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2012
07.20

嘘をつかないよう誓っているのに、つい嘘をついてしまう自分をどうにかしたい

20120720034.jpg

〈道端のお薬師様〉

 私たちは「をつく」と言いますが、〝をつくことにしよう〟と考えた上でを口にする人はあまりおられないのではないでしょうか。
 つまり、往々にして、は〈ついてしまう〉ものであることが多いと思われます。
 このことから、気づかされます。
 ──自分の中の誰かが、私にをつかせている、をつきたくないのに……。

 嘘をつかないようにしようと誓う〈自分〉がいます。
 それは、表面の心のはたらきの中に表れた〈高い人格を求める自分〉です。
 これを「自分A」としましょう。
 一方、つい、そうしようと願ってもいないのについ、嘘をついてしまう〈自分〉がいます。
 それは、表面の心のはたらきの中に表れた〈表面を繕うように習慣づけられている自分〉です。
 これを「自分B」としましょう。

 「自分B」は、小さな頃、何かあるたびに親がかばってくれた、あるいは、何かのきっかけであなたが自分への言い訳を覚え、本当の自分は悪い子ではないんだと思うようになったとか、さまざまな人生の経過によって知らぬ間に創られた自分です。
 それに対して「自分A」は、どこかの時点で「自分B」に気づき、罪悪感や嫌悪感などを感じて、これではいけないと目覚めました。
 また、高い人格を持った人がいることや、善い行動による満足感や幸福感などを知り、そうした生き方に徹する人になりたいと心から願ってもいます。

 二つの自分がどこにあるかと言えば、表面の心の下にある蔵識(ゾウシキ…心理学の潜在意識に近い)という心にあります。
 人生の歴史を蔵のように宿している場所で、普段、その存在は意識されません。
 しかし、私たちの行動も、言葉も、心も、そのほとんどはそこからの指令ではたらきます。
 たとえば、好きな人にバッタリ出会ったら、心も顔も輝きます。
 たとえば、魚の腐った匂いを嗅げば、反射的に顔を背けます。
 それは、蔵識にある情報が反射的にそうした行動をとらせるからです。

 さて、今のあなたが悩んでおられるのは、蔵識にある「自分A」のはたらきが、まだ充分に「自分B」のはたらきを抑えられるまで大きくなってはいないからです。
 その理由の一つは、〈自分可愛さ〉があるからです。
 厳しく言えば自己中心の心となりますが、これは誰にでもあります。
 人間が一つの肉体を持った生きものである以上、この心があることは避けられません。
 肉体は成長を終えれば死へ向かうようにプログラムされている一方、心は、基本的に生を求めるようにプログラムされているからです。
 そうした自分可愛さがある以上、あなたが自分を大きく見せたいといった気持になるのは当然であり、それはあなただけのことではないので、あまり罪悪感のようなものは持たないでください。
 ただし、これではいけないと嫌悪感を持ち、「自分B」を克服したいと願い続けることはとても大切です。

 では、どうするか?

 一つはこうした心のしくみを理解し、「自分A」を育てて行けば、いつかきっと「自分B」がほとんど表面の心へ影響を及ぼさない日が来ると信じて進むことです。
 ちなみに、すべてを失って出家したばかりの私へ、師は指示されました。
 「今年の目標は、『言い訳をしないこと』にしましょうか」
 あなたにとっての自分可愛さは、自分を大きく見せたい嘘として表れることが多いようですが、私にとっての自分可愛さは、言い訳だったのです。
 もちろん今も、私の言い訳癖は完全に克服されてはいませんが、悩みをもたらすほどの影響力は失いました。
 だからといって、そのための特殊な修行をムチャクチャにやったわけではありません。
 知って、理解し、信じて、目標をゆるがせにせず、生きてきただけのことです。
 こうした自分の成り行きを体験しているので、あなたにもきっとできると確信しています。

 具体的な方法の第一は、さきほど書いたように、「自分可愛さは誰にでもある」と知って、あまり、自分を責めないことです。
 第二には、心を大きな入れものと考え、そこに濁った水である「自分B」があるのは仕方ないけれども、清らかな水である「自分A」がどんどん溜め込まれて行けば、相対的に心の水は清らかなものになって行くとイメージするのです。
 第三には、〈自分〉と考える表面の心は、一瞬一瞬という無数の点によって出来上がっている一本の糸のようなものであり、糸になっている意識には、一度に一つの点しか現れないとイメージするのです。
 「自分A」を白い○、「自分B」を黒い●としましょう。
 誰も全部○であることはなく、●であることもありません。
 だからあなたの糸がだんだん○で埋め尽くされて行けば、たまに●が出てきたとしても、あなたはもうほとんど「自分A」なのです。
 忘れた頃に●が顔を覘かせても気にする必要がないのです。

