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2016
10.29

両墓制をご存じですか?

2016-10-29-0001.jpg

 かつては両墓制があった。
 死者が出ると、数日後にまず、海辺などにある「埋め墓」へ遺体を埋葬する。
 次に、故人を背負う姿と心で山の洞窟などにある「拝み墓」へ行って遺髪を埋め、墓を守る寺院へは故人の着物などを納める。
 それから「埋め墓」で精霊棚を壊し、故人の家に戻ってご遺族と共に「食い別れ」の膳を囲む。
 以後の供養などは寺院や「拝み墓」で行う。

 ご遺体そのものは自然に還し、山へ向かった御霊を永遠に供養する。
 寺院は、御霊の集う聖地を守り、この世とあの世をつなぎ続ける。

 寺院は、守るべきものを守ればこその寺院であり、拝まねばいられない方々と共に拝むのが僧侶である。
 たったこれだけのことが、両墓制を想うことによって、あらためて突きつけられた。
 徳一菩薩のお導きだろうか。




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2016
10.12

なぜ戒めを守り、生き方を戒めに一致させようとするのか? ─持戒のご利益─

2016-10-08-0016222.jpg
〈『マンダラの読み方』よりお借りして加工しました。供養は修行です〉

 お釈迦様は、戒律を守ることのご利益を説かれました。

1  僧侶が和合する
 一緒に修行していながら、片方では真剣に勤行を行い、片方ではダラダラ怠けているならば、同志としての信頼や親和は望めません。
 お釈迦様は、行者一人一人の自覚と共に、修行の場が和合していることを強く求められました。
 それは本来、家庭や職場でも根本中の根本ではないでしょうか。

2  僧侶を受け入れる 
 皆が真剣に勤行していてこそ、行者として加わりたい人を受け入れられます。
 加わる先の人々がお手本にならないなら、そのグループは、やる気のある人に大切なものを与えられません。
 本性を隠してはびこるブラック企業、ブラックバイトのような不誠実は許されません。 

3  悪人を調伏(チョウブク)できる
 自分を律し、自分を放恣(ホウシ)にしていなければこそ、他者の悪しきところを取り除けます。
 仏法における調伏は、悪人をやっつけたり、あるいは相手を説き伏せ、仲間に引き入れることではありません。
 太陽の暖かさが、旅人の羽織っているマントを脱がせるような、感化作用によって仏心を開花させることが真の調伏です。

4  慚愧(ザンキ)する者を安楽にさせる
 自分の罪科を悔い改めようとしている人へ本当の安楽を与えられるのは、先に過ちの川を渡った対岸にいる人です。
 自分の悪行に打ちのめされている人に、同じく悔いている人が手を差し伸べ、苦悩を和らげることはできます。
 しかし、流される人を安楽なところまで導くのは、崩れぬ対岸にいて丈夫なロープを投げ入れられる人の役割です。

5  現世の煩悶(ハンモン)をなくす
 人としての戒めが自然に生きられていれば、ままならぬことがあっても、煩わされ、悶えて悩まず、淡々と対処できます。
 この世にいる限り、病気であれ、老いであれ、裏切りであれ、争いであれ、ままならないという苦は逃れられません。
 しかし、戒めを生きていればもう、それ以外の生きようはないので、たとえままならないできごとにぶつかっても、その事態が生き方を迷わせるほどの苦しみにはなりません。

6  未来の煩悶をなくす 
 この世で戒めが生きざまとなれば、悪業(アクゴウ)を積むことなく、来世に悪果(アクカ)をもたらしはしません。
 因果応報は厳粛な真理であり、私たちが因と果の糸を見つけられようと見つけられまいと、その二つは切り離せません。
 戒めを守ることにより、この世で煩悶もたらす悪行(アクギョウ)を行わず、その結果として起こる煩悶を克服すれば、煩悶を起こす因は消え、来世に煩悶が生ずるはずはありません。

7  信じない者を信じさせる
 仏法を生きる方法は戒めを守り、戒めが生き方そのものになることであり、そうして生きている人のみが誰かを仏法へ導き入れられます。
 千万の言葉で仏法を説くよりも、仏法に生きている姿を見せる方が大きな説得力となります。
 私たちは、ごく普通の日常生活にあっても、善きにつけ、悪しきにつけ、人と接し感化されるではありませんか。

8  自分が信じるところを前進させる 
 何ごとも精進(ショウジン)なくしては実現できず、戒めが血肉となれば、精進して生きる他の生きようはないので、必ず、仏道をより先へ歩めます。
 私たちは常に、何かをやりながら生きる生きものであり、何をどうやるかが人生を紡ぐということです。
 戒めを守るならば、その人の人生はそのように紡がれており、それは同時に、選んだ道を前進していることに他なりません。

