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2016
04.29

漢文『法句経』を読んでみる(その4)

2016-04-29-0001.jpg
〈陽の薄い曇り日に〉

 寺院や寺子屋 ではもちろん、戦前まで広く親しまれていた漢文の『法句経 (ホックキョウ)』を読んでみましょう。
 戦場へ赴く若者が懐へ忍ばせていたという話も聴いています。
 当山では、寺子屋やNHKの講座で読み通しており、学びの柱として欠かせません。
 小生の土台はこの教えによってつくられました。
 どれか一句でも、皆さんの心へピンと届くものがあればありがたいことです。
 新たになった読み下し文を意訳してみましょう。 (「新国訳大蔵経」によります)

 前回に続き【教学品(キョウガクホン)第二】です。

〔三一〕起(タ)ちて義を覚(サト)らんとする者は、学びて滅すること以(モッ)て固し。着(ジャク)滅(メッ)して自(ミズカ)ら恣(ホシイママ)なること、損(ソン)じて興(オコ)らず。


(一念発起して教えを理解しようとする者は、学び、煩悩が滅して再び迷わない。執着心が滅し、煩悩のままに翻弄されることはなくなる)

〔三二〕是(コ)れ向かうに強さを以(モッ)てし、是(コ)れ学ぶに中(マゴコロ)を得(エ)、是(コ)れに従(ヨ)りて義を解(ゲ)し、宜(ヨロ)しく行(ギョウ)を憶念(オクネン)すべし。


修行は強い志をもって行い、学ぶには苦行と怠惰を離れた瞑想によって精進し、学んで教えを理解し、なすべき修行を離れるなかれ)

〔三三〕学ぶには先(マ)ず母(モト)を断じ、君(キミ)と二臣(ニシン)を率(ヒキ)い、諸(モロモロ)の営従(エイジュウ)を廃す。是(コ)れ上道(ジョウドウ)の人なり。


(学ぶにはまず、自分可愛さを断ち、思い上がりを離れ、外道の見解や律に影響されず、それらの世界から毅然と離れて進む。これが腰の定まった行者である)

〔三四〕学ぶに朋類(ホウルイ)無く、友(ゼンユウ)を得(エ)ざれば、寧(ムシ)ろ独(ヒト)りを守りて、愚と偕(トモ)ならざれ。


(学ぶのに、自分にふさわしい同志がなく、き同輩を得られなければ、いたずらに仲間を探すことなくたった一人で行に邁進し、愚かしい人間と縁を結ぶなかれ)

〔三五〕を楽しみ行を学ぶに、奚(ナン)ぞ伴(トモ)を用いることを為(ナ)さん。独(ヒト)り(ヨ)く憂い無きは、空野(クウヤ)の象の如(ゴト)し。


めに沿った生活を楽しみ、修行を学ぶのにどうして同伴者が必要であろうか。一人で行を実践し憂いなく生きる行者は、広大な野を悠然と歩む象のように悠然たる者である)

〔三六〕と聞(モン)は倶(トモ)に善(ヨ)く、二者(ニシャ)孰(イズ)れか賢(マサ)らん。方(マサ)には聞(モン)に称(カナ)う、宜(ヨロ)しく諦(アキ)らかに学行すべし。


めを守ることと、教えを聞くことは両方ともに善きことであり、いずれが勝るということはない。戒めを守ってはじめて教えを聞く資格がある。しっかり明確に学び実践せよ)

〔三七〕学ぶに先(マ)ず戒を護り、開閉(カイヘイ)に必ず固くして、施して受くること無く、仂行(リョクギョウ)して臥(フ)すこと勿(ナ)かれ。


(学ぶにはまず戒めを守り、心を放恣にせず、他のためになっても我がものを得ようとせず、精進して怠けるなかれ)

〔三八〕若(モ)し人(ヒト)寿(イノチ)百歳ならんも、邪(ヨコシマ)に学びて不善を志(ココロザ)さば、生(セイ)一日にして、精進して正法(ショウボウ)を受くるに如(シ)かず。


(もし百才まで生きたとしても、邪道を学んで善からぬ生き方をするならば、たった一日であろうと、精進して正しい道理を学ぶ価値とは比べようもない)

〔三九〕若(モ)し人(ヒト)寿(イノチ)百歳ならんも、火を奉じ異術(イジュツ)を修さば、須臾(シュユ)の頃(アイダ)に、戒に事(ツカ)うる者の、福の称(タタ)うるに如(シ)かず。


(もし百才まで生きたとしても、林の中で火の神に仕える術を修するならば、たとえひとときでも、戒めを守る行者の福徳をたたえて供養することに及ばない)

