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2016
12.06

村上春樹氏の「影と生きる」に想う ─影が反逆し始めた世界─

2016-12-06-0001.jpg

 アンデルセンの短編小説『』を読んだ。
 が主人になり、主人から独立したが幸福を得る一方で、の出生を知る主人は殺されてしまう。
 村上春樹氏は、アンデルセン文学賞の受賞スピーチ「と生きる」で、「暗く、希望のないファンタジー」と言っている。

 氏は、小説を書く過程について述べる。

「僕が小説を書くとき、筋を練ることはしません。
 いつも書くときの出発点は、思い浮かぶ、ひとつのシーンやアイデアです。
 そして書きながら、そのシーンやアイデアを、それ自身が持つ和音でもって展開させるのです。

 言い換えると、僕の頭を使うのではなく、書くプロセスにおいて手を動かすことによって、僕は考える。
 こうすることで、僕の意識にあることよりも、僕の無意識にあることを重んじます。

 だから僕が小説を書くとき、僕に話の次の展開はわかりません。
 どのように終わるのかもわかりません。
 書きながら、次の展開を目撃するのです。」


 氏の言う「シーンやアイデア」は、無意識として隠れている世界へ入る扉だろう。
 私たちも、何年経とうと鮮やかな光景や、繰り返し問いかける問題を溜め込む。
 多くはそのまま忘却されてしまうが、数十年後にようやく、ゆっくりと扉が開くものもある。
 氏は書くプロとして扉を開く。

「『』を読んだとき、アンデルセンも何かを『発見』するために書いたのではないかという第一印象を持ちました。
 また、彼が最初、この話がどのように終わるかアイデアを持っていたとは思いません。

 あなたの影があなたを離れていくというイメージを持っていて、この話を書く出発点として使い、そしてどう展開するかわからないまま書いたような気がします。」

僕自身は小説を書くとき、物語の暗いトンネルを通りながら、まったく思いもしない僕自身の幻と出会います。
 それは僕自身の影に違いない。


 そこで僕に必要とされるのは、この影をできるだけ正確に、正直に描くことです。
 影から逃げることなく。
 論理的に分析することなく。そうではなくて、僕自身の一部としてそれを受け入れる。

 でも、それは影の力に屈することではない。
 人としてのアイデンティティを失うことなく、影を受け入れ、自分の一部の何かのように、内部に取り込まなければならない。

 読み手とともに、この過程を経験する。
 そしてこの感覚を彼らと共有する。
 これが小説家にとって決定的に重要な役割です。


 無意識の世界に在る者が「影」である。
 私たちは、自分が意識し、考える内容だけで動き、生きているのではない。
 思考と行動の多くが無意識に衝き動かされて起こり、時として、それは、表面の意識とぶつかりもする。
 そうした全体が自分というものなので、自分を知り、世界を知り、人間として過たずに生きて行くには、そして他者の不幸の原因をつくらないためには全体像を観る力が必要である。
 この力を磨く読書において、小説が持つ役割は大きい。

アンデルセンが生きた19世紀、そして僕たちの自身の21世紀、必要なときに、僕たちは自身の影と対峙し、対決し、ときには協力すらしなければならない。

 それには正しい種類の知恵と勇気が必要です。
 もちろん、たやすいことではありません。
 ときには危険もある。
 しかし、避けていたのでは、人々は真に成長し、成熟することはできない。
 最悪の場合、小説『影』の学者のように自身の影に破壊されて終わるでしょう。

 自らの影に対峙しなくてはならないのは、個々人だけではありません。
 社会や国にも必要な行為です。
 ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国にも影があります。

 明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。
 ポジティブなことがあれば、反対側にネガティブなことが必ずあるでしょう。

 ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。
 あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。
 というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。」


 世界は「影と対峙し、対決」する時代に突入しているのではなかろうか?
 フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領は、麻薬撲滅の旗を掲げ、人権無視の殺戮を容認した。
 確かに犯罪者は減るだろうが、その一方で、どさくさ紛れに、自分にとって都合の悪い人間を殺す非道な殺人事件がどれだけ起こっているかわからない。
 これまで軍事行動を共にしてきたアメリカの大統領を「地獄に堕ちろ!」などと罵ることは常軌を逸している。
 アメリカの時期大統領トランプ氏の言動も異様だ。
 イスラム教徒やメキシコ人を嫌い、犯罪者として閉め出そうとしている。
 アメリカにいる白人そのものが移民であり、原住民を圧殺した人々なのに、後から来た移民を差別・軽蔑し、忌避するのはおかしい。

