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2016
11.04

漢文『法句経』を読んでみる(その10) ─戒めに生きる真の安心とは?─

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〈仙北の町で赤信号の数十秒〉

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〈護摩堂・修行道場〉

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〈完璧なプロの仕事ぶり〉

 今回は『法句経(ホックキョウ)』の「戒慎品(カイシンボン)第五」を意訳してみましょう。
 実際に唱えることができるよう、すべてルビをふりました。
 幾度も唱えているうちに、お釈迦様の思いが身近なものになることでしょう。

○戒慎品(カイシンボン)とは、善道(ゼンドウ)を授与(ジュヨ)し、邪非(ジャヒ)を禁制(キンセイ)し、後(ノチ)に悔(ク)ゆる所(トコロ)無(ナ)きなり。


戒め慎みの一章では、善き道を与え、邪で非道な道へ行かせず、後から悔いるところのない生き方へと導く)

〔八八〕人(ヒト)にして常(ツネ)に清(キヨ)く、律(リツ)を奉(ホウ)じて終(オ)わりに至(イタ)り、善行(ゼンギョウ)を浄修(ジョウシュウ)せば、是(カク)の如(ゴト)くして戒(カイ)成(ジョウ)ず。


(常に身口意を清め、教団の決めごとを徹底的に守り、善き行いを清らかに修めるならば、人としての戒めが自然に成就する生き方になる)

〔八九〕慧(エ)ある人(ヒト)は戒(カイ)を護(マモ)り、福(フク)を三(ミッ)つの宝(タカラ)に致(イタ)す。名聞(メイブン)と、利(リ)を得(エ)ること、後(ノチ)に天(テン)に上(ノボ)りて楽(タノ)しむことなり。


智慧ある人は戒めを守り、幸福を三つの宝ものとして得る。名声と、財物と、死後に天界へ上っての楽しみである)

〔九〇〕常(ツネ)に法処(ホッショ)を見(ミ)、戒(カイ)を護(マモ)るを明(アキ)らかと為(ナ)す。真(シン)の見(ケン)を成(ジョウ)ずることを得(エ)ば、輩中(ハイチュウ)の吉祥(キッショウ)たらん。
(常に、因果応報の成り行きで幸福が得られる道筋を見分け、戒めを守るのが智慧ある賢者である。賢者がこの理を理解すれば、この世の人々の中にあって吉祥の生活となる)

〔九一〕持戒者(ジカイシャ)は安(ヤス)く、身(シン)をして悩(ナヤ)み無(ナ)からしむ。夜(ヨル)臥(フ)せては恬淡(テンタン)にして、寤(サ)めては則(スナワ)ち常(ツネ)に歓(ヨロコ)ぶ。


戒めを保つ者の心は安寧で、身体のはたらきに悩まされもしない。寝所では、心に引っかかりがなく眠りへ入り、朝に目覚めては嬉しい気持になる)

〔九二〕戒(カイ)と布施(フセ)を修(シュウ)し、福(フク)を作(ナ)せば福(フク)と為(ナ)る。是(コ)こより彼(カシ)こに適(ユ)きて、常(ツネ)に安処(アンショ)に到(イタ)る。


戒めを守り、布施に勤み、功徳が積まれれば、福徳に恵まれる。この世でも、あの世でも、安寧がもたらされる。

〔九三〕何(ナン)ぞ終(オ)わりに善(ヨ)しと為(ナ)し、何(ナン)ぞ善(ヨ)く安(ヤス)らかに止(トド)まり、何(ナン)ぞ人(ヒト)の宝(タカラ)と為(ナ)し、何(ナン)ぞ盗(ヌス)びとも取(ト)らざる。


(どうすれば、人生の終わりに善き日々であったと満足でき、そこへ至る人生安寧に過ごせようか。何が人々の宝ものであり、いかなる盗人にも奪われずに済むものなのか)

〔九四〕戒(カイ)は老(オ)いに終(オ)わるも安(ヤス)く、戒(カイ)は善(ヨ)く安(ヤス)らかに止(トド)まらん。慧(エ)を人(ヒト)の宝(タカラ)と為(ナ)し、福(フク)は盗(ヌス)びとにも取(ト)られず。


