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2013
01.19

仏法には「癒し」と「発見」そして「救い」がある

20130119.jpg
〈いかなるによってこうした境遇に生まれたのか、クロの人徳ならぬニャン徳を想う〉

1 癒しについて

 私たちは、お寺巡りをしたり、たまさかの座禅会へ参加したり、佳い説法を聴いたりすると、心が安穏になったり、心が満たされたりします。
 そして、しみじみと自分の人生をふり返り、また、自分の役割へと邁進します。
 これは心の疲れや乱れや焦燥感や切迫感などが解消され、本来の生命力が取り戻されつつある状態です。

 日常生活にあって、私たちは、何かを見たり聞いたり思い出したりすることにより、自己中心という性向を持った欲望にスイッチが入るとたちまち、追われます。
 欲しがり、怒り、自分に都合の良い成り行きどおりにしようと、身体も言葉も心も総動員した活躍が始まります。
 こうして煩悩(ボンノウ)に振り回されている状態は、背中に火が付いたようなものです。

 煩悩を見すえ、み仏として私たちへ感応を及ぼす聖なる霊験(レイゲン)の追体験を願って修行する場である寺院へでかけると、火が付いた状態とまったく異なるリズムを持った空気に接することができます。
 瞑想体験は、走る心を立ち止まらせ、胸の呼吸が腹の呼吸に切り替わり、自分を追い立てるものからいっとき、離れさせます。
 自己中心と闘う真摯な行者として生きている人の言葉には、慌ただしい日常で忘れがちな、なにがしかの真実を感じます。

 こうして、仏教に関するものと接することは癒しになります。

2 発見について

 私たちは、行き詰まり、解決法を見いだせず、もはや自分の周囲に救いのきっかけがない状態に陥ると、寺院へ人生相談にでかけます。
 そして、自分を第一とするのではなく、利益を第一とするのではなく、結果を第一とするのではない思考回路と判断法と意志を知り、目から鱗が落ちたりします。
 これは普段の心で見聞きする現象世界だけでない真実世界の存在に気づかせます。

 日常生活にあって、私たちは、何かへの執着という形で意志が動き、行動を始めます。
 いつも〈自分のため〉という心がはたらいていることに気づかず、熱心になりますが、お互いが〈自分のため〉に生きているので、結果はなかなか思いどおりにはなりません。
 こうして無明(ムミョウ)に振り回されている状態は、蜃気楼をめざして歩き、水に映った月を取ろうとし、振り回される火の付いた松明を火の輪と見て踊っているようなものです。
 無明(ムミョウ)を見すえ、現象世界として表れている迷いの世界に惑わされず、空(クウ)という真実世界を観てそこに生きるための教えに接し、なにがしかの体験をすると、世界がこれまでとは別ものに観えます。
 自分の目に自己中心という覆いがかかり、真実が観えていなかったことに驚きます。
 勝手に執着する勘違いぶりとその無意味さに呆れたりもします。

 こうして、仏法に接することは発見になります。

3 救いについて

 上記の癒しも、発見も、ほとんど一過性であり、多くの方々はこう言われます。
 Aさんいわく、「熱心に四国八十八か所廻りをしたり、法話の会へでかけたりしているのに、いつも夫とケンカばかりしています」。
 Bさんいわく、「般若心経を毎日、欠かさず読んでいるのに、我がままが治らず、いつも煩悩にやられたままです」。
 こうして自分を省みることそのものがすでに癒しと発見の効果です。
 でも、ここにとどまっていては残念です。
 ぜひ、何とか心をよりよい方向へ変えていただきたいものです。
 そのためには、身体をトレーニングするのと同じく、トレーニングが必要です。
 散歩やジョギングで体調を整えようとするなら正しく継続しなければなかなか効果が表れないのと同じく、心のトレーニングにも時間がかかります。
 
 AさんにもBさんにも申しあげたのは五力(ゴリキ)です。

1 信力……目標を定め、信じて歩みましょう。
2 精進力…継続しましょう。
3 念力……志を保ち続けましょう。
4 定力……目的達成のために心身を調えましょう。
5 慧力……み仏のお智慧を第一としましょう。


