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2016
02.12

お骨の入っていないお墓に手を合わせる意味は? ─あの世に行けばなぜ、安心なのか?─

201602120006.jpg

 富谷町のAさんがご相談に来られました。

1 お骨のないお

「私はもう年なので、息子に心配をかけないようにおを造ったのですが、お参りをしてよいかどうか、わかりません。
 まだ、お骨が入っていないので、拝むのは変ですよね。
 でも、せっかく気に入ったおを見に行かないではいられず、掃除をしてから帰ってくると、あれでよかったのかなあと、いつも思うんです。」

 お答えしました。

「たとえば、石で立派な門やフェンスを造ったからといって拝む人はいないでしょう。
 あるいは銅像や置物などでも同じですよね。
 でも、おだけは拝みたくなります。
 それはもちろん、親やご先祖様などの御霊が眠っておられるからなのですが、もっと重大な背景もあります。
 生前に造る寿陵墓(ジュリョウボ)の意義を考えてみましょう。」

2 あの世に行けばなぜ、安心なのか

 御霊はなぜ、安心していてくださると思えるのでしょうか?
 たとえば、病気で苦しみ、あるいは借金に苦しんでいた方が、亡くなられた途端に、本当に苦しみから離れておられると、なぜ、思えるのでしょう。
 肉体が無くなれば、肉体的な苦痛はなくなります。
 この世にいなくなれば、相続人がいればともかく、少なくとも本人はもう、借金取りから追いかけられることはありません。
 だから、もしも死んで苦がなくなると考えるならば、肉体がなくなると共に何もかもが無になるという前提が必要です。

 すべてが無になるのならば、私たちはなぜ、手を合わせないではいられないのでしょうか?
 すなおに自分の心を省みれば、手を合わせ、心を向ける〈対象〉があることは確かです。
 その対象はどこにあるのでしょう。
 もし、所詮は記憶でしかないというならば、記憶はどこにあるか、どうやって取り出し、確認できるのでしょう。
 また、仏壇やおの前でいっそう自然な祈りができるのでしょうか?
 私たちは目に見えぬ何かが、目に見えぬ世界に〈在り〉、瞑目や合掌や祈りによって日常生活的感覚から離れれば、その世界に通じることを知っています。
 こうした対象を御霊と称し、御霊のおられる世界をあの世と考えています。
 御霊あの世も、科学的にその存在を検証することはできませんが、その存在を科学的に否定することもできません。
 だから、私たちは太古の時代から、御霊あの世に対して生じる敬虔な心をすなおに尊び、祈る形を考え、伝えてきました。

 さて、御霊がどこかにおられるならば、御霊は当然、特定の何かであり、それを特定するものは、この世で積んだ業(ゴウ)に他なりません。
 善い結果をもたらす善業(ゼンゴウ)であれ、悪しき結果をもたらす悪業(アクゴウ)であれ。
 つまり、御霊はこの世での生の歴史がもたらす来世での善き可能性も、悪しき可能性も持った存在であると考えられます。

 要するに〈死ねばチャラ〉になりはしないのです。
 このことを認識する必要があります。
 
 だから、私たちがこの世で、仏神や師や親や先生や先輩などの指導や庇護や加護を受けてこそまっとうに生きられるのと同じく、御霊もまた、あの世でそうした導きがあってこそ、より安心な未来へ向かって進めるであろうと考えています。
 悼み、感謝し、安寧を願うまごころを御霊へ廻し向けることを廻向(エコウ)と言います。
 廻向は導き手があればこそ可能です。
 あの世の親であるみ仏こそが、あの世における導き手であり、この世にいる私たちの廻向を実質あるものにしてくださると考えるのが仏教です。
 つまり、導き手であるみ仏に手を合わせず、御霊をしか拝まない仏教はあり得ません。

3 み仏をお迎えする

 こうして、あの世の御霊がかつて積んだ悪業を少しでも滅し、安心してさらなる来世へ向かえるよう、導き手であるみ仏をお迎えする大切な場の一つがお墓です。
 それを確かにするのが開眼供養(カイゲンクヨウ)です。
 法力のある導師が法を結び、み仏に墓所へ降りていただけば墓石はみ仏の世界、あの世へ通じる標識となり、墓所は聖地となります。
 お骨があるから聖地なのではなく、み仏と通じる場であって初めて聖地と言えます。

