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2016
01.15

厄除祈祷について ─悪業の滅し方─

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 そもそも、悪いできごとは、悪い原因があって起こります。
 因果応報です。
 悪い原因とは、時間に対してかかわってくる〈悪い影響力〉であり、それを悪業(アクゴウ)と言います。
 この悪業は悪行(アクギョウ)によって生じます。
 では、悪行は何によって生ずるか?
 誤ったものの観方です。
 だからお釈迦様は、正しい修行道である「八正道(ハッショウドウ)」の第一番目として「正見(ショウケン…正しい見解)」を説かれました。
 
 正しい見解とは、何よりもまず、ありのままに観ることですが、この〈ありのまま〉が問題です。
 たとえば、私たちは優しい言葉をかけられて喜び、貶(ケナ)されて怒ります。
 優しい人にはまた、そうしてもらいたいと思い、酷い人の顔は二度と見たくなくなります。
 これが煩悩(ボンノウ)の「好(コウ)」と「悪(オ)」です。
 自分の都合で相手を分類しており、〈ありのまま〉から離れています。

 また、この時点で、優しい人も、酷い人も、そして自分も〈このままずっと生きている〉という前提が置かれています。
 ところが、この前提は、真理でありません。
 私たちは、身体と心を形成するさまざまな要素がたまたま、うまくまとまっているから〈ある特定の人〉として生きているだけです。
 もしも脳溢血や心筋梗塞が起これば、あるいは交通事故に遭えば、あっという間にこの世を去って何の不思議もありません。
 自分の明日のいのちすらどうなるかわからないのです。
 また、脳裏に思い浮かべる優しい人Aさんや酷い人Bさんはたった今、この世のどこかで確実に生きているとは限りません。

 こうした存在のありようを根本から考えてみれば、すべては因と縁によって仮そめに成り立っている空(クウ)なるものとして平等です。
 優しい人も酷い人も自分も。
 み仏に通じる〈平等の眼〉には、誰しもが幸福を望み、不幸を厭うという平等も観えてきます。
 ここまで来れば、ようやく正しい見解になりつつあると言えましょう。

 その結果、自分と周囲を固定したものとしてとらえ、執着心がさまざまにはたらいて「好(コウ)」や「悪(オ)」や無関心である「平(ヘイ)」となる煩悩(ボンノウ)が動きにくくなります。
 また、誤ったものの観方がなくなれば、それを原因として生じていた悪行は行われなくなります。
 そして、悪行の結果として生じた悪業が引き起こした問題へも根本的な対応ができるようにもなるのです。
 これが因縁解脱(インネンゲダツ)に至る道筋の一つです。

 ところが、〝そうか!〟とわかっても、これまでに染みついた正しくない見解とそれに馴染んだ反応の仕方は容易に消せません。 だから仏神へ祈ります。
 合掌をして。
 左手の自分が右手のご本尊様と一体になった感触が、古い見解と習慣を消す力となります。ご加護が降りるのです。
 当山が行う春祭厄除千枚護摩祈祷は、運気の流れによって正しい見解がはたらきにくくなり、〈厄〉が生じるところをご本尊様のご加護で動かし、皆さんの運が開けるよう祈るものです。
 祈り、守本尊様のお導きで正しい見解となり、悪業を滅していただきたいと願っています。




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2014
04.16

平常心で転生するには ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(20)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第三章 カルマの法則

2 平常心の心得

来世への究極のゴールに進むために必要なこと

「物質的な成功と宗教的な伝統とを合一し、より高い境地へと至る方法があると私は信じる。
 では、いかにすればいいのか。」

 モノの獲得に追われず、かつ、歴史の風雪に磨かれた叡智に導かれれば、心は高い境地へと進むことができる。
 法王は、そう信じておられる。

「僧侶に頼るか、宗教の教えに耳を傾けるか、否である。」


 宗教者に頼り、教えを知っただけでは、なかなかそこまで到達できない。

「今日、現代医療の科学は、精神的なゆとりや平安が、肉体的な健康、長寿にとって根本的な要因となっている事実を受け容れている。
 心静かにすれば血液は正しく循環し、脈拍は正常を保ち、身体全体が正しく活動する。
 そして、それが長く健康な生命を約束してくれる。」


