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2016
10.22

小さな達成感を得る ─どこにでもある生きがい─

2016-10-17-0002.jpg

 私たちが生きる上での問題はまず、安定した衣食住の確保、次に、生きがいの獲得ではないでしょうか?

1 無財の七施

 一番目については、自分の努力と社会のありようとが決めます。
 怠け者ではどうにもなりませんが、いくら労働意欲があっても社会が混乱したり、戦火の雲に覆われていたりすれば、どうにもなりません。
 自分の(ゴウ)と社会の共業(グウゴウ)をよく考えてみましょう。
 社会のおかげなくしては一瞬も生きられず、良きにつけ、悪しきにつけ、社会と無関係は人は一人もいません。
 だから誰一人、社会の傍観者ではいられず、傍観者であってはならないと言えましょう。 

 二番目については、ほぼ、自分次第、自分の生き方次第です。
 医療関係者や福祉関係者などの人生相談を受けていると、生きがいはどこにでもあると実感します。
 たとえば、ある女性の介護士さんが難しいことばかり言うお爺さんに手を焼いていましたが、ある日、昔話を聴いていたところ、どうしたことか「自分は子供の頃からへそ曲がりだった」と涙ながらに詫びられました。
 彼女は手を取って一緒に泣き、誠意を尽くしてきて本当によかったと喜び、初めて仕事を誇りに思えました。
 おじいさんは、その日から別人のようになりました。
 まごころの交流が、お爺さんの捻れをなおし、看護師さんにやりがい、生きがいをもたらしました。

 生きがいは、手応え、達成感の蓄積によって得られます。
 連続する確かな達成感が、喜びと力になってその人を輝かせます。
 この達成感は、どこにでも見つけられます。
 その典型が「無財の七施」、財物によらない施しです。
 
○眼施(ガンセ)
 思いやりのある優しいまなざしで相手を見ることです。
 眼は口ほどにものを言うのです。
○和顔悦色施(ワゲンエツジキセ)
 和やかさと笑みを含んだ相貌で相手と接することです。
 医師の穏やかな顔と接するだけで気持が落ち着いたり、孫の笑顔を見るだけで励まされたりします。
○言辞施(ゴンジセ)
 思いやりを含んだ言葉を相手へ届けることです。
「ありがとう」や「おかげさま」や「おたがいさま」が心を和ませ、勇気づけ、励まし、いのちの力を引き出すことは驚異的なほどです。
○身施(シンセ)
 身体を使って相手へ何かをさせてもらうことです。
 東日本大震災などで、みかえりを求めない珠玉の汗がどれだけ流されたことでしょうか。
○心施(シンセ)
 相手を思いやり、心配りをすることです。
 相手の立場や気持を思いやって心を配り、気を配るところから布施行は始まります。
○床座施(ショウザセ)
 相手へ座る所を提供することです。
 乗り物の席を譲る光景は例外なく美しいものです。
○房舎施(ボウシャセ)
 まず、来訪者を温かく迎えることが大切です。
 モノを渡さなくても、貸すことによって相手へ雨風をしのぐ場が提供できます。

 もしも、ベッドに横たわっていてすら、誰かへ穏やかな顔で和やかな言葉をかけられれば、それはまぎれもなく尊い布施行であり、一つの達成です。
 日々、「無財の七施」を心がけてみませんか。

2  「比丘の四法」

 付録として、せっかくの善行を台無しにしかねない〈人間関係の破壊〉から免れる方法を書いておきます。
 それは「比丘(ビク…男性の出家修行者)の四法」です。

○相手を非難しても、二度とは非難しない
○相手を怒っても、二度とは怒らない
○相手へ暴力的にふるまっても、二度とは暴力的にふるまわない
○相手の過失を暴いても、二度とは暴かない


 いずれも、そうしなければならない時、あるいは、そうしないではいられない時の心構えです。
 自他のために、誰かの過失を暴き、厳しく非難せねばならないならば、勇気をもってやらねばなりません。
 怒り、暴力的にふるまう必要性に迫られる場面からも逃げられません。
 自分と相手を救うだけでなく、悪行の害毒が広がるのを防ぐためです。

