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2016
11.24

被災者へのイジメ ─東日本大震災被災の記(第188回)─

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〈共に咲く四国霊場の花たちのように〉

 福島原発事故により膨大な数の人々が生活を失い、住居を失い、職を失い、友を失い、いのちをも失いつつある。
 転校を余儀なくされた子供たちの行く先には、救いの手ではなく、イジメが待っている。
 かねて指摘されてきたことだが、転居や転校に伴う自死という最悪の事実までが報道されるようになった。
 データ上では子供たちの世界でイジメが増えているわけではなく、報道される機会が増えただけだとも言われる。
 しかし、幾度、報道されてなお、事態があまり改善されていないこともまた事実だろう。

 今回、横浜市でいじめを受けた男子中学生の手記が大きく報道された。

「いつもけられたり、なぐられたり」
「いままでいろんなはなしをしてきたけど(学校は)しんようしてくれなかった」
「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。」


 もはや登校はできなくなったが、「ぼくはいきるときめた」という。

 学校の対応も、教育委員会の対応も遅れに遅れた。
 その背景には、子供を指導する大人の側に巣くう偏見や誤解や無理解があると、各方面から指摘されている。
 それはそうだろうが、背景にはもっと大きな問題があると思う。
 一つは、〈自分だけ〉で生きる感覚の蔓延である。
 もう一つは、〈攻撃〉的心性が野放しになっている子供たちの生活環境である。

 まず、〈自分だけ〉の問題である。
 小さいうちから一人だけで過ごす空間が与えられ、自己中心の感覚が発達し、指導し抑制をかけてくる親や先生を煩わしく感じる。
 周囲と折り合いをつけて円滑にものごとを行う能力が開発されず、軋轢(アツレキ)や対立が起こると、相手を攻撃して自我を通すか、もしくは簡単に周囲との関係を断って逃げようとする。
 そうして大人になった人々の世界も似てきた。
 年をとっても同じである。
 それは心を邪慳にし、共生でしか安心して生きられない人間社会の真実とずれた邪見を育てている。

 もう一つ、〈攻撃〉の問題である。
 子供たちのゲームもマンガも暴力とセックスという二つの刺激に満ちている。
 その典型がセクシーな衣装で剣を手にする女性闘士の姿である。
 これほどまでにほとんどワンパターンの遊びが流行っている理由は一つしかない。
 子供たちをより刺激し、お金を使わせる商売で大人たちが儲けようとしているからだ。
 一方、親は子供になるべく時間をとられず、好きなことをしたり、はたらいたりするために、子供が何かに夢中になっている状況を放置する。
 そうしているうちに、繰り返し繰り返し〈攻撃〉に慣れた子供たちが、たやすく弱い者を攻撃し、勝者の気分を味わって平然としているようになったまでのことではないか。
 なお、韓国では禁止され、世界中で日本だけが異様に流行っているパチンコ店の光景も実に似ていることを無視はできない。
 経済と文化と生活のありように重大な歪みが認められるのではなかろうか。

 無惨な状況に立ち至った真の原因は、人々が自己中心で無慈悲になったところにある。
 私たちが安心して幸せに暮らせる社会を創るためには、共に生きるという生きものの真実に立った考え方や生き方を取り戻すしかない。
 攻撃し勝利するだけの浅薄な快感、弱者を痛めつける陰惨な悦楽よりも、誰かのためになって得られる深く揺るがない喜びにこそ惹かれる価値観や感性を育てねばならない。

 当山は「相互礼拝」「相互供養」の法話を行い、人生相談のおりおりに、親御さんにもお子さんにも「お互いさま」「おかげさま」「ありがとう」の実践を勧めている。
 生きとし生けるものを尊び、共に生かし合う共生と思いやりの心を育てることこそ肝要ではなかろうか。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2016
10.21

アボリジニの表現 ─奪う者、奪われざるもの─

2016-10-21-0002.jpg

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「人々はかつてここに住んでいた。
 白人たちの姿を見つけると、
 人々は丘や岩場に駆けのぼって逃げたものだった。
 彼らは白人たちを恐れていた。
 私の母親と兄弟たちも逃げ出した。
 なぜなら、白人たちはマルトゥの人々を撃ち殺していたからである。
 白人たちはこっそりやってきて、そして銃を発射した。
 マルトゥの人たちはみんな逃げだし、
 プンタワリイにたどりつくまで走り続けた。」(アボリジニ:ダーダー・サムサン)


