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2016
07.31

人間、心、いのちの全体性は大丈夫か?

2016-07-31-0001.jpg
〈運慶作の国宝大日如来像(円成寺)。何ものでもなく、何ものにもなる空(クウ)の空(クウ)たる姿〉

 A医師のお話を聴いた。
 医学部がどんどん細分化され、診察の現場で多様な患者さんに対応したり、医療全体が俯瞰できる視点を持っているような若い医師がなかなか、いないらしい。
 飛んでいる飛行機の中で具合を悪くした人がいた場合、スチュワーデスが「お医者さんはいませんか?」と声をかけ、手を挙げた医師が急病患者を救う、などという光景はこの先、あまり期待できないだろうと言う。
 もしも、専門分野以外の病気に手を出した場合、法的責任を問われかねないといった面も心配だ。
 その一方で総合医というものもあり、何でも診る医師だが、場合によっては、患者さんが専門の医師へとバトンタッチされる。
 総合医もまた、全体という分野に特化した知見を身につけるという意味では、細分化された世界を担っている。

 A医師へ訊ねた。
「私たちが病気になった場合、どの医師へ自分の身体を任せるかを決めるのは、特別な場合を除き、医療技術のレベルではなく、信頼できるかどうかという一点ではないでしょうか?
 そうした意味では、医療は全人格的な仕事ではないかと思えますが……」
 そうです、お互いの信頼感が第一です、という返事を耳にしながら、なぜ、人格や信頼といった現場で最も大切なところと、専門家を育てる教育の方向性がずれているのか、考えさせられた。

 やはり、技術偏重、あるいは能率や効率への過度な期待といった文明の問題なのだろう。
 小学生の頃から商売を体験し、大学では、より多くの収入に直結する資格が得られるような学部を選ぶといった方向で進めば、何かが欠けてしまうのではなかろうか。
 技術は道具であり、道具の用い方を決める精神は、技術の習得とは別なところでつくられるはずだ。
 何かを得るための思考や行動ではなく、それ自体が目的であるような思考や行動がある。
 たとえば〝自分はなぜ生きているのか?〟といった問わずにはいられない問いを問い続けること、あるいは星空に魅入られたり、神社仏閣で何かの気配を感じとったりしてボーッと過ごすこと。
 そうして過ごす時間が、人格を陶冶し、信頼される人物をつくるためには欠かせないと、体験上、思う。
 しかし、一見、何の役にも立ちそうにない時間を過ごす心の余裕は、子供や若者たちにあるだろうか?
 去年、ある小学生が話してくれた言葉は、小生の心で御守のように生きている。
「和尚さん、ぼく、独りで近くの公園に行って、丘にある台に座るのが好きなんだ。
 ボーッと眺めるんだ。
 誰も知らないよ」 

 私たちは文明を見直す重大な状況に面しているのではないか。
 人間も世界も、生気や精気や正気を保ちにくくなっている。
 人間、心、いのちが、歪(イビツ)になりかけている。
 それらを軽視する世界になりつつある。
 多様な意見に耳を貸さず、決まり文句を叫び、力で二者択一を迫る人々が世界中でもてはやされつつある。
 私たちの不安、無力感、閉塞感、苛立ちや無慈悲さは今や、尋常ならざるところに来ている。

 インドの詩人ラビンドラナート・タゴールがこう詠んでからもう、一世紀が経つ。

「生をして夏の花のように美しく、死をして秋の葉のようであらしめよ」


 夏の花のような真に活き活きした生、秋の葉のような真に受け容れられた死は、どこへ行ったのだろう。

 ちなみに、『理趣経(リシュキョウ)』はこう説いている。

「私たちが本来持っている無限の意欲は、智慧と慈悲に導かれ、無限の安楽と豊かさをもたらす」


 技術、効率、能率といった〈道具〉を磨きつつも、それらの主人公である心のありようにもっと気を配る文明であって欲しい。
 ドイツには、オリンピックのモットーを「より速く、より高く、より強く」の3つだけでなく、「より美しく、より人間らしく」を加えた5つにしようと提唱する人々がいるらしい。
 ドーピングで揺れるロシアのプーチン大統領が「もっと強く」と鼓舞していることと比較しても、さすが、であると思う。




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2016
03.17

Q&A(その18)怒る上司に困っている時は?(1) ─思いやりがあるかないか─

2016-03-17-0001.jpg
〈上京のおりに、カップラーメンなどで腹ごしらえするおなじみのコンビニさん。店員さんはいつも年配者。スズメがよく飛んできて、近くをウロウロします。〉

 このところ、上司の高圧的な態度に困っている方の人生相談が相次いだので、一般論を書いておきます。

 上司は何のために怒るのでしょう。
 チームとして仕事を円滑に進めるため?
 あなたに対する口に出せない不満があるため?
 自分のうっぷん晴らしをあなたへぶつけやすいため?