 もしも、自分に起こった感情を引きずり、繰り返すことによって相手へダメージを与えるところまで行けば、ことのスタート時には理があっても、最後は悪行(アクギョウ)に転じてしまいます。
 それは、人間関係を壊す行為になり、出家修行者の間で厳しく戒められていたことが理解できます。
 この戒めは、普通の社会人にとっても、必要な心がけであると思われます。

3 二の矢

 最後に、貪り・怒り・愚かさの三毒に陥らないための心構えである「二の矢の教え」について少々書いておきます。

 ある時、お釈迦様が弟子たちへ問いました。

「人間に生まれた以上、誰にでも喜怒哀楽がある。
 では、凡夫仏弟子とはどこが違うのか?」


 確かにそうです。
 お釈迦様は、いかに徳が高く、慈悲と智慧に満ち、法力に勝れていてもきっと、超然としてはいなかったことでしょう。
 周囲の人々が心の温かさを実感できたに違いなく、表情も豊かだったことでしょう。
 何しろ、観音様とお不動様が同居しておられたのです。
 ならば、喜怒哀楽が私たちとどう違うのか?
 弟子たちは誰も答が見つけられず、お釈迦様は、おもむろに説かれました。

「二つ目の矢を受けるか否かが違うのである」


 私たちは、外的刺激に対して、どうしても貪り、怒り、愚癡にたどりつきやすいのです。
 喜べば「もっと、もっと」とさらに欲しくなり、気に入らなければ「このやろう」と怒って排除したくなり、自分に利をもたらさなければ「知ったこっちゃない」と無視します。
 しかし、仏弟子は、快感に溺れず、不快感に左右されず、自己中心でなく周囲を観るので、因縁の糸を見失いません。
 こうありたいものです。




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2016
05.12

迷いなどを抱えていれば菩薩を目指せないか? ─仙台稲門会にて─

2016-05-12-0001.jpg
〈自然の花かご〉

 5月10日、仙台稲門会で「見捨てない心をつくる」というお話をしたところ、最後にご質問をいただいた。
「心に問題を抱えている人は菩薩(ボサツ)として生きられないのでしょうか?」
 菩薩とは、布施・持戒・忍辱(ニンニク)・精進・禅定(ゼンジョウ)・智慧の六波羅蜜(ロッパラミツ)行を成就しても、自分だけが安心の世界へ行ってしまわず、この世に現れてくださる存在であると話したからである。
 つまり、悟っても、悟りの浄土へ行ってしまわないのが菩薩なら、いろいろやらかし、悟っていない私たち凡夫菩薩として生きられないのではないか、ということだ。

 確かに地蔵菩薩も、観音菩薩も、迷い、苦しむ凡夫ではない。
 悟った者であるからこそ強大な救済力を発揮できる。

 では、迷いと苦しみに満ちたこの世に現れ、私たちの身近でお救いくださるとはどういうことだろう?
 現れたお地蔵様はいろいろなお姿をとる。
 経典は説く。
 
「仏身、菩薩身、辟支佛(ビャクシブツ)身、声聞(ショウモン)身、梵王(ボンノウ)身、帝釈(タイシャク)身、閻魔王(エンマオウ)身、毘沙門(ビシャモン)身」

 さまざまなみ仏や神様の姿となる。
 しかし、それだけではない。

「長者身、居士(コジ)身、宰官身、婦女身」
 
「薬草身、商人身、農人身」

「大地形、山王形、大海形」

 長者、信徒、役人、女性、草木、庶民、山や海などの大自然。
 まだまだあるが、これは文字どおり、救済を求める相手に必要な何ものにでもなってくださることを意味している。
 ならば、私たちも、欠陥や罪や愚かさなどを持ったままで、お地蔵様になり得る瞬間があるはずではなかろうか?

