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2014
09.11

『多毛留(タケル)』、席を譲った中国人、二つの真理

201409110006.jpg

1 不戦堂へのご意見

 当山の「平成の不戦堂を建立し、祈り、不戦日本を貫きましょう」という呼びかけに対して、さっそく、ありがたいご指摘をいただいた。

「それでは、誰が日本を守るのか。
 例えば中国が、韓国が日本領土に侵入してきたらどうするのか?
 米国に頼むのか、等々。
 嫌なことは他人任せで、きれいごとに過ぎるのではないのか。」

2 『多毛留(タケル)』のこと

 故米倉斉加年(ヨネクラマサカネ)が昭和51年に出版し、翌年、ボローニア国際児童図書展グラフィック大賞を受賞した絵本に『多毛留(タケル)』がある。
 平成24年には第43刷となっている。

 多毛留(タケル)は、海の向こうから流れ着いた娘と漁師の間に生まれた。
 ある日、15才になった多毛留(タケル)は、母親と同じように流れ着き、ようやく助けられた二人へ「百済人(クダラジン)!」と叫びながら襲いかかろうとする父親阿羅志(アラシ)を、とっさに殺してしまう。
 そして、かつて父親がそうしていたように、「遠くの方をばじっと見るようになった」という。

 なぜ、この作品が国際的コンクールで大賞に選ばれたか?
 井上ひさしは生前、こう絶賛していた。
「細密巧緻な彼の絵が常に立ちのぼらせているこの怪しい雰囲気は私の魂を人界の外へ吹き飛ばしてしまう」
 そして、氏が言うように、文章も又「簡にして潔、読む者の胸を抉(エグ)る」みごとなものだが、審査員たちは、飛び抜けた表現を可能にした深い視点にもうたれたのではなろうか。
 歴史という長い長い時間の流れの中でいつの間にか日本人一人一人の心に醸成され、遺伝子のように受け継がれてきた渡来人への偏見、差別、不安、恐怖、などなどをありのままに観る力……。

3 席を譲った中国人のこと

 東北大学名誉教授川添良幸氏は、「宮城社交飲食新聞MSA」9月号へ「大震災は我々に歴史問題を正しく理解するチャンスを与えた」と題する随想を寄稿した。
 その中の文章である。

「公共交通機関が混雑しているのに、荷物を座席において広く占拠して平気な若者が増えました。
 情けないことです。
 7月末に北京に行った時、タクシーは渋滞で時間がかかるからと友人と地下鉄に乗ってびっくり。
 若い中国人がニコニコと私に席を譲ってくれたのです。
 我が国は先進国、皆平等を信じてきた世界が急激に変わっています。
 発展途上国とさげすんではいけません。
 我々も東京オリンピック前はやたらとクラクションを鳴らしていたのです。」

4 二つの真理

 上記の二つは共に、自分、あるいは自分たちの心に巣くうものを観る視点があってこそ、書かれた。
 情報社会に溢れる「あいつら!」という雰囲気を超えているからこその気づきである。

 もとより、当山は不戦を主張するからといって、武力無用、自衛隊不要などと主張するものではない。
 日々、警戒を怠らぬ自衛隊をはじめとする関係者の方々の献身的な姿勢に深く感謝し、敬意をはらっており、おりおりに当山へ足をはこばれる関係者の方々もおられる。
 万が一、他国が日本の領土へ踏み込んできたなら、若い人だけを死なせるつもりはない。
 今般の決意の表明を重陽(チョウヨウ)すなわち、「菊の節句」としたことには、ご英霊のご遺骨が埋もれたまま崩れ去ろうとしている沖縄の洞窟で祈り、涙した者としての思いが込められている。

 私たちは普段、昨日の自分と今日の自分とは膨大な細胞が入れ替わって同じ肉体でなく、骨格も血液も体温も呼吸も精神のはたらきも整い、たまたま今日も生きていられるだけの危うい存在であることを忘れ、「昨日の自分は当然、今日の自分であり、今日の友人は変わらず明日も友人である」と思いつつ暮らしている。
 しかし、何か極まりへと追いつめられるようなできごとが起これば、日常生活的感覚や前提だけでは対応し切れなくなる。
 その時、非日常的次元が現出する、あるいは、そこを観ないと立ち上がられなくなる。
 空(クウ)が観えるのである。
 お釈迦様もお大師様も〈観ている者〉として、極まった人々を観える所へ誘い、救われた。
 空(クウ)という真理の満月はその時、急に出現するわけではない。
 大風が吹き、覆い隠していた雲が晴れただけのことである。
 大風が吹かなくても、覆われたままでも、満月はある。

