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2016
02.20

運勢を変えるには? ─知ること、行うこと─

201602200001.jpg

 ある時、運勢の話をしたところ、ご質問があった。
 以下、やりとりの概要である。

Q:「是非善悪を見分けて行動すれば運勢を転換できるという教えですが、見分けるにはどうすればよいのでしょうか?」

A:「まず、自分の立場、自分の損得、自分の好き嫌いといったものから離れることです」

Q:「私はなかなか〈自分〉から離れられません」

A:「臨死体験における幽体離脱ではありませんが、客観的に自分の身体や心を眺めるというイメージは持てませんか?」

Q:「私はいつも、ここを何とかしよう、といった必死な気持でずっとやってきたので、そうした自分からなかなか離れられません」

A:「もちろん、量子力学の世界では、粒子の位置と運動量を同時につかめないとされているとおり、私たちは純粋に客観的な世界を知ることができるのかどうかという根本的な問題はあります。
 カントもまた、私たちは客観的なモノそのものを認識できず、モノの現れである現象を、自分なりの認識の仕方でとらえられるのみであると主張しました。
 だから、そういった完全性を求めるということではなく、自分の目を、客観視できる別な目に入れ替えようという話でもありません。
 どうしても自己中心的になり、自分なりの強い色眼鏡を使いたくなる日常生活的視点から離れようとする姿勢が大切です。
 客観的視点は、そうした努力の結果として、はたらきだすものなのです」

Q:「日常的な自分から離れる方法はいかなるものですか?」

A:「ここで説かれている是非善悪の見分けは、虚空蔵菩薩様のご守護で行われるものです。
 だから、虚空蔵菩薩様の真言を一心に唱える、あるいは経典を読む、あるいは九字を切る、あるいはお詣りするといった何かを実践することが大切です。
 こうした方法のうち、どれが自分にしっくりくるかは、やってみなければわかりません。
 問題意識を持ち、何とかしたいと願い、説かれた教えを信じて実践しない限り、あなたにとって確かな導きとなる方法はつかみようがありません」

Q:「私に見つかるでしょうか?」

A:「私は預言者ではなく、超能力者でもないので、軽々に他人様の未来について無責任な断言はできません。
 確かなのは、小生自身がこうした実践によって、おりおりに何かをつかみ、いくつもの山や川や壁を乗り越えてここまで生きてきたことです。
 また、何かを見つけて乗り越えた方々がおられることです。
 だから、み仏の子である私たちは誰でも見つける可能性を持っているという信念を持って、こうしたお話をしています」

 以上は、隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場における一コマである。
 運勢を動かしたいならば、まず〈知ること〉である。
 そして自分なりに何かを行いたい。
 居合の行者のような実践も、あるいは敬虔な気持でご祈祷やご加持を受けることも、いずれもまごころからの行動であることに変わりはない。
 知って、行動すれば、必ず原因に結果が伴う。
 よき意識、よき願いをもってよき方向を目ざしたい。




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
01.02

1月の守本尊は虚空蔵菩薩様です

201501010008.jpg
〈清浄なお焚きあげ堂〉

201501010011.jpg
〈ご寄進いただいた手作りの人形〉

 1月は小寒(ショウカン)と大寒(ダイカン)の睦月(ムツキ…1月5日より2月3日まで)です。
 1月は丑(ウシ)の月なので、守本尊虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様です。

 虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は『是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪・虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力を与え、行くべき道をお示しくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、四季の廻りが始まる月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。
 虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は、丑(ウシ)・寅(トラ)年生まれの善男善女を一生お守りくださる一代守本尊でもあります。
 また、身体では、主として両脚をお守りくださいます。

虚空蔵菩薩讃歎経』には、以下のように説かれています。

「虚空の如く無辺にて○無量の智慧と福徳を○蔵す虚空蔵菩薩とは○密教教主大日の○勝(スグ)れし徳の内にある○虚空と蔵の特性を○具足(ソナエ)し偉大な菩薩にて
○宇宙を意味する「虚空」とは○いわば如何(イカ)なることにても○破壊すること能(アタ)わざる○しかも勝(マサ)れるもの無きを○表すための言葉にて○無能勝(ムノウショウ)とも呼ばれたり
○「蔵」はすべての人々に○利益(リヤク)・安楽(アンラク)与えらる○宝を蔵(オサ)めているという○事態を表す言葉にて○菩薩の持てる方便(ホウベン)と○神通力(ジンズウリキ)を示すなり。」

21080819 008

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた虚空蔵菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 1月の守本尊虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


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2014
07.11

ある告発状 ―岩手県におけるイジメの現場へ―

201407080018ajisai.jpg

 悪い遊びが流行っていると耳にしました。
 突然、ターゲットとなった男の子のズボンを下ろす、あるいはパンツも下ろすというものです.
 女の子もいる前でそうした行為が、遊び、もしくはイジメとして行われている状態は、学校内に極めて不健全な心が育っていることを示してはいないでしょうか。

