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2016
07.05

願いのかけ方、成就の仕方 ─懺悔(サンゲ)と廻向(エコウ)─

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〈彼は彼なりの姿で……〉

 さまざまな方々が、それぞれに真剣な思いでご祈祷を申し込まれます。
 最近は、ご祈祷の前後に唱える経文を一緒にお唱えするよう、お勧めしています。

1 祈願菩薩道(ボサツドウ)

 前部にあるのは、懺悔(サンゲ)やご本尊様との約束などです。
 これまでの行いをすべて懺悔した上で、み仏を信じ、よき願いをかけるのです。

 後部にあるのは、廻向(エコウ)です。
 み仏をご供養し、よき願いをかけるという善行(ゼンギョウ)の功徳(クドク)を、有縁無縁(ウエンムエン)の生きとし生けるものへふり向け、自分が一歩でもよき人生を歩めるようになると同時に、この世もまた一歩でもよき世の中になり、自分以外の生きとし生けるものにも生きる喜びが生まれるよう祈るのです。

 これは、2500年の歴史をかけて仏教がたどり着いた菩薩道(ボサツドウ)としての仏教に縁を結ぶ人々にとって必要不可欠の行為であり、この精神あればそこ、よき願いの成就が確かなものになるからです。
 その精神とは、自利(ジリ)、利他(リタ)、両方の実現を祈りつつ、よき生き方を目ざす心です。

2 自利利他

 自利とは、自分のためになることです。
 自分がしっかりしていなければ、誰かのためにはなかなか、なれません。
 もちろん、それは、いろいろなものに恵まれていることを意味しているのはありません。
 心のライフセーバーにならなければ、心の救済はできず、すべての救済は畢竟(ヒッキョウ)、心の救済だからです。

 たとえば、病状が悪化して先の短い方と、こんなやりとりをします。
「住職さんが拝んでいてくれると言うのだから、もう、心配はなくなりました。
 必ず、お不動さんが護ってくれますね」
「そうですか、大丈夫ですよ。
 私もそのうちに行きますからね」
 
 これは、心のありよう一つで、誰にでもできるのです。
 たとえば、逝く人へ感謝し、逝く人も感謝すれば、そこには尊い思いやりのやりとりがあり、互いの救済があります。
 余分なものを取り去って心からありがとうと言えるのは、自分がよき心になり、自分が救われている状態です。
 その誠心が相手に伝われば、心のライフセーバーとして相手を救う大きな力になり得ます。

 利他とは、自分以外の誰かのためになることです。
 皆でよくなろうという心がなければ、どんな願いにも穢れがつきまとっており、真によき願いとは言えません。
 これまた、いろいろなものに恵まれていることを意味しているのはありません。
 お金や地位や知力や体力がなければ、誰かのためになれないわけではないのです。

 たとえば、受験の合格祈願に来られる方と、こんなやりとりをします。
「すばらしいチャレンジですね。
 ところで、合格したら何をやるつもりですか?」
「日本では簡単に克服できるいろいろな病気によって、世界中のあちこちで、子供たちが簡単に死んでしまいます。
 そうした子供たちを救いたいのです」

 こうした利他の志を持った方ならば、首尾よく合格すれば目標へ早く進めるのはもちろん、もし、失敗したとしても、志に即した別の方法を見つけ出して、進めることでしょう。
 合格した途端に遊びまくったり、資格を得て高慢になったりはしないはずです。
 また、受験に失敗したからといって、浮き草のようになるはずもありません。
 他のためになろうとするよき意思は、必ず自分自身をも救う力を持っているのです。

3 確かな救い

 だから、懺悔(サンゲ)ではこう唱えます。(一部です)
「無始よりこのかた
 貪瞋癡 (トンジンチ)の煩悩(ボンノウ)に まつわれて
 身と口と意(ココロ)とに造るところの
 もろもろのつみとがを、
 みなことごとく懺悔(サンゲ)し奉る」
(無限の過去から
 貪り、怒り、愚かさによって積み上げてきた
 さまざまな罪科を
 すべて懺悔いたします)

 廻向(エコウ)ではこう唱えます。(一部です)
「願わくば此の功徳(クドク)を以(モッ)て
 普(アマネ)く一切に及ぼし、
 我れ等と衆生(シュジョウ)と皆共に
 仏道を成(ジョウ)ぜん」
(ねがわくばこの功徳の力を
 広く生きとし生けるものへ及ぼし
 自分自身と生きとし生けるものとすべて一緒になり
 仏道の成就ができますように)

