〈故遠藤周作〉
私たちは、「困った時の神頼み」をします。
困った時とは、何かが無くなったり、無くなりそうになったりして追いつめられた時です。
お金がなかったり、恋人を失ったり、いのちがなくなりそうになったり……。
では、困っていない時とはどういう時でしょうか?
お大師様の徳を讃える『弘法大師和讃』は、常々の祈りがもたらすご利益、つまり、私たちが困らない人生の姿を説いています。
常々、信じて祈るのは「転ばぬ先の杖を持つ」こと、とも言えそうです。
では、お大師様への祈りがもたらす「8つの救済」とは?
7 息災延命(ソクサイエンメイ)
「息災」とは、災いを息(ヤ)むこと、すなわち災いが起こらぬことです。
災いを望む人はいません。
しかし、災いに遭わない人はいません。
私たちの煩悩(ボンノウ)が呼び込むからです。
また、天変地異も災いをもたらします。
天地自然は、生み育てる恵みの郷である一方、襲い滅ぼす無常の鬼でもあります。
「延命」とは、いのちが延びること、すなわち長生きです。
よほどのことがない限り、早く死にたいとは思いません。
生きものは、生まれた時から死へ向かうプログラムのスイッチがオンになっている一方、生きる方向で努力するようにセットされているからです。
死へのプログラムは意識されませんが、老・病・死がそれを教えます。
生への努力は衝動となり、希望となって意識されます。
人間も生きものである以上、まぎれもなく天地自然の一部です。
だから私たちは〈死が孕(ハラ)まれている生〉を生き抜く宿命から逃れられません。
さて、私たちは息災延命を願い、良かれ、善かれと念じつつ、心ならずも、魔ものになってしまう場合があります。
故遠藤周作はそれを「善魔(ゼンマ)」と名づけました。
「善魔の特徴は二つある。
ひとつは自分以外の世界を認めないことである。
自分以外の人間の哀しみや辛さがわからないことである。」
自分の主義や主張や宗教だけが優れているという優越感を持っているのに、善意の陰に隠れて本人にはあまり意識されない場合があります。
優越感は大義名分という旗に支えられ、周囲の迷惑が理解できなくなります。
何しろ、自分に同意・同調しない者は悪とみなすので、手に負えません。
一つの尺度でしか人間を見ないので、人間そのものが見えず、当然、「自分以外の人間の哀しみや辛さ」はわかりようがありません。
氏は「一人よがりの正義感や独善主義のもつ暗さと不幸」を私たちの周囲に見いだせると指摘しました。
「善魔のもうひとつの特徴は他人を裁くことである。
裁くという行為には自分を正しいとし、相手を悪とみなす心理が働いている。
この心理の不潔さは自分にもまた弱さやあやまちがあることに一向に気づかぬ点であろう。」
感情や損得や好悪、あるいは自己保全や言い訳などにたやすく流されてしまう弱い私たち──。
知っていることの少なさ、知っていないことの膨大さを忘れてたやすく思考停止し、つい、頑なな主張をしてしまう愚かな私たち──。
氏はそれを「不潔」と言いました。
「自分以外の世界をみとめぬこと、自分の主義にあわぬ者を軽蔑し、裁くというのが現代の善魔たちなのだ。
彼らはそのために、自分たちの目ざす『善』から少しづつはずれていく。
自分自身でも意識しないうちに、彼らは他人から支持される善き人でなく、他人を傷つけ、時には不幸にさえする善魔になっていくのである。」
クリスチャンの氏は生前「もしも権力によって踏み絵を求められたなら、自分は踏む」と明言していました。
氏がいかなる思いを善魔の一語に込めたか、よく考えてみたいものです。
私たちが息災延命を願うのは当然ですが、周囲の人々もまた自分と同じように息災延命を願っていることを忘れず、自分が祈る時は自他の息災延命を祈る心になりたいものです。
そうすれば、自分の世界だけが正しいという頑なな人、すなわち善魔にはなりません。
自分のものさしだけで誰かを悪として裁く高慢な人、すなわち善魔にはなりません。
善魔になっていないかどうか自分をチェックしつつ、自他の息災延命を祈りましょう。
そうすれば、お大師様はきっと叶えてくださることでしょう。
原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。
「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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