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2016
12.01

消えた因縁 ─心の檻(オリ)から脱した話─

2016-11-11-218.jpg
〈四国霊場にて〉

 積もりつつある落ち葉の上に小雨が降り、今にも雪に変わりそうなある日、人生相談で訪れた中年のAさんは、訥々と語り始めた。
 若い頃、父親に殺されかけた話から。

 熟した柿の木のそばで、ちょっとしたいざこざが起こり、逆上した父親が、「このやろう!」と鎌を振り上げた。
 無論、妻子のあるAさんは逃げた。
 父親は普段、決して暴力的ではなく、常識や良識も持ち合わせ、業界や町内で役員に推されるような人間だが、ある種のマグマを抱えているのは、学歴コンプレックスのせいかもしれない。

 百姓の家に生まれ、土方など、何でもやって生き延びてきた父親は、「裸一貫」が口癖で、IT企業ではたらくAさんとは人生観がまったく異なっている。
 とにかく、細くて長い節(フシ)がスルッとした指を持つ者は「汗を流さない」「本気ではたらかない」と決めつけ、信用しなかった。
 だから、病気がちな弱い身体と、よくはたらく頭脳を持ったAさんは、親子でありながら、信用できない者の範疇(ハンチュウ)に入れられていた。
 
 Aさんは〈生い立ちという檻(オリ)から出られない〉父親への軽蔑を育てつつ、そのことに苦しんでもいた。
 とにかく母親と協力して自分を育て、学校を出し、一人前にならせてくれたのだから、大恩人であることは重々、承知している。
 しかし、いくら恩を自覚しようと軽蔑は消えず、惚れ合い妻となった女もまたAさんと似た心理に陥り、家族間の葛藤は募る一方だった。

 多くの人に観音様のようだと称された母親は若くして他界しており、高齢になった父親も又、2年前、頑健な身体にガンを発症した。
 入院させ、金銭面ですべての面倒をみているが、夜半までの仕事が珍しくないAさんは、なかなか見舞いに行かない。
 たまに病室を訪れても、「何でお前のような子供に育ったんだろう」などと言われたシーンが繰り返し、思い出され、言葉も出ないままに息苦しい時が経つだけだ。

 通勤の途中、ビルの向こうに薄いを見た日、Aさんは初めて、お得意様Bさんの接待をした。
 BさんはAさんを高く評価し、受ける信頼はAさんの貴重なエネルギー源となっている。
 宴の終盤、酔ったBさんはやおら、「私は福島の出です」と前置きして民謡を唄い出した。

「ハアー 遥か彼方は 相馬の空かよ~」
 Aさんは鳥肌が立った。
 それは、Aさんがテストで全校のトップになった中学時代、夕食で一杯やった父親がちゃぶ台の前で立ち上がり、上機嫌で唄った時の姿そのものだった。

 福島県で百姓の五男坊に生まれた父親は、この「新相馬節」を十八番(オハコ)にしていた。
「なんだこらようと アー チョーイ チョイ」と唄う時は、すべてから解放されたとしか思えない無邪気な顔をしていた。
 Aさんは勝手に、〝きっと、自分が父親からこの民謡を聴かされた頃の少年時代に戻っているのだろう〟と考えていた。

 大恩人Bさんが唄い終える前に、涙をこらえつつ、Aさんは気づいた。
〝もう、消えた……〟
 ──自分でつくった〈そこから出られない〉心の檻(オリ)がなくなっている。

 上機嫌で更なる協力を約束してくれたBさんと堅い握手を交わし、乗り込んだタクシーを見送ってからAさんは決心した。
〝明日、父親の見舞いに行こう、(初めて)手を握ってやろう。
 俺の節がスルッとした指でもきっと、喜んでくれるだろう〟

※この文章は実話を元にていますが、プライバシー保護のため内容に手を加えたフィクションです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2016
08.15

蔑視と怨念で滅んだ釈迦族 ─争い、戦争を起こさぬために─

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 お釈迦様は晩年、釈迦族の滅亡を体験された。
 お釈迦様は三度、隣国の軍隊を待ち受け、引き返させたが、四度目はかなわなかった。

 ことの起こりは、釈迦族が隣国の瑠璃太子(ルリタイシ)を侮辱した事件にあった。
 太子は8才の時から深い怨みを抱き、王になったら釈迦族を滅ぼすとの誓いを立てた。
 両親がお釈迦様の教えを聞きにいった留守中、クーデターを起こした太子は瑠璃王となり、釈迦族を討つために出発した。
 それを知ったお釈迦様は、道端の枯樹の下で瞑想し、待ち受けた。
 さしもの瑠璃王も三度はがまんした。
 以下、武者小路実篤著『釈迦』よりの抜粋である。
 (漢字や仮名遣いは現代風に変えています)

