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2016
12.03

Q&A(その32)自業自得なら廻向で救われない? ─因果応報と空の話─

2016-11-11-0191.jpg
〈四国の路傍に〉

 人生相談に来られたAさんから、ご質問をいただいた。

三回忌などの廻向(エコウ)って何ですか?
 仏教は自業自得ではないのでしょうか?
 どうして、あの世へ行った人が、この世の人の祈りで救われるのでしょう?
 それでは、死後に拝んでくれる人さえいれば、この世でさんざん悪事をやっても大丈夫、ということになりませんか?」

 もっともな疑問だ。
 お答えした。

「確かに因果応報なので、善きことを行えば善き報い、悪しきことを行えば悪しき報いがあり、それは皆、その人自身の問題です。
 ではなぜ、祈りの功徳を廻し向けられるのか?
 それは、ありとあらゆるものが本当は、いっさいの枠を離れた(クウ)だからです。
 また、私たちは、の内容をすべて把握できないことも考えておく必要があります。

 例えば、一輪のタンポポを踏んだとしましょう。
 それは一見、自分とタンポポの間で起こった小さなできごとにしか思えませんが、タンポポを当てにしていたハチやチョウチョにとっては、蜜を得る先がなくなったことを意味します。
 あるいは、タンポポの根元にいた小さなミミズまで一緒に踏み潰したかも知れません。
 また、花を踏んでしまったという小さな悔悟の念が、懺悔させ、慈悲心を育てるかも知れません。
 それまでは、いつも花を見つけたら踏まないように心がけていたはずなのに、つい踏んでしまった自分の注意力が散漫になっていると気づくかも知れないし、アッと思っても足が止まらなかったことに、〝自分は年をとってしまった〟と嘆くかも知れません。
 このように、ありとあらゆるモノもできごとも、無限の連なりの中で生じ、滅しているので、神ならぬ身には全体像など知り得ないのです。

 また、例えてみましょう。
 まず、自分のために勉強をすれば成績が上がり、精神も豊かになります。
 希望する進学も可能になるでしょう。
 これは自分に対して結果が出ている状態ですね。
 一方、病気で苦しむ人たちを見捨てられず、救いたいと一念発起して勉強し、首尾良く医師になって活躍するならば医療の力はどこまで及ぶか、はかり知れません。
 実は、御霊のために供養という善行(ゼンギョウ)の功徳(クドク)を回し向ける廻向は、後者の世界と同じです。

 我(ガ)にとらわれない清浄な心で、正しい方法を用い、そして相手を選り好みせず普く供養するならば、〈枠を離れた影響力〉は当然、あの世の相手へ届き、たくさんの御霊へ届き、供養する施主(セシュ)その人自身もまた、善き影響力によって苦や悪因縁から離れる機会になることでしょう。
 自分のために行う善行は小さな因果応報としての〈世俗的善行〉であり、相手を選ばずに行う善行は無限の力を無限に及ぼす〈菩薩(ボサツ)の善行〉であり、両方共に大切です。
 だから誰かへ供養のまことを捧げたいならば、特定の相手に向かって祈るだけでなく、無限の相手に対しても廻向の心で再度、手を合わせましょう。
 その際、イメージを明確にするための伝統的文章があります。

『願わくは、この功徳をもって普く一切へ及ぼし、我らと衆生(シュジョウ)と皆共に、仏道を成(ジョウ)ぜん』。

 こうして、の心で行う善行は、あの世にいる特定の御霊のためになるだけでなく、結果的に、生きとし生けるもの全体のためにすら、なるのです。

 お盆の故事を思い出してみましょう。
 神通力第一とされた目連尊者(モクレンソンジャ)が、あの世に行った母親の様子を観たところ、餓鬼界(ガキカイ)で苦しんでおり、自分一人では救いきれないからとお釈迦様へ相談に行ったのがきっかけでしたね。
 お釈迦様は、雨季の修行が終わったら皆で祈り、その功徳で救いましょうと指導され、その通りに母親が救われたからこそ、いまだに、廻向の祈りが続いているのです。
 きっと、お釈迦様も、行者たちも、の祈りを捧げたのでしょうね。
 私たちもまた、縁に応じて、心を広く持ち、尊い廻向となる供養を実践しましょう」