 オーストラリアには、何万年も前から住んでいるアボリジニという先住民がいる。
 そこへ侵入した白人は、土地もいのちも奪い、勝者の歴史を編んだ。
 上記の文章は、アボリジニの証言である。

 侵略を象徴するのが南北に約2000キロ続く「キャニング牛追いルート」である。
 20世紀初頭、北部の牧場から砂漠を越えて南部へ運ぶための道路が造られ、たくさんの井戸が掘られた。
 そこが先住民にとって、心といのちの支える聖地であることはまったく無視され、彼らは邪魔ものとして排除された。

 やがて非人道的な行動が問題となり、王立委員会において調査された。
 チームに参加していた料理人エドワード・ブレークは、アボリジニをつかまえて首に鎖をつけたり、新しい井戸を掘るために地域の水源を破壊するなど、数々の蛮行について証言したが、それを証明できなかった。
 建設は公認され、殺し合いの歴史を刻みつつ因縁のルートは半世紀にわたって使われた。

 21世紀に入り、過去のルートをたどりつつ、白人とアボリジニが協同して芸術活動を行い、支配者と被支配者の双方から歴史を観る大規模なプロジェクトが計画された。
 その成果は「ワンロード 現代アボリジニ・アートの世界」と銘打った展示会で公表され、展示会は日本各地でも開催された。
 イントロダクションにはこう書かれている。

「この展覧会では、アボリジニの文化には何千年にもわたる継続性があるということが、強いメッセージとなっている。
 それは、オーストラリアという若い国家の建設の歴史のなかで語られることのなかった、先住民という少数者によって記憶されてきた物語に光を当てる試みであった。
 それは、主流社会にとってこのような異なる歴史を理解することが、いかに重要であるかを訴えかけている。
 これはオーストラリアに限られたことではなく、日本人にも、そして誰にとっても無縁のことではないだろう。
 見えないことになっており、主流社会が持つ記憶とは異なった記憶、普段は見えなくされてしまっているストーリーは世界各地にあるはずだからである。


 自分が、かつて何を行った人々の末裔であるかを知ることは、自分を客観視させ、他の人が異なった歴史を背負っていることを知れば、独善は消えよう。
 それは視野を広げ、人生を変えるだろう。
 また、今の文明が何に立ち、どこを目ざしているかも見えてくるだろう。
 先祖を貶め、誇りを捨て、自虐的になろうというのではない。
 私たちの心に巣くう弱者や少数者への居丈高な姿勢、あるいは辛い立場や状況にある人々を無視する姿勢の根源的卑しさを恥じてやまない。 
 たった今、他者への不当な侮蔑や抑圧や攻撃や、不毛の対立などをもたらす高慢心を根こそぎ処理したいと思う。

 たとえば、こうした景色が視野に入ってくる。
 高浜原発の審査に対応していた関西電力のA氏は、自殺前日までの19日間で150時間の残業をこなしていた。
 想像を絶する状況だが、管理職なので労働時間については労働基準法の適用を受けず、違法ではなかったという。
 しかも、原発に関する特別な通達もあり、ほとんど無制限な労働が〈適法に〉課される。
 適用除外となっている人々の人数や残業時間などを秘したまま、公表しない企業もある。
 末端では非正規雇用の比率が上がり続け、幹部もここまで非人間的な扱いを受ける。
 社会における〈適法〉な世界ですらこれほど非人間的になっているのだから、いわゆる〈ブラック〉の世界がどうなっているかは推して知るべしという他ない。
 いったい、誰のために、健康を保ちながら安定的にはたらくという人間らしい生活を根元から破壊するような仕組みが作られたのだろう?
 多くの人々を不安に陥れながら、誰が利を得ているのだろう?