〔四〇〕能(ヨ)く行ずるは之(コレ)を可と説くも、能(アタ)わずして空語(クウゴ)する勿(ナ)かれ。虚偽(キョギ)にして誠信(セイシン)無きは、智者の屏棄(ヘイキ)する所なり。


(懸命に修行するのは善きことだが、悟りを得てもいないのにそれらしい言葉をはくなど空虚なことを行ってはならない。偽って不誠実、教えを心から信じていないのは智者が排する態度である)




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2015
10.10

不殺生の心がけ ―与楽、抜苦、ほどを知る―

2015101000012.jpg
不殺生の心を育むもの〉

 不殺生戒には三つのレベルがあるとされています。
 そもそも、仏教では、上品(ジョウボン…上級者)、中品(チュウボン…中級者)、下品(ゲボン…初心者)といった形で説く場合がたくさんあります。
 
 さて三つはどうなっているでしょうか?

1 上品

 とにかく、思いやる心で生きることです。
 それには感謝が出発点になります。
 ありがたいと思う心によって、自分も、誰かがありがたいと思うような行動ができるようになります。
 感謝は清浄な鏡のようなものであり、思いやりは、その鏡が発する光のようなものであると言えるかも知れません。
 そこで、人の子に生まれたならばまず、生み、育ててくれた父母の恩を思い、忘れずに生きましょう。
 また、先生や先輩や上司など、人生の各場面でお導きくださる方々の恩も忘れてはなりません。
 ありがたいと思う心で眺めれば、ネコもカラスも皆、安楽に生きたいと願い、殺されることを怖れ、親は子を養っていることに気づきます。
 慈しみがあるのです。
 だから、生きとし生けるものを悩まさず、傷つけず、殺さず、守り育てないではいられません。

 こうして感謝に導かれれば、誰かのためにならないではいられなくなります。

2 中品

 苦しむ者や死に行く者の悲しみやうたれ、哀れと思わないではいられません。
 また、殺される生きものの声を聞き、姿を見ては、哀れを催します。
 自分の子供を育ててようやく、自分の骨身を削って育ててくれた父母のありがたみが身に沁みます。
 子供や部下を育てる中で、大自然や天地万物が垂れる恵みのありがたさに気づきます。
 私たちは哀れで愛おしい存在です。

 こうした感応する心を大切にし、あらゆるものの本質的な哀れさを知れば、苦を除かずにはいられなくなります。

3 下品

 魚を獲る仕事に就いている人は、むやみに獣を殺さぬようにしましょう。
 獣を捕る人は、水に住む魚などをむやみに殺さぬようにしましょう。
 鳥を捕る人は、虫などをむやみに殺さぬようにしましょう。
 釣りをする人は、網での一網打尽を避けましょう。
 むやみと銃や火器などで生きものを殺さぬようにしましょう。
 山を焼かず、池を涸らさぬようにしましょう。
 昼に生きものを殺さねばならないならば夜はやめ、夜に生きものを殺さねばならないならば昼はやめましょう。

 生きものたちのいのちをいただかねば生きられない私たちは、せめて〈一分の〉を心がけ、恩に報いるようにしましょう。

 これが不殺生戒における三つのレベルです。




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2015
05.24

真智の開発をめざして(その17) ─他者の善行に感応する心─

201505240001.jpg

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「優雅さ」について考えてみましょう。

2 善行者を讃歎する

 私たちが、餌や縄張りを争って醜く牙をむき出し、血を流す獣たちと違い、相手のためを思い合う優雅で穏やかな人間らしい心性を発揮しながら生きるためには、善行の人を素直に誉め称えられなければなりません。
 他人のき行いを見聞きして、自分が恥ずかしくなったり、相手が神々しく感じられたり、涙が滲んできたり、希望を持ったりする心を失わないようにしましょう。
 貶したり、無視したり、反発したりといった反応では情けないというしかありません。
 また、しきものを誉め称えてはなりません。

 ここで考えねばならないのは、そもそも、何がで何がかという問題です。
 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は明確に述べました。

仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすをといい、これに背くをという。
 本性に身口意(シンクイ)相応すれば十おのずから全きなり。」


(私たちが本来的に持っている〈み仏の子〉としての清浄な心の核に従って発せられた心のありようを善と言い、その核に背いて発せられた心のありようをという。
 人間が人間たる本来的な性根、性分に相応して身体と言葉と心がはたらけば、み仏が説かれた十の善き戒めは達成される)