(戒めを保てば老いても安寧であり、戒めを説くものが信じられれば常に安寧である。智慧は人々の宝ものであり、福徳はいかなる盗人にも奪われない)

 ここには、戒めを守ろうと自分を縛るのではなく、戒めに添った生き方が自然にできるようになった状態が説かれています。
 そもそも、苦を滅する方法の根本として示された十善戒は、反すれば罰が当たるという性質の決まりではなく、そこを目ざし、そのように生きられてようやく、苦から脱することができるという道筋に他なりません。
 しかも仏教は、盲目的に信じれば救われるノウハウを示す宗教ではなく、あくまでも、一人一人が〈道理である〉と納得して実践することを求めます。
 だから、マインドコントロールとは無縁である点を押さえておきましょう。

 智慧ある人は、本ものの宝ものを知り、偽ものを求めないので、心が乱され苦しむという迷いから離れられます。
 こうした智慧は、至心に学び、納得して実践する過程を経てこそ得られます。
 それは、み仏の子である私たち全員に与えられた可能性であると言えましょう。

 私たちの仏心が花開いて実現する福徳は、誰にも奪われません。
 苦しみ、悩み、怒り、怨み、嘆いたままで過ごし、モノ金や人やいのちなど執着していたすべてから引き離され、大いなる安らぎを得ないままであの世へ旅立つのか、それとも、学び、生き方を変えるか、一人一人の姿勢が問われています。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
08.01

普通に生活しながら幸せになる方法 ─身近な十善戒─

2016-08-01-0001.jpg

 お大師様は、普通の生活をしながら幸せになるための方法として、お釈迦様が説いた十善戒を挙げられました。
 気ままな人が「あっ、これではいけない」と気づいた時点で実践できると説かれました。
「」内は原文の読み下しです。

1  不殺生(フセッショウ)

 無益な殺生をせず、恨み辛みを離れ、他へ思いやりを持てば、健康で長生きし、神々も護ってくれる。
「殺(サツ)と怨恨を離れて利慈(リジ)を生ずれば、端正長命にして諸天護る」

2  不偸盗(フチュウトウ)

 自分へ与えられていないものを手にせず、持っているものに感謝して他へ施せば、財産を失わず、安心して天上界に生まれ変わる。
「盗(トウ)せず知足(チソク)にして衆生(シュジョウ)に施せば、資材壊せずして天上に生ず」

3  不邪淫(フジャイン)

 みさかいなく異姓を求めず、接して問題のない伴侶を愛おしめば、安心の基が固まって迷いを脱し、生き死にの覚悟が固まる。
「邪妄(ジャモウ)を遠離(オンリ)して染心(ゼンシン)なければ、自妻に知足(チソク)せり況(イワ)んや他女をや。
 所有の妻侵奪(シンダツ)せられず、是(コ)れ圓寂(エンジャク)の器にして生死(ショウジ)を出ず」

4  不妄語(フモウゴ)

 偽りの言葉を発しない者の言葉にはいつも実(ジツ)があり、周囲の者は皆信じて手を貸し、王のような権力をふるわずとも、人徳が人もモノも集める。
「妄語(モウゴ)せざる者は常に実言なり、一切皆信じて供すること王の如(ゴト)し」

5  不綺語(フキゴ)

 人の道を考えて中身のある言葉を用い、つまらぬ飾り言葉を用いなければ、仏神でなくとも、人々から深い尊敬を受ける。
「恩道義語にして綺語(キゴ)を離るれば、現身(ウツシミ)に即ち諸人(モロビト)の敬を得」

6  不悪口(フアック)

 粗暴で他を傷つけるような言葉を使わず、思いやりのある言葉を用いれば、穏やかなたたずまいが周囲へ安心や安らぎを与える。
「諸(モロモロ)の悪口(アック)を離れて柔軟(ニュウナン)の語なれば、勝妙(ショウミョウ)の色(シキ)を得て人皆慰(ヤス)んず」