 そして皆さんは、ご来山された時よりも必ずいくばくか、よき心になって帰られます。
 顔に輝きが出て、言葉にも力がこもっており、すでに、ご加護はあるのです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
06.30

行者の精進、ご縁の方々の救い ─自利と利他に思う─

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広島の平和記念資料館にある被曝人形。もうすぐ撤去される予定だという。今のうちに、脳裏へ刻みつけておきたい。戦争が何であるか、原爆が何であるか。その身震いする実感が払拭された時、平和は言葉だけになってしまうことだろう〉

 27日から282日かけて、新幹線で東京へ行き、当日夜そのまま広島へ、そして翌日、平和記念公園へ出向き、同じく新幹線で帰山した。
 片道約6時間、往復12時間は得難い時間となった。
 大正大学仏教学科編による「仏教とは何か その思想を検証する」が通読できた。
 ほとんど知っていたはずの思想史の基礎だが、今回、集中して読んでみたところ、思いもよらない発見があった。

 あまりにもあたりまえだが、お釈迦様が得られた一切智(イッサイチ)は深遠にして広大であること。
 そして、祖師となられた方々は皆、自分自身が納得を得た後、娑婆の方々の救済法に工夫をこらしたことである。
 これもまた当然だが、プロは娑婆の方々のお支えにより、非生産的日々で道を探求するが、娑婆の方々はそうはゆかない。
 しかし、はたらき、家族を養い、家庭とお墓を守るといった普通の日常生活をして営んでいる方々が救われなければ、宗教の価値はない。
 だから祖師方は、呻きつつ自らの問題に挑み、高度な修行を続けて何かをつかんだ後、今度は、娑婆の方々が自分と同じように救われる方法の発見へ挑まねばならなかった。

 自利(ジリ)、利他(リタ)と簡単に言うが、自らが苦悩を脱する自利の道はもちろん、真剣に考えた利他の道もまた、イバラの道だった。
 しかし、どの道もすべての手がかりは経典にあり、お釈迦様が実際に悟られた境地への憧憬が不退転のエネルギーをもたらした。
 インド仏教の完成形であり、インドにおける〈最後の仏教〉となった密教においてもまた、自利のための修行・修法が高度化したため、利他の方法もまた深く考慮されてきた。
 それは、お釈迦様が終生、続けられた対機説法(タイキセッポウ…相手に応じた説き方)の伝統によって、役割を果たすことである。
 マンダラの思想をふまえ、小乗仏教、大乗仏教すべてを学び、他の宗教宗派と一切、争わずそれぞれのレベルを尊重する密教においては、相手を尊重し相手に合わせることは極めて自然な姿勢である。

 象徴的な例が、淳和天皇(ジュンナテンノウ)の第四妃となった真井御前(マナイゴゼン)の逸話である。
 御前は過酷な宮中の人間関係に耐えられず、西宮の摩尼峰に神呪寺を立てて出家し、如意尼(ニョイニ)となった。
 お大師様を深く信じ、伝授された高度な修行を重ねたが、なかなか悟りへ達しない。
 苦悩する如意尼のため、お大師様は桜の樹で如意輪観音(ニョイリンカンノン)像を彫り、真言の読誦を指導された。
 やがて病気になった如意尼は、お大師様が入定(ニュウジョウ…瞑想に入ったままこの世を去ること)される前日、高野山へ向かい、真言を唱えながら遷化(センゲ)した。

 このできごとは、実に大きな意味を持っている。
 広大な修行や修法の体系はプロにとって死ぬまで探求せねばならないものだが、寺院へ救いを求める方にとっては、その方が救われる実戦可能な方法が授かるかどうかがすべてである。
 その方に応じた方法や考え方を選び、お伝えすることができるかどうか。
 行者が本ものであるかどうかが、ここで問われる。
 祈りはすべて身体と言葉と心が用いられるとは言え、如意尼の場合は、唱える言葉への集中が霧を払う突破口になった。
 隠形流(オンギョウリュウ)居合の場合には、剣を持ち身体を大きく動かしながらご本尊様の印を作るところに突破口を求める。
 気合術では、言葉への集中が主である。
 そして阿字観(アジカン)は、観想という心の用い方を主とする突破口と言える。

