順番が逆かも知れませんが、不幸とは何かを考えてみましょう。
釈尊は、私たちの置かれている根源的ありようを「意志とかかわりなく望まぬ状況がもたらされ、しかも、意志によってそれが克服しにくい状況」ととらえ、「苦」と言われました。
この苦こそが不幸の最たるものです。
その代表は『四苦八苦』の八つです。
1 生苦(ショウク)…生まれ、生むことに関する苦しみ、ままならなさ。
2 老苦(ロウク)…老いに関する苦しみ、ままならなさ。
3 病苦(ビョウク)…病気に関する苦しみ、ままならなさ。
4 死苦(シク)…死に関する苦しみ、ままならなさ。
5 愛別離苦(アイベツリク)…愛しいものとの分かれに関する苦しみ、ままならなさ。
6 怨憎会苦(オンゾウエク)…怨み憎むものとの出会いに関する苦しみ、ままならなさ。
7 求不得苦(グフトクク)…求めても得られない苦しみ、ままならなさ。
8 五蘊盛苦(ゴウンジョウク)…生きて、感じ、想うはたらき全般に関する苦しみ、ままならなさ。
苦を脱するための方法として、釈尊は八つの正しい、聖なる生き方を説かれました。
それを『八正道(ハッショウドウ)』または『八聖道』といいます。
1 正見(ショウケン)…正しい見解
2 正思(ショウシ)… 正しい思念
3 正語(ショウゴ)… 正しい言語行為
4 正業(ショウゴウ)…正しい身体的行為
5 正命(ショウミョウ)…正しい生業(ナリワイ)
6 正精進(ショウショウジン)…正しい努力
7 正念(ショウネン)…正しい臆念
8 正定(ショウジョウ)…正しい心のおさまり
つまり、いのちと心のはたらきを正しくして自分を変え、周囲からやってくるものごとによる苦を克服するのです。
そうすれば、愛する者との別れの苦しみも、誰かを憎まないではいられない苦しみも克服できるはずです。
老いて社会から遠ざかっても、病気で身体が辛くても、自分は不幸だと嘆かなくなるはずです。
どうしてこんな自分に生まれたのかと親や運命を呪わなくもなりましょう。
しかし、最もやっかいな問題は死です。
死に神がやってくれば最大の不安が生じます。
哲学者ハイデッガーは、その不安と恐怖の理由を詳しく述べています。
○死は誰に代わってもらうこともできず、必ず自分で引き受けねばならない。
○死は100パーセント確実に訪れる。
○死はいつ襲ってくるかわからない。
○死が近づけば他者との交わりが薄れ孤独に近づく。
○死は追い越してその先へ行く可能性を拒否している」
死がやっかいなのは、人間は生きられる方向へ行動することになっている生きものの一種だからです。
レミングやバッタの一部やイワシなどが集団で自殺するように見える場合もありますが、それは大量発生に基づく自動修正であり、〈死のう〉として行動する生きものはいません。
だから人間も常に生きる方向へと行動し、死は〈それに関する知識〉にとどめておきたくなります。
ハイデッガーは、死を隠蔽し、それに馴れることによってあたかも死が〈無いもの〉であるかのように生きる欺瞞な日常を離れよと説きました。
何ごとかにかけつつ生きる活き活きした本来の自分自身であれという〈良心の呼び声〉に耳をかたむけよと説きました。
老いと共にその確実さが実感できる死の不安と恐怖からいかにして脱するか?