 修法する身としては、経典に説かれている仏性を求めて心を深めて行けばすっかり解き放たれた状態となり、そこは「霊性の庭」とでも呼べるのではないかと感じています。
 この庭に立って行動しても、語っても、思っても、それ以外にありようはないので、普通のモノサシで白黒を判断するような意味での善ももありません。
 しかし、そここそが人間が人間であることを証す場であり、慈雲尊者が説かれた「善」は、この世界のことだろうと考えています。
 仏性霊性の「性」は決して観念的な文字ではなく、一身に実証できる〈本来性〉なのです。

 慈雲尊者はこうも説かれました。

「善は常に仏性に順ず。
 は常に仏性に背く。
 法として是の如し。
 ただ迷う者が迷う。
 知らぬ者が知らぬばかりなり。」


 最近、ドローンを飛ばし、他人や社会への迷惑を考慮しない少年(15才)と、その行為につながる人々の問題が報道されています。
 善悪の判断や法律の網を超えて広がったネット社会は、面白ければよい、ワクワクすればよい、珍しければよい、儲かればよい、目立てばよい、といったレベルの行動を広げつつあります。
 そこでは、自分の〈心の波の大きさ〉と、社会の〈反応の大きさ〉のみが問題であり、倫理は崩壊して行きます。

 また、親や配偶者の死を隠して年金を不正受給する事件が後を絶ちません。
 公私の別うんぬんという前に、人間は一人残らず〈おかげさま〉によって一生を生き抜く社会内存在であるという認識が消えて、死を個人的なものとしか考えられなくなった心の荒廃が背景にあります。
 また、最近、亡くなった妻のお骨を一部、スーパーのトイレに廃棄した男(68才)が逮捕されました。
 生前に苦労をさせられ、憎んでいたというのが男の言い分です。
 生まれる、死ぬ、といった人間の尊厳にかかわる決定的なできごとすら、損得勘定や憎しみといった感情と同列に置く社会は薄ら寒く感じられます。
 葬送に関することごとを壁や石に刻んだ古代人の温かな思いはどこへ行ってしまったのでしょうか。

 医学博士宮城音弥氏が『霊―死後、あなたはどうなるか』にこう書いたのは平成3年です。
「現代の日本には慣習的宗教はあっても、宗教心は希薄である。」
 宗教が消えれば倫理は基盤を失い、好き嫌いや激情が主役となり、善も悪もあまり意識されなくなります。
 それは、誰もが幸せを手に入れられなくなることを意味します。
 
 他者の善行に魂が震わされ、自分を省みられる人間であり続けるためには、自分の仏性を感得する必要があります。
 そのための導きが十善戒です。
 自分に「不殺生(フセッショウ)」と言い聞かせていれば、生きものを救う人の尊い行為に心が反応します。
 自分に「不瞋恚(フシンニ)」と言い聞かせていれば、じっと忍耐する人の尊い行為に心が反応します。
 何としても「ただ迷う」ばかりでなく、「知らぬ者」のままで過ごさぬよう、学びたいものです。




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2015
03.02

お釈迦様の前に悟った方々はなにを説かれたか? ―過去七仏(その2)―

201503020001.jpg
〈たくさんの女が唱和される力にお支えいただき、般若心経百万返の供養会は無事、終了しました〉

 お釈迦様は言われました。
「私はただ、過去の聖者たちが悟られたことに気づいただけである」
 では、その「過去七仏」とは?
 第二回目です。

4 クルソンブツ

「譬(タト)えばの華を採(ト)るが如(ゴト)く、其(ソ)の色(シキ)甚(ハナハ)だ香潔にして、味を以(モ)って他に恵施(ケイセ)す。
 道士(ドウシ)聚落(ジュラク)に遊んで人を誹謗(ヒボウ)せざれ、亦(マタ)是非を観ぜざれ。
 但(タ)だ自ら身行(シンギョウ)を観じて諦(アキラ)かに正、不正を観ぜよ」


 他人様の言うこと、なすことについて、あれこれと批判するより先に、自分が何を考え何を行っているかをよく省みて、それが正しいか正しくないかを冷静に判断することこそが行者のありようで、そうした人は、美しく恵みにあふれ、たちへ恵みを施す花のごとき存在になるのです。
 と花のたとえは後に、お釈迦様が異なった観点から用いています。
が蜜を集める際に、花びらを壊さずおいしい蜜だけを集めるように、行者は人々の気持や生活へ余分な波紋を及ぼすことなく、注意深く托鉢や修行をせよ」
 私たちは安易に、「あいつはけしからん」「あの人って嫌ねえ」と「誹謗」し、「あの人は正しい」「この人は間違っている」と厳しく、険しく「是非」を云々しますが、テレビに出ている人たちがそうしてワイワイやっている様子に引きずられないようにしたいものです。
 一緒になって興奮している自分自身の姿を鏡に映してみる想像力と、自分は何をどれだけ知り、考えて判断しているのかを省み、恥じる謙虚さを失いたくないものです。