 昨日の自分が行った約束を今日も同じ(と厳密な意味では錯覚している)自分が果たすことは正しい。
 これを世俗諦(セゾクタイ)すなわち、世俗的真理という。
 お互いが一瞬後にこの世を去りかねない空(クウ)なる存在であると観るのは、心の満月に照らされていることであり、不変の真理に立っている。
 これを勝義諦(ショウギタイ)すなわち、より勝れた真理という。

 人はすべて、世俗内で生きる。
 持ち場なり、立場なりに、時に応じ、ことに応じ、相手に応じて世俗諦をもって誠意を尽くすのは当然である。
 同時に、勝義諦にも気づいて生きていれば、誠意に潤いや深みが加わるだけでなく、思いもかけぬ事態に立ち至った時、崩れず、誤らない。
 また、見聞きするものの中から真に大切なものを選び取り、空気や思惑に流されない。
 ぬるい五右衛門風呂へ入れられたカエルが気分良くしているうちに、湯加減がだんだん危険なレベルに達してきても気づかず、死んでしまうといった哀れな最期を避けられもするだろう。

 当山の不戦堂は、勝義諦に気づき、勝義諦を忘れないための場としたい。
 決して世俗諦を否定するものではない。
 寺院も僧侶も世俗内存在である。
 弘法大師は、日本中の誰もがなしえなかった満濃池の改修に取りかかった際、当時にあって最高レベルの科学的技術による指導を行い、かつ、〈現場〉で、仏天のご加護を祈る護摩法に専念された。
 当山も皆さんと共に、世俗諦によって誠意を尽くし、かつ、勝義諦に立って進みたい。




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2014
08.24

自我って何だろう? ―仏教的視点から観た自我(1)―

201408140003.jpg

 私たちは、物心がついた頃、いつの間にか「自分がいる」と意識し始めています。
 それ以来、自分はずっと〈他ならぬ自分〉としてこの世にいます。
 自分の身体は自分だけのものなので、身体をよりどころとして、自分はいつも〈ここ〉にいます。
 でも、何かの拍子に「自分とは何だろう?」と発した問いに、どっしりした答はなかなか返ってきません。

 さて、自分の核は自我意識です。
 この自我は、はたしてあると言えるのでしょうか?
 ダライ・ラマ法王著『ダライ・ラマの般若心経』をテキストにして、少し、考えてみましょう。

1 自我とは何か?

 仏教は、他の宗教と異なり、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はないと考えています。
 いわゆる「無我」が仏教の根本的立場です。
 でも、普通の感覚では「自分はここにいるし、君だってそこにいるじゃないか」ということになります。
 デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」です。
 仏教も、「思っている自分は確かにここにいる」という理を否定はしません。
 認めますがそれは、日常生活的思惟をめぐらせてつかむ世俗的な真理としての範囲です。
 いわゆる「世俗(セゾクタイ)」です。
 一方、深い瞑想の中でつかむ無我の真理を「真(シンタイ)」または「勝義諦(ショウギタイ)」といいます。

 真理は二重になっており、お釈迦様が悟りを開いた当初、「これ(真)は誰にもわかるまい」と考え、悟って得た安楽の境地へ入ったままになろうとされたのは、当然です。
縁起の理は理解されず、涅槃(ネハン…絶対的安楽)の理も悟られないだろう。
 説いても徒労に終わるだろう」
 しかし、梵天(ボンテン)というインドの最高神によって説得されます。
「世間には目が穢れに覆われていない人々がおり、そうした人々も、法を説かれなければ、皆と同じように堕ちてゆくことでしょう。
 しかし、彼らは聞けば悟れる人々なので、どうぞ救ってください」
 そこでお釈迦様は説法を決心されます。
「耳あるものは聞け、古き信を去れ」