それは老いへ向かう人が不幸を克服する究極の方法ではないでしょうか。
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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皆さん、いったい何を勉強しているんでしょうかねえ」
Aさんの憤慨に満ちた質問を待つまでもなく、セクハラから殺人まで、知識が人一倍あるはずの人や、仏神を前に厳しい修行をしているはずの人たちが見せる所行には、目を覆いたくなるものがあります。
学者については、知識を得るための学問だけでは、心にあるスキを埋められないからです。
スキとは、魔ものの入り込む余地です。
正しさの抜け落ちた心の空洞とでも言えるでしょうか。
これがあるかどうかは、知識の多少や地位の高低とは関係がありません。
スキが少ない人とは、他人とのやりとりで言い負けない人ではなく、まっとうに生きている人のことです。
人として正しくものごとを見分け、考え、話し、行動することがすべての前提でなければなりません。
そのために釈尊はまず正しくあるための『八正道(ハッショウドウ)』を説かれました。
宗教者については、拝むだけではまごころが出ないからです。
時には、行(ギョウ)と称するものが、良識や常識を忘れた愚か者をつくったりさえします。
良識や常識は学ぶ機会がなければ身につかず、それは宗教の教義以前の問題だからです。
その意味で、『八正道(ハッショウドウ)』と『六波羅蜜(ロッパラミツ)』は、世間的正しさも宗教的正しさも含む広大な教えであり、具体的な生き方として師から説かれることが望まれます。
師は日々、接する人々や各種情報から社会的現実を学びつつ、世間的正しさと宗教的正しさのズレや衝突の問題なども含めて弟子へこの二つを説かねばなりません。
弟子は、人々と社会と自分の姿をよく見て、自分をチェックしつつ学び、師へ質問し、修行せねばなりません。
そうして広く施す心、常に戒めに背かない心、何があっても我を張らず耐える心などをきちんを磨くことが大切です。
何ものをも忘れさせたり、特殊な観念に入り込んだり、あるいは心を錐のように尖らせたりするだけの修行だけをいくら行おうと、良識や常識は身につかず、心も円(マド)かになりはしません。
だから「信仰心にも人を正しく向上させるものとそうでないものがある」と説かれています。
「まず『八正道』ありき、人として何よりもまっとうでなければならない」と説かれていることからしても、宗教者に愚行があり得るのは当然なのです。
私は自分の〈至らなさ〉をいつも羞じており、愚行の報に接すると、彼が自分であったかも知れないと想像しては奮い立つような気持でまた、生き直しにとりかかっています。
地位や名誉や、あるいは立場や財物のある人たちが見せる愚行は、人として肝心なものはそれらに関係がないことを如実に教えてくれるありがたいできごとです。
※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています。
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その18)─広い世界へ─
私たちの宝ものである『実語教・童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。
八正(ハッショウ)の道(ミチ)は広(ヒロ)しと雖(イエド)も、
十悪(ジュウアク)の人(ヒト)は往(ゆ)かず。
(正しく生きるための八つの道は万人に開かれており、そこを歩めば広い世界へ出て行けるが、十の悪行を行っている人は、その道を歩めない)
8つの道は「八正道(ハッショウドウ)」であり、釈尊が苦を離れるための方法として明示したポイントです。
この道を行くための戒めが「十善戒(ジュウゼンカイ)」であり、慈雲尊者は、とてもわかりやすく説きました。1 正見(ショウケン)…正しい見解
2 正思(ショウシ)… 正しい思念
3 正語(ショウゴ)… 正しい言語行為
4 正業(ショウゴウ)…正しい身体的行為
5 正命(ショウミョウ)…正しい生業(ナリワイ)
6 正精進(ショウショウジン)…正しい努力
7 正念(ショウネン)…正しい臆念
8 正定(ショウジョウ)…正しい心のおさまり
八正道を歩むための具体的戒めは、以下のとおりです。第一 慈悲、不殺生戒(ジヒ、スセッショウカイ)
慈しみと憐れみによって、みだりな殺生をせずに生きよ。