 かつて、アボリジニはこう感じていた。

「人々はカリティヤ(白人)、あの白い肌を見て『ククル(悪魔)かもしれない。幽霊が墓から出てきたのだ』と心の中で思っていました。」(アボリジニ:クルパリン・ベシィ・ドゥーディ)


 人々を踏みにじりながら自分の利をだけをもくろむククルは、いつの世も、どこにでもいる。
 アボリジニは殺されるまでその存在に気づかなかった。
 私たちも、すでに殺されている。
 ここ20年ほどで急拡大した不公正はこれ以上、放置してはならないと思う。
 
 作家の池澤夏樹氏は、アボリジニの芸術についてこう書いた。

「彼らと彼らの絵は人が生きる姿勢の指針のように思われる。」


 作品に目を凝らし、心を向け、静かに自分とこの世を眺めてみたい。




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2016
10.03

根というもの ─『こども東北学』を読んで─

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 久方ぶりに「根無し草」という言葉に出会った。
 大正大学の山内明美准教授が平成23年11月に発行した『こども東北学』である。

「故郷から離別する者たちはみな、『根無し草』になる。
 跡取り娘は例外だけど、あるいは村の内部に嫁ぐのでなければ、必然的に村育ちの女の子のたどる道。」

 氏は「自由な生き方を許してはくれない故郷へのやりきれない気持ちと、そこで育ててもらった感謝の気持ち」を抱きつつ、東京暮らしを始めたものの、「村で育った自分が描くことのできる将来には、つねに眼界がつきまとった。」ので、「何になりたいか、と考えても、自分の世界にはぴったりくるものはなかなかみつけられなかった。」と言う。
 そんな氏は「都会と田舎、先進地と後進地という、ふたつの際立った対立軸」を見すえつつ、自分の立ち位置を固めつつある。

 この本を読みながら、不惑を越えるまで小生につきまとっていた「根無し草」感覚を再考した。
 あるシーンが忘れられない。
 受験のために上京した友人と二人で、夜の江戸城外堀を流れる真っ黒な水と、駅の光を背景にしてシルエットだけをくっきりと見せながら長方形の出口からひっきりなしに吐き出されてくる人々を眺め、僅かな言葉を交わした。
「呑み込まれないようにしよう」
「うん」
 それが墨のような水なのか、あまりにも眩しい光なのか、膨大な人の波なのか、あるいは澱んだ空気なのか、それは言わず語らずだったように思う。
 昭和40年代の日本を覆っていた東京志向に駆り立てられて故郷を後にするつもりではいたものの、行った先が安住の地はではないことを、もう、感づいていた。
 そして、落ちついたはずの大学では、国策の研究会に入ったが、一升瓶を傾けつつ熱心に議論するメンバーのほとんどが田舎者なのに、なぜか、心底からはなじめなかった。
 先輩たちが問題意識を忘れたかのように嬉々として大企業へ就職して行く姿にも、とまどった。
 最も尊敬していた先輩は、ずっと法学部のトップクラスだったのに、「田舎で百姓をやる」と佐渡へ消えてしまった。
 それから20年、事業の失敗で生活の根を実際に失い出家した頃から、不思議なことに名無し草という感覚は遠ざかった。
 托鉢にかけるという〈その日暮らし〉になったのに……。

 では今、小生の〈根〉はどこにあるのか?
 生家(角田市)はすでになく、育った仙台市の家も手放し、帰郷する先はない。
 大和町宮床で寺院を開基し、墓苑も造ったので、死ねばここに埋葬してもらえるだろう。
 では、ここが新たな故郷か?
 無論、出家した身に娑婆の家は無関係、み仏の世界が還るべき故郷である、と言うのは簡単だし、そのとおりだ。
 しかし、現に生きて死ぬこの世に在る身として、それだけで済ませるわけにはゆかない部分が残っている。

 准教授は最終章「故郷は未来にある」において書いた。

「3月11日。
 放射能汚染が国土を侵す現実の中で、私たちの眼差しが1945年の広島と長崎へ、もはや届いていなかったことがあきらかになってしまった。」

「世界で唯一、原子爆弾での『加害』を受けた国が、まるで腹を空かせた蛇が自分のしっぽを食べるようにして、原子力発電所の事故は起きてしまった。
 この国に生きるひとの多くが、もはや、原発と田んぼが共存している風景を不思議だと感じないほどの鈍感さの中で、自分自身への『加害』が起こってしまったのだ、とわたしは思う。」


 小生は今、広島に残る被曝の生々しい資料を当山へ残そうと考えている。
 戦場へ送る人も、送られる人も、ギリギリの決断をする際、戦争というもの、その最悪な手段が戦場に何をもたらすのか、〈最後の一孝〉をしてもらいたいと願っているからだ。