 上司が怒っているのか、本当の意味で叱っているのか、客観的に眺める必要があるかも知れません。
 いつも怒っているのなら、少なくとも、あなたへの優しさがそうさせているとは思えません。

 優しさから叱るのはそれ以外の方法がない場合であり、叱った結果、必ず、叱られた方に大きな利益が生まれているはずです。
 たとえば、カルト集団に取り込まれた場合など、自分が危険な状況に置かれたことに気づかないでいる人へ目覚めさせる方法として叱り飛ばす場合はあります。
 小生もかつて、そうした現場へ乗り込み、逃げ出せないでいた青年を救出したことがあります。
 また、スポーツの監督が選手を叱る場合も、持てる能力を発揮させるため、あるいは能力を向上させるため必要な場面では叱り飛ばします。
 ただし、元プロ野球選手の桑田真澄氏が「殴られて愛情を感じたことは一度もない」と言うように、あるいは大相撲で暴力的指導が事件にまでつながった例を見るように、肉体的暴力を伴う場合は要注意です。
 ちなみに、しらかし台中学校野球部監督猿渡善宏氏はこうしたメッセージを込めてノックバットを握り、選手を叱りながら厳しく鍛えています。
「限界を自分で決めるな」
「仲間のためにそのボールにくらいついてみろ」
「声をかけ合え。ボールと思いをつなげ」
「考えろ。すべてのものには原因がある。徹底的に究明して改善しろ」
「情熱を持て。情熱なしでやり遂げられる価値のあることなんてこの世にはないんだ」

 カルト集団のケースも、野球部監督のケースも、叱られた側にプラスの結果が生じており、思いやりが叱らせたと判断できます。
 さて、あなたの場合はいかがでしょうか?
 
 思いやりが叱らせているかどうか、判断する方法はもう一つあります。
 優しい心は5つの形で顕れます。
 人格を丸ごと認める。
 人間性を信じる。
 必要なものを与える。
 必要なことを教える。
 自分をかけて相手を守る。
 思いやりは必ずこうした要素が組み合わさりながら表現されます。
 あなたの場合はいかがでしょう?

 怒られることがもしも、愛によって「教えられている」のなら、あなたの人格が丸ごと「認められている」はずです。
 あるいは「守られている」はずです。
 そうなっていますか?

 あまりにも怒られる一方なら、あなたの存在は上司にとって、ある面では必要だけれど、ある面ではイライラする存在なのかも知れません。
 あなたの何が必要とされ、あなたの何が苛立たせているのかを冷静に判断する必要がありそうです。
 怒られ、抑圧される状態が続くことは、忍耐力を鍛えるといった範疇を超えて、あなたの心へよからぬ影響を及ぼすかも知れません。
 また上司にとっても、高圧的な態度を続けることがよい影響をもたらさないかも知れません。
 
 本来、思いやりに発するならば、誉めても叱っても、相手の心へ真情が届き、結果的に感謝を招きます。
 怒られているあなたは今、上司へ感謝しているか、もしくはこの先、感謝できそうか、よく考えてみる必要がありそうです。




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2015
12.22

豊かであるとはどういうことか? ─ユングが説く「内面の広さ」とは─

201512220001.jpg

 私たちは、モノがあれば豊かであるというわけではないことを知っている。
 もちろん、今日を生きるための食べものや水に窮乏していれば、そんなことを考える余裕もないので、普通に生きられる状態から先の話ではある。
 
 よく、「心の豊かさが一番」「心が豊かであれば、いつ、どこでも幸せに生きられる」と言う。
 では、心が豊かであるとはどういうことか?