第二 高行、不偸盗戒(コウコウ、フチュウトウカイ)
節操を高く保ち、他人の領分へ手をかけずに生きよ。
第三 浄潔、不邪淫戒(ジョウケツ、フジャインカイ)
行いを清らかにし、邪な獣性に導かれずに生きよ。
第四 正直、不妄語戒(ショウジキ、フモウゴカイ)
正直な心で言葉を用い、嘘をつかずに生きよ。
第五 尊尚、不綺語戒(ソンショウ、フキゴカイ)
高く尊い志を汚さず、言葉を飾らずに生きよ。
第六 従順、不悪口戒(ジュウジュン、フアックカイ)
柔軟な心で言葉を用い、粗野な言葉で罵らずに生きよ。
第七 交友、不両舌戒(コウユウ、フリョウゼツカイ)
誠の交流を尊び、人を離反させずに生きよ。
第八 知足、不貪欲戒(チソク、フドンヨクカイ)
己の分を守り、貪らずに生きよ。
第九 忍辱、不瞋恚戒(ニンニク、フシンニカイ)
耐えて動揺せず、つまらぬ怒りを起こさず生きよ。
第十 正智、不邪見戒(ショウチ、フジャケンカイ)
正しい智慧を発揮し、真理に背く考えを持たずに生きよ。
こうして、人としてまっとうに生きるためのイメージと、日常生活における具体的な戒めとが説かれました。1 正見の道を歩む方法 第十 正智、不邪見戒を守ること。
2 正思の道を歩む方法 第八 知足、不貪欲戒を守ること。
第九 忍辱、不瞋恚戒を守ること。
3 正語の道を歩む方法 第四 正直、不妄語戒を守ること。
第五 尊尚、不綺語戒を守ること。
第六 従順、不悪口戒を守ること。
第七 交友、不両舌戒を守ること。
4 正業の道を歩む方法 第一 慈悲、不殺生戒を守ること。
第二 高行、不偸盗戒を守ること。
第三 浄潔、不邪淫戒を守ること。
きっと、寺子屋では、子供たちが理解できるように、身のまわりで起こるできごとなどが題材として用いられたことでしょう。
ちなみに、当山では「子供十善戒」をお勧めしています。
お約束(やくそく)
1 生(い)きものをむやみに殺(ころ)しません。
2 盗(ぬす)みません。
3 ふしだらなことをしません。
4 嘘(うそ)をつきません。
5 へつらいを言(い)いません。
6 悪(わる)い言葉(ことば)で話(はな)しません。
7 二枚舌(にまいじた)を使(つか)いません。
8 貪(むさぼ)りません。
9 妬(ねた)んだり、キレたりしません。
10 悪(わる)い考(かんが)えを起(お)こしません。
なお、お大師様は、十善戒について、「自分が相手に対して悪いことをしない」というレベルを超え、この世は大日如来の顕れであるという深い視点から説かれました。
自分といい、相手といっても、それはかりそめにそうなっているだけであり、自分と相手とは入れ替わっていたとしても何の不思議もありません。
このことは普段、あまり意識されませんが、今回の大天災はよくよく教えてくれました。
津波にさらわれて遠く深い海へと消えていった方々と自分とが入れ替わっていることを想像してみれば、自分はたまたま生きていられるだけであり、いのち全体から観れば〈生き残り〉であることは疑いようがありません。
きっと、戦後、戦地から帰還した方々も、空襲に遭って生き延びられた方々も、同じ思いをされたのではないでしょうか。
俳優であり、歌手でもあった鶴田浩二は、生涯、太平洋戦争における〈生き残り〉として、先に逝った方々への思いを捨てずに演じ、唄い、生き抜きました。
また、遠い過去世を想像し、遠い来世を想像してみれば、相手は過去世に自分のご先祖さまであり、自分が来世に相手の生まれ変わりになっていたとしても何の不思議もありません。
だから、
とされました。「一切の衆生を観るに、なおし己身(コシン…我が身)及び四恩(シオン)の如し」
生きとし生けるものは、それが自分であると観え、また、自分を生み、守っている国家社会、天地自然、ご先祖様や両親や肉親、あるいは仏法僧とも離れたものではないのです。
ならば、みだりな殺生をするのは、自分のいのちを傷つけることであり、肉親やみ仏などを傷つけるのと何の変わりもありません。
自分に与えられていないものを誰かから奪うのは、自分から奪い、自分を生かしてくれている自然から奪い、肉親から奪うようなものです。
その愚かしさがよくわかるのではないでしょうか。
お大師様の説かれた深いレベルの十善戒も忘れぬようにしたいものです。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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〈天地がここに……〉
