--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2016
02.06

イラク戦争と靖国神社への祈り(その19) ─善悪とは?修行とは?─

2016020500012.jpg
〈造化の妙〉

 平成16年1月、自衛隊のイラク派兵に鑑み、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○善修行(2月27日)

 ご祈祷を行うため、早朝から上京した。
 東京駅はもちろん、周辺のビルなどの警備態勢にもただならぬ様子を感じた。
 宮床の雪が嘘のような快晴の下、春の陽を浴びたサラリーマンのワイシャツ姿が醸し出す長閑さと、オウム事件の首謀者に死刑が言い渡されようとしている緊迫感とが、何の違和感もなく共存していた。
 麻原 彰晃の弁護側は、「一連の事件は弟子たちの暴走であって、被告は無罪」と主張したが、東京地方裁判所は求刑どおり死刑を言い渡し、弁護側はただちに控訴した。

 帰山してすぐ、お通夜へ向かった。
 通夜振舞いの席で事件に関する質問が相次ぎ、殺人戦争について皆さんと対話を行った。
 
 釈尊は、「を為すなかれ、善を為すべし、自らを浄めよ。これが諸仏の説くところである」と説かれ、何よりも善をはっきりさせるよう指導された。
 オウム真理教の行為は明らかにであり、多くの犠牲者を生んだ。
 彼らの業(アクゴウ)は、幹部の死刑で償いきれるものではない。
 のパワーはすさまじい。
 その非道に巻きこまれた方々は、首謀者や教団を憎んでも憎んでも憎みきれるものではなかろう。
 心中は察するに余りある。
「なぜ自分が被害者にならねばならなかったのか?」
「なぜ子供が死なねばならなかったのか?」
 こうした答が期待できない問いを発せずにおられず、「麻原を憎まないでいられない自分が悲しい」という袋小路に入った方は、どこに救いを求められるのだろう。

 もしも、犠牲者やその身内が、み仏へおすがりした場合、こうしたお定まりの説法など何の役に立とうか。
「すべては空(クウ)なので、こだわらないように」
「いつまでもとらわれてはいけません」
 これだけで、そうですか、と深く納得し救われることはなかろう。

 かと言って、全ては因と縁によって成り立っており、変化して止まず、時空に屹立(キツリツ)しているものは何もないという道理がベースと成っている仏教は、そこから離れた真理を説き得ず、そこから離れた救いの手も差し伸べられない。

 釈尊はそこで、自分が汗を流すことによって真理を〈つかむ〉実践法を説かれた。
 典型が、一人娘を失ったキーサゴータミーの指導である。
 悲しみと絶望のあまり半狂乱になった彼女へ、釈尊は「一人の死者も出したことのない家が見つかったなら必ず救おう」と約束し、彼女は村中を訪ね歩いたが、ご先祖様のいない家は一軒もなかった。
 夢中で歩き、疲れ果てて釈尊のもとへ戻った彼女へようやく、釈尊は無常の理を説き、一瞬にして苦から解放した。
 こうした〈つかむ〉ための手段を方便(ホウベン)と称する。
 対機説法と呼ばれる釈尊の指導法は相手により、状況によって千差万別だった。
 言い換えれば、釈尊は千本の手に象徴される無限の方便を持つ千手観音である。
 こうした方便は、2500年の時をかけて整理され、深められ、修行の手引きであるお次第となった。
 自分に合った師を見つければ、必ずや師は適切な方便を授けるだろう。

 さて、善悪についてはどうだろう。
 十善戒の布教に生涯をかけた慈雲尊者は「瓔珞経(ヨウラクキョウ)」の一節をもって明快に説かれた。

「理に順じて心を起こすを善といい、背くを悪と名づく」


 道理・真理に合った心が善であり、背く心が悪である。
 尊者は続けて断じる。

「仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすを善といい、これに背くを悪という」


 つまり、「理」は「仏性」であり、み仏の子である万人に具わった仏性が輝けば、身体も、言葉も、意志も、善なるはたらきをするのだ。

 ならば、「方便」とは、「仏性」を輝かす方法に他ならない。
 たとえば写経である。
 お手本となっている文字の一つ一つがそのまま写されれば、一文字一文字に秘められたそれぞれのみ仏が立ち上がってくるとされている。
 また、〝自分はうまくないな〟と気づくことが、仏性を汚しているものに気づくきっかけであるとも説かれる。
 たとえば経文を読み真言を唱える読経である。
 気分によって激しい抑揚がついたり、異様なだみ声になったりすれば、経典の清浄さはどこかへ行ってしまう。
 読み手の心はご本尊様やご先祖様へ届くだけでなく、聴き手の心へも鏡のように映し出されることを忘れないようにしたい。