 スイスの心理学者ユングは指摘する。

人格というものは、最初のあり方のままで、いつまでも変わらないということは稀である。
 それゆえ、少なくとも人生の前半においては、人格が拡大したり変化したりする可能性が存在している
 拡大は外からの付加によっても、、つまり外から新しい生き生きした内容が流れ込んで、同化されることによっても、起こりうる。
 このようにして人格の本質的な成長が経験されることもある。
 このためにわれわれは人格の拡大が外からのみやってくるものと仮定しがちであり、それを根拠として、人格というものは可能なかぎり多くのものを外から取り入れることによって成立するという偏見を持ちがちである。
 しかしわれわれがこの処方に従って、あらゆる成長が外からのみ来るものと考えれば考えるほど、ますます内面的には貧しくなる
 それゆえもし偉大な考えが外からわれわれを掴んだとしたら、むしろわれわれはわれわれの中の何かがその考えを迎えいれ、それに応じたからこそ、その考えがわれわれを掴んだと理解すべきである。」


 子供の成長ぶりを眺めていると、確かに人格の変化や拡大が認められる。
 特に「新しい生き生きした内容」が流れ込んだ時の反応や消化は目覚ましい。
 だから、世の親たちは、我が子へたくさんの習い事などをさせようとする。
 しかし、どんどん溜め込んだものがそれだけ素養として積み上がるという考えは「偏見」であるとされる。
 外からかき集めようとするだけでは「内面的には貧しくなる」のだ。
 そして、何かに〈掴まれた〉体験が例示される。

 私たちは子供の頃、あるいは若い頃、何かに掴まれる。
 とてつもない体験をしたような気持になり、世界が急拡大する。
 文学、音楽、スポーツ、人格、思想、恋愛、自然などが、なぜか突然、私たちを圧倒的に魅了し、虜(トリコ)にもする。
 小生が高校生の頃、ビートルズが注目され始め、世間の親たちは「子供を不良にする」と警戒し、小生の周囲でもその音楽性に感嘆する者はほとんどいなかったが、A君だけは誰はばかることなく堂々と価値を認め、楽しんでいた。
 小生が彼の追体験に及んだのは、遥か後のことだった。
 それまで大したつきあいはなかったが、心中深く尊敬するようになり、いまだに音信が続いている。

豊かであるとは、こころが何にでも対応できる状態にあることであって、狩りの獲物を溜め込むことではない
 外から入って来たものであれ、内から浮かび上がって来たものであれ、すべて自分のものになるのは、まさしくわれわれが外や内で出会った内容の大きさに見合うだけの内面の広さを持っているときだけである。」


 ここで言う「内面の広さ」は重要である。
 これがなければ、いかにすばらしい〈もの〉も〈こと〉も、通り過ぎるだけである。
 たとえば、お釈迦様やお大師様に出会っても、わからない。
 事実、四国の衛門三郎は庄屋で大富豪だったが、托鉢姿のお大師様の来訪が何であるかを理解できず、何度も追い払った。
 そして、重なる不幸にようやく我と我が身を省みて愚かさを知り、お大師様を追ってついには救われた。
 かつての三郎は財物にも家族にも恵まれていたのに、心が狭く、内面的には貧しかった。
 不幸になって気づいてからの三郎は、心が開け、内面的に充実した。

人格の本来の意味での成長とは、内的源泉から湧きあがってくる拡大を意識化するということである
 こころの広さがなくては、われわれは自分が相手にするものの大きさと関係を持ちようがない
 それゆえ、人間は彼の課題の大きさによって成長する、と言われるのは正しいが、しかし彼は自らのうちに成長できる能力を持っていなければならない。
 さもないと、どんな困難も役に立たない。
 彼はその課題によって打ちひしがれてしまうのがおちである。」


 思えば、敗戦からの復興、そして高度成長に向かう時期、「金の卵」、「就職列車」という言葉があった。
 多くの国民が貧しく、教育体制も充分に調わない頃、中卒の子供たちは有力な労働力として都会へ都会へと向かった。
 歓待され、あるいは虐げられ、激動の時代を懸命にはたらき、やがて一家を構えた人びとは例外なく、「困難」にうち克った。
 電器屋、寿司屋、床屋、などなど、当山を訪れる方々からそうした時代のお話を聴くことは多い。
 あのモノのない時代、誰もが「課題」を背負っていたが、皆さん「うちひしがれ」ることがあっても潰されはせず、見事に「成長」された。
 皆さんの昔話は「内的源泉から湧きあがってくる拡大」の物語であると言えるかも知れない。