 両者共、「もう嫌だ!」と感じている人々の情念を煽り、地道な努力無しには実現され得ない共生や融和といった価値を無視するかのようだ。
 共生や融和の根拠となっている人権や自由や平等などの理念は吹き飛ばされそうになっている。

「影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。
 影をつくらない光は本物の光ではありません。」


 グローバリズム一辺倒の資本主義は、「これさえやっていれば大丈夫」と原理主義的に世界を席巻してきた。
 一部の人々が太陽のように富と力を得る一方、抑圧される人々の影もまた深く濃くなってきたにもかかわらず、無視されてきた。
 ドゥテルテ大統領やトランプ氏の登場は、「影」からの逆襲を意味しているのかも知れない。
 

自らの影とともに生きることを辛抱強く学ばねばなりません。
 そして内に宿る暗闇を注意深く観察しなければなりません。
 ときには、暗いトンネルで、自らの暗い面と対決しなければならない。

 そうしなければ、やがて、影はとても強大になり、ある夜、戻ってきて、あなたの家の扉をノックするでしょう。
『帰ってきたよ』とささやくでしょう。

 傑出した小説は多くのことを教えてくれます。
 時代や文化を超える教訓です。」

 
 私たちに必要なのは、「自らの影とともに生きることを辛抱強く学」ぶことではなかろうか?
 さもないと、強大になり、コントロールから離れた影は、小説で主人公を殺したように、世界を破滅させるかも知れない。
 ほどほどの光と穏やかな影との共生を求めるならば、指導者も私たちも叡智包容力を持たねばならないと思う。




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2015
01.15

表現の自由と宗教的信念の〈戦争〉を超えさせるものは何か? ―人類の叡智を思う―

2015011500012.jpg
〈他を害さず、自他のためになり、己を清める祈り〉

 1月14日、仏週刊新聞「シャルリー・エブド」は、特別号にイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画「涙のムハンマド」を掲載した。
 フランスのバルス首相が宣言した「戦争」は、第2幕を開けようとしている。

 1月7日に発生したイスラム過激派によるテロ事件は、「フランスの9・11」と称されるほど衝撃的な事件だった。
 方や言論の自由、方や宗教上の信念、この二つが二者択一を迫られる事態となり、一方では西洋的自由に馴染まないイスラム教への排斥、一方では神聖な神を冒涜する者への攻撃と、互いに相手を許せない迷路へ入りつつあるように見える。
 自由の実現を価値観の筆頭として文化を紡いできたヨーロッパ文化圏の国々では、偏狭なナショナリズムの台頭に拍車をかける気配があり、イスラム教を絶対の真理とする文化圏の国々においては、より先鋭な宗教国家の樹立へと国家や国境を変える動きが強まり、国際的火種がばらまかれつつある。

 1月12日付の河北新報は、パリ政治大学院教授パスカル・ペリノー氏のコメントを報じた。
「フランス共和国の民主主義に不可欠な表現の自由を攻撃した初めてのテロだ。
 フランス革命や人権宣言以来、表現の自由、思想の自由は全ての自由の基盤であり、民主主義の契約に必要な要素。
 表現の自由は、政治権力と宗教権力を分離するという『政教分離』の意志と結び付く。
 民主主義は過去、ファシズムや共産主義という全体主義からの挑戦を受け、現在はイスラム過激派の挑戦に直面している。
 (民主主義の伝統がある)パリは、人権と自由の象徴。
 事件はフランス人にとっての9・11といえる」。

 フランス人のみならず、ヨーロッパの歴史が挑戦を受けていると感じる人々も少なくないことだろう。
 さて、言論の自由が西洋文化圏の人々にとって絶対的価値であり、またそれが実現される社会のために行動することが正義ならば、イスラム文化圏の人々にとっては、経典に示された神の意志にのみ絶対的価値があり、それに合わせて生きることが正義である。
 それがぶつかる場合、二つの正義のどちらかに軍配を上げる一段次元の高い存在は想定し得るだろうか?
 いずれもが<絶対>と信じて疑わない以上、軍配はあり得ない。
 それなら、巷間言われるように、対話が突破口になるのだろうか?