「昔から兵を用いて出征する時、沙門(シャモン)に遇わば軍をかえして還れと云われている。
 まして仏陀(ブッダ)に遇ったのだ、進むわけにはゆかない。」


 精舎(ショウジャ)に戻ったお釈迦様は沈んでおられ、弟子のアーナンダは心配する。

「私は世尊のおそばにいて数十年になりますが、こんなに御元気のないのを始(※ママ)めて見ます。」

「あと七日で釈迦族のものは皆、傷つき倒れるだろう。
 如来の顔の変をあらわすのは、家中の為に喪に服するのだ。」

「釈迦族には宿世の罪の報いを受けなければならない因縁があるのだ。
 代わってこれをうけることは誰もできない」


 アーナンダは、救済法を訊ねる。
 お釈迦様は簡潔に答えられた。

「もし釈種の人が心を一つにし、外敵にくみするものがなければ国は亡びない。」


 やがて来襲した瑠璃王の軍に取り囲まれたカピラ城内ではなかなか方針がまとまらず、ついに開城となったが、おおぜいが殺され、三万人もが捕虜となった。
 瑠璃王が捕虜たちの足を土に埋めて象に踏み殺させようとした時、王の祖父に当たる釈迦族のマカナンは言う。

「私が今、この庭の池の水底に潜っている間、皆を逃がして下さい。
 私が水を出るのを合図に皆をお殺しになって下さい。」


 王は承知し、マカナンは池へ入ったが、いつまでたっても出て来ない。
 とうとう全員が逃げてしまったので、水中を調べたところ、マカナンは髪の毛を樹木の根に縛りつけ、息絶えていた。
 王は暗澹(アンタン)とする。

「私の祖父が死んだのは、他の人々の生命を助けるためだった。
 惜しいことをした。
 殺すのではなかった。」


 こうして釈迦族は滅んだ。
 発端は、他国への蔑視であり、侮蔑を許せない怨みだった。
 因縁は長い時を待って熟し、結果が出た。
 その流れを変える新しく強力な縁がはたらけば、結果は変えられたかも知れない。
 お釈迦様は、不可能は承知の上で、一致団結と自立とを説かれた。
 この二つに必要なものは智慧と方便(ホウベン…適切な手段)である。

 最後は、因縁の発端に関与したマカナンが身を捨てて多くの人々を救った。
 私たち凡夫にできることは、第一に、高慢心を離れ、他者を敬うことである。
 そして、軽蔑されたならば相手の心性を哀れみ、怒らないこと、そして怨まないことである。
 たとえいかなる富や地位を誇ろうとも、慢心し、他者を軽蔑する人の心は貧しく、哀れである。
 慢心している人の顔には品性がなく、隠しようもなく卑しい。
 怨んでいる人の顔には陰の気がまといつき、臭気を放つ。
 個人も国家も同じである。
 争いを避けるために、戦争を避けるために、まず蔑視をやめ、怨念を捨てたい。
 何としても「不戦日本」であり続けたい。 

 今日の10時から恒例のお盆供養会を行います。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、しっかり祈ろうではありませんか。




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2016
07.08

宗教者と教団の選び方 ─道具の話・あるべきようの話─

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〈自分自身で自分の「あるべきよう」を考えよと説かれた明恵上人〉

 宗教とかかわって失敗したという人生相談は絶えない。
 悪因縁を説き、善行が順調に進むよう、幾度も修法してきた。
 二つのポイントを記しておきたい。

○大切なのは、用いる道具がどうかということよりもむしろ、道具をどう用いるかである

 仏教は、教えが心身の血肉となる前は、数ある道具の一つでしかない。
 キリスト教も、イスラム教も、自由主義も、社会主義も、博愛主義も、果てはナルシシズムすらも道具である。
 包丁が料理に役立つ反面、人殺しの手段にもなり、火が清めと共に火事をもたらしたりもするように、道具には多様な可能性がある。
 そして、多くの場合、結果への道を決めるのは、用いる人間の心である。

 ある時、僧侶に裏切られたAさんが嘆いた。
「大学で学び、こんなにも深い仏縁に恵まれながら、何の縁で、このようなことをされるのか。」
 縁となった僧侶が、娑婆的現実に関して、常々の言動とはまったく別人のような面を露呈し、周囲が困り果てたのだ。