 私たちは、安心と豊かさを求めてやまない。
 もちろん「足を知る」ことは大切だが、そもそも「豊かである」とはどういうことか、考える姿勢を失わないようにしたい。
 万般、〈誤った貪り〉に陥らないために。




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2014
07.11

ある告発状 ―岩手県におけるイジメの現場へ―

201407080018ajisai.jpg

 悪い遊びが流行っていると耳にしました。
 突然、ターゲットとなった男の子のズボンを下ろす、あるいはパンツも下ろすというものです.
 女の子もいる前でそうした行為が、遊び、もしくはイジメとして行われている状態は、学校内に極めて不健全な心が育っていることを示してはいないでしょうか。

 当然のことながら、こうした行為は相手の人格を無視した〈辱め〉であり、それは、約束を破るとか、嘘を言うといった、やむにやまれぬ場合もあり得ることとは次元が異なり、もしも肉体に置き換えれば、土足で頭を踏むことにも匹敵する恐ろしい悪行だと言えましょう。
 被害者は、恥ずかしさ、悔しさ、惨めさに打ちのめされ、やがて、強い怨みや怒りの炎が燃え上がり、とんでもない復讐が行われるかも知れません。
 また、そうした相手への感情ではなく、自信の喪失や相手への嫌悪感や恐怖感などによる行動の萎縮などによって、不登校など生活のしかたが激変し、一瞬の遊びイジメが一生を左右するできごとになってしまいかねません。

 自分を被害者へ置き換え、自分がパンツを下げられたならどうか、泥靴で頭を踏みつけられたならばどんな気持になるか、具体的に想像し考えさせていただきたい、加害者の子供だけでなく、子供たち全員に対して強くご指導くださるよう心から願っています。
 今のうちに、子供たちへ、人の人格を傷つけることの恐ろしさ、罪深さを感じとらせてください。

 こうしたことごとは、決して〈家庭任せ〉にはできません。
 なぜなら、家庭で善悪を指導されて正しく育った子供も当然、学校という社会で被害者になり得るからです。
 大人の社会とは違い、まだ判断力も責任能力も充分ではない子供たちが集まる学校は、法律で白黒を決め刑罰を加えることに先んじて指導が行われるべき場であり、被害者を出さない責任があるからです。

 子供としての体験からも、親としての体験からも、祖父としての体験からも、小学校では知識を与えることと並んで、あるいはそれ以上に、子供たちがまっとうな社会生活を送れる人間に育つよう、ものごとの善悪をきちんと教える心の基礎訓練が行われねばならないと思っています。
 なぜなら、学校こそが、子供たちにとって、真の意味で他者と交わる社会体験の場だからです。
 もちろん、家庭でのしつけがなっていなければ話になりませんが、子供たちは、家庭で身につけたことを学校という社会で実践し、確かめ、膨らませ、修正し、育ってゆきます。
 しかし、そこで、あまりにも不条理不幸なできごとに遭ってしまえば、家庭で積み上げてきたものが一気に崩れかねません。

 特定の子供たちに起こった不幸なできごとを、加害者と被害者の問題だけでなく、学校という社会で起こったできごとと捉えられれば、子供たちが等しくよき指導を受ける貴重なきっかけになることでしょう。
 また、加害者も、被害者も、罪悪や災難を、学校や社会という広い視野から考えるきっかけになることでしょう。
 ぜひとも、子供たちへ賢明なるご指導をたまわりますよう、祈っております。




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2012
04.11

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第十七回) ─目下からバカにされてムカッとなった時は─

20120411002.jpg

 菩薩(ボサツ)になるための実践道、第十七回目です。
 これは、法話対話の会『仏法と生活』(http://www.hourakuji.net/manabi/houwa.html)において議論するテキストの一つとなってもいます。

「私と同じくらいか、それより劣る者が
 慢心を起こして私を軽視したとしても
 師のように尊敬し自らの頭頂に頂く
 それが菩薩の実践である」


 これは、自分がバカにされるはずのない相手からバカにされ、自然に怒りがこみ上げる状況をどう克服するかという問題です。
 もしも相手の言い分にいくばくかの道理があった場合ですら、誰でも、「何でお前なんかに……」と思うことでしょう。
 言い返して争いになるのは嫌だ。
 ムカムカ、イライラしたままで過ごすのもやりきれない。
 こんな奴を放ってはおけないと正義感が頭をもたげる。
 困ったものです。 