 行者は、自分が何らかの方法で突破口を開いたように、ご縁の方々が先へ進めるよう、全力を尽くす。
 また、自分自身ではなかなか実践できない方々のために、その方に成り代わってご加護をいただけるよう、ご祈祷やご加持やご供養などを行う。
 ご本尊様がおられる寺院には救いのきっかけがある。
 何かを感じとっただけでもいい。
 そして、ご本尊様をお祀りする寺院のミニチュア版であるお仏壇にもまた、救いのきっかけがある。
 ご本尊様に守られた墓地や墓所にもまた、救いのきっかけが見つかることだろう。
 信じて手を合わせ、足を運んでいただきたい。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2016
06.01

利他と対話と討論の不毛 ─6月の聖語─

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 お大師様は説かれました。

菩薩(ボサツ)が心を用いる際は、すべて慈悲により、他者の幸せを先にしている」

 原文です。

菩薩(ボサツ)の用心は、みな慈悲をもって本(モトイ)とし、利他(リタ)をもって先とす」


 仏教に関する論書には、論理や道理や信念から他の宗教や思想を論破する形になっているものも少なくありません。
 お大師様が密教思想の集大成として書かれた「秘蔵宝鑰(ヒゾウホウヤク)」もまた、宗教や思想を鮮やかに分類し、一種のランク付けを行っています。
 しかし、よく読んでみると、決して他を貶め誹謗中傷するものではなく、それぞれのレベルなりに救われ、視線を上げて高みを目ざす道を必ず示しています。
 この一文は、そのあたりの事情を明確にしたものです。
 他者のありようを見つめ、そこに問題点を見つけるのは、自分のプライドや高慢心を満足させるためではありません。

 さて、今は「討論」が盛んです。
 討論めいた他者のこき下ろし番組も喝采を浴びたりします。
 声高(コワダカ)に相手の言葉を遮り、断定的なもの言いで黙らせるといった無礼で浅はかな姿勢がおもしろがられ、思惟をもって生きる学者ですら、お笑い芸人めいた態度をとって恥じることはなくなりました。
 国会で飛び交う日本語は、攻撃、はぐらかし、反撃、の繰り返しに終始しています。
 一方、「対話」はどうでしょう。
 形だけのものが多くはないでしょうか?
 それは利他の問題にからんだ現象であると想われます。

 討論には必ず勝者と敗者があって、勝者が称賛されて終わり。
 しかし、対話はあくまでも対等な者同士の平等なやりとりです。
 自説を述べるのと同じ態度で相手の説に耳を傾けねば対話は成り立ちません。
 必ず相手に対する無言の敬意を前提としており、そこに勝ち負けはなく、両者は、自分のレベルを少しでも越えた何かを共に求める同志です。
 対話において、自分が〈高み〉を欲することは、相手が自分より少しでも〈高み〉にあること、もしくは共に〈高み〉を目ざすことを意味します。
 敬意と謙虚さを持った者同士でなければ、真の対話は成り立ちません。

 ある時、短い沈黙をはさみ、家具職人Aさんは漏らされました。
「作品を評価してもらいたいのではありません。
 どこかの寺院の奧にひっそりとしまわれ、何百年か先に発見され、わかってもらえたらいい、そんな感じです」
 Aさんの日々を想う時、自分の小さな行動も価値あるものでありたい、という密かな願いを禁じ得ません。

 対話は相手が人間とは限りません。
 ジョバンニ・ミラバッシのピアノソロ『アヴァンティ』の「クーデター直前のアウグスト・ピノチェト」は、たおやかな旋律で人間の哀しみを教えて尽きません。
 同じく「コンゴのチェ・ゲバラ」は、禍々しい音で破壊的創造者の英雄性や死の匂いを突きつけてきます。
 ふとしたおりに、脳内で再生されるそれらは、背筋を伸ばさせ、思考の泉となります。
 ミラバッシからの問いかけは尽きず、こちらの心からの応答もまた、途切れません。

 利他と対話について考えることは、現代的〈討論〉の喧騒に流されないために必要であると思われます。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
05.24

誰かのためになること、向上心を捨てないこと ─慈悲心と勝義心について─

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 私たちは、何かに対して一生懸命になります。
 その目的はほとんど、二つに集約されるのではないでしょうか。
 一つは、生きるため、もう一つは、おもしろいから。
 おおざっぱに、「仕事」と「趣味」と言えるかも知れません。

 しかし、お大師様は説かれました。

菩薩(ボサツ)の用心は、みな慈悲をもって本(モトイ)とし、利他(リタ)をもって先とす。
 よくこの心に住して浅執(センシュウ)を破して深教(ジンキョウ)に入(イ)るるは、利益(リヤク)最も広し」