 確かに「縁起の理」は容易に理解されず、ましてや「涅槃(ネハン)の理」は誰にでも悟られるわけではありません。
 何しろ、お釈迦様ほどの方ですら、すべてをなげうち、周囲から、いのちを落とすのではないかと思われるほど徹底した瞑想の果てに、ようやくつかんだ真理なのです。
 たとえば、縁起とは「すべては、何かが縁となって起こったからこそ、そのように有る」という真理ですが、悪いことが起これば神様のお怒りだろうと考えて生け贄(ニエ)をささげたりする人々には、原因と結果が必ず結ばれていることを実感できる素地は少なかったことでしょう。
 ましてや、善い人が利用されたり誤解されたりして苦しみ、悪心を持った腹黒い人がうまくやって成功したり、褒めそやされたりする場合がある現実を眺めると、原因と結果の関係に納得できる妥当性を感じられないことでしょう。
 また、厳しい修行や幾多の輪廻転生の末に苦から解き放たれ、苦から脱した解脱(ゲダツ)すなわち涅槃(ネハン)の境地など、想像もできない世界です。

 では、どうやってお釈迦様は法を説かれたか?
 難しい理論などわからず、生きるのに精一杯で瞑想をする余裕もない人々がどうして救われたのか?
 そのキーポイントが「真理の二重性」です。
 つまり、問題を抱えた人なりに理解できる真理を入り口として、その先は、その人なりに行ける範囲まで行ってもらうというやり方だったものと思われます。

 最もわかりやすい例が、娘を亡くした母親キーサゴータミーの物語です。
 これまで何度もとりあげたとおり、娘を亡くして半狂乱になっているキーサゴータミーへ、お釈迦様は、「一人の死人も出したことのない家があったなら芥子の実をもらってきなさい。そうしたら、貴女の苦しみを取り除いてあげよう」と約束されました。
 しかし、村中を歩いても、死人を出したことのない家はありません。
 ご先祖様のいない人は誰もいないので当然です。
 キーサゴータミーはがっかりしてお釈迦様の元へ帰りますが、お釈迦様は黙したままです。
 きっと、本人が気づくことを知っておられたからでしょう。
 娘の亡骸を埋めてからお釈迦様へ弟子入りしたキーサゴータミーは、きっと、こんな順序で理解を深めたことでしょう。

・死人を出したことのない家はない
・誰しもが、人の死に悲しむ体験をしている
・自分だけが人の死に苦しむのではない
・人は必ず死ぬ
・自分もいつかは死ぬ

 きっと、このあたりまでが、世俗でしょう。
 そして更に、お釈迦様の弟子となって理解を深めたことでしょう。

・娘の死には、直接的原因と間接的原因があった
・死とは、肉体のはたらきや、感受作用や、意志作用などが壊れ、なくなることである
・娘の実態は仮そめの存在、つまり(クウ)だったのであり、自分もまた、(クウ)なる存在である
・すがりつくべき実体的な自我はない
を観ると心が安らぎ、生きとし生けるものが愛おしくなり、美しいと感じる
なる自分のなすべきことが見えてくる

 こうして真が深まったのではないでしょうか。
 まぎれもなく、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はなく、「無我」なのです。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
08.05

お骨に合掌し仏教の歴史をたどる『舎利礼文(シャリライモン)』(その2)

201408040001.jpg

 これまでに幾度も「献体をしても引導は渡してもらえますか?」という人生相談を受け、幾度も、ご葬儀を行いました。
 もちろん、相手様の宗教、宗派を問わず、数年後に共同墓『法楽の礎』で眠ることになった方々は幾人もおられます。
 モノとしての肉体には何の未練もないが、魂だけは、み仏のお導きにより、自分へ血と心をつないでくださったご先祖様方の世界へ行きたいと願われるのです。
 ここに、目に見える世界での〈まっとうなふるまい〉と、目に見えない世界での〈得心〉との二つを目ざし、極論へ行かない中道を説く仏教の核心が生きています。
 世間でうまくやれればそれでよい、のではなく、自分の心に悟りがあればそれでよい、のでもありません。
 この世のことごとをきちんと行うための正しい考え方があり、それを世俗諦(セゾクタイ)といいます。
 また、悟りの世界における絶対的真理があり、それを勝義諦(ショウギタイ)といいます。

 お釈迦様は、悟りを開かれた時、これは世間的な頭のはたらきでは掴みようのない次元であるから、もう、このまま、向こうの世界へ行ってしまおうと考えられたそうです。
 戦争や諍いの絶えないこの世を眺めれば、自他のいのちと心を一つととらえ、すべてを空(クウ)と観て我(ガ)を離れることなど、誰にもできそうにないと考えられたのも当然です。
 しかし、そこに、梵天(ボンテン…帝釈天)という神様が現れ、「必ず理解でき、救われ得る人々がいますから、是非、人々を苦しみと迷いからお救いください」と懇請し、お釈迦様はついに、法楽という憩いの世界から立ち上がり、説法の旅を始められました。