 当然のことながら、こうした行為は相手の人格を無視した〈辱め〉であり、それは、約束を破るとか、嘘を言うといった、やむにやまれぬ場合もあり得ることとは次元が異なり、もしも肉体に置き換えれば、土足で頭を踏むことにも匹敵する恐ろしい悪行だと言えましょう。
 被害者は、恥ずかしさ、悔しさ、惨めさに打ちのめされ、やがて、強い怨みや怒りの炎が燃え上がり、とんでもない復讐が行われるかも知れません。
 また、そうした相手への感情ではなく、自信の喪失や相手への嫌悪感や恐怖感などによる行動の萎縮などによって、不登校など生活のしかたが激変し、一瞬の遊びイジメが一生を左右するできごとになってしまいかねません。

 自分を被害者へ置き換え、自分がパンツを下げられたならどうか、泥靴で頭を踏みつけられたならばどんな気持になるか、具体的に想像し考えさせていただきたい、加害者の子供だけでなく、子供たち全員に対して強くご指導くださるよう心から願っています。
 今のうちに、子供たちへ、人の人格を傷つけることの恐ろしさ、罪深さを感じとらせてください。

 こうしたことごとは、決して〈家庭任せ〉にはできません。
 なぜなら、家庭で善悪を指導されて正しく育った子供も当然、学校という社会で被害者になり得るからです。
 大人の社会とは違い、まだ判断力も責任能力も充分ではない子供たちが集まる学校は、法律で白黒を決め刑罰を加えることに先んじて指導が行われるべき場であり、被害者を出さない責任があるからです。

 子供としての体験からも、親としての体験からも、祖父としての体験からも、小学校では知識を与えることと並んで、あるいはそれ以上に、子供たちがまっとうな社会生活を送れる人間に育つよう、ものごとの善悪をきちんと教える心の基礎訓練が行われねばならないと思っています。
 なぜなら、学校こそが、子供たちにとって、真の意味で他者と交わる社会体験の場だからです。
 もちろん、家庭でのしつけがなっていなければ話になりませんが、子供たちは、家庭で身につけたことを学校という社会で実践し、確かめ、膨らませ、修正し、育ってゆきます。
 しかし、そこで、あまりにも不条理不幸なできごとに遭ってしまえば、家庭で積み上げてきたものが一気に崩れかねません。

 特定の子供たちに起こった不幸なできごとを、加害者と被害者の問題だけでなく、学校という社会で起こったできごとと捉えられれば、子供たちが等しくよき指導を受ける貴重なきっかけになることでしょう。
 また、加害者も、被害者も、罪悪や災難を、学校や社会という広い視野から考えるきっかけになることでしょう。
 ぜひとも、子供たちへ賢明なるご指導をたまわりますよう、祈っております。




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2014
04.02

意図の善悪、暴力と非暴力 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(16)─

20140402023.jpg
〈岩出山の『森栖』さん〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第三章 カルマの法則

1 カルマ善悪

○行為を判定する基準は、意図結果による

「人が心をこめて善かれと意図したことも、ときとして最悪の結果を招来することがある。
 それとは逆に、邪悪な心に導かれてさえ、たまたま善い結果を見出す場合もある。
 ならば、意図がいかであれ、結果さえ善ければそれでいいのだろうか。
 否である。
 善き意図こそが大切なのだ。」

「特定の行為の善悪を分ける実際の境界区分を見つけることは、はなはだむずかしい。
 行為そのものが存在するところの基盤についても判定しなければならないからだ。
 しかし、物事を究極までつきつめたところでは、意図結果が、それぞれの行為の善悪を判定する主たるふたつの要素であろう。」


 私たちの日常は、意図結果がずれるケースの連続である。
 たとえば、病院へ友人のお見舞いにでかけ、早くよくなって欲しいとの一念から「私もご本尊様に祈ってるよ。がんばってね」と握手して別れたとする。
 訪ねた人が、「ああ、思ったより元気でよかった。あの分ならもうすぐ退院だろう」と安堵しながら帰途に就いている時、見舞われた人が必ずしも心から感謝しているとは限らない。
「がんばってくれと言われても、お医者さんの指示に従っているしかないのに、これ以上、どうがんばればいいの?どうせ、元気な彼女には、私の気持なんてわからないんだから」
 こんなふうに、ひねているかも知れない。
 古来、励ましの言葉として自然に用いられてきた「がんばって」すら、あまりにも神経質な受けとられ方をするようになった現代では、一語、一語の用い方が難しい。
 
