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2014
03.09

他人様を簡単に「切る」のはいかがなものでしょうか? ─お釈迦様は「口に斧がある」と説かれた─

001 (3)2
〈『兎野仙哉君』新バージョン2〉

201403090042.jpg
寺子屋『法楽館』では、活発なご質問などがあり、『四苦八苦の克服』についてのお話の後半は来月に持ち越しました。〉

 他人様の欠点(と思われるもの)をより強く、より激しく、より情け容赦なく、あげつらい、罵倒(バトウ)する場面がテレビの画面に溢れています。
 それも、麗々しく着飾った妙齢の美女(に仕立てあげられている人)が、柳眉を逆立て、あるいは冷血そのものに、いぎたなく他人様の人格や人生を〈切り〉、周囲がはやし立てる。
 こうした番組もあるのは、ある意味で社会が健全である証拠でしょうが、安易で無礼なこうした番組があまりに流行りすぎるのには、少なからぬ問題がありそうに思えてなりません。
 笑いながら受け流し、あるいは視聴者が面白がりそうな範囲で怒りながら反論し、またやられてしまう〈切られ役〉は、ギャラをもらう立場なので、うまく場面に溶け込み、シャンシャンとなりますが、現実は決して画面で見たとおりにはなりません。
 そして、大きな問題は、私たちの心が、見聞きするものによってはたらきかたを変化させるという事実にあります。

 もしも、ああすれば面白いと感じた子供が、同じような場面を教室でつくり出したならば、相手は気持が痛めつけられ、目に見えない血が流れます。
 表面的にはどうあれ、怒り、怨みも抱きます。
 決して、テレビの画面のように笑って受け流すだけで終わりにはなりません。
 決して、テレビの画面のように怒りがその場で収まってしまいはしません。
 決して、罵倒した子供の人格は向上しません。
 必ず、罵倒した子供の性格に曲がりが生じ、誰かの罵倒に耐えにくい心ができてゆきます。
 必ず、罵倒された子供の心に悲しみや、悔しさや、怒りや怨みや復讐心が澱のように溜まります。

 だから、お釈迦様は、「人は生まれながらにして、口に斧を持っているようなものだ」と説かれました。
 それで自他の心を切ってしまう愚かさに早く気づき、無用の血を流さぬようにしよう、それがこの世の〈苦〉をなくす方法であると教えられたのです。
 この世の苦をまぎらすべく作られたテレビの娯楽番組が、苦を忘れさせるひとときをもたらすだけでなく、新たな苦に結びつく心を育てている危険性があります。
 いかにおいしいフグも食べ過ぎれば、知らぬ間に身体を痛めつけ、まれに、死にも至るのです。

 故葦津珍彦(アシズウズヒコ)師は、不朽の名著『武士道』において、幕末の三舟(サンシュウ)と並び称された傑物、高橋泥舟(デイシュウ)、山岡鉄舟(テッシュウ)、勝海舟(カイシュウ)に関する逸話を紹介しています。

「宮内省(クナイショウ)が、維新のさいの進退功績についての調査をした。
 関係者は、それぞれに自己宣伝の調査書を出した。
 三舟は、一同にがにがしく思っていた。

 それで泥舟はたびたび催促されても文書を提出せず、出頭を命ぜられても行かない。
 鉄舟は、明治天皇の側近にも仕えた立場だし、宮内省から命ぜられたので出頭したが、文書は出さず、いろいろただされたが『一切失念してしまった』とだけ答えた。
 帰りにただ一語『調査するなら、うそは書き残さぬがいい』と警告していった。
 海舟は『おれは詳細、明確に、ありていに書いて出した』という。
 明治の功臣連中が、いつわりの自己宣伝な調査報告をするのを、にがにがしく思っていた心は同じである。
 だがその心の表現方法はまったくちがう。

 形からいえば、泥舟が徹底拒否だから、形だけで評すれば第一と思うかもしれない。
 しかし三人は三様、それぞれに立場条件がちがう。
 鉄舟は、泥舟とは異なり、君側奉仕の立場にあったのだし、宮内省へ出頭したのが当然だ。
 海舟は、旧幕から維新へかけての政治軍事の機密に関与したことが多く機密の事情に通じている。
 明確に立言することが、かれの立場としては、真実を確かめ、虚偽を排するにもっとも有効だと信じたのだろう。

