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2016
11.07

マルチの落とし穴 ─「俳人は俳句しかないのである」─

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〈地にあるもの〉

 今は、〈マルチ〉な人間が喜ばれる時代である。
 何かで名を上げれば、その人の行為は他の分野に関するものでも関心を呼び、マスコミに重宝される。
 しかし、そうした人々の中には、専門分野以外のところで、いかがなものか、と思われる行為に走ってプロプロたる土台を疑われたり、自分で破壊してしまったりするケースも散見される。

 かつて、「人間探求派」と呼ばれた俳人に石田波郷(ハキョウ)がいる。
 これから四国八十八霊場へでかけることを縁として、愛媛県出身の彼について少々、書いておきたい。

 昭和40年2月21日、俳人石田波郷は、毎日新聞に「俳句の魅力」を発表した。
 以下、抜粋を読んでみよう。
 歴史的仮名遣(カナヅカイ)で書かれたもので、読みにくいかも知れないが、当時のままで引用したい。

「今日では小中学生に俳句を教へる先生は、子供たちに、自分のほんたうに歌ひたいものを、自分の言葉で歌ひなさいといふにちがひない。
 俳句も詩である以上、私もこの考へは当然だと思ふが、私は形からはひつた私の入門を間違つてゐたとは思はない。
 私は形からはひつたが、それゆゑに俳句形式のもつ魅力を存分に学ぶことができたし、後年、自由な詩の欲求が起こつた時にも、自分のやつてゐるものが俳句であることを決して忘れず、形をくづすことを拒んできた。
 そして自らの表白の欲求によつて自らの俳句を生み出してゆく、生々たる営みを、これが生きるといふことかと思つたほどである。」


 波郷は、五・七・五という韻文の形を重んじた。
 切れ字がきちんとしていてこそ俳句であるとし、「歌ひたいもの」をそこに納めるべく苦闘した。

「俳句の魅力は、一口にいふと、複雑な対象を極度に単純化して、叙述を節してひと息に表現することにあると思ふ。
 複雑なものは複雑ななまゝに、多元のものは多元のまゝに詠まうといふ新しい方法も今日広く行われてゐるし、その方が、現代の句法と言へるのかもしれないが、俳句独自の魅力は弱まるのではないか。」


 詠みたい内容に合わせた自由な表現を否定はしないが、定まった形での表現にこそ、俳句の醍醐味があると言う。
 

俳人は俳句しかないのである。
 詠みたいことはすべて俳句でやるほかはない。

 おびたゞしい字余りや破調、日本語本来の語法を犯す叙法も、詠みたいものがあふれてやまないからだといふ考え方にも、同じ俳人として同情はできるのである。
 しかし同調はできない。


 文字どおり、血を吐くような叙述である。
 誰しも、言いたいこと、言わずにいられないこと、表現したいことを抱えている。
 それをどのように吐き出すかは自由だし、その気持は理解できるが、自分はプロとしての境界を破るわけには行かないと宣言している。
 まったく同感である。
 小生も、宗教者として最大の難問をそこに感じ、役割をまっとうできるかどうかの難関はそこにあると覚悟している。
 いわゆる「分際(ブンザイ)」の問題だ。
 小生のような凡人は、身の程を弁(ワキマ)えることによってしか、自分をかけた結晶体はつくれない。
 

「俳句表現にはたしかに限界がある。
 俳句といふ詩形を破ることなく、この限界をひろげることはむづかしいかもしれないが可能である。
 過度的に破調を来たすことはあつても必ず見事な完成をもたらして、俳句を前進させてきたのである。

 金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎
 葛城の山懐に寝釈迦かな  青畝

 かういふ珠玉のやうな俳句、俳句表現の魅力を典型的にもつた句が私はたまらく好きだ。
 この二句の短冊を私は宝物のやうに大切にしてゐる。」


 お大師様は説かれた。

「夫(ソ)れ、仏法遥かに非(アラ)ず、心中にして、即ち近し。」


(そもそも、仏法はどこか遠くにあるのではなく、自分自身の心中にあり、身近なものである)

 この一文は、般若心経の真髄を説いた「般若心経秘鍵(ヒケン)」にある。
 仏教の行者は、世間に起こり自分に起こるいかなる現象についての〈解〉も、〈表現〉も、ここに求めるしかない。
 さまざまな理由から非宗教な分野にそれらを求める人びとに「同情」はできる。
 しかし、いかなる理由があろうとも、小生は「同調」できない。
 そうして、宗教の役割の「限界」をひろげ、「前進」させて行きたい。
 四国霊場で、その力を授かりたい。




