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2012
09.13

お骨を拾って具合が悪くなるなら、「南無大師遍照金剛」を唱える

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 中年のBさんが憔悴しきったお顔で相談に来られました。
「とても近しいおつきあいをしていた方のお骨を拾った時から、お骨の匂いがきつく鼻につくようになり、身内のお骨拾いでも真っ青になってしまいます。
 周囲から、この人はいったいどうしたのだろうという眼で見られているようにも思え、辛くてなりません。
 ある占い師のところへ行ったら、高額なお祓いを命じられました。
 どうすれば良いでしょうか?」
 お答えしました。
「私たちの感覚は、心の状態によって鈍感にもなり、過敏にもなります。
 また、強烈な体験は、後から同じような現場にぶつかった時、歴史として残っている心の深い部分から当時の反応を伴って再び立ち上がる場合があります。
 それは循環をくり返すうちにますます強まる場合もあります。
 この連鎖を断ち切るためにはどうすれば良いか?
 お大師様を信じておられる貴女にお勧めするのは、そうした現場へ向かう途中、あるいは現場で『南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)』を唱えることです。
 心中で、あるいは自分だけに聞こえる微音でやりましょう。
 過去へ向かおうとする心を、お大師様へ向けるのです。

 私の仕事には、皆さんの大切な人の死を共に悼むというものがあります。
 ご葬儀です。
 Bさん、想像してみてください。
 貴女のご家族やご友人が、毎月、何人も次々と亡くなったなら普通の状態でいられますか?
 もちろん、私は、実際のお身内のお心そのものにはなれませんが、くり返し悲嘆を共にしていると、つくづく自分の因縁を想います。
 誰もが忌避する死にまつわる悲しみや淋しさを幾度となく感じながら生きるようになったのには必ず原因があるはずであり、それを懺悔するのが一日の始まりになっています。
 こんなことが続けられるのは、み仏のご加護があるからです。
 四国八十八か所を巡るお遍路さんが必ず唱える『南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)』は、それをいただくための切実な心の叫びです。
 お大師様は必ずお応えくださいます。
 どうぞ信じて行ってください」




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
11.01

占いは当たっているか

 当山を訪ね、大日如来が背中合わせになっている様子を見た占い師Aさんがびっくりし、の判断を基にして「この祀り方はまちがっています」と指摘しました。
 そして、いきなり住職にあってそれを言おうとしたところ、事前に日時の申し込みをしていなかったので当然、会えませんでした。
 今度は「来る人に合わせてゆっくり話を聞かないのはお釈迦様の対機説法に反している」と言いました。
 事実を知らなければ実体に即した判断ができないこと、そして私たちの〈視野〉あるいは〈思考の庭〉あるいは〈判断のパターン〉なども考えさせられるできごとでした。

 これまで何度かブログへ書いたとおり、当山の共同墓法楽の礎』の上におられる金剛界・胎蔵界二体の大日如来様が背中合わせになっているのは、3月11日の地震と津波に原因があります。
 地震の直後、それまで十三仏様の中心で西を向いておられた金剛界の大日如来様だけが、その場ですっかり後ろ向きになりました。
 重心の高い構造であり、心棒が入っていたわけでもないのに、倒れもズレもせずクルリと向きを変えたのです。
 しかも、その向きは東、つまり、津波の来た方角でした。
 私はあまりのありがたさに合掌しました。
 その後、幾人もの方々がありがたい大日如来様を拝まれ「このままにしておいて欲しい」というご要望もいただきました。
 私もそう決心しましたが、今までどおり正面である西側から十三仏様を拝むと中央の大日如来様が背中しか見えません。
 そこで、かねて「二体であって一体である」とされる、動きを表現する金剛界大日如来様と広がりを表現する胎蔵界大日如来様を、一緒にお祀りしたいと考えていたので、新たに胎蔵界大日如来様をお招きし、西向きに安置しました。
 そもそも多面多臂(タメンタヒ…顔や腕が複数ある姿)のみ仏はたくさんおられ、密教寺院における背中合わせの配置は珍しくありません。