 虚偽の功名をさげすみ、真実を尚ぶということが大切なのであって、その心をどう表明するか、それは三人の立場、因縁、性格、能力などによって、その形は、異なるのが当然。
 その条件を見ないで、形だけで優劣等差を論ずるのは当たらない。
 本心本意のままに動いたとすれば、その形は異なっても、そこに優劣はない。」


 この文章は、「武士としての人間的価値は泥舟第一、鉄舟これにつぎ、海舟もっとも劣る」という世間の評判について訊かれ、答えられた一場面です。
 事程左様(コトホドサヨウ)に、他人様の人生についての判断や評価は難しいものです。

 古人は「人の振り見て我が振り直せ」と言いました。
 他人の行いを批判するのはたやすいが、そんなことに精を出すよりも、「これはよくないな」と思った問題点が自分にもありはしないかどうか、我が身をふり返ってみようというのです。
 私たちの周囲を眺めてみましょう。
 他人を責める人ことに比重をかけている人と、我が身を省みることに比重をかけている人と、どちらが〈人格者〉でしょうか?
 どちらの方と、より長く、おつきあいしたいでしょうか?
 そして、私たちの本心は、どちらのタイプになりたいのでしょうか?
 見聞きするものに毒されないよう、子供たちを毒から守るよう、気をつけたいものです。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
03.04

なぜ、「自分の心をありのままに知る」ことが悟りなのか? ─書道・写経教室にて─

20140305013のコピー

 高橋香温先生の書道教室では、『大日経』における「三句の法門」の他に、「如実知自心(ニョジツチジシン)」の文字も稽古を始めました。
 読み下し文にすると「如実に自心を知る」となります。
 この言葉も『大日経』にある決定的な経文の一部です。
「云何(イカン)が菩提(ボダイ)とならば、いわく、実の如く自心を知るなり」
 菩提(ボダイ)すなわち、悟りが何であるかと問うならば、自分の心をありのままに知ることであると説かれています。

 なぜ、そうなるか?
 難しい教理はさておき、仏神の前で恥ずかしくない心、それの命ずるところに自分自身のすべてをかけられる心、といったものをつかめば、迷いはなくなるということではないでしょうか。
 それを良心と言い、仏心と言い、神の声と言い、霊性と言ってもよいでしょう。

 勇猛な武将として名高い後藤又兵衛基次(モトツグ)は、豊臣方で大阪夏の陣を迎えました。
 もはや天下の大勢は決し、豊臣の滅亡は避けられません。
 又兵衛を惜しんだ徳川家康は、播磨の国を任せるという条件をつけて、寝返るよう誘ったとされています。
 還暦を前にし、絶対的に信じて付き随う大勢の部下たちを抱えていながら、又兵衛は断ります。
「武士の義を捨てるわけにはゆかぬ」

 勝海舟は、徳川慶喜が日本国を守るため、薩長との戦に終止符を打ち徹底恭順でゆくという決断を受けました。
 その決断を賢明であると判断した勝海舟は粘り強く交渉を重ね、ついに江戸城の無血開城にこぎつけました。
 さまざまな議論や闘争があっても、開城が武士道にかなうと確信している勝海舟はまったく動じませんでした。
武士道には形もあれば心もある。
 形は心の発動だ。
 その精神さえ一定不変であれば、形は臨機応変なものだ。」

 後藤又兵衛も、勝海舟もきっと、一点の曇りもない心に従って行動したのでしょう。
 功利とも名利とも無縁なのはもちろん、生きるか死ぬかということも第一としてはいません。
 生きようと死のうと、曇りのない心はその輝きを失いません。
 現に今、こうやって、文章を書く私の心にも強く響いてきています。

 真剣に、真剣に、自分の全てをかけ切って悔いのないものを見つけようとする過程において、心の曇りは徐々に消え、満月のような清らかで不動の光が差し始めるのです。
「昼飯はあの店のラーメンにしよう」、「今夜は彼女とデーとしよう」といった表面で千変万化する心だけで漫然と生きることなく、「自分の心をありのままに知る」まで精進を続けたいものです。