1 自分へ言い聞かせる

 ダライ・ラマ法王には、こうした形で悩ませる人が現れた場合、唱える文言があります。

「どこであれ、誰と出会ったときも
 私自身をすべての人より劣っていると見て
 他者を心底からすぐれていると[思って]
 慈しむことができますように」


 目の前に相手をありありと観想し、その足へ自分の頭をつけるイメージで唱えるそうです。
 普段もこのように考える努力をしておられるらしく、さすが、凡人とはかけ離れています。

 私の場合は、「何をっ!」となりかけた時、『法句経(ホックキョウ)』を思い出します。

「忿怒(フンヌ)あるは法を見ず、忿怒あるは道を知らず。
 能(ヨ)く忿怒を除く者は、福と喜、常に身に従う」


怒りがある時は真理が見えず、怒りある時は教えの道が心へ伝わらない。
 すっかり怒りがなくなった者には、福徳と喜びが常についてまわる)
 一行目の厳しさに、何度も打ちのめされました。
 しかし、思い出すたび着実に、つまらぬ怒りは鎮まりつつあります。

2 道理をもって状況をとらえる

 ダライ・ラマ法王は、実際に相手が自分より優れている部分を探して、心で跪(ヒザマヅ)かれます。
 そうすると怒りが自然に消滅します。
 説かれます。

「一般的に『仕返し』や『復讐』というのは、自分自身の心を満足させるための行為です。
 そうすることでした、自分の心を満足させられませんね。
 しかし、瞑想することで心が満たされるとしたらどうでしょう。
 満足するという点では同じです。
 ですから、瞑想することで、目的は達成されたことになるのです」


 こんなことはプライドが許さないと思う人へは、せめてこう考えてはとアドバイスされます。

「とにかく、心が安らかになるためには、満足を得られる必要があり、満足するためには、自分の眼の前に嫌な相手を観想し、ひざまずくことができたなら、心は安らかになっていきます」


 また、「何をっ!」となった瞬間、「火のないところに煙は出ない」と考えてみる必要もあります。
 実際、攻撃されたあたりに思い当たるフシがあれば、自分が知らないでいたか、あるいはないことにしてやり過ごしていた問題点に気づかせてもらったことになるではありませんか。
 思い当たらなかったならば、今度は、自分が過去に同様な言いがかりをつけたことはなかったかどうかも、検証してみましょう。
 嫌な先輩だ、あるいはバカな上司だなどと思い、つまらぬ挑戦でうっぷん晴らしをしたり、正義漢を気取ったりしたことはなかったか……。
 とにかく、鏡となって自分自身をふり返らせてくれたことには感謝できるはずです。

3 説かれているは菩薩をめざす世界であり、最初から娑婆の感覚とは異なっていることを認識する

 人格の完成をめざす菩薩の世界は一つの結晶体であり、一か所欠けてもなりません。
 また、娑婆の論理を少しでも容れれば、それは堤防の一穴となりかねません。
 最近、当山の活動をお認めくださっている娑婆の有力者Aさんが、当山のためを思い、さる方策を提案されました。
 しかし、それは娑婆で通る問題のない有効な手法でも、菩薩の姿勢とは異なっており、延々一時間以上議論を交わした末にお断りしました。
 善意に発し成功事例をもって説得を試みたAさんは承伏できかねた様子でしたが、そもそも娑婆的な成功と宗教的な成功とは価値判断の基準が異なっているので、ずれはなかなか埋まりません。
 Aさんも真剣、私も真剣です。
 しかし、宗教の側からは譲れません。
 だから、宗教は宗教者の側から押しつけたり、信徒さんを囲い込んだりするものではなく、娑婆の論理や感覚で解消できない問題を抱え、宗教を必要とする人にとって自主的に、自覚的に求めるものです。
 もちろん、娑婆の論理や思惑で利用することはできません。
 この教えも、すぐにつまらぬ争いを起こす人や、争えないばかりにウツウツと過ごす人へ、あるいは心に巣くう怒りの火に対して強い問題意識を持っている人へ、み仏からもたらされた〈解決のヒント〉です。

 以上がこの教えの概観です。
 さあ、言葉としてわかった後、それは読まれた方にとって意義があるでしょうか。
 それとも……。



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