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2013
10.17

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その64)─誉める・叱る・抱きしめる─

20131012008.jpg

 寺子屋などで江戸時代まで用いられていた『実語教童子教』を読んでいます。

「胎外に生れて数年(スネン)
 父母の養育を蒙(コウム)る  
 昼は父の膝に居て
 摩頭(マトウ)を蒙(コウム)ること多年(タネン)  
 夜は母の懐(フトコロ)に臥(フ)して
 乳味(チミ)を費すこと数斛(スコク)」


父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』は、我が子が生まれた時、両親はどんな思いになるかを示しています。

「既(スデ)に生まれて、草上に墜(オ)つれば、父母の喜び限りなきこと、猶(ナ)お貧女の如意珠(ニョイシュ…願いを叶える宝珠)を得たるがごとし。
 その子、聲(コエ)を発すれば、母も初めて此の世に生まれ出でたるが如し。」


 子供が生まれた時の喜びは、まるで、貧困に喘ぐ女性がどんな宝ものをももたらす宝珠を手にしたようなものです。
 そして、おぎゃあという泣き声を聞けば、まるで、自分自身がこの世へ生まれ出たような気持にもなるというのです。

 胎外へ生まれ出てからは何年も父母に育てられます。
 人間は生後最も自立できない生きものであり、立ち上がって両手を使えるようになるまでは約1年を要します。
 野山などの自然界にあっては、食物連鎖と弱肉強食の掟がこんな悠長な生育を許しはしません。

 父親から頭をなでてもらうことが象徴的にとりあげられています。
 なぜでしょうか?
 私は、ご来山されるご家族に小さなお子さんがおられる時は、極力誉めるようにしています。
 修法中に静かにしていれば、終わってから「よく、おとなしくしていたね」「あっ、合掌していたんだね」などと声をかけます。
 修法中に騒いでいれば、「元気だね」「この勢いですくすく育ってね」などと声をかけます。
 そして、タイミングが合えば、軽く頭をなでます。
 ほとんどの場合、本人はくすぐったそうな、照れくさそうな顔になりますが、ご両親などは「和尚さんに誉めてもらってよかったね」「また、誉めてもらえるように、良い子になろうね」と笑顔で励まします。
 中には、次回にご来山のおりに、「この前、住職さんに頭をなでてもらってから、とても良い子になりました」と報告してくださる方もおられます。

 自分が幼少の頃のできごととして頭をなでられた記憶は残っていませんが、父親や、先生や、先輩といった〈自分より明らかに人間として上の人〉から受ける誉め言葉は、いつしか強い導きの力になっていたのかも知れません。
 当山では、5年前、広島在住のAさんから、ご自身が小学生の頃、『ほめほめ便り』があったことを教えていただきました。
 生徒は「こんな嬉しいことがありました」「こんなことをしたら喜んでもらえました」などと校長先生へ便りをしたためます。
 すると校長先生が「それはよかったね」と必ず返事を書き、「ほめあいだより」として貼り出すのです。
 そのおりの紹介文です。

「かつて、O小学校に奉職しておられた校長S先生は、手紙を通じて児童たちと感動体験についてやりとりをしておられました。
 その内容は校長室前へ『ほめあいだより』として掲示され、一人の善き行動、善き言葉、善き思いが、たくさんの人びとに共有される宝ものとなっていました。
 先生の退任に伴い、PTAが『ほめほめ集』を発刊し、その偉業を讃えました。
 当時小学生だったXさんは、今でも先生との交流を大切に心の引き出しへしまっておき、時折引いては、『あの頃願っていたように生きよう』と決意を新たにしておられます。」


 校長先生は「あとがき」に書いておられます。

「『ほめほめ』は、叱ることをやめよということではない。
叱る』と『ほめる』は物の裏と表の関係であって、叱ることがあるからほめることが成りたつのである。
 古人が『七つほめ三つ叱れ』と言っているように、できるだけほめることを多くしたいというのが、ほめほめの心である。
 涙して、だきしめながら叱ることのできる親は、ほめることについても名人であるはずである。
 ただ怒ることだけは絶対に避けたいものである。」


 校長先生や父親の誉める力と叱る力は、共に慈悲から生じる観音様の微笑と不動明王の忿怒そのものです。

 一方、母親は抱きしめ、乳を与えます。
 それだけではありません。
 やはり『父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』が説いています。

「爾來(ソレヨリコノカタ)、母の懐(フトコロ)を寝處(ネグラ)となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情を生命となす。
 飢えたるとき、食を需(モト)むるに、母にあらざれば哺(クラ)わず、渇(カワ)けるとき、飲料を索(モト)むるに、母にあらざれば咽(ノ)まず、
 寒きとき、服(キモノ)を加うるに、母にあらざれば着ず、暑きとき、衣を撒るに、母にあらざれば脱がず。
 母、飢に中(アタ)る時も、哺(フク)めるを吐きて子に啗(クラ)わしめ、母寒きに苦しむ時も、着たるを脱ぎて、子に被(コウム)らす。
 母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。
 その闌車(ランシャ)を離るるに及べば、十指の甲(ツメ)の中に、子の不浄を食らう。
 計るに人々、母の乳を飲むこと、一百八十斛(コク)となす。
 父母の恩重きこと、天のきわまり無きが如し。」


