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2015
12.11

慈雲尊者が説いた戒めの効能(その1) ─十善戒と空(クウ)の話─

2015121100012.jpg

 江戸時代の傑僧慈雲尊者(ジウンソンジャ)は、十善戒に導かれた生き方の効能を述べています。

1 不殺生(フセッショウ)戒

「たとえ敵や害虫などに遭遇しても、慈悲心をもって接することができるようになる。
 そうすると無体に攻撃してくる者との縁が薄くなり、自己中心から他を害する心も起こらなくなる」

 もちろん、敵からは身を守らねばなりませんが、その場合ですらも、単に「この野郎!」と恐怖と怒りに任せて戦うのでなく、心のどこかに哀れみを持ちつつの防御となることでしょう。
 作家曽野綾子氏はかつて、泥棒に出くわした時、こんなことをしてはいけませんと諭して帰らせました。
 敬虔なキリスト教徒としての生活がそうさせたのでしょう。
 むやみにいのちあるものを害さないという思いやりの心は、宗教の如何を問わず、根本から自他を救います。

2 不偸盗(フチュウトウ)戒

「社会的立場などを利用した賄賂などの不当な要求をしなくなる。
 そうすると、強盗や窃盗などによって自分の財産も奪われにくくなり、自分もまた、奪わなくなる」

 自分へ本来、与えられていないモノを好き勝手にしようとするのが盗みです。
 ここのところ相次いで、土木・建築関係の手抜き工事や食品・薬品関係のルール違反などが明るみに出ました。
 不当に得る悪業(アクゴウ)は必ずツケが回ってきます。
 たとえ強盗や窃盗に遭わなくとも、因果応報の報いは受けねばなりません。

3 不邪淫(フジャイン)戒

「誰かと男女関係が成立している異性に対して、勝手に接触を求め、執着しないようになる。
 非倫理的で誰かを傷つける関係を求める者は寄りつかなくなり、自分もそうしないようになる」

 恋に落ちると言うとおり、異性を好きになる恋愛感情は、ものの道理とは無関係に〈起こってしまう〉ものであり、防ぐことはできません。
 だから、問題は、その感情の扱い方に尽きます。
 きちんとコントロールすれば、自分にとっても相手にとっても人生の味わいを深める佳い体験になり得ますが、煩悩(ボンノウ)のままにふるまえば、ろくなことにならず、老いて死を間近に感じる頃には取り返しのつかない後悔の念に襲われることでしょう。

4 不妄語(フモウゴ)戒

「用いる言葉はすべて真理に従い、正しくなる。
 嘘偽りやインチキな書面で騙そうとする者が寄りつかなくなるし、自分も誰かを騙せなくなる」

 自分の言葉に注意をはらっている人は、他者の言葉にも注意深くなるものです。
 ただ疑い深ければ騙されないというわけではありません。
 他人を悪者扱いするより先に、自分自身が常々どうなのか、言葉づかいに気をつけるようにしましょう。

5 不綺語(フキゴ)戒

「言葉に虚飾がなくなる。
 駄洒落、無意味なおしゃべり、時間つぶしの稽古事などに縁がなくなる」

 人生は時間です。
 時間が創造的に用いられてこそ、人生は活き活きしたものになります。
 もちろん、仕事の成功であっても、家庭の平安であっても、趣味の探求であっても、何かの結果をつかむためには休息も準備も気分転換も必要であり、そうした時間も含めて自分はどう過ごしているか、振り返ってみたいものです。

○過ちを犯さないようになるには?