5 クナゴンムニブツ

に執して軽戯(ケイゲ)すること莫(ナ)く、当(マサ)に尊寂(ソンジャク)の道を学すべし
 賢者は愁憂(シュウウ)すること無く、常にの所念(ショネン)を滅すべし」


 思い定めたを保って離さず、の高みから落ちない学びと実践の道を歩むことが大切で、つまらぬことに憂いを抱かず、の周囲にあるものによって迷わされないのが賢者です。
 吉田松陰は、自分の本分を知ることこそ人生の目標であると説き、3月1日に放映されたNHK大河ドラマ『花燃ゆ』においても、高杉晋作に対して「あなたのは何ですか?」と問いかけています。
 また、同ドラマにおいて、自分の人生も社会も斜に眺める高杉晋作へかけた久坂玄瑞の言葉が強烈でした。
「お前の人生がつまらんのは、お前自身がつまらんからじゃ!」

6 カショウブツ

「諸(モロモロ)のを作(ナ)すこと莫(ナカ)れ、衆(モロモロ)のを奉行(ブギョウ)すべし、
 自(ミ)ずから其(ソ)の意を淨(キヨ)めよ、是(コレ)諸仏の教えなり」


 しきことはどれも決して行わず、きことはなるべくたくさん行い、そうした自分自身の努力によって心を清めて行くのが悟った人々の教えです。
 は確かに親や先生や本などによって教えられ、やがてその人なりの判断尺度が形成されても、究極的には、自分の良心あるいは仏心とでも言うしかない自然な心の反応に従うしかありません。
 ここに説かれる「自ら」には、理論やドグマではなく、人間の心に本来そなわっている清浄な核といった感覚があり、仏教は根本的に性説に立っていることがわかります。
 慈雲尊者(ジウンソンジャ)が説かれた「仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすを善といい、これに背くをという」は不滅の教えです。
 世界の創造者でなく私たちの心におわすみ仏の救済に〈救い漏れがない〉という仏教の信念は、私たち自身に皆、仏心が具わっているという確信なしに成り立ちません。




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2015
02.12

地獄と極楽を生じさせるもの ―願いをかける人と、修法する行者の心あるいは教団に姿勢について―

201502120001.jpg

 当山がかつてブログと機関紙『法楽』へ載せた文章を、ご縁の方から示された。
舘釋貢次さんの著書『宗教経営学』の冒頭で住職が書いた文章を読みました。
 忘れられません」
 今から15年も前の拙文をあらためて読んでみる。
 人生相談にご来山される方々は、この世の地獄極楽もありのままに見せてくださる。
 現に苦や楽という結果が出ていることは厳粛だ。
 主たる原因となったものは逃げようがない。

「信仰心をあまり持っておられなかった医師が大病に冒され、ご家族が新宗教に救いを求められた。
 仏典を奉ずる名のある団体だったので、最初に言われた『全財産をかける覚悟がなければ治らないでしょう』にも不信を抱かず、言われるがままに蓄えが底をつくほど大金を納め続けたが、効なく、風が吹くように医師はこの世を去られた。
 最後に『この世には神も仏もない』と嘆かれたという。
 家風もあり、どん底に堕ちたお子さんたちは、〈宗教は恐ろしい、近づきたくない〉と考えている。」

「『おすがりする思いを金銭で表わせ』といって新宗教は大金を集め、たちまち勃興する。
 典型的な〈尊い経典の用〉である。
 縁の人を地獄に堕とし、死の恐怖を利用する死神となった自分たちもまた、因縁によって地獄に堕ちるであろう。
 この世の地獄である。」

「み仏の名を借りた似非(エセ)宗教のつくり出す地獄と、強い信仰心を持たなくとも自分の心の裡におわしますみ仏の心に導かれて温かくしみじみと生きられる方々の住まわれる極楽と両方を教えていただいた。
があって があって がある いずれも心がつくり出すさまを説き明かそう〟 ―『法句経』双要品―」


 当山が御霊と参列者の方々の心へ届くようお通夜で読誦する経典に慈雲尊者の『十戒』がある。
 そこではとの正体が明確に説かれている。

「仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすをといい、これに背くをという。
 本性(ホンショウ)に身口意(シンクイ)相応すれば十おのずから全きなり。」