7  不両舌(フリョウゼツ)

 二枚舌を用いず、他を仲違いさせなければ、親族も友人も組織も一致団結してよくまとまり、権力者も魔ものも親和を破ることはできない。
「両舌(リョウゼツ)の語を離れて離間(リケン)することなくんば、親疎(シンソ)堅固にして怨(オン)の破るなし」

8  不慳貪(フケンドン)

 他の財物を羨まず、分(ブン)以上の財物を求めなければ、自分にとって尊い宝ものや必要なものは得られ、死後も天界で恵まれる。
「他の財を貪(トン)せず心に願わざれば、現に珠宝(ジュホウ)を得て後に天に生ず」

9  不瞋恚(フシンニ)

 つまらぬ怒りを離れて他を許し、恨まなければ、誰からも愛され、王のようにあらゆるものに恵まれて、死後は天界へ行ける。 
「瞋(シン)を離れて慈を生ずれば、一切に愛され、輪王(リンノウ)の七宝(シッポウ)此(コレ)によって得(ウ)」

10 不邪見(フジャケン)

 道理に反する邪(ヨコシマ)な見解を持たず、正しい道を歩めばそのままに生き仏であり、自己中心的な迷いや苦しみを離れきる。
「邪見(ジャケン)を離れて正道に住するは、是(コ)れ、菩提(ボダイ)の人なり、煩悩(ボンノウ)を断ず」

 どうでしょう。
 できそうではないでしょうか。
 悪い心に負けそうになったら、守本尊様の真言を唱えたり、お大師様の御宝号「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」を唱えたりしましょう。
 あるいは、いつも祈っている神様や仏様へご加護を願いましょう。
 私たちの心中には必ずみ仏がおられます。
 できないはずはありません。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
01.03

平和への第一歩 ─見捨てられない者へ─

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 1月1日、午前10時から始めた今年最初の護摩法が終わり、「~我らと衆生(シュジョウ)と皆共に仏道を成(ジョウ)ぜん」と願文を唱え終わった時、お正月の間だけご開帳している宝珠の形をしたご本尊様がぐっと迫って来た。
 思わず口から出たのが、5つの誓いである。

「いまだ苦しみを離れざる者には、願わくは苦しみを離れしめ、
 いまだ楽しみを得ざる者には、願わくは楽しみを得せしめ、
 いまだ菩提心(ボダイシン…悟りを求める心)を起こさざる者には、願わくは菩提心を起こさしめ、
 いまだ悪を断じ善を修せざる者には、願わくは悪を断じ善を修せしめ、
 いまだ成仏せざる者には、願わくは成仏せしめん」


 この文章は、大阪の法楽寺で出家した江戸時代の慈雲尊者(ジウンソンジャ)が記した十善戒に関する書物から抜粋したものである。
 密教だけでなく、顕教(ケンギョウ…密教以外の仏教)も神道も広く学んだ尊者は、一つの結論に達した。

「師曰(ノタマワ)く、人の人たる道は、この十善にあり。
 世間戒(セケンカイ)も出世間戒(シュッセケンカイ)も菩薩戒(ボサツカイ)も、すべての戒はこの十善を根本とす。
 十善と説けどもただ一仏性(ブッショウ)。
 一法性(ホッショウ)なり。
 この十善戒は、甚深(ジンシン)なること広大なり。
 瓔珞経(ヨウラクキョウ)に『理に順じて心を起こすを善といい、背くを悪と名づく』と説く。
 仏性に順じて心を起こすを善といい、これに背くを悪という。
 本性に身口意(シンクイ)相応すれば十善おのずから全(マッタ)きなり」