 あなたがこうして自分をありのままに見つめ、善くありたいと願い、悩んでいるのは、もう、仏神の救いの中にいることです。
 だから、きっと、み仏の教えに基づく上記の内容は、紙に水が沁み込むようにあなたの心へ届くことでしょう。
 心の修行は一生です。
 風雨にさらされる時もあり、鳥の声や川のせせらぎにホッとする時もある一本道を、お互い「ヤッホー」と声をかけ合いながら進もうではありませんか。



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「おん さんざんざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2012
01.07

あらためて十善戒を考える(その2)

 年のはじめに、あらためて「十善戒」を考えています。

4 不妄語(フモウゴ)

 妄語とは、妄りな言葉であり、です。
 がいけないのはなぜか。
 それは、言葉が真実から外れていれば、思考も崩れ、言霊に左右される行動も誤ってしまうからです。
 当然、誰かを傷つけもします。
 私たちはさまざまな理由でをつきます。
 自己弁護のため、自分がよく思われたいため、自分を有利な立場に置きたいため、その場しのぎのため、あるいは何かを奪うため、……。

 ある日、インドの国王が他国で托鉢していたところ、牝牛に突き殺されるという事件が起こりました。
 牛の持ち主は怖くなって売り渡しましたが、今度は、新たな持ち主が同じように殺されました。
 持ち主の子供が怒って牛を殺し、肉を売りに出しました。
 市場でその頭を買った人が田舎へ帰る途中、木の枝に引っかけて休息していたところ、突然、牛の頭が落下して、またもや人を突き殺しました。
 一日のうちに一頭の牛にからんで三人も死ぬのは何かの知らせに違いないと感じた国王は釈尊の元を訪ねました。
 釈尊は驚くべき因縁譚を語ります。
「昔、三人の商人が老婆一人でやっている宿に泊まり、代金を踏み倒して逃げた。
 近所の人に教えられた老婆はやっとの思いで三人に追いつき、支払いを求めた。
 ところが三人は揃って『払った』と言い張り、老婆を罵った。
 老婆は呪詛を口にした。
『困窮している私は我慢に耐えない。
 どこに生まれ変わろうと、必ずお前たちを殺す。
 たとえお前たちが悟りを得ていたとしても許さない。
 この思いはお前たちを殺すまで止むことはない』
 今日、老婆の思いが叶えられたのである」
 そして、詩になった教えを説かれました。
「暴言や罵りの言葉をはき、
 おごり高ぶって他人を侮る。
 こうした行動は怨みを生ずる。

 謙遜した言葉や従順な言葉を語り、
 人を尊敬し、
 煩悩を捨てて暴言に耐えれば、
 怨みは自ずから滅する。

 人は生まれながらにして、
 口に斧を持っている。
 身を斬るのは、
 その暴言による」


 口から出た言葉はもう、飲み込めません。
 因果応報は確かです。
 ただし、自分ではない誰かのため、あるいは何かのために事実と異なることを言わねばならない場合があります。

 有名なのが、『法華経』にある「三車火宅」の話です。

 ある長者の家が火事になりましたが、火の恐ろしさを知らない数十人の子供たちは、いくら言って聞かせても危険と思わず、遊び回っています。
 そこで長者は「外へ出てごらん。お前たちが欲しがっている羊の車と鹿の車と牛の車があるよ」と声をかけました。
 外に出れば車があると信じた子供たちは我先に家から飛び出し、全員無事でした。


 この場合、長者はつきになるか?
 経典は、「方便をもって子供たちを救い出そう」という意志が事実と異なることを言わせたので、をついたことにはならないと説いています。
 だから、事実と言葉の関係において最も大切なのは意志です。

 ここで学ぶべきは、やはり、智慧と慈悲の大切さです。
 自己中心の愚かな心は、自分の都合によって事実と異なることを口にし、もしくは真理からずれた確信を主張します。
 たとえば、返すつもりもないのにお金を集めて逃げたり、悟ってもいないのに私は解脱したなどとホラを吹いたりします。
 また、言うべきでない事実を告げるのも、いわゆるではありませんが「妄りな言葉」に分類されるべきかも知れません。
 たとえば、小さな子供へ思慮もなく、あるいは悪意をもって「あなたのお母さんは別にいます」と教えることなどです。
 一方、真理を考え智慧と思いやりのある心は、前述の長者のような方便を使い、あるいは、小さな子供が懸命にやっていることを「上手!上手!」と誉めたりします。
 つまり、言葉へまことの心をこめることが大切なのです。

 なお、「方便」は『大日経』によってさらに意味が深められ、「具体的な手立て」を指すようになります。
 愚かな自分が悟って誰かのためになりたいと願う心が原因となり、深い思いやりに根ざした具体的な手立て(方便)こそが、人間にとって最も大切なものとされています。
 妄語を離れて自らを欺かず、他を欺かず、真の意味での方便として、言葉を大切に用いたいものです。