「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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そこには、
①説かれている道理を真理として納得し感得する
②真理のレベルでよきイメージをつくる
③よきイメージに生きる
という段階があります。
そして、よきイメージはさまざまな苦を解消させる力を持っています。
たとえば、愛する相手との別れも、憎い相手とのめぐり逢いも、たった二つの真理が腑に落ちていれば、乗り越えられます。
「自分もこの世も根本的なありようは苦である」
「あらゆるものは変化する→誰でもそのうちに死ぬ」
だから、〈知って、イメージを育てること〉が宗教を生かし、宗教に生かされる道です。
当山で行っているイメージ創りの一部です。
○人生の目的とは
【理趣経(リシュキョウ)百字偈(ゲ)】
こよなき智慧の ひじりらは
いましこの世の つきるまで
つねに救いの わざをなし
涅槃(ヤスライ)にゆく こころなし。
般若(メザメ)と方便(テダテ) たぐいなき
加持(メグミ)のちから てり映えて
この世のまよい すべてみな
きよけきものと なりぬべし。
大欲(タイヨク)などの ちからもて
世のなかきよめ 調えて
この世の涯(ハテ)の 辺際(ハテ)までも
すべてのまよい つくさなん。
蓮華(ハナ)に深紅(シンク)の いろあるも
泥のけがれに 染まぬごと
けがれに染まぬ 大欲(タイヨク)は
あらゆるものを すくいなす。
きよき大欲(タイヨク) あるゆえに
安楽(タノシミ)ありて 富みさかえ
この世のなかに おもうまま
すくいのねもと 堅(カタ)むべし。
○真理とは
【四諦(シタイ)】
我ら苦にあり。
苦には因あり。
苦の因を滅すれば苦なし。
苦を滅するに道(ドウ)あり。」
①苦(ク)…自分もこの世も根本的なありようは苦である
②集(ジュウ)…苦には原因がある
③滅(メツ)…原因を滅すれば苦はなくなる
④道(ドウ)…苦を滅するには方法がある
○この世とは
【四法印(シホウイン)】
この世に常(ジョウ)なるものなし。
あらゆるものに実体なし。
この世も我が身もままならぬ。
煩悩(ボンノウ)を大欲(タイヨク)に変え、平安を得ん。
①諸行無常(ショギョウムジョウ)…あらゆるものは変化する
②諸法無我(ショホウムガ)…あらゆるものに不変の実体はない
③一切皆苦(イッサイカイク)…この世も人生もままならない
④涅槃寂静(ネハンジャクジョウ)…煩悩の業火が消えれば絶対の安心が得られる
○歩むべき道は
【八正道(ハッショウドウ)】
我、見解を正しくせん。
我、思考を正しくせん。
我、言葉を正しくせん。
我、行動を正しくせん。
我、なりわいを正しくせん。
我、精進を正しくせん。
我、臆念(オクネン)を正しくせん。
我、心身を正しく整えん。
①正見(ショウケン)…正しい見解
②正思(ショウシ)… 正しい思念
③正語(ショウゴ)… 正しい言語行為
④正業(ショウゴウ)…正しい身体的行為
⑤正命(ショウミョウ)…正しい生業(ナリワイ)
⑥正精進(ショウショウジン)…正しい努力
⑦正念(ショウネン)…正しい臆念
⑧正定(ショウジョウ)…正しい心のおさまり
○人間修行は
【六波羅密(ロッパラミツ)】
我、水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん。
我、塗香(ズコウ)のごとく、自他を清め、浄戒(ジョウカイ)そのものになり果てん。
我、雨風に負けず咲く花のごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん。
我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん。
我、己を捨てて食べ物となる生きものに感謝し、心身を整えん。
我、灯明のごとき智慧の明かりで道を照らし、まっすぐに歩まん。
①布施は水の心
②持戒(ジカイ)は塗香の心
③忍辱(ニンニク)は花の心
④精進(ショウジン)は線香の心
⑤禅定(ゼンジョウ)は飯食(オンジキ)の心
⑥智慧は灯明の心
○養うべき心は
【四無量心(シムリョウシン)】
我、他へ幸せをもたらさん。
我、他の苦を除かん。
我、他の幸せを喜ばん。
我、他を平等に観ん。
①慈(慈愛)…相手の幸せを望む心
②悲(抜苦)…相手の不幸を取り除く心
③喜(随喜)…相手の幸せを自分の幸せと同じに喜ぶ心