 これまでに、津波でご家族を失ったたくさんの方々がご家族を共同墓法楽の礎』へ納められました。
 善男善女は、『法楽の礎』の東側にある鉄扉を開けて納骨する際、その上でお守りくださっている金剛界大日如来様へ合掌されます。
 はるか東の沖から襲来する津波に呑み込まれまいと必死になって西を向いて走り、救いを求めた方々の願いへ応えようとするかのように東向きになられた大日如来様は、一段と神々しさを増されました。
 また、十三仏の中心に座られた胎蔵界大日如来様は十二体のみ仏を左右に従えるかのように、どっしりと座っておられます。
 当山を訪れる方々に、ぜひ、この事実を知っていただき、特に、この津波による犠牲者を悼む心で足をはこばれた方には『法楽の礎』の裏手に回り、太平洋を向いた金剛界大日如来様にも手を合わせていただきたいと願っています。

 さて、当山も密教の占い法を伝授され、人生相談などにおいて使っています。
 ただし、全体はあくまで袈裟衣をまとってみ仏と一体になった状態での総合的判断です。
 たとえば経を用いて、「天地否(テンチヒ…天と地がそれぞれ上下に離れてしまう状態)」が来山のされた方の運勢に含まれていた場合、「あなたと相手はどんどん離れていますから、この交際は凶です。やめなさい」などとは決して言いません。
 この流れの原因は何に起因しているのか、このままであればどうなり得るのか。
 また、この方はこうした流れを心から心配しているのか、それともこの流れを容認したいのが本音なのか。
 あるいは、流れの状態がわからないことが不安の原因なのか。
 実はもう流れに気づいていて、どうしても変えたくて足を運ばれたのか。
 変えたいと考えている方向性が、この方にとって、よりまっとうに生きられる向きなのか。
 周囲の状況はどうか、良い方向へと向きを変えるための協力者がいるかどうか、あるいは背反の方向を助長している人はいないのか。
 などなど、さまざまざポイントなども対話によってチェックし、そして、「天地否」をもたらした経以外の判断法も組み合わせつつ、当人にとって最善の道を探します。
 だから、決して吉凶を断定しません。
 目の前におられる方と一緒に救われる道を探すことがすべてです。
 もしも医学的な判断が必要であったり、法律的な判断が必要であったりと、問題がプロの領域に深くかかわっていると考えられる際は、決してそこまで踏み込んだもの言いをせず、信頼できる医師や弁護士を紹介します。
 それは修法するプロとしての自分の領域と能力の限界とをいくばくかは認識しているからです。

 経は、儒教において筆頭に挙げられる深遠な内容を持った哲理の書です。
 人間の性格、人生のありよう、運勢の変化、対人関係の動きといった分野のすべてのパターンが含まれているのではないかとすら思えます。
 だから、お大師様に習い仏教だけでなく儒教も道教も学んでいた江戸時代あたりまでは、密教行者が経を学ぶのは当然でした。
 読み込み、じっと想うと、人生の諸相が万華鏡を覗くように見えて魅了されます。
 こうした経でも、用いる人の姿勢によっては危険性を生みます。
 それは、「パターン化」です。
 たとえば、例示した「天地否」による「この交際は凶です。やめなさい」といった断定です。
 占い、「あっ、天地否が出た」でとどまった瞬間、思考停止に陥る可能性があるのです。
 私は、ある裁判官の話が忘れられません。
 裁判長を務めたB氏は、判決を下すと同時に、被告へ「わかりましたね」と諭しました。
 その時、被告はがっくりとうなだれ、B氏はいかにも深く反省しているらしい被告の様子に、「自分の判決は正しい」と確信を持ちました。
 しかし、真実は真逆でした。
 無実だった被告はその時、「どうしても裁判長はわかってくれないのか」と深く失望していたのです。

 人間は神になり得ません。
 しかし、み仏の子として生きることはできます。
 神のごとき判断はできなくても、縁の人のためを思い、自分でできるかぎりのことはできます。
 それには、自分の分を知り、先入観を捨てて相手の真実を観ようとせねばなりません。
 AさんにはB氏を思い出し自分を省みるありがたい機会をいただきました。
 お二人に感謝しつつ、今日も慎重に懸命に法務を行います。合掌。

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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2007
04.03

人生相談とスピリチュアルブームの問題

 このところ、「見ていただけるんですか?」「和尚さんは見えるんですか?」といったお問い合わせが増えたので、もう一度、人生相談に関することを記しておきます。

 これまで何度か書いたとおり、当山における人生相談は「世間話」ではありません。
 わざわざ足を運ぶ方々は、どなたも人生の一大事を抱えておられ行き詰まっておられる以上、当然です。
 高名な占い師や祈祷所などへさんざん通ってもどうにもならず、「もしや」と思ってご来山される方も少なくありません。
 愚かな行者が、世間話を通じて、こうした方々へ一体何を申し上げられましょうか。