 連続殺人事件で死刑判決を受けた木嶋佳苗被告が逮捕された直後、過去につき合いのあった男性の中で、どうしても信じられないと言った人がいた。
 彼は、木嶋佳苗被告にとって奪い尽くす対称ではなかったのか?
 それとも、まだ、仕掛ける段階ではなかったのか?
 我欲、怨み、怒りといったものがある以上、この世は隠れた悪意の岐(チマタ)であると言えないこともない。
 それでも社会が成り立っているのは、幸いにして、多くの人々が、悪意に正直になれば我が身が破滅することを知り、自分を守ろうとしているせいであると言えないこともない。

 いずれにせよ、意図と結果にはそれぞれ善悪がある。

非暴力とは、本質的に慈悲心の発露である

「例を挙げて見ていくことにしよう。
 たとえば暴力。
 暴力的に見える言葉、あるいは、目の前には暴力として表現されたある種の行為があったとしても、それが実際には暴力などといった悪しき行為ではないことがある。
 ただ、同情心、思いやり、慈しみにあふれた心が、たまたまひどい言葉となったり、物理的にも荒々しい働きかけとなったりすることがある。
 人を擲(ナゲウ)ったりする場合さえあるだろう。
 だが、心の深層に潜むその行動をつき動かしているものは、本物の親愛の情、人を慈しむ心である。
 この場合、意図は正しい。」


 粗野な言葉や態度でしか誠意を表現できない人がいる。
 多くの場合、愛すべき人柄が理解されなかったり、誤解されたりする場合も多い。

「では、こうした場合はどうか。
 優しく甘味な言葉で語りかけ、微笑み、あるいは、贈り物などして、人を欺こうという場合である。
 行為そのものは暴力的でもなければ、人をいたぶり苦しめるものでもない。
 結果はともあれ、表面には暴力として表現されない。
 だが、その意図においてこれは悪であり、暴力そのものである。」


 独り暮らしのお年寄りへ善意を装って近づき、詐欺や窃盗に走る輩がこの典型である。
 表面的な優しさを武器に、無理に高額な買い物をさせたり、不適切な契約を結ばせたりする手口は古今東西なくならない。
 怪しい宗教団体もまた、入り口の飾り具合がすばらしかったりする。

非暴力とは本質的に慈悲心の発露である。
 したがって、慈悲心に動機づけられた行為はすべて非暴力的なものとなる。
 逆に、憎悪によって動機づけられた行為は、基本的に暴力的である。
 憎悪より出た行為はすべて暴力と見なしていい。
 ここまでくれば後は明瞭だ。
 物事は、結果よりはるかに意図が重要だということが。」


 ダライ・ラマ法王は、他を害することすべてが「暴力」であると言う。
 いのちの力が悪によって暴れるのである。
 お大師様は説かれた。

「悪をやめよ。
 善をなせ。
 一切のためになれ。
 そのためにこそ、十善戒を守れ」


 ここに慈悲心があり、真の「非暴力」がある。
 表面的な言動が粗野であるかどうかではなく、むしろ、意図が戒めに背かないことこそが重要である。

○宗教的には、意図こそ最も尊重すべきもの

「では、道義心という観点から導き出される見解を述べてみよう。
 このとき、ある場合においては、意図はそれほど善悪の判断に関連してこない。
 意図そのものの重要度は低いという場合がある。
 行為そのものがより大きな意味を帯びる、そういう場合である。」

「ここに花がある。
 われわれは花の世話をする。
 われわれが花を慈しむのは、花がなんらかの有用のものであると思うからである。
 だから、花からの見返り、具体的な花からの働きかけがないにもかかわらず、われわれは花を植え、水をやり、可愛がる。
 花は美しく、心を和ませてくれるからである。」

「だが、花にはまったくその意図はない。
 われわれを楽しませようとする意図は花には皆無である。
 したがって、こうしたときには、意図よりも行為を、行為と呼ぶよりは、そのものがあることによって及ぼす影響を、重視するように考慮すべきだろう。
 花は何一つ意図しないにもかかわらず、われわれは花から多大の恩恵を受けている。
 花がわれわれに与えてくれるものは、厳然としてそこにある。」

「これと同様に、行為が意図に優先するような場合が他にも考えられる。
 意図とは無関係に行為が大切な役割を演じるような場面が存在する。
 意図しないままに他者に恩恵を施したり、施されたりすることが、現実の世界にはいくらもある。
 特定の事象にしぼって考慮すれば、意図とはかかわりなく、行為がその価値を決定することはよくあることである。」