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
11.05

Q&A(その32)自分の人生を大切にするためには ─無常と瞑想の話─

2016-11-05-00012.jpg
〈精悍な構え〉

 人生相談をお受けしていると、「自分の人生を大切にしたいので……」と吐露(トロ)される方が少なくありません。
 そのほとんどの場合、意味するところは〈自分の意思を通したい〉ということです。
 お気持ちはわかりますが、本当に、「人生を大切にする」には「意思を通す」必要があるのでしょうか?

 ダライ・ラマ法王著『思いやること』の中に「人生を大切に生きる」という一節があります。
 

「生きている、というそれだけの理由で、あなたは重要な局面に立ち、重大な責任を負っています。」

「束の間の人生を、あなた自身と他者の利益のために使うべきです。」

「肉体的な幸せは、身体の中の要素がたまたまバランスを保っている状態であり、深く調和しているわけではありません。
 この儚さをあるがままに受け止めましょう。
 また先で時間がとれる、などと思い込んでいてはいけません。」


 法王は、人生を大切に生きたいならば、生きている状態そのものをきちんと見つめよう、そうすれば、まず、自分の存在は儚いものであると気づくだろうと述べておられます。
 そして、普段は忘れている無常を観察する瞑想の文を示されました。

1 私はいつか必ず死にます。
  死は避けられません。
  人生は終わりに向かっていて、延長することはできません。


 私たちは普段、自分が死ぬに決まっている存在であることなど忘れています。
 むしろ、当分、あるいはしばらく、もしかするといつまでも生きていると勘違いしています。
 だから不安に取り憑かれないでいられると言えばそれまでですが、事実や真実を忘れきっていると、ものごとの受け止め方や考え方の土台が狂い、ままならないところへ追いつめられたりします。
 自他の苦しみは、往々にして、真実を忘れていることが根本原因なのです。

2 死期を知ることはできません。
  人間の寿命は人それぞれ。
  死因はたくさんありますが、生の原因となるものはそれほど多くありませんし、肉体はもろいものです。


 私たちは必ず死を迎えますが、最大の問題は、その時期や形を事前につかめないところにあります。
 当山はこれまで、たくさんの方々からのお申し出を受けています。
「自分が死んだことをよくわかっていないでしょうから、迷わず成仏するよう、ちゃんと引導を渡してください」
 事故や事件で亡くなられた方のご遺族にとっては、ここが最も心配なところです。
 実に肉体は脆く、アッという間に壊れ、二度と元には戻りません。

3 私たちはみなこのように、危うい状態にあります。
  ですから、口論をしたり争ったり、お金や物をため込むのに心身のエネルギーを使い果たしている場合ではありません。


 私たち自身が無常な存在であり、生きものたちやモノなど、あらゆるものも無常であることをよくよく腹に納めたいものです。

4 刻一刻と壊れゆくものを不変と思い込むことで、私たちは自分にも他者にも苦痛を与えています。
  去り行く幻への執着を和らげるべきです。


 儚い者同士が儚いモノを奪い合うならば、何と哀れな状態でしょうか。
 そこには砂時計を自分の思い通りに止めようとする愚かさがあり、智慧の明かりがない無明(ムミョウ)はあらゆる苦痛を生み出します。

5 束の間のものを永遠のものと誤解するところから生まれた、苦しみのサイクルから抜け出すために、心の底から努力すべきです。


 モノ金や肉体に執着させようとする情報に満ちている日常生活は、無自覚に流されていれば、誤解が強まるだけです。
 目先の儚い〈楽〉が、抜きがたい〈苦〉をもたらしている事実は覆われています。
 国語教師橋本武氏は言いました。
「すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなる。」
 私たちはいかに、〈すぐに役立つ〉ノウハウを求めて血眼になり、道具と化した私たちは、いかに簡単に使い捨てられることでしょうか。 