 仏教徒である小生は、<正義以前のもの>があると考える。
 それは「他者を傷つけない」という人間社会が存続して行く上での暗黙のルール、人間が人間として生きるために欠かせないベースとでも言うしかない万人共通のふるまい方である。
 サルの世界にも、メダカの世界にも、アリの世界にも必ずそうしたものがあるからこそ、それぞれの世界が成り立ち、存続している。
 サルがメダカのふるまいに走り、アリがサルのようにふるまうことはない。
 生きものそれぞれの世界におけるルールは〈おのづから〉存在に伴っており、誰かが決めたわけではなく、すべての生きものは、そうした目に見えぬルールに従って存在している。
 当然、人間という生きものにもそれがあって当然であり、おのづからなるものは、決して人間が多数決などで決められはしない。

 そもそも、人間社会のいかなるルールも、決められる際にエゴを離れることはできない。
 たとえば、平成4年、G10によって突然、決められたBIS(国際決済銀行)規制により、日本の金融機関は貸し出しの縮小に走らざるを得なくなり、経済が大打撃を受けた。
 また、平成10年の長野オリンピックで日本選手が抜群の成績を残した直後から、スキー板の使用にさまざまな国際ルールが設けられ始め、結果的に体力に劣る日本人選手を直撃した。
 いかに正義を標榜しようと、ルールづくりは必ずエゴが主導権を握り、結果的に強者が得をし、弱者が損をする。
 反対の結果は出ようがない。

 しかし、傷つけられたい人がいない以上、「他者を傷つけない」ふるまい方は否定し得ず、傷つけない行為によって得する人も損する人もおらず、エゴがしゃしゃり出る幕もない。
 人間が定めたルールではなく、法律的な罰則もないので、どの程度のふるまい方をするかは個々人の自由である。
 また、その程度は、社会の成熟度を示すバロメーターとも言える。
 なぜなら、互いに傷つけ合わない社会へ向かうことは、誰にも否定できない一つの理想的方向だからである。

 それならば、この問題の根本的解決法が一つ、見えて来はしないか。
 すなわち、表現の自由は、表現によって傷つけられる可能性のある人の気持を具体的に想定した上で慎重に行使され、宗教上の信念は周囲の人々を傷つけない範囲で表現し、行動に反映させればよい。
 当然と言うしかない方法だが、ここにある〈おのづからなるリミッター〉にはまぎれもなく人類共通の叡智がはたらいている。
 対話もさることながら、正義や理論を携えて相手との妥協点を見出す努力をするよりも先に、自分の心をふり返り、「傷つけたくない」という良心の声に耳を傾け、他者を傷つけない存在であろうとすることの方が、早く、確実に事態を沈静化させるのではなかろうか?

 ちなみに仏教徒の基本的な三つのふるまい方はこうである。
 まず、他を害さない。
 できれば他のためになる。
 そのために清らかな心をつくる。
 他を害しようとする、あるいは害しても恬淡としているなら、いかなる修行に励もうと仏教徒たる資格はない。

 しかし、この際、仏教という宗教を持ち出すまでもない。
 何を信じていようといまいと、とにかく、互いに傷つけられず安心な日常生活を送るため、自己中心的で他者を傷つけようとする心や、自分の言動が他者を傷つけることに鈍感な迂闊さを見つめようではないか。
 その大切さは、自分が害意を向けられたり、鈍感さのゆえに傷つけられたりする場面を想像してみれば、すぐにわかるはずだ。
 共に、傷つけない存在、害さない存在であるよう努力しようではないか。
 頑なな正義の蓋を外し、魂の内奥から発せられる良心の声に耳を傾けながら……。




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2013
10.18

高貴なものと神聖なもの ─被災地で出会った焚き火、炊き出し、古老のこと─

20131018055.jpg

 津波に襲われた海辺の町へ人を探しにでかけた時、人々は体育館や神社などで暮らしていました。
 それぞれがミニ集落のようで、どこか粛然とした気配がありました。
 皆さんはそれぞれ、凄まじい心の沈み込みや動揺を抱えておられるはずなのに、急に出現した小さな社会は静かに統一が保たれています。

 ある体育館では、入り口の履物が揃えられていました。
 ボランティアとおぼしき方々が忙しそうにたちはたらき、小さな子供たちもいるのに──。
 こちらが襟を正させられる思いでした。

 ある神社の境内地には、移動中の集団が野営でもしているような雰囲気がありました。
 男たちは手にした道具で降った雨など水路をつくり、薪を集め、女たちは掃除や炊き出しに精を出していました。
 長老格とおぼしき数人が目を配る様子は、まるで映画の一コマでした。
 