4 お墓によってこの世も守られる

 以上の理由により、結論をこう申しあげました。

「お墓は聖地です。
 それを造られたのだから、お骨のあるなしにかかわらず気になるのは当然です。
 お勧めするのは、聖地を形だけでなく、本当の聖地にすることです。
 それには開眼供養が必要です。
 開眼供養した聖地は、ただちに皆さんにとってご守護の場となります。
 訪れ、守護してくださるみ仏へ手を合わせる方はすべて、ご加護の中へ入られます。
 お骨のあるなしは関係ありません。
 そうして、おりおりにご加護いただく安心体験はとても貴重です。
 Aさんの心が不動の安心へ向かってどんどん定まるだけでなく、そうした生き方によって奥さんも、お子さんも、必ず、よき感化を受けます。
 安心の世界を目ざしている人のよき気配は知らぬ間に周囲へ漂っているものです。
 気になることを放置せず、決心されたならば、開眼供養をお申し込みください。」




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2015
09.26

輪廻転生の根拠 ―見える世界と見えない世界―

201509250006.jpg
〈彼岸供養会を終え、仏神と祖霊へ共に感謝し、お互いが生きてあることを共に喜び合いました〉

 ダライ・ラマ法王は、著書『ダライ・ラマ〈心〉の修行』のQ&Aにおいて輪廻転生(リンネテンショウ)の根拠を尋ねられ、答えておられる。

「『命あるものはみな生まれ変わる』ということについては、確かな証拠があるわけではありませんので、各個人によってものの考え方の違いがあると思います。
 しかし『前世や来世など存在しない』と思って悪い行いを平気で積み重ねていて、もし本当に来世が存在していたならば、それらの悪い行いから生じてくる苦しみは、自分自身が背負っていかなければならないことになります。
 その逆に、たとえ来世がなかったとしても、来世における良い結果を生むような良い行いをしていれば、自分には何の危険も生じてはきません。」


 法王はまず、因果応報の原理によれば必ずいつかは善業(ゼンゴウ)に対する善果、悪業(アクゴウ)に対する悪果が生じる以上、もしも来世があった場合、悪業を積んでいる人は恐ろしいことになると警告する。
 その一方で、善業を積んでいる人は、来世があろうとなかろうと何の心配もない。
 輪廻転生と並んで仏教の根幹となっている因果応報は、しっかり理解されていることが望ましい。
 法王が最初にこのことを説かれたのは、常に具体的救済をこそ目指してこられたからだろう。
 

「さらに、釈尊が説かれているように、この世に存在する現象には、実際に自分の目で見て確かめられる現象、表立ってあらわれてこない潜在している現象、さらに深いレベルで潜在している現象、という三つのカテゴリーがあるのです。
 実際に私たちの目に見える現象は、誰の目にも見えるものですから、その現象が存在することを誰もが認めることができます。
 しかし、他の二つの表立ってあらわれてこない現象については、実際には私たちの目には見えないわけですから、確かにこれらが存在するという証拠を見せることはできません。
 それらの現象の存在は、各自の推定に基づいて判断しなければならないのです。」


 私たちは「意識」と言い、「自分」と言うが、それらは普通、眠っていない状態つまり、普通に言う目覚めている状態での意識であり、その意識に支えられた自分である。
 しかし、眠っている時に夢を見れば、そこでも意識がはたらいており、そうしているのは自分だ。
 さらに、眠っていて夢を見ていない場合、決して意識も自分も無くなってしまったわけではなく、はたらきに気づかないだけである。

 また、普通、自分と意識しているのは表面の自分であり、その意識の下には、それと気づかぬうちに自分を動かしてしまう無意識の自分(育ちや生活の経験が積み重なったもいの)がいるし、さらにその下には生まれもった頑固な自分(過去の因縁が積み重なったもの)がいる。
 これだけではない。
 仏教の行者は、もっと奧に仏性として無限の世界につらなる意識を感得している。

 仏教の唯識(ユイシキガク)思想の後を追うように西洋心理学も深められ、潜在意識、深窓意識などという言葉は広く知られている。
 そうした幾重にもなっている意識という鏡に映し出される現象としてのこの世もまた、決して〈見える範囲〉にとどまるものではない。

前世や来世があるかどうかについては、実際に自分の前世のことを覚えている人がこの世界には何人もいるのです。
 そしてその人たちが、自分の前世はこのようなものであった、と述べている前世での出来事が、実際にあった事実に一致することが確かめられています。
 このような事実は、私たちの意識の流れが、はじまりなき遠い昔からずっと続いてきたものであることのひとつの証明になると思いますし、そのような人たちがいること自体が、前世の存在を示していると思います。」