6 長い目で見れば、何より助けになるのは、自分自身の姿勢を変革することです。


 ようやく結論にたどり着きました。
 人生を大切に生きたいならば、何よりも先に、無明(ムミョウ)を離れねばなりません。
 それには、「自分自身の姿勢を変革」せねばなりません。

無常を意識するには鍛錬、つまり心を飼いならすことが求められます。
 ただしこれは罰を与えたり、外からコントロールするという意味ではありません。
 鍛錬とは、何かを禁止することではないのです。
 むしろ、短期的な利益と長期的な利益が相反する場合に、長期的な利益のために目先の利益を犠牲にすることをいいます。
 これは自制心と呼ばれるものですが、自分の行動の因果関係を理解することに根ざしています。


 私たちは、目先の快楽を引き出そうとする刺激の洪水に呑み込まれそうになっています。
 一方で、まじめに汗を流す苦労がなかなか報われず、目先をうまくやった人が大儲けしたり、有名になったりするのを見て、〝どうせ、自分なんて……〟あるいは〝どうせ、こんな世の中だから……〟と因果応報など考えてもみなくなったりしがちです。
 そこから脱して自分を取り戻し、活き活きと生きるためには当然、努力が必要です。

自制心があれば、平和で、ゆったりとした、幸せな気持ちになりますが、心がこのように鍛錬されていなければ、外の状況がどれほど素晴らしくても、恐れと不安に悩まされるでしょう。
 幸福は、飼いならされた穏やかな心に根ざしている、と理解しましょう。
 これは、周りの人たちにも多大な恩恵をもたらします。」


 自分が刺激や周囲の状況に流されず、真理、真実を観る人になれば、自分が幸せになれるだけでなく、周囲の人々にもまた、よき影響をもらたすことができます。

個人主義とは、外に何かを期待したり、命令を待つのではなく、自分自身が率先して行動すること、そこで釈尊はたびたび『個人の解放』を呼びかけたのです。


 10月29日、当山は「ジャズと法話と無料相談の会」を催しましたが、この3つには共通点と目的がありました。
 それは〈解放〉です。
 ジャズで感性を弾けさせ、法話で罣礙(ケイゲ…般若心経にある言葉で、心のひっっかり)を溶かし、プロへの相談で疑問を解消していただきたかったのです。
 お釈迦様は、道理をはたらかせるために解放を呼びかけられたのではないでしょうか?
 神のお告げや、権力者の意図に操られない人間になってこそ、人生は大切に生きられるのでしょう。
 

自由と個人主義には自制心が必要です。
 自由と個人主義が煩悩(ボンノウ)に利用されると、ネガテイブな結果が待っているので、自由と自制心は対になって働かなくてはならないのです。


 煩悩は必ず〈目先〉を利用しようとします。
 快楽や恐怖につながる道具を並べます。
 それに引っかからず、道理と思いやりで生きようとするならば、「短期的な利益と長期的な利益」をよく見すえましょう。
 自分にとって、社会にとって、世界にとって、地球にとって、何が真の利益なのか──。

 法王が説かれた瞑想の文を繰り返して読み、無常の真実に立って生きたいものです。
 その先にこそ、その人なりに「人生を大切にする」生き方がきっと見つかるに違いありません。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
10.27