 ストレスの少ない心身の安寧が、心身の健康には欠かせない。
 このことは現代科学が証明している。 

「では、どうすれば心静かでいられるか。
 それが問題になってくる。
 まず、宗教的な実践が最初に目ざすものと言えば、生きとし生けるものとして、正常でよりよい生活を実現することである。
 それができてはじめて、より深い宗教的体験の世界に入ることができる。」


 ここで法王が「生きとし生けるものとして、正常でよりよい生活」と指摘しておられることは重要である。
 宗教的実践は、やおら、何かを繰り返し唱えたり、座禅を組んだり、滝に打たれたり山登りをしたりといったいわゆる〈修行〉から始まるのではない。
 生きるために身体をきちんと養いつつ、自他共に〈良かれ〉と心から願えるような生活。
 お釈迦様が説かれた「八正道(ハッショウドウ)」の一つ「正命(ショウミョウ…規則正しい生活で、まっとうにいのちを養うこと)」である。
 これが確保できなければ、現世の苦を根本から超越できるような高い宗教的次元へは入れない。
 それは、お釈迦様が悟られた経緯を見れば明らかである。

 食うや食わずの難行苦行を6年間行ったお釈迦様は、自らを痛めつける苦行だけでは悟りを開けないと気づき、身体を清めてやりなおそうとネーランジャラー川で沐浴をした。
 それを見た下女から「樹神がいる」と教えられたスジャータは、喜んで乳粥を供養した。
 滋養を補給し、心身をリラックスさせ、心にも身体にも力を漲らせたお釈迦様はよういやく、悟りを求める瞑想へ入った。
 お釈迦様に〈その時〉を得させてはならないと怖れた魔ものたちの大群が、恐怖心や色欲をかき立てて妨害しようと企てるが、一日の攻防を経て、お釈迦様はついに悟りを得られる。
 第一のポイントは、〈痛めつけられ、追いつめられた者〉としてではなく、〈いのちと心の力に覆いがかからず、持てる力を充分に発揮できる者〉としてこそ、悟りが得られたということである。
 第二のポイントは、すでに得ていたたぐいまれな法力により、降魔の印を結び結界を張ったからこそ、世界中の魔ものたちの誰もがお釈迦様の身体に触れられず、心を乱せなかったということである。
 降魔成道のシーンにおける第一のポイントが、行者においても、娑婆の方々においても「正常でよりよい生活」と言えるのではなかろうか。
 

平常心の境地である。
 究極の自然現象のような境地である。
 これはすでに宗教的な実践の第二段階である。
 この段階は自動的にやってくる。
 意図して求める必要はない。
 なぜなら、その段階に入る人は、すでに幸福な生活のなんたるかを知り、それを追求する集中力を養い、瞑想か、あるいは、他の宗教的実践の中で平常心を会得しているからである。」


 何ものにも乱されない平常心
 これは、降魔成道における第二のポイントに近い。
 お釈迦様のような法力は持てなくとも、ゆったりした心身は、魔ものを容易に寄せつけないほど大きな力を発揮できる。
 「究極の自然現象のような境地」になれば、心身は山となり、川となり、雲となり、鹿となり、ウグイスとなり、蝶となる。

平常心を知り、心が果たす役割を熟知するなら、後は自然に人は目指すべきゴールへと進んで行くことができる。
 来世を生きるという究極のゴールへ。」


 平常心となり、心中の仏神に出会えれば、もう、怖いものはない。
 死は、死に神の到来ではなく、より良き転生のチャンスとなる。
 こうして「来世を生きる」時の到来を悠然と待つのである。




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2013
08.25

この世に彼岸を ─問題は何か、どこを目ざすか─

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 9月はお彼岸を迎えますが、彼方にある岸とは、この世の苦を超えた安心の世界です。
 安心の薄くなった今の時代にあって、どなたも忙しく日常生活を送っておられることでしょうが、こうした時期には少々、立ち止まり、この世のと自分のありようをふり返ってみたいものです。

 お釈迦様は端的に説かれました。
「この世はお互いにままならない苦の世界であり、そうなっている原因は煩悩(ボンノウ)にある。
 病気を喜ぶ人はいないのと同じく、苦をもたらす煩悩は取り除かれるべきであり、その方法は明確である」

 私たちには、宿命としての四苦八苦(シクハック)があります。
 生まれる苦、老いる苦、病気になる苦、死ぬ苦、愛するものと別れる苦、憎いものと出会う苦、求め尽くせない苦、肉体や情報などを制御しきれない苦です。

