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2016
11.27

年忌供養の麗しい光景 ─死者はいつから「ご先祖様」になるか?─

2016-11-11-0068.jpg
〈四国霊場の天井画には意外なものが……〉

 七回忌供養でAさんご一族が来山された。
 ひいお祖父さんとひいお祖母さんと、お祖父さんがもう、ご先祖様の仲間入りをしておられる。
 喪主だったお父さんを中心に、奥さん、お祖母さん、そしてお子さんと、三代にわたるご家族、ご親族が集まられた。
 にぎやかで皆さんの笑顔が好ましい。

 法要の心構えをお話しした。

七回忌阿閦如来(アシュクニョライ)様が一つの関所を越えさせてくださる時期です。
 三回忌で阿弥陀様の極楽浄土に到着し、それから4年間、このみ仏にお導きいただいてきました。
 阿閦様は、無瞋恚(ムシンニ)如来、あるいは無動(ムドウ)如来とも呼ばれ、どんなことがあってもイライラせず、怨まず、人の道を邪魔するあらゆる魔ものを降伏させます。
 動じることがありません。
 み仏の世界を歩まれている故人もきっと、不動の悟りを開き、東の浄土におられるこのみ仏のお力で、よき世界へ転生(テンショウ)する流れに乗っておられることでしょう。
 古来、七回忌法要を終える頃になると喪主を務めた人も縁者の方々も、故人の死と人生を丸ごと受け容れ、乗り越え、引き継ぎの段階をすっかり終えて、故人に見守られつつ不動の信念で新しい世界へ進むことができるとされています。
 また一つの区切として、思い出につらなるものをまとめたりするのに適した時期でもあります。

 さて、私たちは、亡くなった家族や親族をいつから〈ご先祖様〉とお呼びするのでしょうか?
 それは、四十九日忌からです。

 中陰(チュウイン)という行く先の定まらない時期を過ぎ、あの世での道が定まればもう、ご先祖様なのです。
 そして、喪主はその後、施主(セシュ)となります。
 〈喪に服する人〉から〈供養を施す人〉へと役割を進めるのです。


 しかし、三回忌あたりまでは、まだ、故人はこの世で果たした役割のイメージが強く、それぞれの人々なりに、お祖父ちゃんやお父さんといった感覚の存在です。
 〝ご先祖様になった〟とはなかなか思えないのが人情というものでしょう。
 それも七回忌あたりになると、故人に関するすべては〈よき思い出〉という1つの清浄で温かく揺るぎない結晶体となり、仏神に通じる尊さをはっきりと帯びています。
 私たちは、このあたりでようやく、ご先祖様として手を合わせられる気持になるものです。

 施主様はお1人ですが、それは、本当の意味では施す人々の代表であり、先祖様へ供養を施す人は等しく尊い役割を果たしていると言うべきです。
 だから、今日は、皆さんが施主様になったつもりで、お手元の経典をお読みください。
 経典はまず、日頃の過ちを懺悔(サンゲ)させ、私たちがみ仏の子であることを思い出させます。
 清らかな心身でこれからのご供養を行うのです。
 次に七回忌の守本尊である阿閦如来様をお讃えします。
 そして、お焼香して故人の冥福を祈り、自分もまっとうに生きて行くことを誓いましょう。
 最後に、ご供養した功徳をご先祖様と自分たちだけにいただくのではなく、広く生きとし生けるものへ廻し向け、皆共に安心の世界に生きられるよう祈りましょう。

 これが本日行う供養会の意味と意義です。
 どうぞご一緒にお手元の経文をお読みください。」

 最初は小さかったお父さんの声がだんだんはっきりしてきた。
 小学校へ入ったばかりのお嬢さんらしい一生懸命な声も聞こえた。
 こうした年忌供養の場に代わり得るものはないと思う。
 だからこそ、ご先祖様は、その時代、その時代なりに工夫し、方法を伝え、守ってきた。
 当山もしっかりと役割を果たして行きたい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
10.31

ハロウィンと魂祭(タママツリ)

2016-10-31-0001.jpg
〈ジャック・オー・ランタンの嬉しい素朴さは古代ケルト人の生活ぶりを偲ばせる〉

 古代ケルト人に発するハロウィンは、そもそも収穫祭であり、それは一年の終わりと始まりの時であって、あの世の人々も降りて来て一緒に祝う行事だったという。
 怖い扮装に身を包むのは、異界から訪れるのが懐かしいご先祖様だけではなく、悪霊などもやってくるので、それらを退散させるためである。
 醸し出される驚愕や恐怖は、アッと思って近くにいる人の腕につかまったり、抱き合ったりすることにより、お互いの距離が縮まり、つながりが深まるという嬉しい効果ももたらす。
 子供たちが参加してお菓子などをもらうのは、1年間のお手伝いに対するご褒美であり、訪れる他人の子供たちに施すのは、社会が共通財産として子供たちを守り育てるという意識の表現だったのではなかろうか?
 揃って「いたずらか、お菓子か」と唱えて歩き、お菓子をもらえるか、もしくは、くれない家ではイタズラをするか、どちらにしても、子供たちにとっては最高の祭なのだろう。

