ごす転地療法が行われる一方、感染力が恐れられた。
 また、現代のガンに似たとらえられ方から、当人へ病名を告げるタイミング、あるいはその役割の決め方などに細心の注意がはらわれた。
 以下の文章には、そうした時代に最善を尽くそうとする人々の姿が描かれている。

「それは初雪のどんどん降りしきる夜の事だった、お前たち三人を生んで育ててくれた土地を後あとにして旅に上ったのは。
 忘れる事の出来ないいくつかの顔は、暗い停車場のプラットフォームから私たちに名残(ナゴ)りを惜しんだ。
 陰鬱(インウツ)な津軽海峡の海の色も後ろになった。
 東京まで付いて来てくれた一人の学生は、お前たちの中の一番小さい者を、母のように終夜抱き通していてくれた。」
 そんな事を書けば限りがない。
 ともかく私たちは幸に怪我もなく、二日の物憂い旅の後に晩秋の東京に着いた。

 今までいた処とちがって、東京には沢山の親類や兄弟がいて、私たちの為めに深い同情を寄せてくれた。
 それは私にどれ程の力だったろう。
 お前たちの母上は程なくK海岸にささやかな貸別荘を借りて住む事になり、私たちは近所の旅館に宿を取って、そこから見舞いに通った。
 一時は病勢が非常に衰えたように見えた。
 お前たちと母上と私とは海岸の砂丘に行って日向(ヒナタ)ぼっこをして楽しく二三時間を過ごすまでになった。

 どういう積りで運命がそんな小康を私たちに与えたのかそれは分らない。
 然(シカ)し彼はどんな事があっても仕遂(シト)ぐべき事を仕遂(シト)げずにはおかなかった。
 その年が暮れに迫った頃お前達の母上は仮初(カリソメ)の風邪かぜからぐんぐん悪い方へ向いて行った。
 そしてお前たちの中の一人も突然原因の解らない高熱に侵された。
 その病気の事を私は母上に知らせるのに忍びなかった。病児は病児で私を暫(シバラ)くも手放そうとはしなかった。
 お前達の母上からは私の無沙汰を責めて来た。
 私は遂に倒れた。
 病児と枕を並べて、今まで経験した事のない高熱の為めに呻き苦しまねばならなかった。
 私の仕事? 
 私の仕事は私から千里も遠くに離れてしまった。
 それでも私はもう私を悔もうとはしなかった。
 お前たちの為めに最後まで戦おうとする熱意が病熱よりも高く私の胸の中で燃えているのみだった。

 正月早々悲劇の絶頂が到来した。
 お前たちの母上は自分の病気の真相を明かされねばならぬ羽目になった。
 そのむずかしい役目を勤めてくれた医師が帰って後の、お前たちの母上の顔を見た私の記憶は一生涯私を駆り立てるだろう。
 真蒼(マッサオ)な清々すがすがしい顔をして枕についたまま母上には冷たい覚悟を微笑に云わして静かに私を見た。
 そこには死に対する Resignation (レズィグナツィオーン)と共にお前たちに対する根強い執着がまざまざと刻まれていた。
 それは物凄くさえあった。
 私は凄惨な感じに打たれて思わず眼を伏せてしまった。」


 妻はほどなく、ほとんど隔離されるに等しいサナトリウム(長期療養所)へ入らねばならなくなる。
 サナトリウムという名の結核療養所は、重病人にとってはターミナルケアに近い役割も果たしていた。
 入院する病人も、送る人も、覚悟が求められた。

「愈々(いよいよ)H海岸の病院に入院する日が来た。
 お前たちの母上は全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟の臍(ホゾ)を堅めていた。
 二度とは着ないと思われる――そして実際着なかった――晴着を着て座を立った母上は内外の母親の眼の前でさめざめと泣き崩れた。
 女ながらに気性の勝(スグ)れて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。
 その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。
 それは今は乾いてしまった。
 大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋の泡の一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂(ルイドウ)に貯えられているか、それは知らない。
 然し(シカ)その熱い涙はともかくもお前たちだけの尊い所有物なのだ。

 自動車のいる所に来ると、お前たちの中(ウチ)熱病の予後にある一人は、足の立たない為めに下女に背負われて、──人はよちよちと歩いて、―― 一番末の子は母上を苦しめ過ぎるだろうという祖父母たちの心遣(ヅカ)いから連れて来られなかった――母上を見送りに出て来ていた。
 お前たちの頑是(ガンゼ)ない驚きの眼は、大きな自動車にばかり向けられていた。
 お前たちの母上は淋しくそれを見やっていた。
 自動車が動き出すとお前達は女中に勧められて兵隊のように挙手の礼をした。
 母上は笑って軽く頭を下げていた。
 お前たちは母上がその瞬間から永久にお前たちを離れてしまうとは思わなかったろう。
 不幸なものたちよ。

 それからお前たちの母上が最後の気息を引きとるまでの一年と七箇月の間、私たちの間には烈しい戦が闘われた。
 母上は死に対して最上の態度を取る為めに、お前たちに最大の愛を遺(ノコ)すために、私を加減なしに理解する為めに、私は母上を病魔から救う為めに、自分に迫る運命を男らしく肩に担(ニナ)い上げるために、お前たちは不思議な運命から自分を解放するために、身にふさわない境遇の中に自分をはめ込むために、闘った。」
 血まぶれになって闘ったといっていい。
 私も母上もお前たちも幾度弾丸を受け、刀創(カタナキズ)を受け、倒れ、起き上り、又倒れたろう。」


 ここにも「不幸なものたちよ。」が現れる。
 有島武郎は、冒頭の方で、幼くして母親を失う運命の下に生まれ出る子供たちへ、こう言っている。
「お前たちは不幸だ。
 恢復(カイフク)の途(ミチ)なく不幸だ。
 不幸なものたちよ。」
 母親との永久の別れであるとも知らずに、滅多に目にしない大きな車ばかりが気になっている姿へ、容赦なく不幸と断じている。
 人生の始めのあたりで大きな不幸をまとってしまった人間へ、簡単に癒しの言葉を贈らない。
 言葉の真綿にくるまれたくらいで癒せるものではないことを知り抜いているからだ。
 本人が、逃げずに不幸を生きて行く中で克服するしかない。

 病魔との戦いは家族を挙げた全面戦争となる。
 倒れては立ち上がる。
 いのちある限り。
 それぞれ、いかに「血まぶれに」なろうとも。
 母親の、妻の病気は、決して母親の、妻のものだけではない。
 子供の、夫の、家族の、一族のものでもある。
 だから、一人残らず全員が戦った。




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