 説法には二つの方法が用いられました。
 一つは言葉です。
 真理、真実に裏打ちされた言葉は、魂のレベルで通じるからです。
 もう一つは法力(ホウリキ)です。
 言葉の通じない人々へは、異次元の世界を体感させることにより、目と耳と心を開かせ、それから言葉を手渡したのです。
 だから、仏法による自他の救済へ身を捧げるプロの僧侶は、修行の結果として、説得力のある言葉と、異次元へ入る法力との二つを身につけていなければなりません。
 さもないと、メスを持たない、あるいはメスを錆び付かせた執刀医と同じです。

 さて、世俗諦(セゾクタイ)と勝義諦(ショウギタイ)についてのわかりやすい例を挙げます。
 たとえば、借金したならば、返すのは当然です。
 もしも、「自分は空(クウ)だ。細胞も入れ替わっているし、先月の自分はもう、どこにもいない。先月の自分と今の自分は別ものだから、先月の自分がやった約束はもう、どこにもない」などとうそぶいて踏み倒したならば、世間から相手にされません。
 だからといって、約束は守り、礼儀も正しい人が必ずしも人の道を掴み、まっとうな心で生きているとは限りません。
 人生の成功者と目されていた人が裏でとんでもないことをやっていて露見したり、バチカンが、司教による性道徳の堕落と、長年かかわってきたマフィアとの関係に正面から戦いを挑んでいることなどを見ても明らかです。
 人と人との間にある人間として社会人らしいふるまいを保ちながら、人間の尊厳に背かぬ魂で生きることができてこそ、真に人間らしい生き方と言えるのではないでしょうか。
 
 さて、『舎利礼文』72文字の後半です。

「仏加持故(ブツカジコ)
 我証菩提(ガショウボダイ)
 以仏神力(イブツジンリキ)
 利益衆生(リヤクシュジョウ)」

 
「み仏のご加持によって、私たちは悟りを確かめられ、み仏の威神力によって、悟りを得た私たちは生きとし生けるもののためにはたらけます。」
   

「発菩提心(ホツボダイシン)
 修菩薩行(シュウボサツギョウ)
 同入円寂(ドウニュウエンジャク)」


「悟りを求める心を起こし、布施や持戒など六つの修行に勤しみ、生きとし生けるものと共に平安の世界へ入りましょう。」

「平等大智(ビョウドウダイチ)
 今将頂礼(コンショウチョウライ)」

 
「生きとし生けるものは皆、等しく空(クウ)なる存在として生き死にしているということを悟らしめる偉大なる智慧を今、まさに敬意をもって礼拝します。」
   
 こうして、お釈迦様の悟りの境地に憧れ、お骨を尊び礼拝し、仏塔に詣で、お塔婆を立てて祈りつつ、仏教は伝えられてきました。
 たどりついたのが、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という6つの修行により、生きとし生けるものたちと自分は等しく無限のいのちと心の世界を生きているという真理を掴み、真実世界に生きる姿です。
 ぜひ、お盆には実践修行をしましょう。

【水…布施(フセ)の心】  我、水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん
【塗香(ズコウ)…持戒(ジカイ)の心】  我、塗香のごとく、自他を清め、浄戒そのものになり果てん
【花…忍辱(ニンニク)の心】  我、雨風に負けず咲く花のごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん
【線香…精進(ショウジン)の心】  我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん
【飯食…禅定(ゼンジョウ)の心】  我、己を捨てて食べ物となる生きものに感謝し、心身を整えん
【灯明…智慧(チエ)の心】  我、灯明のごとき智慧の明かりで道を照らし、まっすぐに歩まん






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2014
03.23

二種類の真理 ─戦争は真理を生かさない─

201403230001.jpg

 今月は、桜が咲き、春が実感される時期であり、学校も多くの企業も新たな年度に入る〈始まりの時期〉です。
 そんなおり、あらためて真理について考え、また、きな臭さが濃くなってきた状況に際し、戦争について、少し、考えてみましょう。

 お釈迦様が説かれた因果応報の原理は決定的真理であり、もしもこれが崩れれば、私たちは是非善悪の判断力を持った人間として生きようがありません。
 あらゆる意志に対して、それに見合った結果の望みようがないからです。

 しかし、現実の世を眺めれば、正直な人や、まじめに汗をかく人が必ずしも報われず、むしろ、他人を欺き、人間をモノ扱いして都合良く利用し、血の通った人が苦しんでいても心に痛みを感じないようなタイプの人が豊かになったり、出世していたりするように思えたりもします。
 14年前に発表され、今でも人気のある『架空取引』など、高任和夫氏が書く一連の企業小説群は、二つのタイプの人々が織りなす人間模様を鋭く、温かく描いています。
 私たちは、こうした状況をどう考えればよいのでしょうか?