(生まれてからは、母親のふところを寝床とし、母親の膝を遊び場とし、母親の乳を食べものとし、母親の情けをいのちとします。
 空腹になれば、母親に食べさせられ、喉が渇けば、母親に飲ませられます。
 寒い時は母親に着せられ、暑い時は母親に脱がせてもらいます。
 母親は、自分が空腹に耐えても、我が子へ口に含んだ食べものを与え、自分が寒さに耐えても、我が子へ自分の着ものを着せます。
 母親でなければ養育はできません。
 揺りかごから離れる頃には、我が子の指を口へ含み、爪にはさまったものをとってやります。
 母親は180石(コク…ドラム缶160本ほど)もの乳を我が子へ与えます。
 こうした父母(ブモ)の恩の重さは、天空が果てがないのと同じように無限なのです)

 誉めてくれる、叱ってくれる、抱きしめ、乳を与えてくれる父母なくして、人は人間として育ちません。
 現代では、両親が揃っていない家庭も少なくありませんが、そうした場合も大人たちは、父親に代わり、母親に代わって真剣に子育てをしておられます。
 育てられ、いのちをつないでいるいかなる人も、必ず、こうした父親としての、母親としての思いをかけてもらい、手をかけてもらってこそ、今のいのちがあります。
 父母の恩を忘れないようにしたいものです。
 ちなみに、仏道では、恩を忘れず戒めを守ることがあらゆる修行の出発点となっています。
 社会の恩、親や先祖の恩、生きとし生けるものの恩、師の恩、仏法僧の恩を忘れれば、仏道は歩めません。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2008
05.13

ほめる 1

 広島県在住のXさんから『ほめほめ便り』というものがあったことを教えていただきました。
 
 かつて、O小学校に奉職しておられた校長S先生は、手紙を通じて児童たちと感動体験についてやりとりをしておられました。
 その内容は校長室前へ「ほめあいだより」として掲示され、一人の善き行動、善き言葉、善き思いが、たくさんの人びとに共有される宝ものとなっていました。
 先生の退任に伴い、PTAが『ほめほめ集』を発刊し、その偉業を讃えました。
 当時小学生だったXさんは、今でも先生との交流を大切に心の引き出しへしまっておき、時折引いては、「あの頃願っていたように生きよう」と決意を新たにしておられます。

ほめほめ集』のあとがきです。

ほめほめ」は、叱ることをやめよということではない。「叱る」と「ほめる」は物の裏と表の関係であって、叱ることがあるからほめることが成りたつのである。
 古人が「七つほめ三つ叱れ」と言っているように、できるだけほめることを多くしたいというのが、ほめほめの心である。
 涙して、だきしめながら叱ることのできる親は、ほめることについても名人であるはずである。ただ怒ることだけは絶対に避けたいものである。

 PTAから、ほめほめの原稿を提供するよう要請を受け、迷いに迷った末ようやく決断したのが二月にはいってからのことであった。五年間およそ二四〇〇通のほめほめ集の中から、約二〇〇通を選び出すのが精一ぱいで、校正も時間が足りず、不十分のまま製本の運びとなり、強く責任を感じている。
 子どもたちとの対話の少ない校長にとって、一人でも多くの子どもたちと話したいという願いから始めたものであったが、どこまでも自発的な投稿であるため、全児童に及ばなかったことは残念であった。
 返信も執務の余暇や帰宅後など、こま切れの時間を利用して、一人ひとりと話すつもりで書いたものであって、公開することなど考えてもいなかった。したがって文章も練れておらず、裸で大衆の面前に立つ思いがして恥しいきわみであるが、ほめることへの一助にでもなればさいわいである。
   昭和X年X月X日
      S


『ほめほめ集』の一文です。

 校長先生、わたし、きのうの大休けいに、花をもってってあげるって、やくそくしたでしょう。きっときっと花をもって行ってあげるからね。だって、わたし、校長先生が大すきだもん。
 それにね、校長先生がなおしてくれた、竹馬の九ばんで一一〇歩のれました。そのとき、わたし、とってもうれしくて、それから、竹馬が大すきになりました。
 校長先生、いつも竹馬をなおしてくださって ありがとう。わたしは、校長先生が、はたらきものっていうことがよくわかいりました。だから、わたしもはたらきものになってみせます。
 このあいだ、わたしが じゅくから帰るとき、男の子がゴミをひろっていたようでした。その子は、わたしが近づいたら、はすかしいせいか、やめてしまいました。でもわたしは、その男の子が、手にいっぱいゴミを持っているのを見ました。
 わたしも、この男の子や、校長先生のように、はたらきものになって、黄金山小学校を りっぱにしていきたいと思います。

Aちゃん
 ほめほめの お手紙を 書いてくれてありがとう。校長先生は とってもうれしかったよ。それに、字がじょうずで、読みやすかったので、もういっぺん うれしかったよ。
 竹馬が、じょうずに のれるようになったことと、男の子が、ゴミをひろっていたという おたよりでしたね。
 校長先生は、Aちゃんが、まい日 竹馬のおけいこをしているのを しっていました。なんでも、まい日 つづけてがんばると、きっと じょうずになりますね。かん字のおけいこや 本をよみ、けいさんなども、まい日すこしずつ がんばると すばらしいですね。
 ゴミをひろっている男の子の、なまえは わかりませんか。校長先生も、ほめてあげたいとおもいます。Aちゃんも、石やゴミを ひろって、学校を きれいにしてくれるんだってね。たのみますよ。がんばってね。


 最近、県北におられる信徒さんのお宅をお訪ねする途中で、掲示板が目に入りました。
「そのゴミを 捨てる拾うも あなたの手」
 捨てる哀れな大人になるか、拾うまっとうな大人になるか、決まるのは子供の頃です。 
 育む大人たちの責任は計り知れません。
 
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