 こうした〈ままならない苦〉の世界へ生まれたのは、過去の生き方に原因があったからであり、今の世で積んだ善業(ゼンゴウ)も悪業(アクゴウ)も決して消えることなく、次の生まれ方に深くかかわります。
 これが、因果応報(インガオウホウ)の原理です。
 だから、仏教は、「私がこう生まれたのは親のせいだ」とか「どうせ、死んだらそれまで」といった考え方とは無縁です。
 原因と結果のつながりには始まりもなく、終わりもありません。
 また、この世がままらなないのは、お互いが生きものとして、自分が生きることを最優先する〈生への渇き〉があるせいです。
 その顕れとして、もっともっと、と貪ったり、意志を邪魔するものへ怒ったり、身勝手で愚かしい考えを持ったりします。
 これが煩悩です。

 渇いた者同士がぶつかり合い、奪い合うことは誰にとっても嬉しくはなく、それは、病気になって嬉しい人がいないのと同じです。
 だから、お互いに安心を得るためには、渇きが克服されねばなりません。

 克服する方法として説かれたものをまとめたのが八つの正しい道である『八正道(ハッショウドウ)』や、六つの修行道である『六波羅蜜(ロッパラミツ)』などです。
 特に後者は、菩薩として生きるための方法として大乗仏教の根幹となっています。
 彼の岸へ渡る船には六本のオールがついており、それが、布施や持戒などの実践です。

 さて、今の世における苦の表れにはいかなる特徴があるでしょうか?
 一つには、人間の孤立化です。自由が最優先され、生活が便利になった結果、人は単独で生きられるという幻想が広がり、自分という城の城壁も門扉もどんどん頑丈になりつつあります。
 また、すべてを金銭に換算する資本主義が進み、人間同士の間でやりとりされるものが、どんどん商品化され、お金さえあれば何でも買える一方、システム化されずお金に換算されない人情や、ご近所さん同士の助け合いなどは消え去りつつあります。
 もう一つは、人間そのものの商品化であり道具化です。
 人間はどれだけの利を生み出すかという観点から価値判断をくだされて、交換可能な歯車となり、社会の中を浮遊するようになりました。
 労働は、生きつつ自分を成長させ、人間関係を深める全人格的ないとなみではなく、単に生きるための糧を得る手段となり、職場は生き生きした人間関係をもたらさず、人生をかけられる場ではなくなりました。
 また、あくなき資本主義は、子供までも〈欲望を引き出す対象〉としてお金を使わせようと躍起になっています。
 目や耳や鼻や舌や肌などの感覚をいかに刺激して欲望を起こさせるか、また、いかに感覚を慣れさせて依存させるかが競われ、人間はそうしてもよおさせられた過剰な欲をまかなうために、子供の頃から、より、お金を必要としています。

 こうした行きすぎた個人主義資本主義の克服こそが現代における苦の克服であろうと考えています。
 それには何よりも〈左右されず、流されない人間〉になることです。
 そして、誰とどう交わりつつ生きるかという〈人と人との生きた関係〉にこそ、人間としての成長も、生きがいも、安心もあることを忘れないようにしたいものです。
八正道(ハッショウドウ)』と『六波羅蜜(ロッパラミツ)』の教えは、必ずやそうした真の自己改革に大きな示唆を与えることでしょう。
 たとえば、「『四苦八苦』の一つである愛別離苦(アイベツリク…愛するものと別れる苦)に陥ったならば、『八正道』の一つである正命(ショウミョウ…規則正しい生活で正しいなりわいに生きること)を旨とせよ」という教えは、いかに人を立ち直らせ、救ってきたか、人生相談とご祈祷の現場にいる者にとっては、目の当たりにしてきた真実なのです。

 お彼岸には安心の世界へ渡る船についている6本のオールについて簡単な法話を行います。
 また、供養会に引き続いて「フォルクローレの会」を催す『法楽農園』においては、守本尊様へお詣りし、自他共に四苦八苦から救われるよう祈っていただきたいと願っています。
 一年にたった二回の大切な機会を生かし、御霊の供養と人生修行をされてはいかがでしょうか。




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2013
05.18

寺子屋の使命と目標(その2) ─共生の世界へ─

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〈当山の『みやぎ四国八十八か所巡り道場』は、皆さんのお心により、次第に姿を顕わそうとしています〉