9  仏法にずっと止まらせる
 戒めを守らずして仏法を生きることは不可能です。
 お釈迦様が持戒のご利益をはっきりと説かれた原因は、ある行者が淫欲に負け、娑婆へ戻ったというできごとにあります。
 戒律の「戒」は個人的な一心内の戒め、「律」はグループ内の決まり、この二つに背けば、そのグループでは生きられません。

10 清浄心にずっと止まらせる
 世間的な価値を求めず、仏界を目ざす清浄な心は、戒めにそった生き方でなければ保てません。
 仏法によって人々の悩みや苦しみを解消する手助けとなりたい場合、世間的に価値があるとされているモノやお金や立場や名誉が役立つ場合はあります。
 たとえそうしたものを利用する場合でも、それらを正しく〈手段〉とし、それらに流されないかどうかは持戒にかかっており、こうしたポイントは、政務活動費問題などにおいても、重要であると思われます。




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2016
05.11

ボクサーと僧侶 ─沢木耕太郎氏の目に映った「捨てるもの」と「得るもの」─

2016-05-11-0001.jpg

 作家沢木耕太郎氏が朝日新聞に「春に散る」を連載している。
 結末がどうなるかはわからないが、今のところ、若いボクサーが育って行く物語である。
 かつての強豪藤原は若い翔吾へ語りかける。
 あるジムの会長が「ボクサーというのはリングの上で自由になるために練習をする」と言った言葉をきっかけに諭す。

「それは半分しか正しくない言葉のような記がするんだ。
 アマチュアのボクサーならそれでいい。
 でも、プロボクサーは、それだけでは駄目だと思う。
 プロとアマの違いは金を貰ってボクシングをするということだ。
 ただ自分が自由になるところを見せるだけでは金は貰えない。
 プロボクサーというのは、観客に勇気を見せることで金を貰う職業なんだ。
 打たれても向かっていく。
 倒されても立ち上がる。
 死んだ会長もトレーナーの白石さんも、そういうボクサーを嫌っていた。
 打たれないで打つ。
 倒されないで倒す。
 でも、実際にギリギリの戦いをしていると、打たれるとわかっていても打ちにいかなくてはならないときがある。
 あのインサイド・アッパーも一歩間違えば倒されてしまう。
 ボクサーはその恐怖を乗り越えて打ちにいく。
 観客はその勇気に金を払ってくれるんだ……」


 僧侶に対してはこう言い換えられそうだ。
「仏教に興味があるアマチュアなら、拝んでいる時に自分が解放されるだけでいいだろう。
 でも、プロ僧侶ならそれだけでは駄目だと思う。
 プロとアマの違いは、お仕えするご本尊様へお布施をいただくに足るはたらきができるかどうかということだ。
 ただ自分が解放されている状態の僧侶を見ても、お布施を渡す気にはなれない。
 プロ僧侶というのは、ご本尊様へおすがりする方の願いに応じ、身に着けた法力の世界を感じとってもらえるレベルの修法を行い、自発的に差し出されるお布施を受け取る職業なんだ。
 どこまで行ったらよいかわからない無限の深みへ踏み込んで行く。
 胆力も声も続かないかと不安が一瞬よぎってもなお、倒れない限り踏み込んで行く。
 見える範囲、聞こえる範囲でうまくやり、途中から引き返してきても、修法の依頼者や参集した方々は文句を言わないだろう。
 でも、法へ入れば、うまくはやれなくなる。
 技術や計算の世界ではない。
 プロの僧侶はそこを完全に離れて仏界を現前させる。
 ご縁の方は、その異次元を感得すればこそ、ご本尊様へ心からのお布施を差し出してくださるのだ。
 決して、いただくお金の範囲で拝むのではなく、拝んだ労力に対してお金をいただくのでもない。
 そもそも、修行とは、み仏の世界、すなわち異次元へ入って衆生のために力を尽くせるだけの能力を身につけるものだ。
 娑婆の損得を離れた世界を感じとった方もまた損得からでなく、自主的に、まごころからお布施をくださるだろう」

 沢木耕太郎氏の書くものは必ず、テーマとする世界の胆(キモ)をつかんでいる。
 胆にかけている人間としては、読むことが再確認の貴重な機会となる。
 自分が懸命にやっているところまでズイッと入って来てしまう観察眼と筆力にはただただ、舌を巻くばかりである。
 氏が手がける世界へ関心を持っておられる方々もきっと、「そうか!」と膝を叩いたり、「うーん」と唸らされたりすることだろう。
 そう言えば、氏はこんなことを書いていた。 

「何かを捨てて、何かを得る。
 生きるとは、何かを捨てて何かを得るという繰り返しの中にある、と言えなくもない。」


 捨てようとしているもの、得ようとしているものが氏にはお見通しなのだろうか。




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2016
04.26

僧侶の数

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 ある時、ご葬儀の申込みを受けた。
 若い頃から地域のリーダーだった方が大往生され、ご葬儀にはそれなりの人数が集まると予想されるらしい。
 喪主様へお尋ねした。
「通常は小生一人で引導を渡していますが、僧侶の頭数が必要ですか?」