 Aさんの安否を尋ねました。
 長(オサ)とおぼしき古老と数人が一言二言やりとりをし、たちまち判明しました。
 道路が寸断され、電話も公共交通機関もマヒしている人口数十万人の町で、都市部で暮らしていた家族の避難先がわかることは小さからぬ驚きでした。
 やがて数十年ぶりで巡り会った知人と握手した時の感触は、自分の右手を眺めると今でもよみがえる思いです。

 最近、手にした原広司氏著『集落の教え100』にこんな一節を見つけました。

高貴なるものと、神聖なるものとを峻別せよ。
 集落には、高貴なるものは必要としないが、神聖なるものがなかったなら集落は成立しない。」


 たちまち、曇り空の下にあった焚き火と炊き出しと古老たちを思い出しました。
 天災で〈失った人々〉が素(ス)のままで肩を寄せ合った時、自然に発生した秩序や協同などを支えていたのは、まぎれもなく〈神聖な何ものか〉でした。
 お互いが失った者同士であり、着ものをまとってはいても、裸同然であるのは同じです。
 そこになぜ、混乱と正反対の状況が生まれたのか?
 少なくともあの境内地においては、古老の存在が決定的な意味を持っていたように思われます。
 尋ね人が見つかったことで推測できるとおり、普段、町内会などの組織がはたらき、お互いに顔の見えるおつき合いが成立していたことも、もちろん、大きなポイントです。
 しかしそれは、必要条件ではあっても、十分条件ではないと思われます。
 あの場における古老叡智は、ご先祖様や神々や自然につながる神聖な何かを含んでいたのではないでしょうか。

 津波の被災地では、家々が建ち並ぶ前に、手作りの御輿などを担ぐお祭が早々と復活しました。
 都市部で企画された子供たちの御神輿担ぎが、信教の自由を妨げるからと潰されてしまうような〈さかしらな心〉がはたらく余地などありません。
 人が集まり一体となって生を営む時、きっと「神聖なるもの」は欠かせないのです。
 それは人に宿り、自然に宿り、社寺に宿っています。
 私たちは、原広司氏の言う「成立しない」はずの空間で生きる時、心身にさまざまな障りが発生するのではないでしょうか?
 高貴なものと神聖なもの──。
 よく考えてみましょう。




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2013
07.10

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ ─共に生きるありがたさ─

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 明治43年に詠まれた石川啄木の一首は、今も、子供たちが学校で習っているのではないでしょうか。

「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」


 東京朝日新聞社の校正係としてはたらいていた当時24才の石川啄木は、仲間たちがそれぞれ順調に力をつけてきているのに、自分だけはくすぶったままでいると感じていたのでしょう。
 しかし、社会では負け犬感覚に苛まれながらも、花を手に妻子の待つ家へ帰れば「何のことはないさ」と切り替えて気持が解放されたのでしょう。
 この歌を思い出すたびに、受験に失敗し、東京の片隅にある小さな公園で雨に濡れそぼちながらベンチに座り、自分と同じようにびしょびしょのままで歩いている野良犬を眺めていた頃の気持がよみがえります。
 あの時の惨めさは、「負け犬」という言葉へ強い忌避反応を起こさせるようになりました。
 最近では、「負け組」の持つ無慈悲さに耐え難い感覚を持っています。

 石川啄木は歌の力で負け犬根性を吹き飛ばしましたが、彼がそれができたのは妻子がいたからです。
 私は、電車のデッキに立ち、心で泣きながら帰郷しましたが、妻子を養いつつがむしゃらにはたらく中で、負け犬根性は消え去りました。
 その後、事業に失敗してすべてを手放したおりに何とか持ちこたえることができたのも、ここを通り抜けていた体験の影響が大きかったと考えています。
 しかし、今の日本の若者たちは貧困になり、使い捨てにされる恐怖を抱きながら結婚できぬままに青年期を過ぎつつあり、石川啄木や私のような形での解放はどんどん難しくなってきているように思えてなりません。

 ところで、こんな社会ではだめだから仕組みを大きく変えろ、とか、もっと自由に稼げるようにしろ、といった声は大きく聞こえますが、私たち一人一人がどういう社会で生きたいと願っているのか、社会へ求めるものは何なのか、といった地道な声はあまり聞こえません。
 そもそも、皆が〈安定した生活で安心な老後を〉と願ってきた結果、高齢化社会ができたのであり、皆が〈もっと、もっと、自由が欲しい〉と願ってきた結果、家族や地域社会が崩壊したのであり、皆が〈自分だけが大きく稼ぎたい〉と願ってきた結果、格差社会ができたのです。
 つまり、今の日本が抱えている難題は、希望の現実化がもたらしたものであり、この希望そのものをあらためて考えなおしてみない限り、解決法は見あたらないのではないでしょうか?