④捨(浄捨)…相手に対するすなおで平静な差別を捨てた心
〈時ならぬ雪〉
「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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教材は『法句経(ホックキョウ)』の教学品(キョウガクホン)第二の教えです。
(正しいものの見方を学び、精進すれば、世間を照らす明かりとなり、ついには覚者ともなる。「正見(ショウケン)にして、学び務めて増やさば、是(コ)れを世間の明(ミョウ)と為(な)す。
所生の福千倍し、終(ツイ)に悪道に堕せず」
福はいや増し、決して地獄などの悪道に堕ちない)
釈尊は、苦を脱する生き方として「八正道」を示しました。
身体と言葉と心を正しくする8つの道です。
その最初にあるのが「正見」です。
正しいものの見方ができなければ、正しい考えも、正しい言葉も、正しい動きもあり得ません。
正見には3つのポイントがあります。
①ありのままに観ているか。
歪んだ鏡や汚れた鏡は、決してありのままの風景を映し出しません。
同じように、自己中心の心で現象世界や自分の心を観れば、決して自他を幸せにする正しい生き方はできません。
②取り違えや顚倒はないか。
心が曲がっていれば、相手の善意を悪意と解釈したりします。
あるいは気まま勝手な希望的観測をしていると、意のままにならず、周囲とあつれきを起こしたりします。
③極論や極端に走ってはいないか。
釈尊は、気ままに生きれば煩悩の火で焼かれ、自分を責める苦行に生きれば心は解放されないことを熟知していました。
極端に走らず、心身をきちんと調えれば心もおさまり、智慧や慈悲が生じて正しい生き方ができます。
また、「~は所詮、~である」と決めつけてしまえば思考停止になり、発展も対話もありません。
極論は逃避であり、対立を生みます。
(外道を学び、正しいものの見方に背くものを信じてはならない。「小道(ショウドウ)を学びて、以(モッ)て邪見(ジャケン)を信ずること莫(ナ)かれ。
放蕩(ホウトウ)を習いて、欲意を増さしむること莫(ナ)かれ」
放蕩にふけり、煩悩のままになってはならない)
釈尊の時代は、およそ考えられる限りの哲学的・宗教的命題が議論され、主張され、さまざまな修行も行われていました。
そんな中にあって、釈尊は「自分もやっと過去の覚者が到達した地点に立った」と考え、正見などに反する主張や宗教を外道としました。
注目すべきは、釈尊が「道理をもって判断せよ」と説いていることです。
釈尊は決して預言者ではなく、煽動者でもありません。
それは、次の言葉が証明しています。
「焼いて、切って、擦って、それが金であるかどうかを吟味するように、僧侶と智者は私を尊敬するがゆえに私の言葉を採用するのでなく、それを充分に吟味することによって私の言葉を採用しなければならない」。
天下万民が道理・論理をもって判断し、誤っていないと確信したならば教えを採用しなさいと説きました。
仏教は、預言やお告げで縛る宗教とはまったく異なっています。
ちなみに、仏法を理解する観点は、四依(シエ)とされる以下の4つです。
①説く人ではなく、教義によって判断すること。
②教義は、書かれている言葉でなく、示している意味によって判断すること。
③意味は、さまざまな解釈ができるレベルでなく、複数の解釈が成り立たないレベルによって判断すること。
④普通の知恵でなく、仏法の智慧に依って判断すること。
質疑応答では、いろいろな意見が出ました。
「余生を与生と考えようと主張する話を聞きました。
与えていただいたいのちという意識で生きれば、年配者の心も豊かになるのではないでしょうか」。
「いくら仏法を学んでいても、困難な状況にぶつかり、『どうして自分だけがこんな目に遭うのか』と袋小路へ入る場合があります。
諸行無常、おかげさま、おたがいさま、などが実際に役立つよう心を鍛えることは簡単でありません」。
「『日にち薬』という言葉があります。
辛い思いになっても、学びながらじっと堪えているうちに時が過ぎれば、薬を服用したかのように回復できます。
時が経つのは、死へ向かっているとはいえ、ありがたいことです」。
〈払暁の空を自由に翔るもの〉
「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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