Q&A(その31)一〈こんな自分〉に苦しむ時は? ─謙虚さ・誠意の先を考える─

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 を持って介護職に就き、誠心誠意はたらいていると、自分自身の心や身体が〈あるべき状態〉に追いついていないと感じる場合がある。
 そして、自己嫌悪に陥ったり、立ち塞がる壁の圧迫感に潰されそうになったり、あるいは、そもそも自分が仕事に不向きだったと諦めたりもする。
 やらねばならない、やるべき仕事であることは重々承知し、準備万端整えたはずなのに、〝私にはできない〟と自分の何かがブレーキをかけてしまう。
 自分が、〈はたらかねばならない自分〉と、〈はたらけない自分〉の二つに、引き裂かれそうになる。
 やるべきことはわかっており、何ら問題なくはたらけるはずの自分であることを知っているだけに、この状況は辛い。

 小生もそれに通じる苦しみを嫌というほど味わった。
 托鉢を始めた頃である。
 伝授された作法を身につけ、歩く以外の生きようはなく、歩く準備もできたのに、目的地へ着いて車から降りられない朝がある。
 網代笠(アジロガサ)をかぶり、白足袋を履いても歩き始められない。
 理由の一つが上記の方々と似ていた。

〝──こんな自分のままで仕事をしては嘘になる……〟

 たとえば、出がけに妻と口論になり、時間がないので最後は怒鳴ったり、無視したりして強引に車を発車させた。
 こんな心のままで、どうして善男善女からお布施をいただけようか。
 玄関のチャイムが鳴り、托鉢僧を見て「どうぞ」と受け入れてくださる方々の多くは、合掌される。
 もちろん、決して自分が相手から拝まれるわけではなく、目に見えぬみ仏の世界へ向かっての合掌ではあるが、自分がそうした場面に立っては申しわけない人間であることを誰よりもよく知っている。
 しかも、お布施をいただいてよいのだろうか?
 こうした疑問と葛藤は、さまざまな法務の場面に付きものだった。
 人生相談もしかり、ご祈祷やご供養もしかり、〝こんな自分なのに〟という意識に苦しんだ。

 とうとう耐えきれなくなり、どうすればよいか、師へ訊ねた。
 答は簡単だった。
「あなたは、ご縁になるべき人としかご縁にならないのだから、結果はご本尊様へお任せして誠意を尽くせばよい」
 この一言で雲は晴れ、托鉢行を続けているうちに一山の開基を迎え、文字どおりの無から現在の法楽寺が生まれた。

 人生相談に訪れる善男善女のお話を聴き、この教えをお伝えすると、まじめであるがゆえに苦しむ人々にとって〈脱する〉ヒントとなり、心で手を取り合う思いになったりする。
 私たちは、仕事に責任感を持つ時、自分にかかわってくることごとのすべてに対して、完璧な対応をしないではいられない。
 しかし、私たちは、どこかに未熟な部分を抱えた〈未完成な存在〉である。
 研究者、技術者、芸術家、宗教者、教育者など、いかなる方面であれ、仕事を突き詰めている人のほとんどがその真実を自覚しているはずだ。
 米寿を超え、勲章を受け、功成り名遂げたはずの長老ですら「自分はまだまだ修行中」と言う。
 それは謙遜と言うよりも、むしろ実感だと思う。
 テレビドラマ『ドクターX』の大門未知子に人気が集まるのは、不可能を可能にする夢が実現されているからだろう。
 ひとときの虚構が、私たちの行き詰まりを忘れさせてくれる。

 言い方を変えれば、外からやってくる縁は無限であり、その中に、神ならぬ自分の力をもって、この上ない結果へ導き得ないものが含まれているのは当然なのだ。
 そして、自分の意思ですべての縁を選ぶこともできない。
 ならば、その事実を真実としてありのままに観るところから始めるしかないではないか。
 ところが、問題を孕んだ責任感がその邪魔をする。
 すべてをカバーしなければ満足できない、不安になる。
 そこに、私たち自身の気づきにくい慢心が潜んでいるのではなかろうか?