 当山は、「一人残らず皆が共に生きてゆく仲間である」という意識を持つ、あるいは取りもどすことが肝要であると考えています。
 決定的に失われつつあるのはこの心であり、この心が伴っていない限り、いかなるよき希望も必ず難題をもたらすのではないでしょうか?
 ここしばらく、争うように改革が叫ばれてきました。
 より大きく仕組みを変えよう、より早く誰しもが儲かるようにしよう、と明らかな成果を競ってきましたが、小さな成果は上がっても無理がもたらす破綻の影響が大きく、誰が見ても明らかに無慈悲な社会になりつつあります。
 おちついて考えてみましょう。
 私たちが元気で長生きしたい、自由に生きたい、収入を増やしたい、と願うのは当然です。
 しかし、結果を見て明らかなとおり、「一人残らず皆が共に生きてゆく仲間である」という日本人が本来持っていた感覚が失なわれれば、烈しい願いの先には恐ろしい格差社会が到来し、隔絶された二通りの人種しかいなくなりかねません。
 経済的にも精神的にも貧しい多くの人々と、経済的に豊かで精神的に貧しい一握りの人々です。
 前者の心の貧しさは余裕のなさによるものであり、後者の心の貧しさは高慢心によるものです。
 そして、双方があいまって無慈悲な社会をつくりだし、潤いの失われた社会はどんどんギスギスし、ちょっとしたことで烈しく方向を変え、常に攻撃する対象を探し、一人一人に燻るやるせなさの原因を仲間へ求め、国家社会へ求め、やがては外国へ求めることになるかも知れません。

 大切なのは、仕組みを変えることよりも、心を変えることではないでしょうか?
 人として当然の願いをほどほどに持ち、他人の願いにも心配りをするところにこそ叡智がはたらき、潤いのある社会ができるのではないでしょうか?
 この「ほどほどに」をもたらすのが、「一人残らず皆が共に生きてゆく仲間である」という意識です。

 石川啄木は、ふるさとに対して相反する思いを抱いていました。 

「石をもて 追はるがごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし」
ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」


 いずれにしても、彼には、ふるさとがありました。
 冒頭の歌に詠まれた家庭もまた、帰るふるさととしての役割を持っています。
 しかし、私たちはどうでしょう。
 ふるさと、すなわち、生まれ育ち心身の基礎をつくってくれた地域と自分の心との関係はどうでしょうか。
 また、生きものとして生きる空間における家族や友人との人間関係はどうでしょうか。

 およそ100年前につくられた冒頭の歌は、昔のことだからと捨てられ、忘れ去られてよいとは思えません。
 なぜなら、生まれ、育ち、生き、はたらき、育て、渡して死んで行く人の一生が持ついのちのリズムは、いつの時代も変わらず、私的に憩える人間関係や場所を持つ人々によってしか、潤いのある社会はできあがらないからです。
 冒頭の一首に無関心ではいかがなものでしょうか。
 かといって、あまりに涙が流れるようでも悲しいものがあります。
 よく考えてみたいものです。


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2013
05.03

他の寺院でご葬儀を行えば先祖代々のお墓へ納骨できないか(その4)

20130503003.jpg

 あくまでもこのケースに限った解決案の一つです。
 
 Aさんは、住職への不満は抑えて、他寺院でご葬儀を行った件を念頭に「失礼しました」と詫び、もう一度、「親をご先祖と一緒にしてやりたい」と願い出ること。
 住職は、信頼を失っている自分を深く省みて、Aさんへ「ご心配をおかけしました」と詫び、納骨を認めること。
 その際、Aさんが納骨時の修法を住職へ頼むかどうかはAさんへ任せること。
 ただし、関係者や長老が、こうした組み立てをAさんと住職と双方へ事前に納得させておくこと。

 今後、この寺院の未来は、住職が事態を深刻な危機と実感し、叡智によって自らの行状と法務の組み立てを変えて行けるかどうか、その一点にかかっています。
 Aさんも檀信徒さん方も、あるいは周辺の方々も注視しているはずです。

 願わくば「雨降って地固まる」となりますよう。
 また、似た事例が、感情的対立や法律を剣とする斬り合いなどによって血を流すことなく、宗教的観点と良識によって円満に解決しますよう。




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