 だから、こんなふうにお答えした。

「そうですね。
 小生もたくさん欠陥を持っており、重々、自覚しています。
 しかし、それでも菩薩を目ざして修行し、法を結び、人生相談などを行っています。
 たとえば、小生と同じような欠陥に悩む方が来られると、その方の苦しみや辛さが我が身に沁みてよくわかります。
 手を取り合うような雰囲気で問題に対峙したりもします。
 だから、大切なのは問題意識ではないでしょうか?
 自分が凡夫であることを自覚した上で、菩薩を目ざす。
 そうして生きていれば、この身このままで、いつかきっと誰かの何かの役に立てる。
 その瞬間には、まぎれもなく菩薩になっているはずです。
 それを即身成仏(ソクシンジョウブツ)と言います。
 誰かへ心から優しい言葉をかけた瞬間、その人は生き仏として菩薩になっています。
 凡夫が救い、救われる道はここにあります。」




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2016
05.05

5月の守本尊は普賢菩薩様です ─菩薩に救われる道─

2016-05-05-0002.jpg

 5月5日から6月4日までは「立夏」と「小満」の皐月(サツキ)です。
 5月は巳(ミ)の月なので、守本尊普賢菩薩(フゲンボサツ)様です。

 普賢菩薩様は、『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、苦を解決し心の平穏を保つ智慧をつかさどるみ仏です。
 煩悩(ボンノウ)は、自分を迷わせ、他から邪魔される魔ものを呼び込み、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。
 正しい方法によって、煩悩を菩薩(ボサツ)の大欲(タイヨク)へ転換させ、自分と周囲を清め、よき運命の創造に障害となる魔ものを祓いましょう。

 また、普賢菩薩様は、辰己(タツ・ミ)年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあり、身体においては、主として腕や手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、心豊かで無事安全に過ごしましょう。

 以下は、普賢菩薩様を讃歎する経文です。

普賢菩薩は三摩地(メイソウ)の○境地に入って大悲(ダイヒ)から○普(アマネ)く衆生(シュジョウ)の救済を○願い行う菩薩にて○その方便(ハタラキ)の究竟(モクテキ)は○衆生(シュジョウ)の利益(シアワセ)実現す○慈悲の心の実践に○あるを信じてこの菩薩○ただ誠心(ヒタスラ)に帰依(キエ)をして○己(オノレ)の罪障(ザイショウ)懺悔(サンゲ)して○菩提(サトリ)求める心持ち○普賢の真言誦持(ジュジ)すべし」


普賢菩薩は深い瞑想の境地へ入り、無限のお慈悲からすべての生きとし生けるものの救済を願い、実践するみ仏である。
 最高の手だてが目的とするところは救い漏れのない慈悲の実践にあることを信じ、普賢菩薩へまごころこめて帰依し、自分の罪科を懺悔して悟りを求める心になり、普賢菩薩の真言を唱えて離すことなかれ)

 普賢菩薩は行者の象徴です。
 お釈迦様が過去世において、行者として実践された修行の数々を説くジャータカは、シビ王だった時代の逸話を伝えています。
 王は、盲目のバラモンを救うため、「一切を知る智慧の眼は、肉眼の百倍も千倍も好ましい」と言いつつ医師に自分の眼球を取り出させ、バラモンへ与えました。
 小生も心眼の実話を聞いたことがあります。
 ある町の職人は仕事も信仰も熱心でした。
 やがて名声が上がり、知らぬ人のない名人となりました。
 しかし、中年にさしかかる頃、目の病気にかかり失明しました。
 仕事ができなくなり苦しみましたが、祈るうちにだんだんと心眼が開け、不思議にも、眼前に置かれた画の内容までわかるようになったそうです。