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2012
03.15

悲しみ、憂い、そして思いやり ─白居易(ハッキョイ)と芥川龍之介─

 私たちが最も嫌なことの一つである「知られたくない過去を暴(アバ)く」という問題について「三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第十五回)」へ書きました。
 この教えは、公衆の面前でそうした行為に遭った際の心構えなのですが、自分のあるべき姿勢を考えていて、つい、相手の心も考えてしまいました。
 相手とは、平気で誰かの弱点を衝くタイプの人です。
 これまでの人生で出会った何人かを思い出すと、怨みではなく悲しみが湧いてきました。
 当時は憎々しいと感じた顔がもはや、翳(カス)みかけています。
「あの人たちは今も、糸のように続く人生を静かに染めている根源的悲しみを知らないままなのだろうか……」

 詩人白居易(ハッキョイ)は詠みました。

「君看(ミ)よや双眼(ソウガン)の色、語らざれば憂いなきに似たり」


 これは、目の前にいない友への語りかけです。
 そしてこの場合の憂いは、悲しさや淋しさが行き着くところまで行った先の茫漠(ボウバク)とした憂いであり、それは、根源的悲しさ、根源的淋しさと通底しています。
(君よ、私の瞳に浮かんでいる憂いが見えるかい。
 私が憂いていると口にしなければ、それは見えないかも知れないけれども、私には、君が抱いている憂いと同じものが確かにあるのだよ)
 白居易は、孤独のさなかに友を思い出しています。

「琴詩酒(キンシシュ)の伴(トモ)はみなわれを抛(ナゲウ)ち、雪月花(セツゲツカ)の時もっとも君を憶(オモ)う」


(琴を鳴らし、詩を詠み、酒を酌み交わす友人たちは皆、私のもとを去ったが、孤独のうちに自然の移り変わりを眺めて友としている時、今こそ、君が思い出されてならない)
 興ずる時の友も確かに友ですが、憂いの中にあって会いたいと思わせる友は、もう一段深い友なのでしょう。

 友といえば、勝海舟

「得意淡然、失意泰然」


が思い浮かびます。
 心中、得意な時は〈さらり〉と構え、失意の時は〈ゆったり〉と構えるという、いかにも剣の達人らしい言葉です。
 自分が失意の中にある時、同じく失意の中にあって泰然としている友、あるいは失意を体験してこちらの失意を忖度してくれる友は、本当に、この世のどこかに〈いてくれる〉だけで救いになるものです。

 私が白居易の一句を知ったのは芥川龍之介の『羅生門』を古本で読んだ時です。
 その題詞として掲げられていた「君看双眼色 不語似無愁」は長く心にかかっていましたが、後になってようやく理解できました。
 天才芥川龍之介の文章は鋭く人生の深淵を覗かせます。
 しかし、決して突き落とさず、文体にはどこかホッとさせるものが含まれています。
 それは、無常という無情でもある真理をはっきりと指摘しながら、必ずお救いくださるみ仏の姿勢と似ています。
 きっと題詞は、み仏の御眼を指しています。
「み仏の瞳にはちっとも憂いの色が浮かんでいないからといって、み仏に憂いがないのではない。
 み仏は衆生の憂いを我が憂いとされているので、お心の底には深く高く衆生の憂いが積まれていることだろう。
 だからこそ、み仏は悲しみと慈しみをもって私たちへ接してくださる。
 穏やかな表情で、憂いに満ちた人生を送る私たちをお救いくださる。
 よく見てご覧。
 私たちが淋しくて、悲しくて流す涙が、御眼の光に含まれているのだよ。
 憂いを語らず瞳にも見せはしないけれど、大きな憂いがあればこその大慈悲であることを知らねばならない」

 琉球大学に、「芥川龍之介『支那併記』研究(下)という興味深い研究があります。(http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/22293/1/No78p001.pdf)
 その一節です。