 ある時、新興宗教に引きずり込まれそうになったBさんが嘆いた。
「これだけが正しい、他は邪宗だ、これだけをやれば幸せになれる、他は捨てと教え込まれ、苦しくなりましたが、お釈迦様はそんなふうに説かれたのでしょうか?」
 有名な宗教団体なので行ってみたら、カルトや蟻地獄のような恐怖感を覚え、大変な目に遭いながらも、ようやく脱出したという。
 
 仏教に関して言えば、仏教経典を用いているから、まっとうな人であり、まっとうな教団であるとは言えない。
 教えの内容よりもむしろ、教えをどう用いているかが問題だ。
 標語は飾りであり、善良な信者たちが教祖や幹部の隠された〈狙い〉に気づかぬ例は山ほどある。

 もしも、宗教を説く人や教団との縁を深めようとする場合は、教えの〈内容〉から離れ、その人自身が一人の人間としてどう生きているか、その教団が社会内の存在としてどのように社会とかかわり、どのように運営されているか、その〈ありよう〉を客観的に眺めてみたい。
 まず、本分をもってきちんと自立できていなければいかがなものか。
 まず、教団か、それ以外の世間か、二者択一を迫るようでは危険だ。

 お釈迦様は、バラモン教と思想的に相容れないにもかかわらず、弟子たちへ、行者として清浄なバラモンたちへ学べと説いた。
 お大師様は、他の宗派と争わず、むしろ多様に学びつつ、より高いものを求めよと説いた。
 ダライ・ラマ法王は、宗教的立場を超えた地点で、互いに認め合い、互いを思いやろうと説いている。

 このあたりから相手をよく見れば、失敗しにくくなることでしょう。

○人は知っているとおりには生きられない

 自分を振り返ってみよう。
 知っているとおりに生きているか?
 それができているなら、誰かを苦しめなかったはずだ。
 誰かと疎遠にならなかったはずだ。
 何かを奪わなかったはずだ。
 何かを失わなかったはずだ。

 私たちは、〈どう生きるべきか〉をおおよそ、知っているはずなのに、なかなかそうは生きられない。
 一方、確かなのは、〈こう生きたい〉と思う方向へ進もうとしていることだ。
 つまり、あるべきよう、ではなく、やりたいよう、に生きるのが私たちの現実だ。

 今から約800年前に活躍した明恵上人(ミョウエショウニン)は生涯、月輪観(ガチリンカン)の修行を欠かさず「月の行者」とも呼ばれた。
 その遺訓は、「阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ)」の7文字に貫かれている。

「人は阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ)と云(イ)う七文字を持(タモ)つべきなり。
 僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至(ナイシ)帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。
 此のあるべき様を背く故に、一切悪(ワロ)きなり。」


(人は、「あるべきようは」という7文字を心に刻んで忘れないようにすべきである。
 出家者は出家者のあるべきよう、娑婆の人は娑婆の人のあるべきよう、国王は国王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきよう、を考え、それに背かぬようにせねばならない。
 この、あるべきよう、に背くために、一切の悪事が起こるのである)

 上人の言葉はこうも読める。

「ものの道理や人の道を知っているつもりでいるだけでは危うい。
 自分は自分の置かれた立場なりにどうあるべきか、その道理や道を常に問い、得た答に合わせる努力をし続けなければならない。
 それを怠るところから、この世のすべての過ち、悪行が起こってくる」

 また、気をつけねばならないのは、こうも説かれている点である。

「仏も戒を破りて我を見て何の益(エキ)かあると説い給(タマ)へり。」


(お釈迦様も、戒めに背いていながら、悟った人を崇めたところで何にもならない、と説かれているではないか)

 出家者と在家者を問わず、決して、拝めばまっとうに生きられるのではない。
 まっとうに生きるためには、自分自身を省み、外に学び、内に仏心の声を聴き、それに従う自分自身の努力が欠かせない。
 仏神に祈るのは、〈凡夫はいかに努力しようと何かが足りない〉からである。
 知っているとおりにはなかなか生きられない私たちだからこそ、いかに生きるべきかを常に問い、実践し続けねばならないのは、上人が説かれたとおり、置かれた社会的立場にかかわりなく共通の真実だろうと思う。

 このあたりから自分をよく見れば、失敗しにくくなくことでしょう。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
05.20