 カナダでナンバーワンと称される州立トロント大学医学部の精神科主任教授を務めるジョエル・L・ホイットン博士は、昭和61年(1986年)、13年間にわたる心理療法の体験を『輪廻転生 ―驚くべき現代の神話―』にまとめた。

輪廻転生が真実だという証拠については、そのほとんどが(物的証拠ではなく)状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理屈のうえで輪廻を認めるのに特に問題はないと思われます。」

「生や死とはいったい何なのか、ひとりびとりがなぜこんなにまちまちに生まれついているのか、という不思議を考えていくと、その行き着く先は、現代の物質中心の考えのうえに成り立つ科学では答えられない問題になってきています。」

「アメリカでは大人の三分の二が死後の世界を信じています。
 1982のギャラップ社の世論調査では、アメリカ人の23パーセントが輪廻を信じていると発表されています。」

「人間のおかれた状況を理解する一助となると信じて、私は永年にわたって集めてきたデータの公開に踏み切ったのです。」

「広範囲にわたる調査研究を行いさえすれば、あの世の秘密がさらに詳しくわかるだろうし、それを人間の進歩に役立てることもできよう。
 本書は、生と死のはざまを探検した最初の記録である。」


 人の肉体は死ねば骨になり土になり、さらに細かく分解されるだろうが、意識や自分は違う。
 自分は〈何者か〉としてどこからかやってきて、変化した〈何者か〉としてどこかへ行く。
 決して無にはなりようがない。
 その真実に立った倫理こそ、人を人たらしめ、人を荒廃させない。
 分析心理学を創始したカール・グスタフ・ユングは指摘した。

「合理主義と独断主義は現代の病である。
 これらはすべて答えを知っているかのごとく自負している。
 しかし、多くのことがまだこれから発見されることだろう。
 現代の我々の狭い視野から、それらは不可能として除外されてきた。
 我々の時間や空間の概念は、大体確実であるというにすぎない……。」

 実に、あらゆる分野で、割り切り過ぎる合理主義と権威や権力を振りかざす独断主義がまかりとおっている。
 学問であれ、宗教であれ、何であれ、謙虚さこそが真実の探求に最も必要なのではなかろうか。




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2015
09.01

好き好んでこの世に生まれてきたのではない ―お大師様の言葉―

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〈伊万里からやってきた魔除けの孔雀〉

 お大師様の言葉です。

「好んでこの世に生まれてきたわけではない。
死ぬこともまた、厭い憎んだところでどうしようもない。
それなのに、私たちは宿命として、何度も何度も生まれては六道(ロクドウ)をへ巡り、何度も何度も死んでは地獄界で炎に焼かれ、餓鬼界で刀に切られ、畜生界で咬み合う」

 以下は原文です。

「それ生は我が好むにあらず。
死もまた人の憎むにあらず。
しかれどもなお、生まれゆき生まれゆきて六趣(ロクシュ)に輪転(リンテン)し、死に去り死に去って三塗(サンズ)に沈淪(チンリン)す」


 私たちは過去世の因縁により、性別や性格や体格などがさまざまな〈特定の者〉という動かせない条件を定めとして持ち、この世に生まれ出ますが、普通は前世(ゼンセ)の記憶がないので、因縁と生まれのつながりを関連づけて認識できません。
 だから、ともすると、「好き好んでこの世に生まれたのではない」あるいは、「親に頼んで生み育ててもらったわけではない」などと考えます。
 しかし、いかに恨み言を言い、斜に構えようと、どこからかこの世にやって来て、死ねばどこかへ帰って行くしかありません。

 その〈どこか〉こそが、地獄餓鬼畜生・修羅・人・天の六道(ロクドウ)であり、特に苦しみの強い地獄餓鬼畜生の世界を三悪道、あるいは三塗(サンズ)と言います。
 どうにもならない状態で、怨み、憎み、嫉妬し、心の炎に焼かれたことはありませんか?
 何かを奪いたくて、あるいはつまらぬ自尊心から、誰かを深く傷つけたことはありませんか?
 自己中心で他人様を虚仮(コケ)にし、裏切り、恩に背くような牙を剥いたことはありませんか?
 私たちはこの世で暗い三悪道を行ったり来たりし、あの世では三塗(サンズ)の川を渡るのに苦労します。
 死後、善業(ゼンゴウ)をたくさん積んだ人は美しい橋を渡って極楽へ行けますが、いのちあるものを尊ばず、他人様を軽んじるなど悪業(アクゴウ)とたくさん積んだ人は深い急流に苦しめられ、なかなか渡れないとされています。
 漫然と生きていれば、こうした循環を繰り返すだけであり、憎み、怨み、怒り、貪り、飢え、別れ、失い、得られず、執着心に縛られて、苦しみは永遠になくなりません。