(お釈迦様は、人間が人間として生きるべき道は、十善戒にあると説かれた。
 世間で暮らす際の戒めとしても、出家して暮らす際の戒めとしても、菩薩にならんとする者の戒めとしても、すべての身を律する道筋はこの十善が根本である。
 十善と説いても、それは一つの仏性と言うべきである。
 それは、一つの自ずからなる真実のありようである。
 この十善戒は、途方もなく深い世界である。
 瓔珞経には「ことわりに従って心を起こすのが善であり、背くのが悪である」と説く。
 おのずから具わっているみ仏としての本性に従って心がはたらけば善であり、本性に背けば悪である。
 この本性に身体と言葉と心のはたらきが一致すれば、十善は自然と成就される)

「私意(シイ)をもって本性を増減するがいわゆる悪。
 仏性は善悪ともに妨げぬものなれども、善は常に仏性に順ず。
 悪は常に仏性に背く。
 法として是(カク)の如し。
 ただ迷う者が迷う。
 知らぬ者が知らぬばかりなり」


(自分勝手な考えでみ仏としての本性を発揮したりしなかったりするのが悪である。
 本性は不動であり、人は自分自身の因縁によって善も悪も為すが、善はいつも、本性に従って生きるところにある。
 悪は常に、本性に従わぬところに生ずる。
 真理としてこのとおりである。
 誰しもがみ仏の本性を具えているのに、それに気づかず迷う者が自分で迷う。
 こうした真理と本性を知らぬ者が知らぬだけである)

 思えば、当山が念願とする「世界平和」も「不戦日本」も達成するのは人間であり、人間が内面に平和を築けなければ、願いは永遠に達成されない。
 内面の平和は、身体と言葉と心のはたらきが自ずから十善戒に添った人間になれば達成される。
 特に、三毒(サンドク)と言われる貪り、怒り、自己中心的で愚かな考えを脱しなければ、内面の平和はあり得ない。
 しかし、足を知り、カッカせず、ものの道理を学んだだけでは、社会が平和を構築するための積極的役割は果たせない。
 自分が〈仙人〉や〈アラカン〉になっただけではならない。
 菩薩(ボサツ)にならねばならない。
 菩薩こそが、冒頭の〈願う存在〉である。
 慈悲心に発する願いを持っていれば自ずから、「苦しみを離れざる者」の「苦しみを離れしめ」ずにはいられない。
 自ずから「楽しみを得ざる者」に「楽しみを得せしめ」ずにはいられない。
 こうしてお互いが〈他者を見捨てられない存在〉になってようやく、社会の平和が訪れるのではなかろうか?


 貧困による若者の自殺者はイジメによる自殺者の約5倍、子供の7人に1人が相対的貧困、食事すら満足にできない子供たちが激増している。
 首都大学東京の阿部彩教授は指摘する。
大人になっていく途中の段階で健康の格差が生まれていることになれば、貧困の連鎖をつなぐもうひとつのメカニズムになりかねない。
 地域で(子ども食堂のような)あたたかい場所があるといったことが、少しずつ少しずつ(貧困の)連鎖の鎖を断ち切っていく」
 日々、食べて生きて行くという段階ですでに、恐ろしい格差が広がりつつある。
 あらゆる社会的〈タガ〉を外して自由競争を放任し、押し進めた結果が社会の無慈悲さを濃くしているのではないか?

 テレビで美食や楽しい旅や快適な住まいや最新ファッションの場面が流れるたびに思う。
〝これはいったい、誰のための番組なのか?〟
 大企業がはてしなく儲け、経営にあずかるごく一部の人びとが富を集める一方で、多くのはたらく人びとは、結婚や子育てや住居の確保といった人生設計が許されなくなっている。
 そうした中で、芸能人がうまそうに食べる1盃1000円のラーメンなど、ごく〈限られた人びと〉にしか関係のないキラキラしい場面は、何のために放映されているのだろう?
 賃金の上昇率が2・9から2・1パーセント、全要素生産性(TFP)の1・8から1・0パーセントなど、バブル経済時の数字などを用いて華々しく打ち上げられた「100年安心年金」などはとっくに破綻し、働き盛りの人びとも年配者も、いつ、生活の基盤が崩れ、路頭に迷うかわからない。

 もはや、無制限な弱肉強食の放置をやめ、所得の配分を変える根本的な社会変革がなければ、弱者を見捨てている日本は〈無慈悲な国〉から脱することができないのではなかろうか?
 戦争をせず真に世界の平和へ貢献する国になど、なり得ないのではなかろうか?