20120102 001



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2010
06.27

地獄へ行くか行かないか

 A君は、数ヶ月ぶりに、お祖父さんとバイパス添いにある百円寿司へ行く約束をとりつけました。
 ところが車に乗った途端、A君は意外なことを言い出します。
「お祖父ちゃん、ジャスコへ行こうよ」
 お祖父さんは、驚いて「どうしたの?」と訊きました。
「お寿司やさん、あるでしょう」
 確かにありますが、その店は全品百円ではないので、やや高上がりになります。
 でも、お祖父さんは、しばらくぶりだから、と奮発することにしました。

 ジャスコに近づいたら、また、何か考えていた風のA君が提案しました。
「お祖父ちゃん、1ゲームだけやらせてよ」
 以前、親から止められていたことを知っているお祖父さんが、怒られないのかと確認したら、A君は1ゲームなら大丈夫と答えました。

 さんざん選んだあげく、思い切って機会を決めて遊んだA君はとても満足そうでした。
 お寿司もお祖父さんに負けないぐらいたいらげて、帰途につきました。

 ところが、A君は、またもやお祖父さんをびっくりさせます。
「お祖父ちゃん、本当はゲームやっちゃいけないんだよ。
 お父さんにしかられちゃう──」
 もう泣き顔になりかけています。
 お祖父さんは問いました。
「そうか。じゃあ、どうする?」

 うーんと唸ったA君は、お父さんに言わないでよと頼みます。
「A君、内緒にしてあげてもいいけど、帰ってくるのが早すぎるよね。どうする?」
 バイパスの百円寿司は遠いので、帰宅があまりにも早すぎます。
 しかし、忙しいお祖父さんは、A君を家へ送り届けた後、また、仕事をしたいので、むだな時間は潰せません。
 それをよく知っているA君はまた、うーんと考え、今までとは違う顔でゆっくり言いました。
「お祖父ちゃん。ついたら地獄行くんだったよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、お祖父ちゃんも地獄行くの?」
「そうだよ。A君と一緒に地獄へ行って、一緒に酷い目に遭ってから、鬼さんたちへお詫びしてA君を助けてあげるよ。
 心からお詫びすれば、み仏が助けてくださるんだよ」

 小考したAくんは、きっぱりと言いました。
「お祖父ちゃん!俺、本当のことを言うよ」
 言葉は勇ましいのに声は細く、顔はこわばっています。
 よほど、叱られるのでしょう。
「偉いぞ!A君。それじゃあ、お祖父さんも一緒に謝ってあげるからね。
 なあに、心配しなくていいよ」
 ありがとうと口では言っても、A君は全然、喜んでいません。
 きっと心は、悲壮な決意と叱られる不安とでメチャクチャなのです。

 メチャクチャ体験は心をレベルアップさせます。
 その意味で、ストレス絶対悪ではありません。
 お祖父さんはA君の成長が嬉しくてたまらず、A君が玄関でおずおずとお父さんへ告白するのを待ってから、たたみかけるように助け船を出しました。

 地獄物語は、子供を正しい道へ導く大きな力になります。
 与えるべき時期に適切な物語を与えることには、小さくない意義があります。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2007
04.06

十善戒の歌5 ―不妄語(フモウゴ)―

いつはりて かたらんよりは しらつゆと みはいさぎよく きえもはてなん
(偽りて 語らんよりは 白露と 身は潔く 消えも果てなん)

 嘘を言うよりは信念を通して死んだ方がましであるとの厳しい表明です。
 不妄語戒にいのちをかけています。
 僧侶が口にする以上、当然、自らに課している戒律であり、その峻厳さは彼の行動が示しています。

 月照は幕末の文化10年、大阪で医者の長男として生まれましたが14歳で出家し、22歳で清水寺成就院の住職になりました。
 尊皇攘夷の志が強く、弟に寺院を譲り、肝胆相照らす仲になった西郷隆盛と行動を共にしているうちに、井伊直弼から危険人物して追われる身となって薩摩藩へ逃れました。
 水戸藩が攘夷へ傾いたのは月照のしわざであると判断されたのです。
 ところが薩摩藩は幕府との軋轢を恐れて藩を追放しようとしたため、安政5年、日向の国へ送られる途中、鹿児島錦江湾で西郷隆盛と共に船から身を投げました。
 数刻の後に二人の身体は海面へ浮き上がり、西郷隆盛は蘇生しましたが、月照はそのまま他界しました。
 
 月照が行年46歳で残した辞世の句です。
「大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」

 西郷隆盛は31歳。今からおよそ150年前のできごとです。
 月照は、かつて島津斉彬の死に際して西郷隆盛が殉死を試みたおりに諫め、錦江湾でもまた生き延びさせました。
 その後、西郷隆盛は7年後に大政奉還を成し遂げ、その12年後に50歳の生涯を閉じました。
 月照は隆盛を守り、西郷隆盛を通じて大望を成就させたと言えるのではないでしょうか。




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