 私たちは、いよいよのところへ追いつめられた時、他人様の霊性に気づき、自分の霊性にも気づくチャンスがあります。
 観音様のお経は説きます。

「順風満帆平安の○時期(トキ)に思わぬ災難に○出会ったときの苦しみを○救い給うたその人を○観音菩薩応現(オウゲン)の○姿であったと手を合わす○心ぞ真に菩提心(ボダイシン)」


 何もかもがうまくいっているような時に思いもよらぬ災禍に遭い、立ち往生してしまう場面が人生のどこかにあるものです。
 そこで誰かが、手を差し伸べてくれ、「ああ、観音様が現れてくださった」と合掌するようなこともまた、あるものです。
 小生は、得意の絶頂から無一文になり、托鉢修行に生きていた頃、数え切れないほどたくさんの〈観音様〉にお会いして、感涙に咽び咽んだ日々が忘れられません。
 暑い日に一杯のお茶をいただいたことも、寒い日に一椀のおしるこをいただいことも、なかなか修行を受け入れてもらえない地域で最後の一軒から大きなお札をいただいてようやく米が買えたことも、五百円玉一つでそれ以上のガソリンを入れていただいたことも、何もかもが、思い出せば奇跡とすら思えてきます。
 皆さんから「ああ、ありがたい」と思わせていただき、「一人前になり、何としてもご恩にお報いせねば」と決心に決心を重ねさせていただいたからこそ、一山を開創し、ここまで来られました。

 私たちは、こうした「ああ、ありがたい」「一人前になり、何としてもお報いせねば」の心を忘れなければ、きっと、六道から離れるきっかけをつかめます。
 自他を苦しめるものが薄皮を剥がすように少しづつ離れて行けば、自分が救われるだけでなく、周囲の人々もそうなるきっかけをつくることになります。
 感謝と報恩を忘れずに生きてゆきたいものです。

(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4732.htmlもご覧ください)




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2014
08.27

自我は滅するか? ―仏教的視点から観た自我(3)―

201408270001.jpg

 仏教は、「〈永遠で、単一で、独立した〉自我はない」という意味で自我(クウ)であり、心と身体と無関係に存在する自我はないという意味で「無我」であると判断しています。
 この見解は、日常感覚における〈自分〉という経験的存在である意識を否定するものではなく、日常生活的思惟の範囲でつかむ真理を「世俗諦(セゾクタイ)」と言います。
 一方、「ここにいると思うからいる」といった判断の先を問い、お釈迦様のような深い瞑想を行ってつかむ真理を「真諦(シンタイ)」または「勝義諦(ショウギタイ)」と言います。
 仏教における無我は、そうした宗教的体験によって確信できる真諦の範疇(ハンチュウ)に入りますが、日常生活的思惟によっても、ある程度、論理的な理解を得ることは可能です。
 この「ある程度」とは、「理解した真理に添って生きられるかどうかは別にして」という意味です。
 たとえば、私たちは、わかっちゃいるけどやめられない場合が往々にしてあります。
 飲み過ぎ食べ過ぎの繰り返しや、各種の依存症などを見れば、明らかです。
 仏教は哲学ではなく宗教なので、つかんだ真理どおりに生きることを目ざす以上、真諦こそが羅針盤となります。

 また、「因と縁によって果がある」という真理によって、「『明らかで、ものを知ることができる』という本質を持つ意識」の因をどこまでさかのぼっても、因の始まりは見つけられません。
 だから、「意識の実質的な因にははじまりがないので、それに依存して名前を与えられただけの存在である『自我』にもはじまりがない」ということになります。

 ここまでが、(1)と(2)で検討した内容です。
 今回は、であり始まりがない自我は滅するものなのか、ということを考えましょう。
 最初に述べたとおり、一連の稿はダライ・ラマ法王著『ダライ・ラマの般若心経』をテキストとしており、さまざまな解き方がある最後の問題については、テキストを正確に追ってみます。

 法王は、この問題について仏教の中でも見解は分かれていることを示します。

「仏教の四つの哲学学派の中で、小乗(ショウジョウ)仏教の学派である説一切有部(セツイッサイウブ)には『無余涅槃(ムヨネハン…煩悩と肉体を滅して心身の束縛から離れた小乗における完全な涅槃)に至った時は意識の連続体の流れは途切れる』と主張している人たちがいます。」