 1年の始まりと終わりを感謝で過ごし、そこにご先祖様も交わるというのは、日本古来の大晦日から元旦に至る家庭ごとの行事と同じである。
 そもそも、門松を立てるのは、新しい年を賑々しく祝うための飾りではなく、帰ってくる祖霊や新精霊をお迎えするための目印であり、家族で揃って食卓を囲む時は、必ずあの世から訪れている懐かしい面々も同席していたのだ。
 私たちは、お正月の根底に魂祭(タママツリ)があることを忘れていないだろうか?

 ハロウィンは世界中のお祭になったらしいが、ニュースを眺めると、世界中で商業主義に乗せられた若者たちが仮装し、日頃のうっぷんを晴らす。
 子供たちは無邪気にはしゃぐ。
 それだけでよいのだろうか?
 1年間の収穫に感謝し、祖霊と共に祝う祭ならば、街中にゴミが撒き散らされることなどあろうはずはない。
 ましてや、仮装して人物が特定されにくいことを利用し、強盗やレイプや各種の軽犯罪に走るなど、情けなくも哀れな話である。

 ハロウィンを象徴するジャック・オー・ランタンは、カブやカボチャをくり抜いて作られ、宗教的寓話が伴っている。
 小生が子供だった頃は、スイカの皮に竹籤(タケヒゴ)を通し、網を張ってキリギリスを飼ったりした。
 古来、人々は、自然の恵みに深く感謝し、自然からいただいたものは何でも利用し尽くしたのではなかろうか?
 そうした意味でも、素朴なジャック・オー・ランタンから〈怖い〉という一面だけを取り出し、アメリカやイギリスでは「殺人ピエロ」の跋扈(バッコ)などという実害を伴う現象にまで堕落したことは看過できない。
 モノ金が主人公になった華々しい現代文明に伴う頽廃や荒廃が露呈している。

 あと二ヶ月で、日本も年の区切を迎える。
 与謝蕪村は詠んだ。

「年(トシ)守(モル)夜(ヨ) 老(オイ)はたふとく 見られけり」


(家族が集まり、ご先祖様も共に、皆揃って行く年を送り、新しい年を迎える大晦日から元旦までの夜には、心構えや作法を指導する長老の叡智が一段と尊く輝く)
 この一句は覚えておきたい。




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2016
07.09

口癖のチェックをしてみませんか? ─イヤダ・キライダ・ダメダの話─

2016-07-09-0001.jpg

 もう一篇、杉山平一の詩を紹介しておきたい。
 それは「一日」である。

一日
 がまんして

 イヤダ

 キライダ

 ダメダ

 その口ぐせは出さなかった

 帰って家族の前で呟いてみるか

『お母さん
 お父さんが玄関で何か
 ブツブツ言っているよ』」


 私たちには口癖がある。
 そのほとんどは、いつ始まったかわからない。
 自分でその癖に気づかぬ場合もある。

 小生は最近、ある女性から笑われた。
「いつも、素晴らしい、っておっしゃるんですね」
 指摘されてみればそのとおりだが、これまで気にしたことはなかった。

 食べものの店から出る時は、何か誉め言葉をかけようと心がけている。
 ただし、ライオンやダンプカーや海を見た小さな子が発する「凄い!」に通じる「おいしい」という言葉だけは使わないようにしている。
 それでも、考えごとなどで頭がボーッとしていたりすると、おいしいでごまかしてしまう場合も少なくない。
 
 芸がないと言えばないのだが、おいしさにノックアウトされた時などは、「参った」という意味を込めて「おいしい」を使う場合もある。
 自死したランナー円谷幸吉の遺書は忘れられない。
「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。」

 親元から離れ、日本を代表して世界と戦った孤高の人は、遺書をこう結んだ。
「幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。」
 だから、余計に「美味しうございました」が際立つ。

 食生活ジャーナリスト岸朝子は、試食の際に決まり文句を用いた。
「おいしゅうございます」
 故人の一言は、テレビを眺めている人々へ生唾を呑み込ませた。

 かなり、脱線した。
 もしも周囲の人へ、小生の口癖をもう一つ挙げて欲しいと頼めば、「ありがたい」になるはずだ。
 小生が「素晴らしい」と「ありがたい」を言わなくなるのは死んだ時だろう。

 使わないことにしている言葉は他にもある。
 それは「嫌い」だ。
 客観的評価から離れた独断であり、身勝手で、狭量で、毒を含み、世界を狭めるような気がしてならない。