 自分の心におわすみ仏のお心にそって自分の心がはたらけば善であり、み仏のお心に背いた心がはたらけばである。
 揺れ動き、定まらない心を司る根本のところに合わせて身体と言葉と意志とがはたらけば、十の善き戒めは自然に達成される。


 では、冒頭の問題はどうなるか?
 当山も善男善女のお申し込みに応じてご祈祷を行っている。
 まだ死ぬわけにはゆかない、何としても今しばし、生きてやるべきことをやり遂げたい。
 こうした方々の思いと一体になって、み仏のご加護を祈る。
 自分自身がこれまで幾度となく救われた体験上、結果はみ仏にお任せするしかないが、祈りは必ず通じ、好転する可能性は確かにあると信じている。
 だから、修法し、「必ずご加護があります」と励ます。
 しかし、大切なのは、お金でモノを買う交換経済とは異なり、かけたものと受け取るものとのバランスは、質量共にわからないという点にある。
 たとえば当病平癒(トウビョウヘイユ)を祈った場合、結果はさまざまだ。
 奇跡的によくなる方もあれば、あまり変わらない方も、あるいは、医者の宣告とそれほど違わない形で旅立つ方もおられる。
 問題は、それぞれの結果を受け、あるいは結果が出る過程にあって、病人がいかなる心で日々を過ごすかにより地獄極楽も現れること、そして、当人がそれをいかに自覚するかということである。
 まず、奇跡的に快癒した場合、感謝し、み仏へ帰依(キエ)する心が強まり、自然と十善戒にそった生き方をするようになる場合もあれば、また、お金を納めれば何とかなるだろうと、日常生活での交換経済における〈便利さ〉というレベルでしか受けとめられない方もおられる。
 前者は生き方が変わり、後者は次の機会にも同じように祈願をかけ、もしも〈ご利益〉がなければ、たやすく他の便利な仏神を求めて彷徨い、生き方は何ら変わらない。
 病状にあまり変化がなかったり、好転しなかったりする場合も、同じような現象が現れる。

 だから、宗教における祈りの大切さは、祈りを通じてよき心になることであり、それは慈雲尊者の説く「仏性」や「本性」がよくはたらくことを意味する。
 よき願いをもって正しく祈るのは決して欲張りではなく、煩悩に後押しされた欲が清らかな大欲(タイヨク)へと昇華する過程なのだ。
 善に向かうのである。
 その手助けをするためにこそ、行者は、願主と共に祈る。
 ここで、行者にとって最も大切な条件が明らかになる。
 一つは、願主の願いを我が願いとして祈ることであり、もう一つは、行者はみ仏すなわちご本尊様と一体化せねばならないということである。
 後者は、行者行者たる資格すなわち本当にプロであるかどうかが問われる。
 それは能力の問題だけでなく、〈私心〉がないかどうかが問われることでもある。
 
 ようやく冒頭の問題ににつながった。
 小生が指摘したのは、自分のため、あるいは教団のため、一気に大金を集めたい、世間的な力を持ちたいという私心が、み仏へおすがりするしかなくなった人の心を踏みにじりかねないし、実生活に悪しき影響をも及ぼしかねないということだった。
 つまり、〈私心〉によって、あるいは〈私心〉に負けつつ宗教的活動を行う者たちがおり、それが世間的には成功者となっている場合もあることに警鐘を鳴らしたつもりである。
 舘釋貢次氏も、ここを衝くべく、拙文を引用されたのだろう。

 実に、宗教者と名乗る者の私心(=我欲)のありなしは、他者からわかりにくいし、当然、うまくオブラートに包まれてもいる。
 しかし、原因は必ず結果をもたらす。
 また、行者は永遠の修行者であり、永遠の未熟者なので、修法した結果に対して敏感でなければならず、そこから自分の心を省みるという手順を絶対に怠ってはならないと肝に銘じている。
 もちろん、それは〈効き目〉があったかどうかとご本尊様のおはからいをチェックするのではなく、願主が宗教に触れてよき変化を得てくださったかどうかという一点の問題である。
 だから、受験合格を祈願し、受かってお礼参りにご来山されるのも嬉しいが、志望校に落ちてなお、ご来山されることはいっそう嬉しい。
 実にこの世の地獄も極楽も、「善があって 悪があって 善がある いずれも心がつくり出す」ことによって生じる。
 願主の心と行者の心とがあいまって、この世は地獄にも極楽にもなるのである。




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