 四つの哲学学派とは、小乗仏教の説一切有部(セツイッサイウブ)と経量部(キョウリョウブ)、大乗仏教の中観派(チュウガンハ)と唯識派(ユイシキハ)です。

「しかし、これ以外のすべての仏教の哲学学派は、『意識の連続体の流れが途切れることはない』と主張しています。
 なぜかというと、どのような現象であっても、その現象が存在し続けることを妨げる力を持つものが存在するならば、その現象は滅することがありますが、その現象が存在し続けることを妨げる力を持つものが存在しなければ、その現象が滅することはないからです。」


 仏教は「人間は死ねばゴミになる」とは考えません。
 なぜなら、ゴミになるのはあくまでも身体というモノが火に焼かれ、灰がやがてバクテリアに分解されるからであり、そうしたモノの世界をいくら精密に追っても、意識の世界における因果の理とは何の関係もないからです。

「たとえば、私たちが持っている間違ったものの考えかたには、それを滅することができる正しいものの考えかたが存在するため、間違ったものの考えかたは滅することができます。」


 たとえば、一昔前は、体育系の部活に兎跳びが欠かせませんでした。
 しかし、現在の体育理論により、兎跳びで神社の階段を登るような行動は否定されており、もしも今、部長がこれを採用すれば、暴力やいじめと非難されることでしょう。
 また、半世紀前は、DDTという薬品がノミやシラミの駆除に有効であると考えられ、子供たちは皆、頭が真っ白になるほどDDTをかけてもらったものですが、DDTの危険性が明らかになった今、それをやれば暴行や傷害の罪に問われかねません。

「しかし、『明らかで、ものを知ることができる』という心の本質を滅することができるものは存在しないので、意識の連続体の流れは存在し続けて、仏陀の境地に至るまでずっと続いていくのです。」


 注意したいのは、「心の本質」を問題にしているという点です。
 もしも、「心の状態」であれば、病気や加齢によってさまざまに変化しますが、そうしたレベルの話ではありません。
 前回の(2)に書いたとおり、意識には身体のありようと密接につながった「粗いレベル」と、瞑想によってつかめる「微細なレベル」があり、法王はその全体を貫く本質について考察しています。

「以上の理由から、『自我』にははじまりがなく、終わりもない、と仏教では主張しているのです。」


 始まりがない無数の過去世(カコセ)における善業(ゼンゴウ)と悪業(アクゴウ)を背負った私たちは、それぞれに、特定の自分としてこの世へ生まれ出ました。
 いかなる自分に生まれたかは、過去世に、その原因があります。
 そして、この世で積み続ける善業悪業は必ず原因となり、来世(ライセ)のありようが決まります。
 因果応報は必然です。
 8月の機関誌『法楽』作りでは、『童子教』の一節を学びました。

「夫(ソ)れ積善(セキゼン)の家には  
 必ず余慶(ヨケイ)有(ア)り
 又好悪(コウオ)の処(トコロ)には  
 必ず余殃(ヨオウ)有(ア)り
 人として陰徳(イントク)有(ア)れば  
 必ず陽報(ヨウホウ)有(ア)り
 人として陰行(インコウ)有(ア)れば  
 必ず照名(ショウミョウ)有(ア)り」


(善行を重ねる家には、
 必ず後々まで良いことが起こる。
 悪行を好む家には、
 必ず後々まで悪しきことが起こる。
 まっとうな人間の道を歩むために目立たぬ徳行を積んでいれば、
 必ず良い報いがある。
 まっとうな人間の道を歩むために陰で善行を積んでいれば、
 必ず称賛を受ける時が来る)

 この教えは、この世だけを問題にしているのではありません。
 前世から来世へとつながる業(ゴウ)を説いています。

 明らかに、自我は無始、無終です。
 (クウ)なる自分として今、たまたま、ここにいられることに感謝し、これまでの善行(ゼンギョウ)と悪行(アクギョウ)をふり返り、自他のために善行を選択したいものです。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2014
03.25