 私たちが十善戒に背く過ちを犯す理由の一つは、〈自分〉の絶対視にあります。
 よく用いられる数珠の例えはこうです。
 108個の珠が集まって一本の数珠になりますが、数珠とはその全体に対して与えられた名称であり、珠の一個一個、どれをもってしても、数珠であるとは言えません。
 私たちは、数珠の全体に対してそう思い、そう呼んでいるに過ぎません。
 私たち自身をふり返ってみても同じです。
 指や足など、どこをとっても〈自分〉そのものではなく、たとえ大好きな恋人であっても同じです。
 恋人の髪一本すらも愛しく感じますが、では髪を切ったなら、あるいは病気で失ったなら、恋人は〈減る〉のでしょうか?
 自分も恋人も、地や骨のように固いもの・水や血液のように流れるもの・火や体温のように温かいもの・風や呼吸のように通り抜けるもの・それらが互いに妨げず自在にはたらくバランスのとれた場としての(クウ)・精神という6つの構成要素によって存在しています。
 これを六大(ロクダイ)と言います。
 また、自分も恋人も、身体を含む物質・感受作用・表象作用・意志作用・認識作用が集まって存在しています。
 これを五蘊(ゴウン)と言います。
 そして、これらが全部、たまたま、因と縁によってうまい具合にまとまっていればこそ、その結果として自分も恋人も居るに過ぎません。
 また、身体を構成している数十兆もの細胞は数年ですべて入れ替わりますが、そうすると、大人になった人は子どもの頃とは別人でしょうか?
 あるいは、医者になる決心をしていた子供の頃の心と、教師になってはたらいている今の心は別ものでしょうか?
 自分とは実にファジーな存在です。

 私たちは、普段、何気なく〈居る〉と思っている〈自分〉ですが、このようによく考えてみると、諸条件の集まりによってガラス細工のように、海辺の砂山のように、危うく存在しているだけであると気づきます。
 確たる不変の実体があっての自分ではありません。
 この気づきが、(クウ)を知る入り口です。

 もちろん、自分は(クウ)だからといって、「去年の自分はどこにもいないので、今の自分には関係ありません」と去年の約束を反故にできるわけではありません。
 大切なのは、自分にも恋人にも何ものにも、〈普段のありよう〉と〈究極のありよう〉との二面があるのを忘れないことです。
 そうすると、普段のやり方で行き詰まった時、究極の観方から、思わぬ打開策が見出されたりします。
 自分の絶対視、何かの絶対視というものの本質に背いた無理な観方から生じた壁が、嘘のように消えたりもします。

 自然に、妄りな殺生、盗み、不貞、嘘、おべんちゃらなどから離れることにもなるはずです。
 十善戒を唱える修行と(クウ)を観る自覚によって、自他の苦を克服したいものです。




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2014
08.25

自我に始まりがあるか? ―仏教的視点から観た自我(2)―

20408150002.jpg

 前回、書きました。
「仏教は、他の宗教と異なり、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はないと考えています。
 いわゆる『無我』が仏教の根本的立場です。」
 そして、今、ここに自分がいるといった感覚は、日常的なものとしては認めても、根源に迫る仏教は、その先を問います。
 いると思う自分を突き詰め、一体、自分そのものは〈どこに〉見出せるか?
 そうすると、手にも足にも目にもどこにも見出せず、ただ、五つの要素が集まっている特定のものとして、名づけられ固定されたというしかありません。
 ダライ・ラマ法王は端的に述べられました。

自我五蘊(ゴウン…心とからだの構成要素の集まり)に依存して名前を与えられた存在である」


 五蘊とは、つねれば痛いこの身体(色蘊…シキウン)、見聞きしてはたらく感受作用(受蘊…ジュウン)、あれこれを分ける識別作用(想蘊…ソウウン)、どうこうしようという意志作用(行蘊…ギョウウン)、自分がいるなどとわかる認識作用(識蘊…シキウン)の5つです。
 これらがうまく集まり、共存している特定の者としてのみ、自分はここにいるのであって、ガラス細工のような自分の核となっている自我の存在など、どこにも確認できません。

 論を進めましょう。
 どうして、たまたま五蘊が集まっているかといえば、集まる原があるからです。
 何もかもが、原と結果のつながりとして生じているのであり、この因果の法から外れるものは何一つありません。
 一瞬も止まらず変化し続けると果の流れにあるありとあらゆるもののありようは、固定した実体を持たない(クウ)です。
 だから、仏教では、因果の理から外れ、(クウ)でもない創造主とされる神の存在を認めません。

 一口に因果と言っても、果をもたらす因には直接的なものと間接的なものとがあります。
 因とがある、とも言えます。
 因があってもがないと果が生じないのは、種があっても水が与えられなければ芽が出ないことでわかります。
 