 だから、み仏と一体になる法を結ばない限り、決してお相手をできません。
 ご来山される方がいのちがけなら、それを我がこととして受け止め、最善の道を示されるのは、み仏以外のものではないからです。
 たとえ話題に身近なできごとが含まれていたとしても、ご相談を受ける私の口から出る言葉はみ仏のもの以外であってはならず、もしも不適切であったなら、それは法の結び方に甘さがあったということになります。

 こうして人生相談を行う時、ご来山された方の訴えられる問題を通して、悩み苦しむ方と一緒に、私もみ仏の法を聞いています。
 むしろ、私が正しく聞ければこそ、過たずに口から出せると言えましょう。
 ここで注意せねばならないのは、「聞く」と言っても、スピリチュアルブームにはまっておられる方々のように、「お告げが聞こえる」「見えないはずのものが見える「こういう気がする」などといったものとはまったく異なるということです。
 正しく修行した上で正しく法を結べば、み仏は〈必要なものを必要に応じて〉お与えくださるので、〈知るべきことを知り〉〈聞くべきことが聞こえ〉〈見るべきものが見える〉のは当然です。
 何の才能もなく、特段勘が優れているわけでもない凡人の私であっても、体験上、断言できます。「必ずお救いくださる」み仏のお約束以上信じられるものはありません。
 もちろん、法の中で見たり聞いたりするのは、日常生活で用いる目や耳ではなく、法によって清められた目の心であり、耳の心です。

 こうしたことを転識得智(テンジキトクチ)と称します。
 日常生活にあっては、見て迷い、聞いては迷うのが私たちの常です。
 見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れて万華鏡のように動く意識が「前五識(ゼンゴシキ)」です。
 これが法によって清められれば、必要な所作を成すことができる智慧、すなわち「成所作智(ジョウソサチ)」に転換します。
 ここに映るものが、〈知るべきこと〉〈聞くべきこと〉〈見るべきもの〉です。

 ところで、このところ、急激に「見える」「聞こえる」などによる弊害が明らかになってきました。
 迷った心に生じる妄想を道しるべとする方々は、必ず思考停止をしています。
 必要なものをよく学び、優れた人の話をよく聞き、自分自身でよく考え、よく突きつめねばならない大切な場面で妄想へ逃げれば、結果は「推して知るべし」です。

 そうした生き方は自分自身を向上させず、迷いの闇へ誘うだけでなく、周囲の人々を知らぬ間に傷つけ、知らぬ間に疎んじられ、やがては周囲を恨んだり世を儚んだりするようになり、最悪の場合は精神に異常を来します。
 決してマスコミはこうした現実を採りあげませんが、スピリチュアルブームは確実に恐ろしい害毒をもたらしつつあります。
 特に子育てをする世代の女性たちの現状には、憂いが深まるばかりです。

 そもそも、勘は、磨かれ、研ぎ澄まされてこそ本来の力を発揮します。
 プロ野球のバッターは気の遠くなるほど素振りを重ねて打てるようになり、大工さんは工夫に工夫を重ねて1ミリ以下の誤差でカンナをかけられるようになり、画家は天賦の才能をデッサンなどの修練によって鍛えてこそ精神世界を表現できるのではありませんか。
 おだてられて少々何かをやったからといって、誰しもが超常的な力を発揮できるはずなどあり得ません。
 いくら漫画ブームとはいえ、大人までが現実と非現実を区別できなくなれば、日本はおしまいです。
 漫画ブームと連動して商業ベースに乗っているスピリチュアルブームは、強く警戒したいものです。


 さて、人生相談です。
 当山では、ほとんんどの場合、ご相談に来られた方自身が行うべきポイントをお示しします。ただただ「すがらせる」ことはありません。
 それは、人生相談をきっかけとして、共に向上したいからです。
 菩薩様を漕ぎ手としてこの世の極楽へ向かう聖なる船へ、ご縁の皆さんと共に乗りたいと願っているからです。

 誰かの悩み苦しみは特定の人だけの問題ではなく、人間全体の悩みであり苦しみです。
 誰かの悩み苦しみが解消すれば、人間全体の悩み苦しみが減るのです。
 悩み苦しむ時こそ「縁の時」です。
 共にみ仏のご加護をいただき、まず自分を清めて苦から脱し、この世をよりすばらしい世界にしましょう。









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2005
07.18

お墓によって吉凶はあるか?女性が建ててはいけないか?