 准教授の言う「いくつもの僻地が積み重ねられた、最果ての土地というイメージとわかちがたく結びつけられた名称」である〈東北〉の地で、日本は再び核の餌食となった。
 そして、そのことは〈中央〉でなく〈東北〉で起こったがゆえに、早々と脇へ置かれ、原発という名の核発電は再稼働し始めている。
 東北はかつて、季候が稲作に不利だったため、白川以北一山百文と蔑まれつつ、富国強兵を目ざす国策のため、米の供給に励んできた。
 その東北が中央へ電気の供給を続けた挙げ句、土地を奪われ、追われた。
 准教授が本書でも指摘するとおり、『続日本紀』によれば、陸奥に住む蝦夷たちは大和政権によって関西から九州地方へと送られ、はたらかされ、殺されもした。
 陸奥は道の奧であり、東北であり、そこに生きる人々は差別され虐げられてきた。
 小生が東京で生きようとしたおりの極めて複雑な違和感の中に、そうした歴史が生んだコンプレックスもあったのだろう。

 広島と長崎の原爆に続き、原発によって核の犠牲となった東北には、そのことに関する問題提起を怠らない使命があると思う。
 小生は今、自らの〈根〉が「東北」にあると感じている。
 



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2016
08.19

猛暑が教えたこと ─文明の選択へ─

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〈福島原発における放射性物質の拡散による避難区域を、チェルノブイリ事故の基準で考えた場合の地図〉

 多くの方々が「今年の夏は暑かった」と感じておられるのではないだろうか?
 文字どおりの酷暑であり、当山の本堂にある温度計は36Cを初めて越えた。
 むろん、立秋を過ぎた現在の残暑もまた、辛いものがある。
 小生のような年配者になると、自分が年々、弱ってきているので、特に応えるという面もあるのだろうと考えるが、それでも酷くなったと思えてならない。

 進化生物学者長谷川眞理子氏は「ヒトの適応力、追いつかない」と語っている。
 そこには、瀧のように汗をかいて体温を下げるという珍しい適応力に恵まれた人間でも、この先どうなるかわからない、という恐ろしい予見が含まれている。
 私たちの漠然とした「絶滅」への不安が徐々に裏付けられつつあるのだろうか?
 以下、朝日新聞の抜粋である。

「ヒトは、大量に汗をかくことでその蒸発熱で体温を下ログイン前の続きげることができる、珍しい動物です。
 ウマも汗をかきますが、ヒトは毛がないので、水のような汗をかく。
 炎天下のサバンナでもトコトコと歩いて獲物を追い、植物を探す。
 暑さに対してそういう特殊な適応をした、哺乳類の中でも変わった生き物といえます。
 だからこそ、マラソンもできるんです。」


 私たちは寒さには耐えやすい。
 暖かい建物の中で、暖かい衣装を身にまとっていればよい。
 他のほ乳類もまた、地中に潜ったり、何かをかぶったりしてがんばれる。
 ところが、暑さに耐えるのは難しい。
 この夏をエアコンなしで過ごした方も少なくないだろうが、大変な消耗をされたのではないか。
 他のほ乳類も、せいぜいが汗をかいたり、忙しく呼吸を行ったりするしかなく、あとは木陰でうずくまり、季節が変わるのを待つのみだ。
 

「ヒトには、涼しくするための技術もあります。
 気温が50度近いところなど、風土に合わせて生きていける文化もある。
 暑さへの適応は本来は得意なはずです。
 なのに、体温が上がりすぎて熱中症になる人が増えている。
 その意味を考える必要があると思います。


 環境変化のスピードが速すぎて、対応できなくなってきたのかもしれません。
 都市は冷房の排熱などでヒートアイランド化し、自分で自分を暑くしている面もあります。
 子犬が自分で自分のしっぽを追いかけているみたい。


 氏は「子犬のしっぽ」で都市文明の危うさを衝いている。
 まったく同感だ。
 核発電が核のゴミを生産し続けていることと同じく、目先の楽を求め、環境と未来への負担を増産している。