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2016
03.14

探梅や遠き昔の汽車にのり ─誓子と又吉─

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〈水子供養墓〉

 梅が咲き始め、一句を思い出した。

探梅や遠き昔の汽車にのり」 山口誓子


 昭和2年の作品とされる。

 一輪の梅を求める心、やってくる春に対する待ち遠しい心が、探梅すなわち梅を探すという言葉に込められている。
 それはまるで、遠い記憶の中にある汽車に乗っているようなものだ。
 かつて、寒さに縮こまっていたある日、ようやく咲いた梅に出会いホッとして心の温まった思い出が、懐かしい汽車の気配となってよみがえる。
 春という季節の列車が鳴らす汽笛を聴きたくて、心が動く。

 もう一句、季節外れの作品を思い出した。

故郷の 声走らせて 涼新た」 ピース又吉


 これは去年の夏、俳句の腕を競うテレビの番組で一位となった作品である。
 さすがの夏井いつき先生も改善のチェックを入れず、「ちゃんとわかって作っている人の俳句です」と絶賛した。
 お題は「新幹線と夏休み」だったが、新幹線の動きと音、夏休みのワクワク感、秋の気配を含んだ夏の風、故郷に呼ばれ故郷へ向かう気持、すべてが込められている。
 この番組は見ていなかったが、ネットで知り、小生も唸らされた。

 約90年を隔て、この二つの作品ははまるで響き合っているようではないか。 




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2015
05.31

サルビアや砂にしたたる午後の影 ―俳句と血潮と―

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 いよいよ明日から6月、と思ったら一足早く、サルビアの句が頭に浮かんだ。

サルビアや砂にしたたる午後の影」 (津川絵理子


 この句を初めて読んだ時、カルロス・クライバーが指揮するベートーベンの交響曲第五番『運命』を思い出した。
 突然、音が降ってくる、あるいは噴出する、そして圧倒的な存在感でそこに在る。
 視野を塞ぐほど巨大な黄銅鉱が振動しつつ黄金色の光を八方へ放っているような無敵さ……。

 サルビアの紅色はあらゆる光を自分の中へ取り込み、漏れ出させまいとしながらも光を漏らしてしまっている。
 まるで、あるかなしかわからぬほど極薄の肌の下にある血管のように息づいている。
 その紅色の氾濫は、水はけのよい砂地にまで及ぶ。

 結句の「午後の影(ご・ご・の・か・げ)」は、まさに「ダ、ダ、ダ、ダーン」である。
 水無月と称される6月は〈水の月〉であり、暑さと湿度と陽射しで生きものを奮い立たせる。
 紅色はそれを映す砂地まで脈打たせているかのようだ。

 作者は40才代でこの句を詠まれたものと思われる。
 いのちと血潮が漲っている。
 俳句を詠む私たちの霊性、ばんざい!




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2015
05.03

揚羽より速し吉野の女学生 ―超越から聖性へ―

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〈今年も鳴子温泉郷の中山平温泉『琢琇』様で水子地蔵の供養会を行いました〉

揚羽より速し吉野女学生 ―藤田湘子(ショウシ)― 」

 蝶は不思議な飛び方をする生きものだ。
 揚羽は特に大きく豪華ななりをしているので、一旦、目に入ると動きを追わないではいられなくなる。
 不規則な動きをしながら、すぐに視界から消える。
 実に速く、ボンヤリなどしてはいない。
 当山にもよく、飛来しては一瞬、法務を忘れさせる。
 特に期待されているわけではないが、来れば誰からも歓待され、珍重されるものとして、オニヤンマや銀ヤンマなどと双璧だ。

 さて、この句における主人公は揚羽でなく、女学生である。
 女学生といえば、吉野のイメージより先に、大津波に呑み込まれた浜辺での光景がまっさきに浮かぶ。
 凪いだ海の手前には、一面、泥で覆われたなだらかな浜が広がっている。
 かつて家々があったことを示す土台や瓦礫は、古代都市の廃墟ほども残ってはいない。
 人の姿がないのはもちろん、犬や猫などの姿も鳴き声もない深閑とした空間は、静止画像にされたままの動画のように、あまりにも非現実的だった。

 両膝の上にようやく載っている上体が経文を口にしている時、視界の右手から自転車を引いた女学生が二人、現れた。
 その動きは時間が止まっていないことを示して充分、現実的なはずなのに、非現実感を増幅させた。
 生きものの気配のかけらさえない空間に、あまりに輝かしいいのちのはたらきを存分に表現しつつ、語り合う二人は視界を横切り、左側へ消えて行った。
 うちひしがれた様子もなく、普段の日の朝、ごく日常的な会話を楽しみつつ仲良く普通に登校する途中といった風情の二人は、〈ほとんどそこにあり得ない存在〉だった。
 シュールさは、二人が醸し出す明るさ、穏やかさ、和やかさ、柔らかさといったとはかけ離れたものたちのせいだった。
 浜に満ちているの気配とそれらは、あまりに隔絶していた。