 今年も、平成26年9月に始めた「不戦日本」の祈りを続けたい。
 皆さんと共に平和を祈る「不戦堂」の建立に向けていっそうの努力を重ねたい。
 そのための出発点が〈他者を見捨てられない存在〉になることであるという真実をあらためて肝に銘じたい。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2015
12.12

慈雲尊者が説いた戒めの効能(その2) ─十善戒と安心の話─

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〈古く、大きく、重い箱がやってきました〉

 江戸時代の傑僧慈雲尊者(ジウンソンジャ)は、十善戒に導かれた生き方の効能を述べています。
 その後半です。

6 不悪口(フアック)戒

「言葉に刺がなくなり、言葉の刃で他人を傷つけない。
 むやみと責め立てられたり、怒鳴られたり、恨み言を言われたりする縁が遠ざかり、自分もまたそうしたもの言いをしなくなる」

 悪口(アック)とは、いわゆる悪口(ワルクチ)ではなく、感情に任せた粗暴な言葉遣いや、無神経あるいは意地悪なもの言いです。
 お釈迦様は、「人は口の中に言葉という斧を持って生まれているから、知恵と慈悲で制御せよ」と説かれました。
 言いたい放題を口にする気ままな人や傲慢な人は、自分もいつか、そうしたものによって手酷く斬りつけられることでしょう。
 感情に流されず、相手の気持に心をくばり、適切に語りたいものです。

7 不両舌(フリョウゼツ)戒

「言葉に思いやりや気遣いが滲み出る。
 親睦や友好を破壊されたり、讒言(ザンゲン)で信頼関係にヒビを入れられたりせず、自分もまた、そうした言動を行わなくなる」

 両舌(リョウゼツ)は単なる二枚舌ではなく、他人同士の信頼関係を壊そうとして、複数の人びとへ違った情報を流すことです。
 原因は嫉妬であれ、怨みであれ、怒りであれ、我欲であれ、許されない行為です。
 和合や友愛を尊び、喜ぶ菩薩(ボサツ)の心と正反対であり、こめられた悪意は他人にトラブルを起こさせるだけでなく、やがては自分自身へブーメランのように回り来て、大切な人間関係を壊される目に遭うことでしょう。

8 不貪欲(フトンヨク)戒

「いつでも、どこでも足(タ)るを知って欲求不満がなくなる。
 さまざまな度の過ぎた欲望や、悪しきことへの没頭や、現世的な力へのやっかみや、地位名誉への自賛などに落ち込まない」

 欲が適切に制御できる人は、「夜も昼も安穏であり、家にいても、でかけても安穏であり、病気に負けず、独りでいても憂いなく、他人と交わってトラブルなく、やがては煩悩を脱し、悟りへも近づく」と説かれています。
 また、「貪欲でなくなれば、誰もが、生まれついたままで聖者として生きられる」とも説かれています。
 そして「あたりまえのことを実践し、自分の分を超えないことはいたって簡単だが、実践する時の徳は広大である」とされています。

9 不瞋恚(フシンニ)戒

「身体全体が慈悲心に合ったはたらきをする。
 眉をひそめたり、額に皺を刻んだり、目を三角にする憂いや煩悩(ボンノウ)から離れる」

 私たちに悪事を行わせるものは、貪りと怒りです。
 貪れば、いかなる志も人徳も損なわれます。
 怒りに任せた行動をとれば、必ず世を乱し、ものごとを破壊の方向へ導きます。
 貪りと怒りはあいまって生じ、貪る心が薄くなれば、つまらぬことに起こらなくなり、怒る心が薄くなれば、いつしか貪らなくなるものです。