 これを呑めば万病に効くなどという薬がないのと同じく、これを信じれば絶対に救われるなどという万人に効く宗教などありません。
 理由は、人の心が千差万別だからです。
 仏神が無数におられるのもその証拠です。
 だから、まず、自分で何かをやってみましょう。
 そこで疑問などが生じたなら、信頼できそうな人を探して質問してみましょう。
 こうすれば、師を誤らないで済むことでしょう。
 オウム真理教事件などで明らかなように、特に幹部たちは知能指数が高くても人物を観る力に欠け、〈師を誤った〉のです。
 師を誤ったばかりに人生そのものをも誤り、死刑にまで至ったことは、選ぶ力の大切さを物語っています。
 そして、師を選ぶ心の目と慎重さがあれば、盲信や狂信に陥る危険性も少なくなります。
 受けた教えや、指導された実践法などについてよく咀嚼し、調べ、納得した上でことを行えば、心は尖らず、円満に人格が高まって行くことでしょう。

 そして、いつか、心が変化し、そこには必ず何らかの形で救いが待っているはずです。
 この経過を実際にたどった者として、老いた者として半歩先からこの稿を書きました。
 共に癒され、発見し、救われようではありませんか。

五力については、ブログ内の「理想を実現する五力」へあれこれと書いています。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2009
06.24

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 31 ―仏法のエッセンス─

 6月10日と24日は、仏法のエッセンスについてお話しました。

○忘れてならないのは五恩
一、社会の恩
一、親の恩
一、生きとし生けるものの恩
一、師の恩
一、三宝の恩

○人としての道は八正道

一、正見
一、正思惟
一、正語
一、正業
一、正命
一、正精進
一、正念
一、正定

○修行は六波羅密(ロッパラミツ)

一、布施
一、持戒
一、忍辱
一、精進
一、禅定
一、智慧

○目的を達成するには五力
 
一、信力
一、精進力
一、念力
一、定(ジョウ)力
一、慧(エ)力

理想の人格は五智を円満に保つこと
一、優しさの智慧
一、厳しさの智慧
一、正しさの智慧
一、優雅さの智慧
一、尊さの智慧

理想の生き方は身口意の三業(サンゴウ)を三密にすること


 これらの項目はどれをとっても、それぞれが、まるまる一回の講義分にも相当する重要なものですが、駆け足で概略の説明をしました。
 たとえば、「正見」(正しい見解)は、どのようなイメージか。
 正しく現象世界を見れば、〈無常〉というありようを離れて存在しているものは、何一つありません。
 いわば、無常という観点を離れないことが、ものの見方を誤らせない根本的な方法です。

 さて、見解が正しいかどうかはどのようにして判断すれば良いのか。
 もちろん、無常をふまえていなければ最初からはっきりしていますが、ポイントは三つ挙げられます。
 まず、人であれ、ものごとであれ、ありのままにとらえて判断材料とすること。
 それから、極論へ走らないこと。
 そして、ものごとを勝手にひっくり返さないことです。
「他人のふり見て我がふり直せ」も大切な実践法です。
 他人の話を冷静に聞いてみると、「あっ、変なとらえ方だ」「あっ、思考停止の極論だ」「あっ、都合良く主張してる」などと気づかされるものです。
 
 無常を忘れず、謙虚で偏らない批判精神を持てば、正しい見解を持てるようになることでしょう。



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2006
05.13

五力 3  ―精進力 1―

 今回は五力の2番目、「精進力」です。

 よく「お精進なことですねえ」などと言いますが、それは「努力」とどう違うのでしょうか。
 
 一生懸命やれば何でも努力です。
 それは、たとえばアリが体長の何倍ものものを運ぶことと同じで、「誰が」「何のために」やっても同じです。
 しかし、精進は、努力のうち、「清らかな心で」「正しい目的のために」やるものに限られます。
 たとえば、人を殺そうと思って包丁を立派に研いだところで、精進にはなりません。