菩薩が心を用いる際は、すべて慈悲により、他者の幸せを先にする。
 私たちもしっかりとこの心になり、浅はかな執着心を克服し、深い教えに入るならば、最も大きな幸せを得られる)

 お地蔵様や観音様や虚空蔵様は、すべてお慈悲を本体とし、その活動は自分の悟りのためではなく、誰かの苦しみを除き、誰かに幸せをもたらすことを第一にしておられます。
 オスカー・ワイルドの童話『幸せな王子』はその物語です。
 お像として立っている王子様は、困っている人々のため、ツバメに頼んで、自分の身体に埋め込まれている宝石を次々に与え、とうとう何もなくなります。
 そして、宝石を運んでいたツバメは冬が来て凍え死に、悲しみに心臓が弾けた王子様の像も美しさを失い、町の人々に溶かされてしまいます。
 しかし、心臓だけはどうしても溶けず、ツバメの屍体と共に捨てられました。
 やがて、神様から「この町で最も美しいもの」を持ってくるように命ぜられた天使が選んだのは王子の心臓とツバメでした。
 王子とツバメはその後、天国で幸せに暮らしたのです。

 このように、一生懸命になるもう一つのやり方があります。
 それは誰かのためになる菩薩の道です。
 私たちは、欲しがっていた何かを得れば嬉しいけれど、誰かのためになった時の充足感や満足感や清涼感には格別なものがあります。
 まして、感謝の言葉などが返ってくれば、本当によかったという思いが心の底から起こってきます。

 ところで、この教えが説かれた当時、仏教各派の間で激しい論争が行われ、相手を論破しようとするだけでなく、誹謗するような面もありました。
 お大師様はその風潮に対し、冒頭の教えを説かれただけでなく、続けてこう諭しておられます。

「若(モ)し名利(ミョウリ)の心を挟みて浅教(センキョウ)に執し、深法(ジンポウ)を破すれば斯(ソ)の尤(トガ)を免れず」


(もし、自分の名を上げたいなどの自利をもくろみ、浅はかな教えに執着して深い仏法を破るような行為をなすならば、その咎めは免れない)

 この文章は冒頭の文章ほど気にとめられないようですが、極めて重要な教えです。
 ある教えや考え方に強い執着心を持ち、それがあれば何でも論破できそうな気がして他の教えや考え方を叩き、それでこと足れりとしてはなりません。
 そもそも、わからないから学び始めたはずであり、学べば学ぶほど自分の思考など所詮、底が浅いという実感が起こり、謙虚になるものです。
 そこで自分自身を客観的に見る視点が身につけば、より高いもの、深いもの、優れたものとの出会いに気づき、向上できます。
 これを勝義心(ショウギシン)と言います。

 勝義心は、冒頭の文章で説く〈利他の心〉がある限り、揺るぎません。
 介護士であれ、タクシードライバーであれ、植木屋であれ、お客様のためになろうとすれば、向上心を捨てられるはずがないではありませんか。
 しかし、楽をするためにうまくやろうと自利を求め始めれば、真の向上心はあっと言う間になくなってしまいます。
 あるいは政治家が自己主張を第一として、真摯な対話や説明や論議を避けるならば、政治は堕落します。
 もちろん、こうした利他だけでは王子様のようになりかねないので、すっかり〈生き仏〉になりきってしまうことはできません。
 それでもなお、お大師様の教えを心のどこかにしまっておけば、どうにかまっとうさを失わずに役割を果たせるのではないでしょうか。

 利他を忘れないこと。
 向上心を捨てないこと。
 この「慈悲心」と「勝義心」はセットです。
 しっかり生きたいものです。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2014
07.04

知力と情緒で〈真の人間〉になろう ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(40)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

1 無限の利他

知力に感情が伴えば、無限の利他へとつながる

「自然現象の必然というものがある。
 その極みが肉体の死であろう。」


 もしも、「どうしても避けられないものを、たった一つに絞って挙げなさい」と言われたなら、多くの方々が「死」を選ぶのではなかろうか。
 私たちは、動物としては生まれながらに〈人〉だが、精神的には、成長しつつ、だんだんに人間らしくなる。
 知恵がはたらくようになり、情緒が豊かになるからである。
 さらに、霊性をきちんとはたらかせつつ生きるためには、人の道を学ばねばならない。
 だから、慈雲尊者は、行うべきことと、行ってはならぬことをきちんと分けて考え、行動するのが〈人になる方法〉であると説き、「人となる道」を著した。
 しかし、私たちの肉体は、精子と卵子が出会った瞬間から、死へ向かって歩み始めている。
 まさにモノの世界における必然であり、精神の世界における宿命である。
 アジソンは言った。
「人間の一生は、ちょうど橋のようなものだ。
 生から死へかかっている橋、その橋を一歩一歩渡ってゆくのが人生だ」