10 不邪見(フジャケン)戒

「貴賤や男女にかかわりなく人びとを見ても、山河や大地を眺めても、すべてが因果応報によって、ありのままに存在していることがわかる。
 ありとあらゆるものが真如(シンニョ…活き活きした真実)の顕れであり、実相(ジッソウ…ありのままの姿)そのものであることがわかる。
 邪(ヨコシマ)な考えを持ち、つまらぬ分け隔てをし、聖者をないがしろにし、賢者を誹(ソシ)り、神祇(ジンギ…神々)を侮り、仏菩薩(ブツボサツ)を誹謗(ヒボウ)し破壊しようとする悪しき心と無縁になる」

 慈雲尊者は説きました。
「邪とは正に対して用いられる名である。
 邪(ヨコシマ)に僻(ヒガ)んだ心である。
 見は、見るという字だが、目で見るのではなく、心に見定める処があることを指す。
 この見処が横道に行けば邪見となる。
 邪見は恐ろしいと知って、正しい知見に従うのが不邪見である」
 すべては(クウ)であり、因果応報の糸につながっているという真理に立ち、自分も他人も生きとし生けるものは皆、広大ないのちの世界を共に生きているという真実に気づけば、何が正しいかは自ずと観えてくることでしょう。

○ 〈普段のありよう〉と〈究極のありよう〉

 前回、(その1)に書いたとおり、 この世には、〈普段のありよう〉と〈究極のありよう〉との二面があります。
 愚癡を言わず、自分の好みだけにとらわれず、自他のものを混同せず、明らかなこととそうでないことを区別し、公と私をわきまえ、恩を忘れず恩を着せず、自分を第一として権利の主張をするよりも、自他の人間としての尊厳をこそ第一すれば、〈普段のありよう〉において、まっとうに、安心に生きられることでしょう。
 これが隠形流(オンギョウリュウイアイ)居合の『七言法(シチゲンホウ)』です。
 そして、この十善戒を心に刻んでおけば、〈究極のありよう〉においても、深い安心と共に生きられることでしょう。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2015
12.11

慈雲尊者が説いた戒めの効能(その1) ─十善戒と空(クウ)の話─

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 江戸時代の傑僧慈雲尊者(ジウンソンジャ)は、十善戒に導かれた生き方の効能を述べています。

1 不殺生(フセッショウ)戒

「たとえ敵や害虫などに遭遇しても、慈悲心をもって接することができるようになる。
 そうすると無体に攻撃してくる者との縁が薄くなり、自己中心から他を害する心も起こらなくなる」

 もちろん、敵からは身を守らねばなりませんが、その場合ですらも、単に「この野郎!」と恐怖と怒りに任せて戦うのでなく、心のどこかに哀れみを持ちつつの防御となることでしょう。
 作家曽野綾子氏はかつて、泥棒に出くわした時、こんなことをしてはいけませんと諭して帰らせました。
 敬虔なキリスト教徒としての生活がそうさせたのでしょう。
 むやみにいのちあるものを害さないという思いやりの心は、宗教の如何を問わず、根本から自他を救います。

2 不偸盗(フチュウトウ)戒

「社会的立場などを利用した賄賂などの不当な要求をしなくなる。
 そうすると、強盗や窃盗などによって自分の財産も奪われにくくなり、自分もまた、奪わなくなる」

 自分へ本来、与えられていないモノを好き勝手にしようとするのが盗みです。
 ここのところ相次いで、土木・建築関係の手抜き工事や食品・薬品関係のルール違反などが明るみに出ました。
 不当に得る悪業(アクゴウ)は必ずツケが回ってきます。
 たとえ強盗や窃盗に遭わなくとも、因果応報の報いは受けねばなりません。

3 不邪淫(フジャイン)戒

「誰かと男女関係が成立している異性に対して、勝手に接触を求め、執着しないようになる。
 非倫理的で誰かを傷つける関係を求める者は寄りつかなくなり、自分もそうしないようになる」

 恋に落ちると言うとおり、異性を好きになる恋愛感情は、ものの道理とは無関係に〈起こってしまう〉ものであり、防ぐことはできません。
 だから、問題は、その感情の扱い方に尽きます。
 きちんとコントロールすれば、自分にとっても相手にとっても人生の味わいを深める佳い体験になり得ますが、煩悩(ボンノウ)のままにふるまえば、ろくなことにならず、老いて死を間近に感じる頃には取り返しのつかない後悔の念に襲われることでしょう。