 お大師様は、はっきり示されました。

「精進は、自分のための行としては煩悩を断つことが目的であり、他のための行としては、永久に生きとし生けるものの苦を取り除き悟りへ至らしめることが目的である」

 煩悩を断つとは、意欲をなくすことではありません。
 そもそも、意欲がなければ精進をつらぬくことなどあり得ません。
 それは〈清らかな意欲を発揮する〉、あるいは〈意欲を浄める〉ことです。

 パキスタンとアフガニスタンで、年間20万人ものハンセン病患者を無償で治療している中村哲という医師がおられます。
 脳外科医として活躍する一方で蝶の収集が趣味だった彼は、32歳の時、珍しい蝶を求めて両国の国境付近にあるティリチ・ミール山へ登るキャラバンへ参加しました。
 ところが、医師が来たことを知った人々から我先にと治療を求められ、できるかぎりのことはしたものの、後ろ髪を引かれる思いで帰国しました。
 彼は、医師を志したきっかけを思い出しました。無医村ではたらくのが夢だったのです。
 4年後の1982年、ついにパキスタンのペルシャワールへ旅立った彼は、もっとも深刻だったハンセン病の治療に従事し、あまりの惨状に愕然とします。
 2400人の患者に対してベッドは15床、診療員は3名だけでした。
 軽症の患者までをも診療員として指導しながら祖国日本へ援助を願い、設立された支援団体『ペシャワール会』や国立ハンセン病診療所『邑久光明園(オクコウミョウエン)』などの協力を得た彼は、2つの病院と5つの診療所を運営し、130名ものスタッフを育て上げるに至りました。

 お線香が精進の象徴とされることを納得させる姿です。
 お線香が、一旦火をつけられたならば、燃え尽きるまで自らを燃やし続けて周囲へ佳い香りを広げ、それは火が消えた後も残るのと同じく、彼の清らかな意欲にもとづく善行は、人々の救いとなり、やがては後に続く人々がそのバトンを受け継いで行くことでしょう。
 一心不乱の善行の前にはいかなる煩悩もはたらくことができません。それは克服されています。
 なぜなら、一人にとっていのちの炎は一つであり、それが清らかに燃えている時、黒煙を上げる炎はどこにもないからです。

 彼は自らの煩悩を断ち、人々から苦を取り除き、皆が人間として心安らかに生きられる日々をもたらしています。
 まさしく精進の人=菩薩です。




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2006
02.11

五力 1  ―信力 1―

 善願を成就させる五つの力『五力』について考えてみましょう。
 今回は、第1番目の「信力(シンリキ)」です。

 私たちはさまざまなものを信じます。
 約束・言葉・理論・仏神・人間・生きもの・機械、あるいは明日も地球があること、そして、明日も自分は生きていること、などを信じてこそ暮らせます。
 それは、意識するとしないとにかかわりません。
 ある日突然かわいがっている猫が虎のように獰猛になったり、時計が逆回りに動いたりするような事態になれば、きっと、私たちは正常な精神を保てないことでしょう。
 そうした「信じる」ことと、「信仰」はどう違うのでしょうか。
 
「仰」の字は、そもそも、人がひざまづき目の前に立つ人を仰ぎ見る形から生まれました。
 自分の矮小さに気づき、遙かに高いものを心から尊ぶのが信仰です。
 それは、自分を省みる謙虚さと、至高の存在を感得する純粋さのもたらす世界です。
 それが宗教です。

 そうすると、宗教には必ず信じる心の対象になる存在があるはずです。
 それがご本尊様です。
 ある教団がいかなるものであるかは、第一に、何を本尊としているかを見なければなりません。

 密教では、宇宙を司り、宇宙として万徳を一身に体現しておられる根本仏を、大日如来と称します。
 如来・菩薩・明王・天の諸尊は、当病平癒・除災招福・転迷開悟など衆生の求めに応じて徳を顕わし、救いの扉を開く方々であり、どの扉であってもその向こうには大日如来の「万徳の世界」があります。
 だから、密教においては、「ご本尊様はこのみ仏でなければならない」とか「このみ仏はあの神様とけんかする」などということはあり得ません。
 観音様であれ、お不動様であれ、阿弥陀様であれ、自分がそのみ前へぬかづくと子供のように純粋になり、自然にありがたくなる。
 そうした方が、真のご本尊様です。