 さて、私たちは、モノとしての身体と心としての意識が精妙にからみあって存在しています。
 意識には、身体のありようと密接につながった「粗いレベル」と、「微細なレベル」とがあります。
 モノとしての身体が切られれば痛いと意識するし、モノとしての身体がケガや加齢ではたらきを失えば、意識の行方も定かではなくなります。
 これが粗いレベルの意識です。
 一方、生まれつき性格が荒々しかったり、おとなしかったりといった性格に彩られた微細な意識の違いは、生まれる前の前世(ゼンセ)に原因があり、意識はこの世での生活ぶりによって知らぬ間に変化し続けます。
 これが微細なレベルの意識です。

 意識も因とによって仮そめにありますが、〈今ある意識〉の因は、あくまでも〈その前の意識〉にありす。
 決して、樹木や雲や鳥といったモノに原因を求められはしません。
 ダライ・ラマ法王は述べられました。

「実質的な因の連続体がないと、間接的な因だけではひとつの現象の存在は成立しないので、実質的な因は必ず必要です。」


 間接的な因としてのがあるだけでは現象が成立せず、実質的な因がなければならないのは、水があっても種がなければ芽が出ないのと同じです。

「意識は『明らかで、ものを知ることができる』という本質を持つものなので、意識の実質的な因も、そのような本質を持つ因でなければなりません。」


 ここで説かれる「そのような本質を持つ因」となっている意識もまた、その因を求めれば「そのような本質を持つ因」でしかありません。

「意識の実質的な因をずっとさかのぼっていくと、その因のはじまりを見つけることはできないので、意識にははじまりがない、といわれているのです。」


 もしも、こうした意識に始まりがあるとすれば、その原因となっているものは意識以外のものということになりますが、そうした事態はあり得ません。
 意識と物質的なものとは種類が異なっており、意識が物質的なものの実質的な因になれないのと同じく、物質的なものもまた、意識の実質的な因になれないからです。
 かつて、インドのサイババは、ビブーティという灰や指輪などを念力で生じさせると称して世界中から信者を集めましたが、彼が外国旅行中に仕入れを行っている現場が目撃され、騒動は終結しました。

 ダライ・ラマ法王の結論です。

「人を規定するときの土台となりうるのは、五蘊の中でも主に意識であり、意識の実質的な因にははじまりがないので、それに依存して名前を与えられただけの存在である『自我』にもはじまりがない、ということになります。」

 
 自我に始まりはないのです。





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2014
08.13

「とらわれるな」だけではわからない ―お盆には無我を考えよう―

20140803107.jpg

 よく「仏教は、とらわれるな、って教えているんですよね」というお話を耳にします。
 皆さんは「そうか、とらわれなければいいんだ」で一件落着となりますか?

 いったい何にとらわれてはならないのか?
 それはなぜなのか?

1 自分にとらわれるのは勘違い

 私たちは、自分がいると思っています。
 普段は、確かにそうです。
 しかし、何かのおりに、「自分は何か?」と考えてみると、わからなくなります。
 それをつきつめた天才は、5つの要素を発見しました。

・色(シキ)…まず、モノとしての身体があります。
・受(ジュ)…感受作用があります。
・想(ソウ)…思い起こす想起の作用があります。
・行(ギョウ)…こうしようと意志する作用があります。
・識(シキ)…そして、自分がいる、と認識する作用があります。

 この5つを五蘊(ゴウン)と言います。
 そして、五蘊がどれ一つとして欠けずに、うまくまとまっているからこそ、こうしていられるので、そのことを仮和合(ケワゴウ)つまり仮そめの和合と言います。
 仮そめの状態を「(クウ)」といいます。
 何かの拍子にどれかが欠ければ、たちまち、自分は、こうしてはいられません。
 何かが5つを強固にまとめていて、いつまでもいられる人はいません。
 つまり、確固たる我は仮そめ、すなわちなのです。
 このことを「人無我(ニンムガ)」と言います。