 殺人は悪である。
 戦争も悪である。
 海軍大将となった最後の軍人井上成美(イノウエシゲヨシ)は日独伊三国同盟に反対した。

 「日本が亡びるようなときには戦争もやむをえないし、部下に死地に赴くよう命令もできる。
 しかし、国策の延長として独伊と結び、戦争に入るのは許せない。」

戦争というのはいいものではなく、私は、戦争は刑法でいう死刑と同じ必要悪だと、罪悪だと思います。
人を殺したり、人の物を破壊したり、そんなことをするのは、交戦国の権利として認められてはいるが、国の行為としては悪行為なのです。」


 何としても国民一人一人のいのちを守り抜こうという思いが感じとれる。
 およそ国をあずかる為政者は、いかなる艱難辛苦にも耐えて国民を殺さず、殺させないという強い決意を持ち、その決意は、うわべの言葉だけでなく、周囲に感得されるほどでなければならないと思う。

 善悪は、いかなる場面にあっても必ず明確にすべきである。
 むろん、善悪をあいまいにし、釈尊の教えをないがしろにする仏教などはあり得ない。
 他の悪を見て己の内なる悪におののき、善に向かって辛苦する過程が修行であり、そこを通って行く先に一段、上のステージが待っている。
 このステップアップを信じて何らかの修行を行う実践者こそが仏教徒だ。
 オウム真理教の誤りは、仏教を標榜しながら善悪の判断という根本を見失ったまま、思いつきの訓練へ走ったところにある。
 まっとうに生き、善悪をつきつめ、壁にぶつかり、その苦悩と正面から向き合った人が正当な伝授を受けて行う修行こそが本ものであり、み仏は必ずや救いのみ手を差しのべてくださるに違いない。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



スポンサーサイト
2016
01.10

イラク戦争と靖国神社への祈り(その4) ─火伏せの法、井上成美など─

201601100002.jpg

201601100001.jpg

 平成16年1月、自衛隊イラク派兵に鑑み、小生は、仏神と祖霊のご加護で自衛隊員の無事帰還をはかるべく、靖国神社へ向かって托鉢行を始めた。
 世界の情勢が急変を見せ始めた今、そのおりの記録を加筆訂正しながら再掲しておきたい。
 不戦日本の願いを込めて。

○春祭(2月1日)

 去年の数倍に上る申し込みをいただき、盛大に厄除祈願の春祭千枚護摩祈祷を行った。
 ほぼ3時間もの間、真言を唱え、祈っておられた方々の熱心さには頭が下がった。
 
 毎年のごとく、今年も守本尊様のご加護を確信させられるできごとがあった。
 護摩壇正面の高いところへ立ててあった小さなローソクたちが火の熱さによって溶け始め、火がついたままで供物を捧げてある壇へ次々に落ちた。
 あるものは壇に敷いてあるビニールのシートを溶かし、あるものは供物を載せてある三宝の紙に火をつけ、あるものは壇の布へ燃え移ろうとしていた。
 護摩壇から降りるわけには行かず、火伏せの法でそれらを次々と消したので大事に至らなかった。
 ご本尊様は誠心に応じて動く世界を目の当たりに見せてくださったのである。
 気づいていた方々もあり、修法後、身体と法について少々お話しし、魔除の伝授も行った。
 授かった法を信じて行じ、眠っている能力の開発をやるかどうかは、ご当人の問題である。
 
 火の熱さで眼鏡のレンズに無数のヒビが入り、群雲がかかったような感じになってしまった。
 このまま見えにくくては困るが、明日の午前中までにお祭関係の仕事を終え、再出発したい。

○足踏(2月2日)

 午前中で一段落つけ、でかける準備にかかろうとしていたところへ葬儀屋さんからの電話。
 枕経と葬儀までの打ち合わせをして欲しいとのこと。
 托鉢用の白衣ならぬ読経用の白衣を着けてでかけ、修法後、枕経の意味や意義などを話し、若干のご質問にお答えした。
 まったく思いもよらず喪主となった若い奥さんから心構えについて真剣に訊ねられ、真言をお伝えした。
 
 告別式までの流れは実に重く、引導を渡して帰山するとぐったりしてしまうのが常である。
 ご遺族は辛く悲しく寂しく、導師は心も身体も〈芯をすり減らす〉のが死者との別れだ。
 出家してまもなく、師僧が嘆息を込めて呟く言葉を聴いた。
「葬式はやりたくないものだ」
 当時はかなり強烈な違和感を感じたものだが、導師を務める今は、実によくわかる。
 故人とご遺族の思いを忖度しながら、持てるエネルギーを使い尽くして引導を渡す仕事など、やりたい人はなかろうが、それを欠かせぬ役割として背負うのが僧侶であり、ここに至った業(ゴウ)の深さを幾度も幾度も突きつけられる。
 だから、寒風の中で立ったままの警備員などを見ると、同輩に思え、心で合掌する。