「肉体的に坤吟する中での執筆でも軽妙な味わいの雰囲気で読者を軽い笑いの世界に誘い込む筆致は、芥川龍之介本来のもので『羅生門』の題詞に掲げた『君看双眼色/不語似無愁』の五言対句が、彼の文学営為活動に規制を加えたと言えるかも知れない」


 芥川龍之介は高熱をおしても執筆活動を続け、そうした時期の作品にすら軽妙な味わいを欠かさなかったのは、この句が彼の心に深く関わっていたのではないかというのです。
 とても納得できる見解です。

 私たちは、悲しい時、淋しい時、ずっとこのままでいたいとは決して思いません。
 どうにかして脱したい。
 しかし、いくら前向きになろうとしても、悲しさや淋しさは錘(オモリ)のように心をつかみ、前へ進ませてくれない。
 こうした方々とお会いしながら日々を過ごしていると、悲しさや淋しさがいつしか皆さんの心を清め、皆さんの眼にはこれまでになかった色が浮かび始めているのに気づかされることがあります。
 ──悲しさや淋しさこそ、魂を磨くのではないか。
 ──投げやりにならず、真剣に耐えているうちに〈憂いなきに似たり〉といった境地へ進んでおられるのではないか。
 ──以前とは違ったタイプの〈思いやる心〉が育っておられるのではないか。
 悲しさの底まで降り、淋しさの底まで降り、憂いの底まで降りていつしか目線を上げ、光の方向へ歩み出した人には、み仏の世界に通じる真の思いやりが温かくはたらき始めておられるのではないでしょうか。

 こう考えてみると、平気で誰かの弱点を衝くタイプの人には決定的に欠けているものがあろうと確信され、悲しくなり、哀しくなります。
 きっと、人生を染める根源的悲しみは根源的思いやりと表裏一体なのでしょう。
 だからみ仏のお心は、慈しみと悲しみ慈悲なのでしょう。

〈『羅生門』の英訳版〉(4187u1xP3FL._SL500_AA300_[1]をお借りして加工しました)
20120315.jpg



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2005
07.10

若貴問題

 花田勝氏と貴乃花親方の確執は全国紙のトップニュースとなるほど世間の注目を集めましたが、7月4日、花田勝氏が東京家裁に対して6月29日付で故二子山親方の遺産の相続を放棄したことを発表した以上、もうこれ以上報道すべきではありません。
 国民へものを考えさせるきっかけになるという役割を終えたからです。

 世界中を植民地化しようとしていた西洋諸国が日本の混乱を待っていた江戸末期、江戸城を無血開城させ、国難を救った勝海舟はこんなことを言い遺しました。
「もう逃れられない危機だと判断した時は、まず身命を捨てて対処した。
 その結果、不思議と一度も死ななかった」
「勝とうとすると、ことを急ぐ。頭に血が上り胸はドキドキし、判断を誤り進退を誤るものだ。
 逃げて身を守ろうとすると、縮こまって相手に乗ぜられてしまう。
 ことの大小を問わず、人はこの規則に支配されるものだ。
 俺はそれをよく知っていたから、いつも勝ち負けは度外視して虚心坦懐にやっていたよ」


 こんな古川柳にもなった大岡裁きがあります。
「御白洲で子を引き勝って負けになり」
 大岡越前守は、一人の子供の実の母親を名乗る二人へ「子供を引っ張り合って勝った方の子供と認めよう」と告げ、結果的に負けた方の子供と決した話です。
 実の親なら何よりも子供の痛みを解り引っ張り続けられないはずであるというのが根拠でした。
(後代になって、本当の親なら絶対に手を離せないはずだから越前守は誤っているという説も現れたようですが、いかがなものでしょうか)

 勝海舟は、自分の命よりも名誉よりも財よりも大切なものを覩ることができたのでしょう。
 御白洲の実母は、子供の痛みを我がことと感じ、母性の命ずるままにふるまったのでしょう。
 その結果、国が守られ、母と子が守られました。

 財の完全放棄という尊い行動を見たのですから、もう終わりです。
 若貴問題は、見ず、読まぬようにしましょう。
 視聴率が下がれば、テレビは自動的に報道しなくなります。
 マスコミを健全な方向へ動かすのも視聴者の良識というものではないでしょうか。




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