 仏教はそれを勝義諦(ショウギタイ…究極的真理)と世俗諦(セゾクタイ…現象世界にはたらいている真理)の二つに分けて説いています。

 たとえば、すべては因と縁によって生じ、滅し続けており、私たちの身体をおおっている皮膚の細胞はわずか一ヶ月、脳細胞も一年経てばすべて入れ替わり、〈以前の自分〉としての姿も脳も、どこにもなくなります。
 もちろん、いつ、いかなる理由で壊れ、滅しても当たり前でしかありません。
 身体は因と縁によって、かりそめに形をとっている〈空(クウ)〉の存在です。
 では、一年後の存在は〈別人〉として扱われるかと言えば、そうではなく、生きている限り〈同一の人物〉として扱われます。
 つまり、時間を貫いて何年も同じように存在する身体を持った人はどこにもいないにもかかわらず、さらにはまったくアテもないのに当面、生き続けることを前提にして約束ごとを交わし、愛したり、憎んだりします。
 勝義諦の目から観れば、人は常に変化して変わり続けるつかみようのない〈かりそめの存在〉でしかないのに、世俗諦に頼って日常生活を送る上では、明日も生きるであろう〈不動の人〉人として扱うしかありません。

 すべては空(クウ)であり、いのちあるものがひとしく輪廻転生(リンネテンショウ)を繰り返しているという勝義諦をつかむためには、出家・在家を問わず、仏道を学び実践し、智慧を磨かねばなりません。
 一方、倫理や道徳などの世俗諦を学び、正しく生きれば、広く信頼され、我がままでない人格者としてまっとうに生きられます。
 そして、両方を兼ね備えれば、菩薩としての役割を果たせます。

 さて、お釈迦様は、戦争の理不尽さに関して衝撃的な言葉を残しています。
 戦争になり、悪名名高いアジャータサットゥ王が、お釈迦様へ深く帰依していたパセーナディ王を破った時のことです。

「パセーナディ王は、この夜、敗者として苦しんで眠るであろう」


 お釈迦様は、戦争の帰結は善悪によるのでなく、いわば悪の側にいる者に敗れた善人であろうと、敗者は苦しまねばならないと冷徹に説かれました。
 戦争はいかなる人へも必ず、この世にある者としての苦しみ、つまり世俗的苦しみをもたらすのです。
 またある時、今度はパセーナディ王が勝ち、アジャータサットゥ王を生け捕りにしましたが、慈悲深いパセーナディ王は宿敵を解き放ちます。
 それを知ったお釈迦様は言われました。

「他を殺せば、己を殺す者を得。他に勝てば己に勝つ者を得」


 人を殺す戦争による因果は廻り、勝者と敗者はずっと勝者や敗者でいることはできません。
 事実、これほどの王でありながら、パセーナディ王は不遇の最期を遂げています。

 戦争は、私たちが人間として生きる最後のより所である絶対的真理を無惨な形で表し、普段のより所である世俗的真理を蹂躙するだけで、真の勝者など、どこにもいはしません。
 み仏の御眼からご覧になられれば〈正義の戦争〉はあり得ません。
 このように、あらゆる生きものが最も嫌い、恐れ、逃れようとする〈殺されること〉を実現する戦争は、霊性ある存在が自然に求める真理・真実にあふれた世界を現出させるのではなく、反対の不条理を顕わにするだけの愚かしい行為です。
 必ずしも明確に意識してはいなくとも、真理をつかみたい、日々をまっとうに送りたいという姿勢で生きている私たちは、同時に、それらを根底から台無しにする戦争をどうすれば避けられるか、よく考えたいものです。