 そもそも僧侶は、仏教という車の両輪をなす教えと法力を信じ、その世界を求める行者である。
 お釈迦様やお大師様の境地に憧れ、何ぴとをも救った法力に憧れ、たとえ一ミリでも余計にそこへ近づこうとせぬ者は僧侶とは言えない。
 なぜならば、愚かな己を〈み仏の子〉として一歩でも高める努力を続け、あらん限りの力を用いて仏縁の人々のために役立つこと以外、僧侶の存在価値はないからである。
 美しい花を美しいと言い、強い象を強いと言うのみで、己が花となり象となって人々の抜苦与楽(バックヨラク)のために一身を捧げようとしないならば、いかに言葉巧みであり、いかに人気があり、いかに大きな寺院にいようとも、本ものの僧侶とは言えない。
 
 明日は出発したい。

(最近、Aさんの十三回忌供養を行った。
 奥さんは「早いものですねえ」と涙を浮かべられ、支えとなるように並んで立つご子息の頭髪はすっかり白くなられた。
 あばら屋を本堂としていた時代に当山と仏縁を結び、当山の墓地ができるのを待ってお墓を造られたご一家の方々と言葉を交わせるのは、たとえようもなく嬉しい。
 これからも主人と私たちをお守りくださいと言って笑顔になられた奥さんは観音様のようで、業の深い身がまた救われ、力づけられた。
 我が身にまつわる過去世からの因縁は、み仏ならぬ身が解明することはできない。
 与えられた役割は天命であろう。
 全身全霊をかけて引導を渡し、年忌供養の導きとなり、ご遺族の安心の土台となり続けたい。)

○井上中将のこと(2月3日)

 ついにイラクへの本隊派遣となった。
 今朝、ご来山された方が「既成事実ができると人はだんだんそれが当りまえに思え、ことは一方へ流れてしまうものです」と心配しておられた。
 まことにその通りである。
 昭和10年代、マスコミはもちろん世論全体が戦争へ戦争へとなびいている頃、海軍中将井上成美は頑として自説を曲げず、米内・山本両氏と共に急流にあって屹立(キツリツ)していた。
 信徒Aさんが図書館で調べわざわざお届けくださったコピーを引用し、井上中将の言葉を記しておきたい。

「戦争というものはいいものでなく、私は、戦争は刑法でいう死刑と同じ必要悪だと思います。
 人を殺したり、人の物を破壊したり、そんなことをするのは、交戦国の権利として認められてはいるが、国の行為としては、悪行為なのです。
 しかし、国としては、生存ということを考えなくてはならない。
 だから、生存を維持するための、最後の手段として仕方がない。
 だから、生存のため以外に国軍を使うことは、私は、イクスパンショニズム(領土拡張主義)であり、ミリタリズム(軍国主義)であり、インペリアリズム(帝国主義)であると思います。
 そんなことで、国民を殺すことは、その政府が悪い。」


 自衛隊員とご家族の本音は「侵略者があれば命をかけて戦うが、………」というものであろう。
 国内で災害復旧活動をするのと同じく銃を持たずスコップを手にし、ボランティアなどの民間人と行動を共にするのならいざ知らず、硝煙立ち上る国へ武装してでかけるならば、いかなる言葉で表現しようと軍事行動以外の何ものでもない。
 
 しかも、国会では同盟軍という言葉が乱舞しているが、井上中将などの海軍首脳と陸軍との対立点の根幹が「自動参戦」問題であったことがもはや忘れられているように思えるのは何とも残念である。
 英霊にも、戦争犠牲者へも申しわけが立たない。
自動参戦」とは、ドイツやイタリアが戦争を始めたならば、同盟軍である日本も自動的に戦争へ荷担するという約束のことである。
 井上中将はこう言って反対した。

「国軍の本質は、国家の存立を擁護するにあり。他国の戦いに馳せ参ずるごときは、その本質に違反す。
 前(第一次)大戦に日本が参戦せるも邪道なり」


 日本が勝った戦争だからといって、正しかったとは決して言えない。
 この見識がもっと共有されていれば、日本は戦争を避けられたかも知れない。
 井上中将の言葉は輝きを失っていない。
 私たちは深くかみしめるべきではなかろうか。
「同盟国であるアメリカの敵は日本の敵である」という論理ほど日本をすばやく戦争へ導くものはない。
 最大の死魔である。
 呼び寄せられた死神は、もう、あちこちに顔を見せている。
 空港に、港湾に、原発施設に、警察に、国会に、駅に、そして街の人混みの中に、〈不安〉〈警戒〉〈疑心〉〈恐怖〉として………。
 自衛隊派遣問題が起る前と比べて、日本はこれまでより良くなっているだろうか?
 治安と安全と平和がより確実なものになっているだろうか?
 