奪えば奪われる ─争いと戦争から遠ざかる道─

 お釈迦様は、勃興する国家同士が領土争いする中で、地域性が破壊され、人々のつながりが破壊され、そして、いのちが奪われるさまを深く憂いました。

「人は自己に利ある間は、他を掠(カス)めとる。
 他が掠めとるときに、彼は掠められて掠めとる。」


 自分の方が相手より強い武器を持っていたり、相手が油断していたりして、自分がうまく相手から奪えそうなチャンスを逃さず、手に入れられるものを掠め取ってしまい、〈勝者〉となります。
 しかし、長い目で見れば、神のごとき強さや賢さを持っている者などどこにもおらず、いつかは、より強く、賢い者に掠めとられますが、それでもまた性懲りもなく、掠めとろうとします。
 2500年も前から、人間のやることはあまり変わり映えしないのでしょうか?
 さかんにグローバルが叫ばれている今は、〈見境なく〉掠めとり合戦が行われています。
 経済的にも、軍事的にも、政治的にも。
 しかも、堂々と……。
 こうした行動パターンは、はたして霊性を高め得るでしょうか?
 うまく掠めとった者だけが霊性を高め得ないままに一時の栄華を誇っても、私たち一人一人の人間が安心と生きがいを持って生きられる平和で幸福に満ちた社会は訪れないのではないでしょうか。 

「愚者は悪のみのらざる間は、当然のことと思えども、
 悪のみのるとき、苦悩を受く。」


 奪う者は悪者です。
 自分だけがモノを得て〈強いから当然〉、あるいは〈賢いから当然〉とうそぶいても、自分の悪の報いと奪われた者の怨嗟による因果応報からは逃れられません。
 悪しき因に、それを増長する縁が加わり、あたかも熟した柿の実が落ちるように、必ず結果としての災厄を受ける時が来ます。 

「他を殺せば、己を殺す者を得。
 他に勝てば、己に勝つ者を得。」


 殺す者はいつか必ず殺されます。
 いかなる世界においても、永遠の勝者はあり得まず、必ず、超えられる時が来ます。
 たとえば、セクハラによって相手の心を殺して平然としている者は、その無慈悲さが自分自身の人生をも蝕みます。
 たとえば、権力的に部下をこき使う者は、いつか必ず、自分も部下と同じような扱いを受ける時が来ます。
 人は、善業(ゼンゴウ)も悪業(アクゴウ)も積みつつ老い、死に変わり、生まれ変わり、輪廻転生の輪から抜け出られません。
 被害者は、まっとうに生きていれば、一時は心を殺されかけ、生活を潰されかけても、まっとうさの報いを受ける時がきます。
 セクハラに悩み、生きる意味を見出せずにいた月島華凜さんは仲間の支えでついに脱出し、書きました。

「生きていてくれてありがとう。
 私と出会ってくれてありがとう。
 どうかどうか、これからも生き続けてください。
 私も精いっぱい生きていくから。歩き続けてゆくから。
 あの場所から一歩踏み出して、強い風に負けないように。」


 お釈迦様が「徳、孤ならず」、まっとうな人は孤独にならないと説かれたとおりです。

「他を謗(ソシ)る者は、己を謗る者を得。
 他を悩ます者は、己を悩ます者を。」


 テレビではどうしてこれほど、〈まくし立てる者〉が重宝されるのでしょうか?
 対話ではなく、怒鳴り合いが電波に日々、堂々と流れている文化は、どうかしているのでないでしょうか?
 子供のゲームで流行っているバトルが大人の世界をも席巻しているとしたら、何をかいわんやです。
 謗る者は必ず謗られ、忿怒と高慢心が互いを増長させる悪循環に陥ります。
 こうしたタイプの人々は、決して人々の心を豊かにできはません。
 もしも、まくし立てる人々のいる場面を目にしたなら、目立たずじっと聴き入っている人に注目してみましょう。
 誰が賢人で誰が愚者か、見分けがつくはずです。

「かくて業(ゴウ…道の車)転がって、かれは掠めて掠めとらる。」


 狡(コス)っ辛(カラ)く立ち回る人々や、自己中心でまくし立てる人々を反面教師とし、流されず、慌てず、地に足の着いた日々を生きたいものです。
 それが、ひいては、争いと戦争から遠ざかる暮らし方ではないでしょうか。
 最後に、国際放射線防護委員会(ICRP)副委員長ジャック・ロシャール氏の言葉を朝日新聞の『福島とチェルノブイリ』から引用しておきます。

「福島行きの列車にコートを忘れたことがあったのですが、箱にきれいにたたまれて宿泊先の東京のホテルに戻ってきました。
 残念ながら私のコートではなかったのですが、感動で胸がいっぱいになりました。
 福島県のレストランに財布を忘れたときも、必死の形相で従業員が追いかけてきました。
 清潔で居心地がよく安心感がある。」


 


「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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