 ビクトル・ユーゴーは言った。
「人間は死刑を宣告されている囚人だ。
 ただ、無期執行猶予なのだ


「その不可避な死を恐れおののかずに迎えるには、人間の知と心のどちらが有効だろうか。
 人間は肉体を内部から知と心によって支えている。」


 私たちの脳には、魚のように、とにかく呼吸や心拍を続けようと、生命維持に懸命な脳幹がある。
 そして、爬虫類のように、本能や縄張り意識などで動く大脳辺縁系がある。
 さらに、ネズミやモグラのように、情動を司り、うまく立ちはたらこうとする大脳旧皮質がある。
 これらがある以上、私たちは必ず死を恐れ、死を避ける行動に動く。
 こうしたワニやネズミの脳のはたらきをコントロールするのが、ほ乳類の大脳新皮質である。
 人間らしい知や心は、死の恐怖へ立ち向かう。

「したがって、この両者の結合にこそ意味がある。
 どちらが優位にあるか、どちらがより大きな影響を及ぼすか、どちらがより人生の節目を決定する力を有するか、そうした問いに答えることは不可能に近い。」


 知力情緒があいまって、過たず、生きがいのある生活が可能になる。
 どちらがより、私たちを幸福にし、どちらがより、不幸にするかはわからない。

「いかなる知、即ち知力、知識、学識なども、心の働きの助けなしには機能しない。
 知の助けなしに心は動かない。
 心がこもらない知によっては、何を行おうと有効にものごとを成し遂げることはできない。
 と同時に、知に支えられない心は狭くなる。
 このように知と心は、ともに助け合いながら働くべきものなのだ。」


 理性が強すぎると、冷たい人になりかねない。
 感情が強すぎると、ばかな人になりかねない。
 信頼される人格者は必ず、冷たくないし、ばかでもない。

「たとえば、心だけならどうだろうか。
 心に生まれる感情は、多くの場合、あまり芳しからざる働きをする。
 心だけでは、ときとして善からぬ働きをすることがある。
 理性とも知力とも無縁で働く場合がそうだ。
 たとえば、憎しみである。
 憎悪もまた心の所産である。
 たとえば、執着といった感情である。
 愛着が執着になったなら、これは悪しき感情の働きだと言わねばならない。
 したがって、心がこもればすべて善いというわけではない。」


『中阿含経』は説く。
「実のごとく苦の本を知るとは、いわく、現在の愛着(アイジャク)の心は、未来の身と欲とを受け、その身と欲とのために、さらに種々の苦果(クカ)を求むるなるを知る」
 執着すなわち、空の真理を知らず、囚われてもいたしかたのないものに囚われ、自ら苦を生じてしまう。
 執着心と苦との絡み合いが解け去らない限り、地獄界や修羅界など、苦の世界における輪廻転生(リンネテンショウ)から抜けられない。
 私たちは、輪廻転生の中で、戦争に苦しんできた。
 しかし、戦争のない時も又、苦しんできたのである。
 知力情緒も、持ち合わせていながら……。

「心は感情の生まれるところである。
 感情といえども、けっして悪しき心の働きだとは言い切れない。
 仏陀自身も激しい感情の持ち主であったはずだ。
 仏陀の説く無限の利他は、理性の基盤の上に、たっぷりと感情がこめられている。
 知力に感情が伴えば、利他の精神はより強められるということだ。
 仏陀は利他を強力な感情だと説かれたと理解したいぐらいである。」


 要は、思いやりを持ち、人の道を学ぶことに尽きる。
 そして、大事に際しては、いかに腹を決めるかである。
 み仏の表情は静かだ。
 しかし、決して冷たくはない。
 手を合わせると無性に懐かしさに似た感謝の感情が起こったりする。
 故郷や親のような無条件に受け容れるお慈悲がそうさせるのだろう。
 み仏には、みじんも揺るぎは感じられない。
 もちろん、迷いもまったく感じられない。
 み仏を慕い、み仏に憧れて合掌を繰り返し、知力、情緒を怠らず、向上させたい。
 そうすれば、きっと、利他の思いが深まることだろう。




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