 師が「ご縁になるべき人」と言われたのは、「あなたが百点満点の対応ができる人」という意味ではない。
 もしも今、誠心誠意の中でとった対応が客観的に見て70点であっても、それがいかなる結果をもたらすかは、誰にもわからない。
 そもそも、〈未完成な存在〉が常に満点の行動をとれるわけがないのだ。

 そんないいかげんなことでよいのか?
 もしも手術が70点などということで許されるのか?
 100点満点はたくさんあるだろうに。
 こうした疑問や反論が考えられる。
 それについてはこう答えたい。
 たとえば、マスコミが流す医師や病院に関する〈成績〉などのデータは、見せられる私たちがそのまま丸呑みにできない事情を抱えている。
 個人や私的な組織だけでなく、政府や役所ですら、よいデータを流したい。
 マスコミは視聴者の耳目を惹き付けたい。
 抜きがたい意思は必ず作意する。
 もちろん、〈業界〉の外からは気づかれないように。
 だから、〈うまい〉データは眉にツバをつけて眺める必要がある。

 では、「ご縁になるべき人」とはどういう意味か?
 おそらく、「誠心誠意の中で、互いに縁を生かし合える人」だろうと思う。
 私たちは、〈うまくやる〉のではなく、〈誠心誠意やる〉以外、よき生き方はできない。
 自分の至らない点は客観的に、冷静によく見つめ、向上心をもって進むしかない。

 70点の自分が100点でないからといって〝こんな自分のままで……〟と苦しむのには微妙な錯覚がある。
 そこには、〝自分は本来100点であるべきだ、その自分になっていないなんて〟という勝手な思い込みがあるのではないか。
 よく考えれば、それは、誠意や責任感という皮をかぶった慢心というものではなかろうか?
 プロ野球を眺めてみよう。
 中には大谷選手のように時速160キロを超える直球が投げられる投手もいるが、ほとんどはそれよりも10キロ、20キロも遅い球で勝負し、堂々と仕事をしている。
 人間としての能力の限界と、個人的な能力の限界は違うし、現実に生きる人間にとって現場の勝負では常に、自分自身の限界しか問題にならず、言いわけもきかない。
 もしも誰かが〝自分が大谷のようなスピードで投げられない自分なんて〟と嘆いていたら、笑われるだけだろう。

 誠心誠意以上の価値はない。
 生きて年をとってみれば、誰にでもわかるはずだ。
 うまくやったことなど、たかが知れている。
 誠心誠意やったことは、消えない充実感や浄い誇りとなって生を支える。
 〝こんな自分〟と思うのは誠意ある謙虚な人であり、まっとうに生きられる人だろう。
 ただし、もう少し先も考えてみよう。
 そうすれば、ありのままの自分で尽くす誠意こそが真実であり、〈もっとすばらしいはずの自分〉という幻想からきっと脱することができるだろう。
 そうなれば誠意に磨きがかかり、人間としての自力も増すに違いない。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2016
10.10

埋骨の場をどう考えるか? ─人間は「死者守動物」─

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ウナムーノ

 ある時、はたらきざかりのご主人を失ったAさんが、おを建てた。
 家族のため懸命にはたらき、寸暇を惜しんでは家族を自然の中へ連れて行き、生活の中にも自然の気配や香りを取り込もうとしていたご主人のために、姿を整えられた石造ではあるが、石が持つ自然性も残したおである。
 できあがりを見て、そのことを指摘したらAさんは目を輝かせ、短く答えた。
「私には譲れなかったんです」
 誰に対して何を譲れず、何を現出させたのか?
 詳しくは語らなかったが、言わんとすることは十二分に伝わってきた。

 秋晴れかと思うと、すぐに雨模様となり、寒さも伴うこの時期は、お納骨や、お開眼供養を行うその時まで天候が気になる。
 雨風の中で修法すること自体は慣れているのでほとんど苦にならないが、参列される方々の中におられるご年配の方が健康を崩されはしまいかと気づかってしまう。
 だから、修法できる条件で始められると、「天気がもってくれてよかったですね」あるいは「いいお天気で何よりでしたね」が最初に交わす言葉となる。
 その日もそうだった。
 ただし、修法後のひとことを、皆さんはいつも以上に強いまなざしで受けとめてくださった。
「お骨を納め、手を合わせる場は、ご一家、ご一族にとって、仏神に守られた聖地です。
 ずっと、大切にお守りください」
 スペイン出身の哲学者ミゲル・デ・ウナムーノの言葉を思い出した。