「だが、宗教心の観点より考察したとき、意図は必ず結果より重要である。
 物事の善悪を見極めようとしたとき、意図こそが最も尊重すべきものであることは間違いない。」


 たとえば、嫌々ながら登校する、あるいは出社する、あるいは町内の行事に参加するといったケースを考えてみよう。
 今日は遊びたいけど、怖い母親にも先生にも叱られるから……。
 あの憎たらしい上司など顔も見たくないけど……。
 皆さん、こんな面倒なことやりたくないだろうに、暇な会長が張り切っているばかりに……。
 本心はこうした状態でも、「行為そのものがより大きな意味を帯び」て、結果オーライとなることには少なくない意義がある。
 順調な卒業、安定した収入、ご近所さんとの交流、いずれもが、生きてゆくことに資するのである。
 それでもなお、学校生活を楽しめるよう、仕事に精魂込められるよう、地域社会に親和の空気が流れるよう、心から願いたいものである。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
03.19

ベビーシッター死体遺棄事件に思う ─是非・善悪・虚実を見分けにくい時代─

20140319002.jpg

 3月18日、死体遺棄事件でベビーシッターの物袋勇治(モッテユウジ)容疑者(26才)が逮捕された。
 預かった子供(2才)を窒息しさせ、死体を放置した疑いが持たれている。
 容疑者は、実名と偽名を使い分けており、以前も幼児虐待が疑われていた。

 驚くべきは、人間を預かるという社会的行為が、何の国家的資格もない人間によって、何の公的許可も必要とせずに行われていることである。
 しかし、深刻なのは、相手の人物や行動を調べ、自分の肉眼と直感によってよく確認することもなく、ネット上の情報を鵜呑みにして突然、〈深い信頼関係を前提にした〉人間関係に入ってしまうことである。

 一時的に子供を預けたいという社会的需要への供給が、たちまち、ネット上に登場する。
 憎い男を殺したい、資産家の富を奪いたいという〈需要〉に対して、殺人や強盗の請負という〈供給〉すら生じている。
 動き出した情報化社会はもう、誰にも止められない。
 ここで生き残るため、誠実に生きるためには、人間への洞察力を磨かねばならないし、常に自分を省みなければならない。
 しかし、生身の人間に接しなければ、容易に洞察力は磨かれず、他者の瞞着も自己欺瞞も、違法行為と咎められない限りは何でも許されるネットの世界に浸っていれば、自分自身の心を謙虚に省みる機会はなかなか訪れないのではないか。

 血縁、地縁、家、故郷、あらゆるものから切り離され、バラバラになった人間が〈個〉同士として結びつくには、ネットが手っ取り早く、そこには無限の可能性が広がっているように思える。
 しかし、ネットに欠落し、いかに発達しようと、なかなか獲得できないものがある。
 それは全人格をかけたの感応である。
 面と向かい、相手を見、言葉を聴き、発する気配を感じ、互いに存在していることによってのみ可能になる無言のやりとりを行って何かをつかむ一連の流れである。
 こうして真実が確認できる。
 血の通った人間同士の対面には、よしんば、誤解や勘違いが伴おうと、それも含んでの真実がある。

 お釈迦様が在世の時代、アーリアン族に席巻されたインドでは種族社会が崩壊し、モノや土地の個人所有と商取引が進む中で新たな都市ができ、階級制度を背景とした新たな国家ができつつあった。
 人間同士が確かにつながっていた社会は消え、国家同士が覇権を競い、戦争を続けた。
 お釈迦様がそうした時代に階級や身分や国家などを超えた〈個〉の生き方にこそ、人間としての輝きを平等に認めようとされたのは、決して現代的な個人主義によるものではない。
 無益な殺生をせず、力づくで奪わず、騙し合いをせず、助け合い、人間同士が自(オノ)ずからなる信頼の糸によって結ばれていた真の安心社会を復活させようとされたのである。
 そこに、仏教教団成立の意義がある。
 当然のことながら、王であれ、賤民であれ、男性であれ、女性であれ、在家信徒となり、あるいは出家行者となるにおいて、いかなる差別もなかった。

 ある時、お釈迦様の厳かな様子にうたれたビンビサーラ王は、礼を尽くして迎え入れ、臣下になるよう勧めた。
 お釈迦様は答えている。
「なぜ、私が出家求道するかといえば、すべての人々の生死の大苦を救いたいと思えばこそです」
 そして、莫大な財物を与えても迎え入れたいという提案を断った。
「欲望には危険が伴い、出家生活は安泰であることを認めたから、私は修行のために努力をしたい」
 約200年後、最初の統一国家をつくったアショーカ王は、敵味方合わせて10万人もの戦死者を出したカリンガの戦いを終え、仏教徒となり、仏教のインド拡大に大きな役割を果たした。

 自由を求める一方でバラバラになった私たちは、「人」の「間」にあればこその「人間」として、どこに真実のありようと真実の交流を求めるのか?
 便利な道具であるネットに支配されず、その危険性を避けつつ上手に用いるための智慧をどこに求めればよいのか?
 ちなみに、虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は是非・善悪・虚実が見分けられる是所非所智力(ゼショヒショチリキ)を持っておられる。
 自他の欲望に流されず、よく考え、判断し、行動したい。




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