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 お釈迦様は、意のままにならない苦しみを解くためには人として正しい道を歩んで生きよと説かれました。
 それが正しい見解や正しいなりわいなどの『八正道(ハッショウドウ)』です。
 
 以来、続けられてきた仏教に基づく研鑽には、その道をまっとうするための方法の模索という一面があります。
 そして、無数の行者・聖者方がいのちをかけて励み、つかみ、無数の方法が伝えられてきました。
 その方法が、お釈迦様が遺されたやり方とすっかり合致しているかどうかは、実践者にとって根本的な問題ではありません。

 なぜなら、お釈迦様自体が、「自分は過去に悟った聖者方のような境地に達した一人である」と説かれているからです。
 お釈迦様以前に悟られた方々のとられた方法を知り尽くすことはできず、それがまったく同じ方法であったなどということもあり得ないではありませんか。

 また、人間そのものが、いつ、どこで、誰の子として、いかなる特徴を持って生まれるかは千差万別の〈限定された存在〉であり、たかだた100年もない限られた人生の間に縁となった教えに導かれて生きるしか、生きようがないないからです。
 今の日本に生まれた私たちは、現代文明の空気を吸い、日本という風土の水を飲み、日本の文化が動かす社会にあってまっとうにふるまい、お互いに思いやりを交わし合いつつ生きる中で、そこに棲む者たちに合った姿で発展してきた教えに生きることを否定するいかなる根拠も持ち得ません。

 また、何の道であれ、集中して修行した人間は、必ず、〈会得すること〉と〈工夫すること〉が切っても切り離せないことを知っているはずです。
 確かに、長嶋茂雄氏は、松井秀喜氏の師として「こうだ」と徹底して指導したことでしょう。
 すなおに師へ従って類い希な練習をした松井秀喜氏は〈会得〉し、後生に残るほどの結果を出しましたが、その過程において、必ず松井秀喜という二人とない人間の心身に合った〈工夫〉が行われているはずです。
 私自身、師から伝授された修行を行い、お釈迦様とお大師様の修行についてもいささか学び、その結果プロとして生かしていただいていますが、プロとして発揮できるなにがしかの力を得る途中で、自分ならではの工夫があったことは歴然たる事実です。
 もしも、「一切の工夫を省いて師から言われたとおりに寸分違わずやらないお前は邪道である」と師が言われたなら、あるいはお釈迦様やお大師様が霊界から「お前は邪道であるから仏教行者の資格はない」と言われたなら、「ならば、私には誠意ある生きようがありません」とお答え申しあげるしかありません。
 学問や芸術やスポーツはもちろん、宗教の世界においても、およそ、意欲ある人間から工夫をはぎ取ることはできず、失敗より成功がやや多く、存続できる条件に恵まれた〈方法〉が残され、息づいているのが私たちの文明、文化というものではないでしょうか。

 今や、ダライ・ラマ法王が説かれているように、個々の宗教的ドグマを超えた世界をイメージできなければ、地上から対立と戦いをなくせないことに気づかれつつあり、〈限定された存在〉である人間同士が、宗教も含めて〈限定条件の向こう〉を共に見つめねばならない時代が到来しています。
 私たちは、人間を含めたいのちと環境を一気に破戒し尽くせる悪魔の道具をつくってしまったからです。

 こうした認識に立ち、当山の寺子屋では、集う方々が、共に〈限定条件の向こう〉に広がる共生の世界に心の目を向ける体験を重ねたいと願っています。
 当山で学ぶ八正道なども、そこを入り口とし、その道を践むことが個々人へ救いと向上をもたらすだけでなく、共生の世界へ通じる機縁であって欲しいと切に願っています。




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2012
02.10

第24回寺子屋『法楽館』を開講します

 寺子屋法楽館』も第24回目となりました。
 お釈迦様の説かれた八正道不安を克服するカギがあります。
 いつもどおり、平成24年2月11日(土)午前10時より当山講堂にて行います。
 どうぞふるってご参加ください。
 詳しくはhttp://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3098.htmlをご覧ください。

八正道不安の克服を求めて』

1 不安とは何か
2 何が不安の原因となるのか
3 不安を克服する八正道
4 菩薩として生きましょう
5 3月11日には般若心経を百万巻唱え、納経しましょう

〈600px-Dharma_Wheel_svgをお借りして加工しました〉
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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