 さて、ご本尊様はどこにおられるかと言えば、五感六根でとらえる世界におられ、一方では私たちの心におられます。
 
それを密教では、「有相(ウソウ」「無相(ムソウ)」と称します。
 尊像を眼にして手に印を結び、口に真言を唱えるのは「有相の行」です。
 心の満月にご本尊様の象徴である梵字を描き、心をご本尊様の徳でいっぱいにするのは「無相の行」です。
 こうして、自分の心身を挙げて有相のみ仏と無相のみ仏との一体化をするのです。
 その結果、さまざまなお姿を表わし、さまざまな教えを説かれ、さまざまなお力でお救いくださるみ仏がありありと自分の心におられ、同時にあらゆる人々の心にもおられることを実感しつつ生きられるようになることが理想です。
 
 ご本尊様とのご縁を大切にしているうちに打ち立てられる心の柱は、何ものにも揺るがず、信仰はあらゆる障害にうち勝つ力となります




2005
09.24

五力 14 ―定力 2 心のバラスト水―

 ある会社の社長Aさんが、創業当時からの盟友Bさんの裏切りに気づきました。
「Bがライバル会社と密談する日時が判りました。
 現場を押さえてやっつけますから、その調査がうまく行くように、当日ご祈祷をお願いします」
 心願成就のご依頼です。
「その日」はしばらく先ですが、一生懸命なAさんが会社を守られるよう、日々の修法で陰祈祷をしていました。

 あとわずかという日、慌てた様子で連絡がありました。
「なぜか密談はなくなったようです。次のチャンスにお願いします」
 
 幾日か経ち、Aさんは肩を落として報告に来られました。
「Bが自分から『悪かった。二度とくり返さないから許してくれ』と詫びを入れました。
 裏切りの経緯に不正行為もからんでいたので、私は、この際事実をはっきりさせて、相手の会社からも相応のものをもらおうと思っていたのに残念です」
 観たところ、この事件はBさん個人の行為であってもこちらの会社というバックが無関係だったとは言えず、まして相手の会社にはケンカ上手の体質と強い運気があり、トラブル処理の専門家もついている様子なので、穏便に収めることをお勧めしました。
 Aさんは、解ったような解らないような顔で帰られました。

 私たちの願いは、いつも最良の道へ向かうものであるとは限りません。
 持っている脳細胞の3分の1も使っていないのですから当然です。
 また、私たちは、ここ一番という時に、多かれ少なかれ不安か高慢になるものです。
 不安も高慢も煩悩であり、最善の判断や行動を妨げます。
 そんな私たちがまっとうに生きるために必要なのは心の重心です。
 正しい信仰はこの重心をつくります。
 み仏を信じ、お任せしている心境は、お力を「使う」「あてにする」とは違い、もちろん「利用する」でもありません。
 究極の安心が動かない状態とでも言えば、かなり近いでしょうか。

 貨物を積んだ船は重心が安定しています。
 空になると不安定になるので、バラスト水と称してわざわざ海水を船底近くにとり込みます。
 これは多すぎても少なすぎても安定を損なうので難しい調節をせまられますが、究極の安心は、心のバラスト水がちゃんと保たれているようなものです。
 願った結果が自分の思った通りであってもそうでなくても、必ずそこには「お導き」と「教え」があり、後悔はまったくありません。

 仕事熱心なAさんは、思いもよらない結果を得られました。
 今は思惑がはずれたのでがっかりの気持が強くとも、やがて時が経てば「あの時は、危うく自分から泥沼へ足を入れるところだった」と理解されることでしょう。
 誰しも最初は危急に際しておすがりするところが入り口です。
 そこで安心を得る体験が重なれば、心をみ仏へ向けて大きな安心を得ることが常に可能になります。
 そうすなば、ここ一番に際して、不安にも高慢にもならず対処できます。
 このバラスト水を入れたような安定した状態が「定(ジョウ)」です。
 定の力は、持てる能力を発揮するのに欠かせません。
 五力の一つ「定力」によって「人事を尽くして天命を待つ」ならば、人生に後悔はなくなることでしょう。
 



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