「私は死なねばならないという考えと、その後には何があるのかという謎、それは、私の意識の鼓動そのものなのだ」(以下、『生の悲劇的感情』より)

「人間を他の動物と最も明確に区別するものは、人間は何らかの形で死者を保管し、万物を生み出す母なる大地の恣意にまかせるようなないがしろな態度は決してとらないということであるといえよう。
 つまり、人間は、死者守(モリ)動物なのである。

「生きている者のために、不順な天候が破壊してしまうような土の家や藁小屋しか作らなかった時代に、死者たちのためにはすでに墳が建造されていた。
 石は、住居よりも以前に、のために用いられたのである。

「これは病気であろうか。
 そうかも知れない。
 しかし、病気を気にしない者は、健康をも軽んずる。
 そして人間は、本質的、実体的に病める動物なのである。」

「しかし、その病気はまた、力強いすべての健康の源泉でもあるのだ。


 こうした真実を告げる言葉に解釈は不要だろう。
 参列された皆さんが、涙を浮かべつつ見開いていた瞳には、確かに、まぎれもなく〈健康〉な、澄んで〈力強い〉光が感じられた。

 何も、個別のおを建てることだけを称賛しているのではない。
 送り、納める方法を考えに考え、決心し、埋骨の場に最大の畏敬の念を保ち続けること。
 それこそ、人間が、ウナムーノの言う「死者守動物」である真姿に生きる道ではなかろうか。
 今日もまた、人生相談の方々と、〈病める動物〉同士の対話を行う。
 そこに真実が顕れることを願いながら。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
10.07

ご供養とご加持 ─朝のひととき─

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 早朝、壇上で結界を張ろうとすると、真っ暗なのに「キーッ」と鳥の声がし、〝そうか〟と思った。
 法によって天井となる金剛網の高さをぐっと伸ばす。
 彼も法内に入れた。
 結界のできあがりを待っていたかのように、一陣の風が堂外を吹き抜ける。
 秋なのにもう、冬の硬さを含んでいる。

 7日を月忌命日(ガッキメイニチ)とする方は11名、祥月命日(ショウツキメイニチ)の方は1名である。
 ご冥福を念じ、光明真言法を結ぶ。

 さまざまな願いがかけられており、5種の遠隔加持法を修する。
 能力開発、商売繁盛などを願い、精進している方々のためには「増」の法で後押しする。
 人間関係の深化や良化などを願い、精進している方々のためには「合」の法で邪魔ものを祓い、良縁を固める。
 過ちを悔いて悪因縁の解消を願い、精進している方々のためには「滅」の法で清め、前方に光を招く。
 病気にならぬよう、病気から回復できるよう願い、精進している方々のためには「封」の法で病魔を抑え、本来の力が出せるよう活性化する。
 悪意あるものなどに悩みつつ、精進している方々のためには「止」の法で足止めし、善行を妨げる軛(クビキ)や足枷(アシカセ)から解放する。

 結界を解き、内陣から出ても〈霊体〉そのものになったような感覚は残っているので、すぐにはトントンと歩けない。
 蓮華の花によって作られた座に一歩、一歩を乗せつつ歩むイメージの作法から抜け出なければならない。
 もう還暦はとっくに過ぎたはずのクロが「ニャー」と小さく挨拶しながらゆっくり迎えに来る。

 今日も、人生相談や開眼供養やお納骨が待っている。
 ご本尊様のご加護と、善男善女のご誠心のおかげをいただき、しっかり務め終えたい。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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