 行者である菩薩の行う実践は畢竟(ヒッキョウ)、生きとし生けるものへ楽を与え、その苦を抜く慈悲行です。
 凡夫も他のためになる慈悲心はありますが、菩薩とは〈差し出せるものの範囲〉が違います。
 我々凡夫は、自分のできないレベルまで行える菩薩を心から敬わないではいられません。
 自分の目を差し出すほどの菩薩に心うたれ、自分にはできないながらもその崇高さの前に己を投げ出し敬わないではいられないのです。
 これが帰依(キエ)です。
 帰依を表現する具体的な方法が合掌であり、真言を唱えることです。
 これで心も身体も言葉も菩薩へ一歩、近づけます。
 「おん さんまや さとばん」と唱えつつ普賢菩薩の境地をめざせば、やがては数々の穢れや過ちをまとったままの自分が、菩薩の境地を自分なりのレベルで感じとれる時が来るかも知れません。
 それが即身成仏(ソクシンジョウブツ)であり、感じとられ、生き方が変わった時、自分も菩薩に近づき、普賢菩薩の救済が現実のものとなるのです。

21080819 010

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた普賢菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 5月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時、あるいは感謝したい時は、合掌して普賢菩薩様の真言(真実世界の言葉)を唱えましょう。
 たとえ一日一回の行でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 続けて行う回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

普賢菩薩(フゲンボサツ)

「おん さんまや さとばん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2015
09.05

好き好んでこの世に生まれてきたのではない(その2) ―与えられた宿命と運命の創造―

2015090200101

〈蔵王の麓から空心菜の差し入れをいただきました。感謝感謝です〉

 ブログ「好き好んでこの世に生まれてきたのではない」に関し、Aさんから貴重なご意見をいただきました。

「受け身の人生に対して、個人ではどうすることもできない、という一種諦めに似た印象を受けました。
 そして、それこそが『迷い』であり、『煩悩』であり、『輪廻』という終わりなき繰り返しなのだと思いました。」

 さらに、エーリッヒ・フロムの言葉も添えられていました。

「人間は輪廻転生の輪につながれているが、自分の実存状態を知り、正しい行為の八段階を歩むことによってこの決定論から自己を解放することができる。」

 おおよそ、「それでは因縁による決定論ではないか、人間の実存を観て、運命を創る道が説かれていないのではないか」というのがAさんのご指摘だろうと受け止めました。

 ブログを書く時に、結語的なお大師様の文章も付け加えておかないと誤解を生むのではないかと微かに怖れたとおりになりました。
 他にもこのような受け止め方をされた方がおられましたならまことに不本意であり、不注意と筆足らずを、心よりお詫び申しあげます。

 実は、「それ生は我が好むにあらず。~」というお大師様の文章は、仏教によって人間が覚醒に至る道筋を示して天皇へ差し出された『秘蔵宝鑰(ヒゾウホウヤク)』という論考における最も覚醒レベルの低い「異生羝羊心(イショウテイヨウシン)…性と食とにしか主たる関心のない状態」について書かれた一文です。

 これは凡夫のありのままの姿を描いたものであり、決して〈このままでよい〉わけではなく、決定論的に〈こうであり続けるしかない〉わけでもありません。
 まず、自分自身の姿を振り返り、生まれ、死ぬ繰り返しのありようを見つめなければならないと説くのは、お釈迦様もお大師様も同じです。
 「――そうだ……」と気づいた先にこそ、「どうすればよいか?」という煩悶や学習も、あるいは「そうなのか!」という発見や納得も生じます。
 そのことを、小生の文章にて「漫然と生きていれば、こうした循環を繰り返すだけ」と注意し、生まれたままで苦の巷に沈むだけでなく、感謝と報恩によって「六道から離れるきっかけをつかめます」とも書きました。
 底知れぬ過去を原因としていかに生まれたか、生まされてきたかということ、と、どう生きるかという意志の問題は別です。
 生まれてきたままで自己中心的な欲に流されて生きれば、死ぬまで生き方は変わらず、この世で苦の六道を経巡り、死後、何ものかとして転生した際も、同じパターンを繰り返すしかなくなります。