「人工的な環境のなかで暮らし、自然の変化を感じ取れなくなった。
 対応が遅れることもあるでしょう。」


 朝、目覚める時には、自動管理のエアコンが室内温度を適度に保ち、仕事場もまた同様であれば、自然の変化は、せいぜいが通勤途中かテレビの中におけるできごとでしかない。
 買い物や通院などでしかマンションから出ない年配者にとって、外は気をつけて早く通り過ぎるべき〈危険地帯〉でしかないのかも知れない。
 ましてや、体温よりも高い気温ともなれば、その中に身を置きたい人はわずかだろう。

「地球規模でみても、温暖化は生き物に大きな影響を与えつつあります。
 国連が2001~05年に行った『ミレニアム生態系評価』によると、北半球の99種の鳥やチョウ、高山植物の生息地は10年で平均して6・1キロ北に移動しました。
 122種の植物やチョウ、鳥、両生類が春に出てくる時期は、2・3日早まった。
 暑くなっても身体は急に変われず、逃げるしかない。


 私たちはすでに逃げている。
 私たちの予感はすでに、〈このままどこまでも逃げ切れはしないだろう〉という地点にまで達しつつある。

地球のあちこちで、こうした生息域の変化が起き、生物が絶滅の危機にある。
 水や物質の循環、そして生態系全体が変わったとき、いったいどうなるのか。
 実は生態学者にもわかっていません。
 しかも何万年もかけてできたシステムが100年、200年という時間で変わるかもしれない。
 いずれ安定するにしても、その過程で破壊的な変化が起きないか。
 それもわからない。


 子々孫々やこの国の未来を案ずるならば、誰かを頼るわけにはゆかない。
 日々の生活の中で、車をどうするか、エアコンをどうするか、などなど自分がやれることをやるしかない。
 自分がかかわっていない自分の〈環境〉など、どこにもないのだ。

 しかし、原発事故を起こしたあの時、大多数の国民が脱原発を望んだにもかかわらず、いつしか原発は「ベースロード電源」とされ、消費者が発電方式によって電力を買う企業が選べないまま放置されている状況は信じがたい。

 平成25年9月7日、安倍首相は、東京へオリンピックを招致したいあまり、大見得を切った。
「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。
 状況は、統御されています。
 東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」
 東日本大震災に遭い、福島県のみならず、一時的に故郷の消滅を覚悟した東北の人々は、一様に目と耳を疑ったはずだ。
 そして、東京が時期オリンピックの開催地となり、日本選手がリオデジャネイロで目の覚めるような活躍をしている今、汚染水が海へ流れ出ることすら止められない現実が明らかになっている。
 8月18日、東電は、凍結という方法によって地下水の流れを遮るこれまでの計画が破綻していることを認めたのだ。

 以前も言及したが、ドイツには、オリンピックのモットーを「より速く、より高く、より強く」の3つだけでなく、「より美しく、より人間らしく」を加えた5つにしようと提唱する人々がいる。
 そのドイツでは、日本の原発事故を契機とし、官民を挙げて脱原発に邁進している。
 電力を買う国民は、いかなる方式によって発電されたのかという情報を得て、電力会社を選択できる。
 それは、〈文明の選択〉に等しい。

 国民が願う方向へと政治が動き、経済も動く。
 ここにこそ、文明の「美しさ」も「人間らしさ」もあるのではなかろうか?
 
 危機を我がことと感じとり、子孫と未来への責任を果たす意識こそ、私たちがこの猛暑から受け取るべき贈りものではなかろうか?
 この世は苦海であると同時に、大日如来に荘厳された密厳国土(ミツゴンコクド)でもある。
 贈りものを見過ごさず、合掌する両手で受けとめたい。 




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2016
04.13

妨げられている再生可能エネルギーの利用 ─メルトダウンを隠した東電と原発政策─

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 福島第一原発は、メルトダウンという致命的な事故を起こした。
 その事実を認めたのは事故発生から2カ月後である。
 しかも東京電力はこれまで、「メルトダウンを判断する根拠はなかった」というおよそ信じがたい説明をしてきたが、今年の4月11日、岡村祐一原子力・立地本部長代理が、メルトダウンの判断基準が社内にあることをようやく認めた。
 何と、事故当時、「個人的な知識としては知っていた」という。

 このたび、新潟県の技術委員会は、〈国へ対して報告が義務づけられている〉メルトダウンの事実が隠されてきた経緯を明らかにするよう、東電へ申し入れた。
 成り行きをしっかり見守りたい。