 最後に、〈言の葉アーティスト〉渡辺祥子さんからお送りいただいた御著書『ことづて』の一文を引用させていただきます。
 それは『朴葉の庭(ホウバノニワ)』と名づけられた児童養護施設を造るため、全勢力を傾けている熊田富美子(福島県須賀川市)の言葉です。

「内側から自分で自分をむしばむことのないよう、道端の花の美しさや、小川のせせらぎ、風の心地よさ感じる感覚、歓びの感覚を大切にしたい。
 自分自身の細胞を活性化させ、小さな幸せを皆で喜び合いながら、取り組んで行きたいと思います。
 それが必ず、未来をつくる子どもたちのためになると思うから」


 戦争は、こうした志も精進も破壊し尽くします。
 よくよく考えつつ生きたいものです。




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2012
07.22

なぜ新居のお清めをするのか ─ある幸せの得られ方─

20120722001.jpg
納骨堂法楽殿』の天井画です〉

 ある町で、まだ20台半ばの青年が念願の家を手にし、入居前のお清めを依頼されました。
 内装は明るい色で統一されており、はしゃぎまわる少女の屈託ない声が着替え中の耳に入りました。
「ねえ、ベンジョって何?」
 おしゃまなそぶりをしてもまだ小学生の彼女は、集まった大人の口から未知の言葉を聞いたのでした。
「便所の敷物も良いのが見つかったわねえ」

 この地を守る仏神へのご挨拶と感謝とご供養を行い、八方天地をお守りいただく法を結び、再びの感謝と讃歎で修法は終わりました。
 途中、皆さんへお焼香をお勧めしました。
「この家とご家族と皆々様をお守りくださる仏神をご供養し、私たちへいのちと心をバトンタッチしてくださったご先祖様と、あらゆる御霊へ感謝するために、どうぞ、お焼香をお願いします」
 やがて、真新しい畳の匂いにお香の淡い香りが入り交じり、結界(ケッカイ)の中で集う人々の思いは一つになりました。
「この場で、よき未来がもたらされますよう」
 
 畳の上で車座になった面々とお茶を前にしながら、子供の頃は隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場へ通っていた青年へ声をかけました。
「よくやったね。
 こんなに嬉しい修法をさせてもらってありがとう」
 はにかみがちに青年は応えました。
「親の願いを叶えただけです」
 ぐっと詰まりました。
 無口でひたむきな青年の精進ぶり、お母さんの苦労、少年だった彼を仙台市内の道場へ送り迎えしてくれていた叔母さんの熱心さなどが一気に胸に迫ったからです。

 夕刻、例祭での護摩法が終わり、いつも通りに短い法話を行いました。
「私たちは、だれしもが、幸せを求めています。
 今日、安全な食事を摂り、生き抜くことも、すでに幸せの範疇(ハンチュウ)です。
 食べて、着て、住み、はたらく。
 こうしたことごとに願いを持ち、確かな日々がもたらされるよう汗を流す。
 その過程に誠実さが伴っていれば、まっとうに生きられます。
 過ぎたことにあれこれとグチを言わない、自分の好き嫌いを相手構わず主張しない、自分の領分と他人様の領分を劃然(カクゼン…はっきりしている様子)と分ける、明らかなことがらと不明瞭なことがらを混同しない、などは、誠実さを高めるための努力目標です。
 それは、自他へ基本的な幸せをもたらすために欠かせず、その方向性は正しいと言えます。
 何も、因果応報(インガオウホウ)や、(クウ)などの深遠な真理を持ち出すまでもなく、私たちは互いに幸せを求めながら正しく生きられます。
 このような導きを世俗諦(セゾクタイ)と言います。
 お釈迦様は、日常生活をまっとうに生きられるための「世俗諦(セゾクタイ)」と、まっとうな日常生活に疑問や亀裂や閉塞(ヘイソク…ふさがり)が生じた際の救いとなり、自他の人生へ深刻な破綻をもたらさないための修行ともなる「勝義諦(ショウギタイ)」の両方を説かれました。
 自分に厳しく、他人へ優しく、約束を守るなどの世俗諦をきちんと実践していれば、安心な食事や納得できる衣装や疲れをとる居住間や汗を流して本望な仕事などがもたらされます。

 最近、お清めを行った新居の主は世俗諦の見事な実践者です。
 そして彼は、守本尊様の祈り方も知っています。
 いざという時は、きっと一段深い勝義諦が支えともなり、救いともなることでしょう。

 私たちはこれからも、両方の教えを学び、実践して行きましょう」




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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