 きっと遙かな昔、野にあったご先祖様が、自分の身を守るために排除せなばならない毒キノコなどへ対して忌避の感情を込めて用いたのだろう。
 その事情は理解できるが、現代人における「嫌い」の感情は、かなり異質だ。
 自分が張るバリアであり、ある意味、弱点でもある。

 杉山平一は、「イヤダ」「キライダ」「ダメダ」に、自己防衛の胸苦しさを感じていたのではなかったか。
 だから、試しに、使わないでみた。
 結果は一筋縄ではゆかず、「ブツブツ言っている」時、懐かしい自分に戻れて小さな安心を感じていたのかも知れない。

 この一日はきっと、後の実りに結びついていることだろう。




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2016
06.10

夫を迎えに来たお婆さん ─ご来迎の真実─

2016-06-04-0007.jpg

 東日本大震災の直後、ある山村でお婆さんが亡くなり、ご自宅からお送りした。
 寒い日、ガソリンが手に入りにくくて業者さんの車を初めて利用させていただいた。
 そのご主人が今年、夏を迎えた頃に、この世での役割を終えられた。
 ご先祖様の遺影が鴨居に並ぶ仏間兼居間で倒れていたという。

 また、ご自宅でのご葬儀となり、座して修法に入った。
 お柩は部屋の西側に置かれ、頭は北、足は南である。
 導師の右横に棚があり、高さ70センチメートルほどの仏壇がはめ込まれている。
 もちろん、そこにはお婆さんのお位牌がある。

 引導を渡した直後、右目の端で異変が起こった。
 仏壇を乗せた棚の下は空洞でカーテンが掛けられているのだが、それが、パタパタ、パタパタと揺れる。
 経典を手に持って読誦していながら脇見で確認することはできない。
 しかし確かに、右90度、視界の限界ギリギリのところで、再び、パタパタ、パタパタと揺れた。

 良くも悪しくも因習の深い地域とて、ご夫婦の間にもご家族の間にもさまざまなできごとがあった様子は、かねてお子さん方からお聞きしていた。
 それらすべてを呑み込んで、お婆さんは、これから斎場へ向かうお爺さんを呼んでいる。
「お疲れ様。もういいのよ。さあ、おいでなさい」
 戻った静寂の中でお送りする準備は調った。

 数名が立ち会う斎場で喪主様は涙目だった。
 さっきのできごとには触れず、控え室へ向かう喪主様と短い挨拶を交わした。
「ご苦労様でした」
「ありがとうございました」

 人気のなくなった火葬炉の前で、また合掌し、猛火を発する不動明王に祈りつつ、気配を感じた。
〝ああ、お婆さんが来ている……。
 お爺さんがこの世へ持っていた愛憎も執着心も、もう、見事に捨て去ったことだろう〟
 一足先に仏様となったお婆さんは、文字どおり〈来迎(ライゴウ…迎えに来ること)〉されたのだった。




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2016
03.03

あらためて「供養」を考える ─供え養う恩返し─

2016-02-25-016.jpg

 今月は春彼岸を迎えます。
 私たちは何気なく「供養する」と言い、お線香やお花を手向けますが、そもそも「供養」とは何でしょうか?

1 供養は「供える」こと

 供養の「供」は「供える」であり、誰かへ何かを捧げることを意味します。
 捧げる相手は誰か?

 一つには聖者であり、み仏です。
 お釈迦様の時代には、托鉢をしながら法を説く聖者が到着したなら、まず足を洗い、食事を摂っていただきました。
 その上で説法を耳にしました。
 小生などのような一介の行者も托鉢の最中、寒い日は温かなお茶を、暑い日は冷たいジュースを心ある方々から差し出していただき、そのおかげで修行を続けられました。
 これが供養です。

 また、ご本尊様をお祀りしてある場所にはたいてい、お線香を点す香炉があります。
 お線香を立て、ご本尊様に感謝し、精進を誓い、その上で、善願の成就を祈ります。
 これが供養です。

 そしてもう一つには御霊です。
 経典は説きます。

「亡者のために善根(ゼンコン)を修すれば、亡者はその功力(クリキ)により、悪業(アクゴウ)を転じて三塗(サンズ)に堕するを免れる」
(亡き人のために、善き結果を招く力となる善き行動をとり、その功徳を亡き人へ廻し向ければ、亡き人は、生前の悪業による因縁が消え、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることを免れる)


 私たちは親を亡くした時、〝ああ、自分は何て親不孝だったんだ〟〝ああ、もう、親孝行できない〟〝これから親孝行しようと思っていたのに〟などと後悔しがちです。
 まさに「後悔先に立たず」であり、「孝行のしたい時分に親はなし」です。
 しかし、まだ、できることがあります。
 それが供養です。