 冒頭の句を詠んだ藤田湘子の感性は、ごく普通の光景に、どこか超越的なものを感じていた。
 女学生が放ついのちの勢いは圧倒的な存在感で眼前を疾駆した。
 どこにでもあるはずの光景が超越的場面として立ち顕れたのは、そこが吉野だったからである。
 々や祖霊たちの鎮まる地域であることを深く体感していたであろう藤田湘子にとって、揚羽よりも速く際立つ動きで行き過ぎる女学生は〈ほとんどそこにあり得ない存在〉だった。
 そこに〈いた〉のは当然、女学生だが、〈あった〉のはきっと、勢いそのものだったのだろう。

 この句を幾度も口ずさんでいるうちに、異質なはずの女学生も吉野の空気をまとい性を帯びているように思えてくる。
 もちろん、揚羽も。
 ――この句は聖性すら含んでいる。
 が支配する浜で女学生を目にした一行者はいまだ、咀嚼(ソシャク)できていないが、俳人はたちどころに作品へ昇華させたのか。
 芸術の力は凄まじい。




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「おん あらはしゃのう」
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2015
02.11

「うごけば寒い」 ―橋本夢道の句を読む―

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 厳しい寒波が来ている今、寒い外と暖かな内(ウチ)をあたふたと行き来しているうちに、橋本夢道の句を思い出した。

「うごけば寒い」


 私たちは普通、じっとしていると寒いから身体を動かして温めようと思うが、暖房のない獄中では、鳥や猫が丸くなっているように、動かずにいる方が寒さを感じないで済むという。
 滝行では、じっとしたまま一心に真言を唱えているので耐えられる。
 水の中を一定時間、漫然と歩いて来いと指示されたなら、なかなかやり通せないと思われる。
 太平洋戦争がまさに勃発しようとしていた時、38才の夢道は左翼思想を持った危険人物として投獄されていた。
 そのおりに詠んだ凄まじい句である。

 夢道は26才で弟を亡くしている。

「泣くまいたばこを一本吸う」


 何と直截な表現だろう。
 こうした感性の持ち主には、現象世界のすべてが簡明だったのではないか。
 あらゆるものが素(ス)のままに立ち顕れたのだろう。
 ただし、光景がカメラで写し撮られるように言葉が流れ出るわけではないはずだ。
 結果はサラリとしていても、組み立てる際の呻きは相当のものだったのではないか。
 その証拠に、昭和49年秋、臨終間際に句を作り、「推敲したい」と言ったきり旅立った。

「桃咲く藁屋から七十年夢の秋」


 徳島県の小作農家に生まれた夢道は向学心があったものの、高等小学校卒業を卒業してすぐ、15才で奉公に出された。
 人生の幕をまさに閉じようとしていた時、70年の一生が甦っていたのだろうか。
 病苦が緩み、ふと詠んだ一句でも、納得できるまで推敲したいという意欲を持っていた。

 夢道の代表的な句はこれだろうか。

「無礼なるよ毎日馬鹿げたるものを食わしむ」


 昭和22年、敗戦直後の貧しさの中では、一生懸命に炊事をしようとするへさしたる食材も与えられなかった。
〝お前はそんなに健気(ケナゲ)なのに、お前の思いとはあまりにもかけ離れたものしか作らせられないなんて……〟
 後姿に合掌しつつ詫びていたのではなかろうか。
 一軒家を本堂とし、トイレも水道もないボロボロのプレハブで寝起きしていた時代、小生もに深く詫びたことがある。
 真冬、ご縁の方々からいただいた食材で作った夕食をプレハブへ運ぶ途中、雪に足を滑らせたは、食器を載せたお盆を落としてしまい、泣いた。
 二人は言葉もなく、お賽銭箱などから小銭をいただき、ラーメンを食べにでかけたのだった。
 あの時ほど、愚かな自分を悔い、へ詫びたことはない。
 俳人は表現した。
 しかし、何の才能もない凡人は、しかも営利活動から離れた一介の行者は、何もできず、ただ、歯を食いしばるだけだった。
 そう言えば、歯医者から「奥歯がめり込んでいますよ」と指摘されたことがある。
 全身全霊で引導を渡しているからだろうが、その他の原因もあって不思議ではない。

 最後にもう一句、挙げておきたい。

「一生を棒に俳句や阿波踊り」


 普通、「一生を棒に振る」と言えば、取り返しのつかない大失敗などによって、それまでの人生がすっかり台無しになることを意味する。
 しかし、ここでは、潔く人生を賭けきってしまうという不動の姿勢が「阿波踊り」とあいまって、やや客観的で硬さを離れたダイナミックな句に結晶した。
 自問したくなる。
 自分は一生を〈棒に振っている〉と確信しつつ生きているか?

 夢道は『銀座 若松』に務めていたおりに蜜豆を考案した。

蜜豆をギリシャの神は知らざりき」


 皆さんも蜜豆を食べながらゆっくりとふり返ってみてはいかがでしょうか。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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