 当然のことながら、行者は一人で必要な法を結ぶ。
 これまで、数百人規模のご葬儀でも一人で淡々と引導を渡し、法話を行ってきた。
 誰かの手を借りねばできないとか、何かが足りなくて法を結べない、などという言いわけは、通用しない。
 お釈迦様もお大師様も一人で歩き、説法し、修法をされた。
 しかし、娑婆の方々には立場もおありになるので、レアケースではあるが、念のためにご意向を伺ったのだ。

 喪主様は笑顔を交えながらきっぱりと言われた。
「私たちは、住職を頼りにして、お願いに来ているのです。
 大切な家族を送るのに、周囲の目や口を相手にしてはいられません。
 どうぞ、信念のままに送ってやってください。」
 ご一族は真言宗ではない。
 それでもなお当山を選ばれたので、諸々のご事情もあろうかと思って質問したのだが、ご尊家様は堂々としておられた。

「了解しました。
 ご信頼に感謝します。
 きっちりとお渡しします。」

 おしどり夫婦だった妻の名前だった花が咲く頃、後を追うように、夫もスッと旅立たれた。
 鴨居(カモイ)には手書きの慈顔が二つ並んだ。




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2016
03.25

Q&A(その19)逝った妻に会えるか? ─あの世のあるなし─

2016-03-25-0002.jpg

 以下、人生相談に来られた方々に成り代わって書きました。

 僕の妻はときおり、薬を大量に飲む。
 彼女の何がそうさせるのか、僕の何がそうさせるのか、しかとはつかめないが、見つければ止める。
 そして言い聞かせる。

「死ねば何もなくなくなってしまうんだよ。
 君とのも、ここまで育てた子供との思い出も、君にとっての僕も、いなくなってしまうんだよ。」

 でも、妻は、発作を起こすように突然、実行しては周囲を慌てさせ、ある日とうとう限度を超えた。
 死んでしまったのだ。

 いなくなってみると、気づく。
 妻へ「死ねば何もなくなってしまう」と言い聞かせながら、僕もいつしか、そう思うようになっていた。
 妻がいなくなることを想像すると、文字通り、何もなくなってしまうような恐怖感に襲われ、そうなって欲しくないという気持がああいうふうに言わせていた。
 同時に、言いつつ、〝そうに違いない〟という信念がつくられていたのだ。
 僕自身が、あの世のあるなしをよく考えたわけではない。
 奇妙なことに、恐怖は信念となっていた。

 しかし、実際に妻がいなくなり、恐怖が現実のものとなった今、今度は、何もなくなってしまうことがどうしても信じられなくなった。
 いつも、どこかにいるはずの妻を探している。
 咲いた梅や、子供の声や、カレーライスの匂いなど、何もかもが、もどかしい思いをかき立てる。
 ──どこにいるんだ……。

 酒を飲み、独りで泣き、せめて夢に出て欲しいと願いつつ床に就くが、一度も会えない。
 かつて、妻へ言い聞かせ、自分の信念となっていた思いは完全に裏返った。
 死んでも決していなくならない。
 そのことはわかっているのに、どこにいるかがわからないだけだ。
 あの世はどこにあるのだ?

 僕はある僧侶へ会いに行った。
 単刀直入に訊ねた。

「死ねば何もかもがなくなるんでしょうか?
 死んだ人は無になるんでしょうか?」

 僧侶は妻を供養してから、こんな体験談を語った。

「昔、娑婆で世話になり、かつ、迷惑をかけたまま、お礼もお詫びも言う機会のないままに、あの世へ逝ってしまった人へ懺悔し続けていました。
 懺悔は海へ水滴を落とすような感覚で、まったく、つかみどころのないものでした。
 10年ほど経ったある日、祈りつつ山道を歩いていたところ、ふと上げた視線の先にその人の後姿がありました。
 ゴルフ帽、いかり肩、上体を揺らさずに進める一歩一歩、まごうかたなく、その人でした。
 言葉にならない言葉で喉の奥が詰まり、呼吸が止まって涙が溢れました。
 メガネを外し、涙を拭いた時、もう、無人の山道が静かに延びているだけでした。
 今もその人を供養していますが、あの時以来、いつでもその人は背中で供養を受けてくださいます。
 あまりにもはっきりと……。」

 それっきり僧侶は黙った。
 僕も黙っていた。

「妻へ謝り続けます。」

 これだけ言って、辞した。
 手には僧侶が書いた『供養について』という小冊子を手にしている。
 僕も懺悔供養を続けたいと思う。
 いつか、きっと、疑問への回答に出会えることだろう。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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