 井上中将の言う〈必要悪〉の極限性と恐ろしさをもっともっと考えねばならない。
 ブッシュ大統領はイラク戦争に臨み、こう表明している。
「イラクを第二の日本にする」
 ここには、永久に米軍を駐留させるという意味以外のものがあろうか。

(12年前の文章を読みなおしてみると、あそこから現在へつながる流れは速さを増していると思える。
 政府は「世界の情勢が変わった。新しい防衛の仕組みが必要だ」と力説するが、日本中に焦りや勇み立つ風潮が広がりつつあるのは、本当に〈世界のせい〉なのだろうか? 
 そもそも集団的自衛権という概念自体、第二次世界大戦後、アメリカが自国による戦争を正当化するために持ち出したものであり、それは「自動参戦」によって世界中を戦争へ巻き込むきかっけとなり得る。
 これまでのように武力行使を避け、丸腰で、世界各地域への貢献をはかる自衛隊のままでは、アメリカを初め世界中から日本が見捨てられて中国に蹂躙されるという確たる調査結果などがあるのだろうか?むしろ、現場の声としては、日本の〈平和ブランド〉を捨てることによる危険性の増大こそが懸念されているのではなかろうか)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
08.04

幽霊の頭にある三角の布に想う ―中間が示すもの―

2015080400012.jpg
〈田村一村の『由布嶽朝靄』〉

 幽霊はなぜ、額に三角形の白い布をつけているのか?
 それは、この世とあの世の中間にある存在だからである。
 この世の人々はそうしたものをつけてはいないし、成仏してホトケとなった者もまた、同じである。

 あの世に〈逝き切れない〉存在こそが幽霊である。
 だから、彼らは必ず、この世にかかわる念を持っている。
 私たちは彼らの存在そのものよりも、消えない念をこそ怖れる。

 もしも善き念であるならば、当人の生前に誰かの心へ映り、善き志などとして残っているので何の問題もないが、誰しもが当人の死と共に消えたと思っている悪しき念や問題を抱えた念がまだ消えていないことを示す者として幽霊が顕れる場合は怖れ、困惑する。
 その念が何らかの善からぬ作用を起こしかねないからである。
 幽霊は決して「嬉しや……」とは顕れない。
 必ず「恨めしや……」と、いのちも心も冷やす暗いものを投げかけてくる。
 その時、私たちがとるべき態度は一つしかない。
 成仏を祈ればよい。
 仏に成るとは、無常を知り、逝くべき世界へ行くことである。

 念を残そうとすれば、〈自分〉も残りかねないが、無常の真理にいつまでも抗しきれるものではない。
 真理に背こうとする徒労は無益であり有害である。
 善き念ならば、託せばよいだけのことであり、託そうとせずとも、自ら託される人が現れもする。

 大正4年、共産党などを取り締まる「治安維持法」が制定される頃、榎本重治書記官は、上司井上成美へ言った。
「共産党を封じ込めずに、自由に活動させていたほうがよいと思うが……」
 井上は黙して答えなかった。
 それから20数年が経った。
 日本が太平洋戦争に敗れた後のある日、榎本が井上の自宅を訪ねてきた。
 長い無言の握手をかわしてから、最後の海軍大将となっていた井上は答えた。
「いまでも悔やまれるのは、共産党を治安維持法で押さえつけたことだ。
 いまのように自由にしておくべきではなかったか。
 そうすれば戦争が起きなかったのではあるまいか……」(『井上成美伝』より)
 最後まで戦争を阻止しようとし、自ら大将進級に反対した井上成美と榎本重治の心に去来したものは到底、忖度しきれないが、仙台二高の遙かな後輩である小生の胸には確かに託されたと感じるものがあり、消えない。

 さて、三角布について新谷尚紀著『お葬式』は示す。

「現世から他界への移行の途中にある人、またある世界からよその世界へと移行する途中にある人というのは、太陽を避けて頭部に笠や布などの被(カブ)り物をするのが通例でした。」


 結婚式の角隠し、参勤交代をする武士や旅人の笠、渡世人の三度笠、女鳥追いの鳥追い笠などが挙げられる。
 ここでは言及されていないが、托鉢(タクハツ)修行中の僧侶が被る網代笠(アジロガサ)もそうである。
 昔、葬列の人々が頭に三角布をつけたのは、死者に添う者としての心を表していた。

「近親者が死んだ人と同じ服装をするということは、彼らが一時的に、現世の社会的な存在ではなくて、他界へと旅立つ死者と同じ特別な存在であるということを表しているわけなのです。」


 現代の私たちは、死者を送る際に三角布を被らない。
 また、川べりの柳の陰に幽霊を見ることもほとんどなくなった。
 コンピューターの原理と同じく、白か黒かという単純な二者択一の世界に生きている。
 いのちは生か死かに分けられる。
 心は必ずしもそうではないと感じているが……。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。