 さらによく考えてみると、色・受・想・行・識それぞれも、でしかありません。
 このことを「法無我(ホウムガ)」と言います。

 二つの無我は、自分だけにあてはまるのではありません。
 家族にも友人にも、愛する人にも、憎む相手にもあてはまるのです。

 こうして、法無我人無我を理解すれば、自分を客観的に観られるようになり、狭い自我意識は遠ざかるはずです。
 幻の自分にすがるのは、蜃気楼をつかもうとするようなものでしかないのです。

2 自分も周囲の人々も等しくであると認識できないので、が生じる

 この世がままならないのは、お互いが自己中心的に生きているからです。
 自己中心とは我(ガ)が強いということであり、それは、我がであると知らないから起こる態度です。
 自分がであるとよく認識できれば、自己中心的意識は必ず薄れます。
 憎い相手が空であるとイメージできれば、憎しみは必ず薄れます。
 好きな人が空であるとイメージできれば、自己中心的な執着心は必ず薄れ、大切にしたいという思いやりが必ず大きくなります。
 こうして、ままならなさという本質的な〈〉は自分から遠ざかり、社会からも消えて行くはずです。

3 結論

 とらわれてはならない(とらわれても仕方がない)対象はまず、自己中心を招く自我意識です。
 なぜかといえば、お互いに空という真理を知らず、自己中心的に角張って生きているために、あらゆるを生じているからです。
 皆さんになじみの深い『般若心経』は、人無我(ニンムガ)と法無我(ホウムガ)を説いているので、ずうっと大切にされてきました。
 せっかくお盆になったのですから、こんなことも頭の隅において、般若心経をどうぞ、お唱えください。




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2014
07.05

布施によって喜びを、空に従って清々しさを ―寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その77)─

2014070400123

 江戸時代まで寺子屋などの教材となっていた『実語教童子教』を読んでいます。

「人は、できる限り他人へ施しましょう。
 布施は、人の道を体得する糧となります。
 人は財物を惜しまず、施すようにしましょう。
 財宝に執着すると、人の道を体得できなくなります」

 以下、原文です。

「人(ヒト)尤(モット)も施しを行(オコナ)ふべし
 布施(フセ)は菩提(ボダイ)の粮(カテ)
 人(ヒト)最も財を惜しまざれ
 財宝は菩提(ボダイ)の障(サワ)り」


 人の道は畢竟、見返りを求めず誰かのためになり、相手の喜びをすなおに喜べる人になることに尽きます。
 それは、二つの真理に基づいた道だからです。

1 生きとし生けるものは、あらゆるの中で生かされている

 私たちはすべて〈生かされている〉存在である以上、同時に〈生かす存在〉であらねばなりません。
 なぜなら、生かされているとは、自分を〈生かしてくれている〉相手に囲まれていることであり、もしも自分が誰かを生かす存在でなくなれば、周囲を〈生かし合う〉世界が壊れてしまうからです。
 水の分子式は「H2O」です。
 Hで表される水素の分子が二つと、Oで表される酸素の分子が一つ、合計三つの分子が結合して水になっています。
 三つの分子のうち、どれか一つでも外れたならば、水にはなりません。
 それと同じと考えられはしないでしょうか。
 もしも自分が〈生かし合う〉存在から外れようとするならば、生かし合っている世界は濁ります。
 気まま勝手で、奪おうとする人が増えれば、人間界は争いの修羅(シュラ)界や、恥知らずの畜生界へと変質し、行く先は地獄界になります。
 
 誰かのためになることは、人間界に生きる私たちの本源的ありようなので、布施を行うと、深く充実感のある喜びが湧いてきます。
 余分なお金を手にして美味しいものを食べた後で、またもや別の美味しいものを探さないではいられないような、一時的満足感とは異質です。
 布施は、乾いた大地を潤し、淋しい心を潤す慈雨であり、過分な貪りは、乾いた喉に流し込む塩水のようなものなのです。
 生かされ、生かす世界の存在にふさわしい行動によってもたらされる喜びは、親であるみ仏からのご褒美かも知れません。

2 すべては(クウ)である

 もの惜しみをする人は、哀しい人です。
 の真理を知らないか、知っていても我欲(ガヨク)に負けているからです。
 そもそも、五蘊仮和合(ゴウンケワゴウ)と言い、五つの条件がたまたま調っているからこそ、〈自分〉はここにいられます。
 条件がそろい、たまたま存在しているのは、を生きていることに他なりません。
 肉体的条件か精神的条件のどちらかに大きなダメージが生ずれば、たちまちにして〈自分〉はあやふやなものとなり、この世から消える場合もあります。

