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2012
04.12

五眼とは何か? ─観るべきものを観る五つの眼─ 

 仏法は五眼(ゴゲン)を説いています。

1 肉眼(ニクゲン)…人間の眼
2 天眼(テンゲン)…天人の眼
3 慧眼(エゲン)……ラカンの眼
4 法眼(ホウゲン)…菩薩の眼
5 仏眼(ブツゲン)…仏の眼


 こうしてみると「2」から「5」までは私たちとは無縁な世界のようですが、果たしてそうでしょうか?
 み仏は「5」を具えておられるからこそ、私たちを救うことができるとされています。
 ならば、自他共に愚かさと苦から脱したいと願う私たちも、そこをめざしたいものです。
 聖なる世界のイメージを持てば、幾ばくかは見透せることもあるのではないでしょうか?

1 肉眼

 人間の眼はモノを写します。
 しかし、カメラと同じではありません。
 180度の視野を持ってはいても実際に見えている範囲はとても狭く、しかも、関心の度合いによって見られるものが最初からより分けられています。
 街角の光景は、ファッション好きな人にとっては格好の発見の場になることでしょうが、車好きな人にとっては新車を初めて見る場になり、それぞれ、車と衣装はほとんど見えていないものです。

2 天眼

 天界の神々は三世(サンゼ)十方(ジッポウ)を観るとされています。
 三世は過去・現在・未来であり、十方は、四方八方と上下すべての方位です。
 時間と空間のすべてを観るとはいかなる意味でしょうか?
 たとえば、一つの掛け軸を眺めた場合、鑑定眼を持たない人は「きれいだな」「ずいぶん古いな」「しっかり作ってあるな」などと思います。
 しかし、テレビの人気番組『なんでも鑑定団』の常連である中島誠之助氏などは、いつ、どこで作られたものか、たちどころに指摘します。
 私たちも、モノをよく観、人と会ってはその人の歩んできた人生を想い、光景や記事などを眺めては過去と未来、そして世界を考えたいものです。

3 慧眼

 この眼を持つラカンさんとは、空(クウ)の真理から世界を眺められるようになった方々です。
 仏法で説く智慧はまず、因果応報として理解され、すべてを無常の宿命にあるものと観るところから深まります。
 ありとあらゆるものは因と縁によって今、存在しているだけであり、自力で存在し続けるものは何一つありません。
 私たちもまた、こうした心の眼力を持てば、つまらぬことでくよくよしたり、角を突き合わせたり、あるいは憎悪や怨みや執着心をつのらせて心を曇らせたりせずに暮らせるのではないでしょうか。

4 法眼

 ものごとをありのままに観るのが、衆生済度(シュジョウサイド…ありとあらゆるものを救う)を存在意義とする菩薩(ボサツ)の眼です。
 その象徴が千手観音様です。
 千は無限を意味しており、千手観音様はすべてを見落とさず、ありとあらゆる生きとし生けるものを見捨てずに救いの手を差し伸べてくださいます。
 私たちは「1」の状態が現実であり、時には「見て見ぬ振り」もします。
 電車の座席に腰掛けている若者が、目の前にご老人が立ったとしても寝たふりをする光景は珍しくありません。
 ちなみに、私はもう立派な〈老人〉でも、よほど空いていない限り、なるべくドアの近くで立つようにしています。
 私よりも優先して座るべき人が必ずどこかに立っておられるからです。
 ある選挙の個人演説会場へ行ったおり、座りきれずに立つ人も現れたので、私は壁際に立って席を譲りました。
 それを見た候補者A氏はご自身も立たれ、同じく前方で腰掛けていた幹部の方々も立ち始め、やがてイスが追加して運び込まれたために、事態はおさまりました。
 A氏の頭は充分に白く、疲労も半端ではなかったはずです。
 A氏の選挙結果はすばらしいものでした。
 混雑している会場で関係者に混じって立つ人を見つけ、我が身を可愛がらずただちにご自身も立たれた光景を心に刻みました。

5 仏眼

 み仏方は、すべてのレベルの眼を具えているとされています。
 そして、限りないお慈悲からご加護をお与えくださいます。
 み仏のお心には、優しさも、厳しさも、正しさも、優雅さも、尊さも円かに具わっています。
 私たちも心の冷たさや、弛(タル)みや、歪みや、偏(カタヨ)りや、刺(トゲ)などを離れれば、いくばくかはこうした尊い眼に近い力で見透せるかも知れません。
 学び、イメージし、観るべきものをきんと観られる心をつくりたいものです。

20120412007.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2008
11.28

日本の歌 98 ─揺籃のうた─

揺籃のうた
  作詞:北原白秋 作曲:草川信 大正10年、『小学女生』に発表

1 揺籃(ユリカゴ)のうたを
  カナリヤが歌うよ
  ねんねこ ねんねこ
  ねんねこよ

2 揺籃のうえに
  枇杷(ビワ)の実が揺れるよ
  ねんねこ ねんねこ
  ねんねこよ

3 揺籃のつなを
  木ねずみが揺するよ
  ねんねこ ねんねこ
  ねんねこよ

4 揺籃のゆめに
  黄色い月がかかるよ
  ねんねこ ねんねこ
  ねんねこよ


 この歌は、子守歌の代表格である。
 もちろん、唄ってもらった記憶はない。
 子供へも唄ってやった記憶はないが、妻の歌声を聞いたこと、また、子供の寝顔を見ながらこの歌を思い出したことはある。
 妻と二人で、黙って我が子の寝顔へ見入っていたのは昨日のできごとのようだ。
 子供を安らかな眠りへ導くための子守歌が、親にとっても安らぎとなるのは不思議なものである。

 寝顔と歌のあった場面を思い浮かべると、今の生活に伴って発生しているいかなる問題も夢幻のように思えてくる。
 確かにあった〈真実〉、過去となってしまったが時を超えていつでも魂へ響く〈真実〉こそが実在であり、転変極まりない現象世界はかりそめのものでしかない。
 真実世界とかりそめの世界は表裏一体である。
 苦楽、泣き笑いが交錯する時間の流れの中に、キラッと光り、永遠にとどまる瞬間がある。
 その時、私たちは真実という宝ものに出会っている。
 宝ものがあるからこそ、かりそめの世をどうやら生き抜けられる。
 それは「み仏からの贈りもの」に相違ない。

 運転中に、古美術鑑定家中島誠之助氏の話を耳にした。
 彼は、「マニアックになってはいけない」という。
 膨大なものや情報が行き来する現代にあって、関心と研鑽の対象が狭い分野だけでは、きちんと感性を磨けないのだ。
 感動が土台になり、その上に知識という家が建って初めて感性がはたらくともいう。
 知識が先走ると、どうしても欲という家が建ち、だめになる。
 文学であれ、音楽であれ、美術であれ、あるいは風景であれ感動の対象は無制限である。
「佳い」と感じる感性は何に対してもはたらくものであり、純粋な感動によって磨かれた感性は、どこにでも「佳い」ものを見つけられるはずである。
 かねて流行語になっている「オタク」に感じていた危険性を、彼は見事に解き明かしてくれた。

 まことのもの、よきもの、うつくしきものは、真実の見せる三面である。
 真善美に魂が感応し、感動という土台の上にさまざまな家が建てられる人生であれば幸せと言えるのではなかろうか。
 この歌も、その土台にかかわる貴重な作品であることは疑いない。
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