 意図するとしないとにかかわらず犯してしまう悪行(アクギョウ)の因縁は自分であの世まで、そして次の世まで抱えて行くしかありません。
 それを救うのがみ仏であり、み仏の心を持った私たちです。
 上記のとおり追善供養(ツイゼンクヨウ)すなわち、この世の人が自分の善行による功徳をあの世の人へ廻し向けるよう祈るならば、み仏のお導きによってその願いはあの世へ届き、あの世の人の悪業を消す力となるのです。

 捧げるものは何か?
 まず、形あるモノです。
 お線香、お花、お水、お灯明、お食事、これが古来、「五種供養」と言われるセットです。
 そして、手を合わせる前に、塗香(ヅコウ)というお香を両手へ塗ります。
 ここまでできれば「六種供養」の完成です。

 形あるモノを用意すればそれで終わりではありません。
 ここまでは〈準備〉の段階です。
 それぞれのモノは捧げる誠心の象徴であり、肝腎のまごころ、決心、そしてその実践を捧げてようやく真の供養になります。
 モノと心との対応は以下のとおりです。
・線香…精進(ショウジン)…励むこと。
・水……布施(フセ)…施すこと。
・花……忍辱(ニンニク)…耐えること。
・灯明…智慧(チエ)…自心にあるみ仏の智慧をはたらかせること。
・飯食…禅定(ゼンジョウ)…心が乱れぬよう心身を整えること。
・塗香…持戒(ジカイ)…戒めに背かぬ生き方をすること。
 この六種供養はそのまま、菩薩としての基本的修行である六波羅蜜(ロッパラミツ)の修行道になっています。
 大乗仏教の目的である〈菩薩として生きること〉を実践しようとするならば、六種供養を徹底するのが入り口であり、六種供養は誰にでも可能な成就法でもあります。

2 供養は「養う」こと
 
 供養の「養」は「養う」であり、誰かの何かを大きく育てることを意味します。
 誰の何を養うのか?

 それはまず、この世で供養する人自身の善根(ゼンコン)です。
 善根とは、あらゆる善きことの根本となるものであり、〈根〉がなければ、勁(ツヨ)い幹は伸びず芳しい花も咲きません。
 この根が何によってもたらされるかと言えば、善き行い(善行)であり、それに伴う善き影響力(善業)です。
 因果応報の理は、過去世、現世、来世を貫いて揺るがず、善行は必ず善業と善根を生み、いつか必ず善き結果をもたらします。
 悪行は必ず悪業と悪根を生み、いつか必ず悪しき結果をもたらします。

 供養が自分の善根を養うのには二つの面があります。
 一つには、心と言葉と行動を用いて供養という善き行為を行うことによって、とかく過ちを犯しがちな〈私たちの心と言葉と行動(三業と言います)〉が、どんどん、限りなく清浄で温かな〈み仏の心と言葉と行動(三密と言います)〉へ近づいて行きます。
 お寺や、お仏壇や、お墓で至心に合掌する人の姿は尊いものです。
 供養は、この世で苦しむ私たちが生き仏になる近道なのです。
 お釈迦様以来、人類が2500年にもわたって行ってきた自他の苦を除くための根本的な方法である供養が忘れ去られようとしているかに見える世相は残念です。
 心を心地好くするするための手軽なノウハウへ飛びつくよりも、叡智と実践に裏付けられた供養をこそ実践していただきたいと願ってやみません。
 何しろ、ご先祖様がいない人は一人もなく、救われ得る道が万人に開かれているのです。

 もう一つには、自分自身の善根を育てます。
 まだ、花を咲かせるまでに至ってはいなかった根や幹や枝や葉へ水を施すような供養という善行は、きっと善根が早く花をつけるための力となることでしょう。

 また、亡き人が生前に積んだ善根をも養います。
 亡き人が生前に花を咲かせるまでに至ってはいなかった根や幹や枝や葉へ水を施すような生者の廻向は、きっと亡き人の善根が、あの世や次の世で花を咲かせる力となることでしょう。

3 供養は「人間修行」であること

 上述のとおり、モノを捧げる供養という行為は、亡き人のためになるだけでなく、同時に自分自身を清め、魂を磨くための修行道です。
 こうした意味で、先に逝った方々はすべて、私たちへ人間たる尊厳を輝かせるための修行を行う機会をお与えくださっているのです。
 自分のいのちと心が無数のご先祖様のおかげでこの世へバトンタッチされてこそ、今ここにあることを省みれば、ありがたく、ご恩を感じることでしょう。
 そのご恩にお応えするための最も簡明で誰にでも実践できる方法が供養です。
 共にご恩返しをしようではありませんか。
 無限のみ仏と、無限のご先祖様、そして、未成仏霊も含めあらゆる先亡の方々へまごころを込めて。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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