 だからこそ、業(ゴウ)と輪廻(リンネ)については、因果応報の理によって生じている世界の実態を観ることが大事であり、過去によって決定された姿でこの世に現れる宿命の峻厳さから目を背けるわけにはゆきません。
 私たちは必ず、性別・体質・気性など様々な面から〈特定された何者か〉としてこの世に登場するのです。
 ――否応なく。
 しかし、それは人生の序章であり、生まれ方と幼い時代の育ち方で人生全体や運命が決まるわけではありません。
 お釈迦様もお大師様も、機械的決定論や、神の意志による決定論を説いてはおられません。

 確かに、幼子の運命はほとんど、〈生まれ〉と〈育ち〉によって創られます。
 どんな特徴を持った子供として、どういう雰囲気の家で、どのように育てられたか、が運命を創ります。
 しかし、徐々に霊性が活発化し、自分という意識に支えられた意欲が身・口・意を動かすようになれば、〈自分の生き方〉が運命を創る主役になります。
 もちろん、〈生まれ〉と〈育ち〉は人生全体から排除できませんが、運命の創造において果たす役割の大きさは、〈自分の生き方〉に対して相対的に小さくなって行きます。
 霊性に導かれ、生まれと育ちの因縁を賢く生かすか、それとも漫然と欲の命ずるがままに生き、苦を抱えた者として生まれたままのありようでこの世を終えるかによって、天と地ほども隔たった運命になります。
 だから、真実を観て、よき心になり智慧と慈悲で生きる道筋を示す宗教や道徳が必要になります。
 菩薩に近づこうとし、徐々に救われる様子を、皆さんに身近な形で書いたのが最後の文章です。

「『ああ、ありがたい』『一人前になり、何としてもお報いせねば』の心を忘れなければ、きっと、六道から離れるきっかけをつかめます。
 自他を苦しめるものが薄皮を剥がすように少しづつ離れて行けば、自分が救われるだけでなく、周囲の人々もそうなるきっかけをつくることになります。
 感謝と報恩を忘れずに生きてゆきたいものです。」

 まず自分の至らなさに気づき、まっとうに生きよう、頑張ろう、という意志がなければ何も始まりません。
 そこで矮小な自分などを遥かに超えた存在に気づき、敬虔な気持になり、謙虚に頭を垂れます。
 そうして何かの努力を継続していると必ず、どこからか、何らかの手が差し伸べられ、ありがとうございますと感謝の心が生じます。
 これが、自分の努力、仏神のご加護、ご縁の援助という運命を創る三つの力すなわち三力(サンリキ)です。
 お大師様は、『大日経(ダイニチキョウ)』の示す三力によって、み仏の子そのものである生き方ができると説かれました。

 自力でやれる、と慢心してはなりません。
 すがろう、と頼るだけではなりません。
 仏神や大自然や社会や人間関係のありがたさを忘れ、恩知らずになってはなりません。
 だから当山ではいつも、三力の偈(ゲ)を唱えています。

「以我功徳力(イガクドクリキ)
 如来加持力(ニョライカジリキ)
 及以法界力(ギュウイホウカイリキ)
 普供養而住(フクヨウニジュウ)」


(我が功徳の力をもって、如来の加持力をもって、及び法界の力をもって、普き供養といたします)

 自分が自分のために祈るのではありません。
 いわば〈おかげさま〉のご恩とお救いのお力が広く皆さんへ行き渡りますように、と祈ります。
 その先にこそ、「異生羝羊心(イショウテイヨウシン)…性と食とにしか主たる関心のない状態」からの脱出があります。
 迷妄を抱えた者としてこの世へやってきた宿命をよく観て、繰り返しの恐ろしさに戦慄し、これではならないと問題意識を持って精進すれば、必ず、自分に具わっている霊性も、生きものたちや世界の尊さも感得できます。
 共に明るい運命の創造へと出発しようではありませんか。

 Aさん、まことにありがとうございました。合掌

(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4728.htmlも参照してください)