4 不妄語(フモウゴ)戒

「用いる言葉はすべて真理に従い、正しくなる。
 嘘偽りやインチキな書面で騙そうとする者が寄りつかなくなるし、自分も誰かを騙せなくなる」

 自分の言葉に注意をはらっている人は、他者の言葉にも注意深くなるものです。
 ただ疑い深ければ騙されないというわけではありません。
 他人を悪者扱いするより先に、自分自身が常々どうなのか、言葉づかいに気をつけるようにしましょう。

5 不綺語(フキゴ)戒

「言葉に虚飾がなくなる。
 駄洒落、無意味なおしゃべり、時間つぶしの稽古事などに縁がなくなる」

 人生は時間です。
 時間が創造的に用いられてこそ、人生は活き活きしたものになります。
 もちろん、仕事の成功であっても、家庭の平安であっても、趣味の探求であっても、何かの結果をつかむためには休息も準備も気分転換も必要であり、そうした時間も含めて自分はどう過ごしているか、振り返ってみたいものです。

○過ちを犯さないようになるには?

 私たちが十善戒に背く過ちを犯す理由の一つは、〈自分〉の絶対視にあります。
 よく用いられる数珠の例えはこうです。
 108個の珠が集まって一本の数珠になりますが、数珠とはその全体に対して与えられた名称であり、珠の一個一個、どれをもってしても、数珠であるとは言えません。
 私たちは、数珠の全体に対してそう思い、そう呼んでいるに過ぎません。
 私たち自身をふり返ってみても同じです。
 指や足など、どこをとっても〈自分〉そのものではなく、たとえ大好きな恋人であっても同じです。
 恋人の髪一本すらも愛しく感じますが、では髪を切ったなら、あるいは病気で失ったなら、恋人は〈減る〉のでしょうか?
 自分も恋人も、地や骨のように固いもの・水や血液のように流れるもの・火や体温のように温かいもの・風や呼吸のように通り抜けるもの・それらが互いに妨げず自在にはたらくバランスのとれた場としての(クウ)・精神という6つの構成要素によって存在しています。
 これを六大(ロクダイ)と言います。
 また、自分も恋人も、身体を含む物質・感受作用・表象作用・意志作用・認識作用が集まって存在しています。
 これを五蘊(ゴウン)と言います。
 そして、これらが全部、たまたま、因と縁によってうまい具合にまとまっていればこそ、その結果として自分も恋人も居るに過ぎません。
 また、身体を構成している数十兆もの細胞は数年ですべて入れ替わりますが、そうすると、大人になった人は子どもの頃とは別人でしょうか?
 あるいは、医者になる決心をしていた子供の頃の心と、教師になってはたらいている今の心は別ものでしょうか?
 自分とは実にファジーな存在です。

 私たちは、普段、何気なく〈居る〉と思っている〈自分〉ですが、このようによく考えてみると、諸条件の集まりによってガラス細工のように、海辺の砂山のように、危うく存在しているだけであると気づきます。
 確たる不変の実体があっての自分ではありません。
 この気づきが、(クウ)を知る入り口です。

 もちろん、自分は(クウ)だからといって、「去年の自分はどこにもいないので、今の自分には関係ありません」と去年の約束を反故にできるわけではありません。
 大切なのは、自分にも恋人にも何ものにも、〈普段のありよう〉と〈究極のありよう〉との二面があるのを忘れないことです。
 そうすると、普段のやり方で行き詰まった時、究極の観方から、思わぬ打開策が見出されたりします。
 自分の絶対視、何かの絶対視というものの本質に背いた無理な観方から生じた壁が、嘘のように消えたりもします。

 自然に、妄りな殺生、盗み、不貞、嘘、おべんちゃらなどから離れることにもなるはずです。
 十善戒を唱える修行と(クウ)を観る自覚によって、自他の苦を克服したいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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