 これはあまりにも重い事実ではないか。
 定められている報告義務を果たすための根拠がなかったという会社の説明はいったい、誰の判断によって行われたのか?
 また、法的義務を果たすための根拠を持っていないという東電の説明を「そうですか」とそのまま放置してきた政府の責任者は誰なのか?
 国民の生命にかかわるこれほど重大なことごとを、本当に政府は〈知らなかった〉のか?
 それで済むのか?
 全国の原発がいったい、いかなる管理をされているか、政府関係者を除く人々の手によって再度、徹底検証が行われるべきではないか。

 ことの重大さは、とてつもなく大きい。
 それは、原発を食品に置き換えてみれば、より明確に想像できる。
 たとえば、多数の人命にかかわる重大事故を起こした会社が、食品に用いられるいかなる物質が危険であるか決めていなかったために、報告義務をおっている危険な事態の発生に気づかず、放置したようなものだ。
 こんな会社が何ら責任を問われず、何ごともなかったかのように存続が許され、以前と同じ商売を続けるなど、社会正義からも、社会常識からもあまりにかけ離れているではないか。
 国に守られた核発電の会社なら何をやっても、何をやらなくても、責任を問われぬまま存続が許されるのか?
 あの当時、福島県どころか、東日本、あるいは日本全体が破壊されかねない状況だったのに……。

 ブログ「あらためて、原発(核発電)の非人間性を想う」へ書いた身近なできごとが裏付けられた。
 共同通信は4月5日、「原発優遇 市場ゆがめる」によって、電力小売全面自由化が形だけのものであるという事実を告発した。

原発の電力は使いたくない」

「価格は高くても再生可能エネルギーの電気を使いたい」


 こうした一般国民の願いが、自由化というスローガンと裏腹に、巧妙な手口で妨げられている。

消費者に提供する電気がどのような発電方式によってつくられたものかを示す『電源構成』の公表が進んでいない

原発事故後、再生可能エネルギーの急拡大に危機感を持った既存の電力会社が『自由化が進んだら高コストの原発は維持できなくなる』と訴え、制限なしに受け入れを拒否することが認められた


 これでは、消費者は発電会社を選びようがなく、発電会社は電力を消費者へ送りようがない。
 

「この結果、原発を抱える電力会社が市場に大量の電力を供給し、小規模な再生可能エネルギーの電気を排除することになる」


 これが現在の電力行政の実態だ。
 膨大な被害者を生んだ世界史的なできごとである福島原発の事故は、原発に群がり目先の利益を求める企業群と、そこから莫大な政治資金を得る政治家によって、あたかも〈なかった〉かのように扱われている。

 ちなみに、福島原発の事故によって国の方向を変えたドイツはこうなっている。

「電源構成はもちろん、発電時に出る放射性廃棄物の量まで公表が義務づけられている」

再生可能エネルギーを最優先で電力網に受け入れ、(再生可能エネルギーを生み出す電力会社に対する)安易な出力抑制を認めない」


 これこそが、日本国民の大多数が望む姿ではないか。
 しかし、日本の電力政策はその正反対である。
 国民の声に背き、原発最優先のまま、何も変わっていない。
 

「真の自由化を実現し、消費者の多様な要望に応えるには、情報公開の徹底に加え、発電設備を持つ既存の電力会社が送電網を支配する体制を早急に改め、独立した送配電会社が発電事業者に公平なアクセスを保証することが重要だ」


 この指摘には、過半の国民が同意するのではなかろうか。
 私たちは本気になって原発問題にぶつからねばならない。
 福島では、吉田所長らのいのちがけの奮闘はもちろん、たまたま溜めたままになっていたプールの水がうまい具合に燃料棒を浸すなど、僥倖としか言いようのない数々のできごとが重なったため、東日本全体や日本全体が破壊されるところまでは行かないで済んだ。
 それでも数十万の人々が直接的・間接的な被害に苦しみ、自死すらも相次いでいる。
 あの時、アメリカ人やドイツ人など、事態を正確に把握していた国の政府から情報を受けた人々は、たちまちに日本から脱出していたことを忘れてはならない。
 メルトダウンにより日本は〈終わる〉と予想されていたのだ。

 政治家の本音を見極め、国民の意思を明らかにしようではないか。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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