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2015
03.28

プラットホームと懺悔 ―佇む時の不思議な心理―

201503280001.jpg

 新幹線のプラットホームに立っていると、無性に懺悔(サンゲ)する気持になる。

 初めは、何がどうというわけでもない流離(リュウリ)の気分が起こる。
 島崎藤村が『椰子の実』で「実をとりて胸にあつれば新たなり流離のうれい」と書いたのはこのことなのかと、想像したりもする。
 乗客たちは来る人と行く人なのだが、なぜか皆、行く人と思える。
 一人残らず視界から去って行くせいなのか。
 それならば街角に立っても同じはずだが、そうはならない。

 やがて時間の流れがゆったりとしてくる。
 足早に去る人々の歩みは同じでも、立っている自分を包む時間は徐々にスピードを落とす。
 仙台駅の13番線にたどりつくまでは、どこか急(セ)いていたが、あとは列車の到着を待つだけ、となってしまえば、ただ、佇んでいるしかなくなる。
 急いている時と佇んでいる時とでは、時間の流れが違う。
 そう言えば、佇むという字の〈つくり〉は貯金の「貯」であり、そもそもは箱を表す。
 ならば佇む人は異時間の流れる異次元の箱に入った人なのかも知れない。

 聖者の遺体がなかなか腐らない例があることは、世界中で指摘されてきた。
 死ぬ前に異界の住人となっていれば、異界の影響を受けた遺体は、ゆっくりとした時間で形を変えるのかも知れない。
 かぐや姫はその反対である。
 神界の存在である姫が、あたかも時計の針が早回しされるようなこの世に来れば、忽ちに成長してしまう。
 ならば、佇む時、私たちは神界という異次元の箱に入ってしまうのか。

 この世から流離した心の眼は眺める人々の多様性をとらえるが、顔が丸く、長く、四角く見えると、〝不完全だ〟という感覚に陥る。
 背が高くても、低くても、身体が太っていても、痩せていても、同じである。
 こうした観方は明らかに、余計な分別(フンベツ)につかまっており、悟りから最も遠いパターンなのだろうが、凡夫なので仕方がない。
 そして、〝不完全感〟は我が身にも及ぶ。
 身から心にも及べば、行く先は一つしかない。
 不完全で愚かしい未完成の自分はこれまで、何をやってきたか……。
 あの件にも、この件にも始末をつけず、あの人を相手にして、この人を相手にして、どれだけの〈未完結〉を積み上げてきたか。
 そして、あるいは相手が冥界へ旅立ち、あるいは自分にお金や時間や体力などさまざまなものがな足りず、〈未完結〉はついに解消されない。
 ――もはや方法は残されていない。
 こうして行き詰まる時、自然に懺悔へと行き着く。
 
 懺悔といっても、イタリアの異才ブッツァーティの小説『この世の終わり』に出てくるような、天国へ生まれ変わるための告解(コクゲ)などではない。
 この世の終わりに際し、天国へ生まれ変わろうと聴罪司祭(チョウザイシサイ)を求める心とはまったく無関係だ。
 そうした目的など何もなく、ただただ、自分の愚かさを悔いずにはいられなくなる。
 ここでもまた、仏も神も登場せず、悟りとはほど遠い凡夫がいるのみである。

 しかし、電車の到着を予告するアナウンスが流れると、自然に、〈懺悔する異次元の箱〉が消える。
 去り行く人々も消え、視界は、自分と同じ目的でやってくる人々に埋め尽くされる。
 流離の気分も消える。
 車中の人となった時にはもう、東京で受ける伝授や修行へと心は切り替わっている。
 資料や本やボールペンが準備されれば、過去はどこにもなくなり、未来だけが待っている。

 プラットホーム懺悔はどこへ行ったのか?
 何の役に立ったのか、あるいは何の役にも立たなかったのか?
 わからないが、こんなことをいくたびも繰り返している。
 そして、日々、懺悔の文を唱えている。
「我れ昔より造りし所の諸(モロモロ)の悪業(アクゴウ)は皆な無始(ムシ)の貪瞋癡(トンジンチ)に由(よ)る身語意(シンゴイ)より生ずる所なり。
 一切(イッサイ)我れ今、皆な懺悔(サンゲ)したてまつる」




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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