 五つの条件は以下のとおりです。
・色蘊…肉体やモノ
・受蘊…感受作用
・想蘊…表象作用
・行蘊…意志作用
・識蘊…認識作用

 般若心経を読んだり書いたりしている方は、「五蘊(ゴウンカイクウ…五蘊は皆、である)」及び「無色無受想行識(ムシキムジュソウギョウシキ…色も受想行識も無い)」は、とくと、お馴染みなはずです。

 私たちの心には四魔(シマ)が住んでいるとされています。
 その一つが蘊魔(ウンマ)です。
 蘊魔が強くはたらいている人は、ウジウジと何かかにかに囚われ、周囲へ重い気を漂わせます。
 いかに威勢がよくても、権勢を誇っていても、よく観るとどこかにジトッとした雰囲気があり、カラッとしていません。
 布施は、黒い蘊魔を消す徳の明かりです。
 とにかく、誰のために、何かを手放してみましょう。
 これまでは「惜しい」と思っていたのに、なぜか「清々しい」と感じられることでしょう。
 条件がそろい、たまたま存在しているのは〈自分〉だけではなく、モノもお金もそうです。
 だから、古人は言いました。
「金は天下の回り物」
 思い切って手放すのは、回り物を世間へ回してやっただけのことです。
 空という真理に添った行為だから、清々しくなるのです。

 若い方々は、生きるためのスキルを得ようとするだけでなく、「布施(フセ)は菩提(ボダイ)の粮(カテ)、財宝は菩提(ボダイ)の障(サワ)り」を肝に銘じて世の中へ巣立っていただきたいと願っています。
 すでに巣立った方々にも、もちろん、心に留め置いていただきたいものです。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2013
12.12

手を携える宗教と科学 ─ダライ・ラマ法王と茂木健一郎氏─

2013121100001
〈十一面観音様の大笑面〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

科学精神を捉えられていない

「ここまで、をどのように整え鍛えるかについて、仏教の教えに基づいて説明してきました。
 しかし、自分は仏教徒でないから関係ない、非科学的だ、そう思われる方がいるかもしれません。」

「これほど科学が進歩した今でも、解明できないことがまだたくさんあります。
 最先端の技術や知識をもってしても、発見できない現象や説明できない現象が山のようにあるのです。」

「私たち仏教徒ははるか昔より、精神のはたらきや意識のありようを考えてきました。
 たくさんの人間がこれを研究し、議論し、実践し、少しでも真理に近づこうと多くの時間が費やされました。
 数多くの経典やテキストが書かれ、仏教徒たちがこれを日々勉強しています。
 これまでお話ししてきた空の本質や精神を高める方法も、こうしたプロセスの末にあみだされたものです。」

「この分野に関しては、たとえ最先端の科学でも、私たちほど追究や解明ができていないのではないでしょうか。
 科学者よりも仏教の学者のほうが、教えられること、知っていることが多いかもしれません。
 実際に一部の科学者たちは、仏教のことを『の科学』と呼んでいます。」


 ご縁となった科学者の方々とお話をすると、どなたも、当山の教えや修法について非科学的であるとは言われません。
 当山もまた、科学が発見した真理や、病気の治療など問題解決の科学的方法を尊びこそすれ、宗教のみが救済の担い手だなどと思い上がりはしません。
 ある時、密教の研究会で提案しました。
「密教をめざす行者の総合的学習方法の一つへ物理学の勉強を入れてはいかがでしょうか?
 理学の勉強も欠かせないはずです。
 これからの宗教は、科学的思考法や科学的知識もある程度、持ちながら深めてゆくべきではないでしょうか?」
 私たち行者自身が『なぜ』という根元的問いを発し、自分なりの納得と世間様に通用する説得力を得ていなければ、救いを求める方々が抱えておられる問題の本質を見極められず、確信を持った法話も修法もできません。
 そのためには知性と感性のすべてを動員し、あらゆる視点から世界を観て人の世を知り、人のを知らねばなりません。
 現実を総合的につかまえられなければ世間様や他人様の苦のありようはわかり得ず、法話も修法も充分に役立たないのは、診察ができなければ治療ができないのと同じです。
 それに、普通の生活をしている方々は、科学的思考法に慣れ、科学的知識はたくさん持っておられても、宗教的思考法に慣れておられないのはもちろん、宗教的知識もあまり持っておられず、科学をふまえた対応は欠かせません。
 宗教者が科学を忌避したり無視したりしたままでは、社会的役割を果たしきれないのです。
 その点、宗教と科学が手を携え、私たちが苦から脱し世界の平和をめざすべきであると主張し、積極的に科学者と交わっておられるダライ・ラマ法王は、現代宗教の旗手というべきではないでしょうか。