 昨夜、ご年配の檀家さんから人生相談がありました。
「お墓を守っている妹がいるんですが、古くなり傷もついたので修理しようとしたら、お寺さんから修理でなく建て直しなさいと言われました。
 見積額は300万円近くにもなります。
 途方に暮れていたところ、今度はテレビで、有名な占い師が、女性がお墓を建ててはならないと言っていた場面を見て、いよいよ困っています。どうすれば良いんでしょうか?」

 以前『法務ノート』に書いたものを記します。
 あの時は、Kさんが、占い師からお墓を傷ついたままにしておくと祟られますと言われたことがきっかけでした。

 お墓はみ仏に降りていただき、御霊と一族をお守りいただくための聖なる場ですから、そこに乱れがあって良いはずはありません。
 きちっとした形を目にして正しい教えを聞き、すなおに手を合わせればまっすぐで穢れない心がつくられます。
 しかし、形が崩れたものを目にしたり、教えがなかったり、ただ怖がっていたりすれば、心にも歪みや隙や汚れが生じることでしょう。
 そうした欠陥を放っておく姿勢自体が、自らの運勢を暗い方へと傾かせ、無神経さやいいかげんさを利用する悪しき者たちに利用されだまされる場合があるかも知れません。
 新しい仏壇が入りご本尊様の開眼供養の修法をした後で、「ご本尊様には必ず真っ正面を向いていていただくように気をつけてください」と申し上げる場合があります。
 また、僧侶は、常に仏器などをきちっと左右対称に並べてから修法をします。
 それは「完全」「最高」をその本性とするみ仏をお呼びするのにふさわしくないからです。
 無垢をめざしている御霊へ失礼だからです。
 このように、「欠陥のあるお墓を放っておくと気がかりだ」という感覚には理があります。
 ただし、それはすべて自分の心にかかっており、相手がこちらへ祟るのではありません。
 
 理のない者や真の解決法を示さず利用しようとする者は、必ず怖がらせ不安にさせます。
 そうした者に耳を貸さず理を解すれば、あとは今の自分ができることを実行するのみです。
 もしもお金がないならば、詫びて供養の心を篤くすることです。
 折節に、プロに供養してもらうのも良いでしょう。
 そうしていれば、決して運勢が傾くことはありません。
 むしろ、そうした健気な心がご先祖様へ届けば「よし、ここは何としても護ってやらねば」といっそうご加護をいただけるかも知れません。

 Tさんは、遠くにあるお墓に身内のお骨が納められているのですが、種々の事情によって近所へ移すことが難しく、「いつの日か、必ず移すか分骨するかしよう。
 それまでの間、お骨はなくともあるつもりでお墓を造って供養しよう」と思い立ちました。
「良いんでしょうか?」と真剣です。
 もちろん結構なことです。
 親族間のもめごとや旦那寺との軋轢などが重なり形は極めて変則的になっていても、供養する心は必ず御霊へ届きます。
 御霊は私たちの魂が発するものを感じながら自由に移動していますから、み仏のご加護があって自分を供養してくれる場が造られれば、そのお慈悲とまごころに感応してお喜びになられます。
 ご守護と供養の心が薄い場所よりも、教えが説かれ、環境も良く、暖かい心で建てられた場へ来られ、ご一族をお護りくださるに相違ありません。

 さて、質問への答です。
「修理は良くない、建て直しなさい」については、たとえば何かの危険性があるといった物理的要因でもあればともかく、道理がありません。
 隠れた都合があるのではないでしょうか。
 み仏のため、御霊のために自分でできる範囲のことを堂々と行ってください。
 それ以上、人としてまことのある行為はないのですから。

「女性がお墓を建てると良くない」などと言う話に怯える必要はまったくありません。
 釈尊もお大師様も、そんなことで男女の区別をしてはおられません。
 まして、少子高齢化・男女共同参画の時代をどう生きるか、その道理を考えてもすぐに判ることです。
 いくら有名な人の言葉でも鵜呑みにしてはなりません。
 ただただ怯えてはなりません。
 供養についてはプロの僧侶へお訊ねください。
 み仏の説かれた教えと正統な修法をもってお応えします。
 ご安心ください。




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