○脳科学者たちも意識が何かわからない

 脳科学者の茂木健一郎氏は、ダライ・ラマ法王へ質問されたそうです。

「実はわれわれ脳科学者はとても大きな問題を抱えています。
 それは『意識』の問題です。
 科学者はこれを全然解明できていないんです。
 たとえば、私たちはいま光を感じたり、音を感じたり、あるいは体のだるさや疲れを感じたりしています。
 この現象を科学的に解明すると、脳内にある約百億個の神経細胞やニューロンが外部刺激に反応している、ということになるでしょう。
 でも、この解釈に従うと、いわゆる『意識』というものは存在していないことになります。
 脳のシステムは大変複雑ですが、意識はどこにも見当たらない。
 神経細胞の内部はさらにたくさんの分子で構成されていますが、この一つ一つを取り出したところで、どこにも意識は発見できないのです。」


 仏典『ミリンダ王の問い』が思い出されます。
 在家の行者であるナーガセーナ長老は、ミリンダ王との問答の中で、髪や歯や血液や脳髄など、どれもが「ナーガセーナ」そのものではないと指摘します。
 さらに、車軸や車輪や車台なども「車」そのものではないと例示し、さまざまなものが依存し合って成立する関係性のあるところにしか「ナーガセーナ」も「車」もないことを説きます。
 意識も又、同様に、五蘊(ゴウン…感受作用や認識作用など5つのはたらき)がかりそめに和合し、危うく成立しているものであることは、仏教の行者や聖者によって把握されています。

 茂木健一郎氏は続けます。

「たしかに二十一世紀は、科学の力をもって脳を全て解明できると思っていました。
 脳の分子の動きをコンピューターでシミュレーションすれば、意志や感情といった問題もすべて理解できる、そう信じられてきたのです。
 ところが現在、最先端の科学をもってしても、『意識』について全然解明できていない。
『意識を持つとはどういうことか』『意識は存在しているのか』、これをどう説明するべきか、どう調べていいのか、見当すらつかない。
 全くの無力なんです。
 科学的な見地、科学者の立場で言えば、もはや意識は『存在してはいけないもの』なのです。」


 この「意識は『存在してはいけないもの』」という部分は重要です。
 それは、科学を絶対視する方々は、〈前世〉も、〈輪廻転生する何ものか〉も、そうして『無いもの』としてきたからです。
 一方、仏教行者たちは、それらなくして自分のも、この世も成り立たないと感じ、考え、信じてきました。
 しかし、明治以後の日本においては、学者は別として、仏教徒や仏教教団ですら、科学に傾斜しすぎる姿勢によって、こうした重要な問題と正面から向き合わないできた傾向があり、一行者としてはとても残念に思っています。

 茂木健一郎氏は続けます。

「私は北米神経科学学会に参加していますが、そこにいる三万人以上の脳科学者も、みな意識についてはうまく説明がつかないでしょう。
 とはいえ、私たち自身も『意識はある』と認識しています。
 意識については、これから一番真剣に考えなければいけないことの一つだと考えています。
 一方で仏教の方々は、長い伝統の中でずっと意識の研究を重ねています。
 そこで、仏教では意識をどのようなものと捉えているか、ぜひお伺いしたい。」


 この先にこそ、仏教の存在理由が明かされます。
 盲信や狂信ではなく、ものの道理を柱とした普遍的宗教であることが示されます。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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