人は変わるか変わらないか ─気質と性格─

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〈仙台稲門会様で拙いお話を申し上げました〉

 私たちは、こんなことを知っています。
「三つ子の魂百まで」
「親子の血筋は争えない」
 一方、すっかり〈別人になった〉人を何人か知っているし、なぜ、あの親からこの子ができたのかと首を捻ったりもします。

 私たちは、自分の性格に悩まされます。
「ああ、また同じ失敗をやってしまった。俺ってどうしようもない」
 一方、口べただった人が、周囲の思いもよらないような発言をするようになりびっくりしたりもします。

 私たちは、ここ一番の場面で、強い自分が出て成功する一方、弱い自分が出て失敗することもあり、自分自身がよくわかりません。

 まじめなはずの人の思わぬ二枚舌にきりきり舞いさせられて、驚いたりします。

 私たちは、自分のバカさ加減に諦め気味である一方、まだ、発奮する気力を残しています。

 こんな多面性を持ち、つかみどころのない個人の人間性について、遺伝性格から考える手法が現れました。
 一人の人間の個性気質性格によって形づくられており、変わらない気質と変えうる性格のバランスをとって生きて行けばよいというものです。
 気質は、周囲の環境に対して無意識な反応を行ってしまいますが、性格は意識的な行動を導きます。

 たとえば、気に入らないことがあるとすぐに「バカヤロー!」と頭へ血が上っては後で後悔する人が、何度か失敗を重ねているうちに、内心ではカッカしても叫ばなくなった時、彼のどこが変わり、どこが変わっていないのか?
 たとえば、生真面目で手を抜かず一生懸命やるよい子が、社会へ出てどんどん重荷を背負い、気力を失って何も手につかなくなった場合、彼女の何が変わり、何が変わらなかったのか?
 上記のとたえは、クロニンジャーが唱えた気質性格に関する理論に合っているかどうかわかりません。
 しかし、個性には変わらない面と変わる、あるいは変えられる面との両面があるという説は、私たちへ希望を与えてくれるのではないでしょうか。

 私たちは〈どうしようもない〉面を持っているけれど、〈どうにでもできる〉面もあるのです。
 仏法はそれを過去世の因縁によって生まれ持ったものと、育ちや生き方によってつくられて行くものとに分けて考え、祈ってきました。
 私たちの生活は、来世に〈生まれ持つ〉ものをコツコツとつくり続ける日々でもあるのです。
 最新科学の「気質と性格の理論」も、仏法の「因果応報と輪廻転生の思想」も、私たちの考えを整理し、生きる方向を見定めるための指針となります。
 学びたいものです。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2016
01.15

厄除祈祷について ─悪業の滅し方─

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 そもそも、悪いできごとは、悪い原因があって起こります。
 因果応報です。
 悪い原因とは、時間に対してかかわってくる〈悪い影響力〉であり、それを悪業(アクゴウ)と言います。
 この悪業は悪行(アクギョウ)によって生じます。
 では、悪行は何によって生ずるか?
 誤ったものの観方です。
 だからお釈迦様は、正しい修行道である「八正道(ハッショウドウ)」の第一番目として「正見(ショウケン…正しい見解)」を説かれました。
 
 正しい見解とは、何よりもまず、ありのままに観ることですが、この〈ありのまま〉が問題です。
 たとえば、私たちは優しい言葉をかけられて喜び、貶(ケナ)されて怒ります。
 優しい人にはまた、そうしてもらいたいと思い、酷い人の顔は二度と見たくなくなります。
 これが煩悩(ボンノウ)の「好(コウ)」と「悪(オ)」です。
 自分の都合で相手を分類しており、〈ありのまま〉から離れています。

 また、この時点で、優しい人も、酷い人も、そして自分も〈このままずっと生きている〉という前提が置かれています。
 ところが、この前提は、真理でありません。
 私たちは、身体と心を形成するさまざまな要素がたまたま、うまくまとまっているから〈ある特定の人〉として生きているだけです。
 もしも脳溢血や心筋梗塞が起これば、あるいは交通事故に遭えば、あっという間にこの世を去って何の不思議もありません。
 自分の明日のいのちすらどうなるかわからないのです。
 また、脳裏に思い浮かべる優しい人Aさんや酷い人Bさんはたった今、この世のどこかで確実に生きているとは限りません。

 こうした存在のありようを根本から考えてみれば、すべては因と縁によって仮そめに成り立っている空(クウ)なるものとして平等です。
 優しい人も酷い人も自分も。
 み仏に通じる〈平等の眼〉には、誰しもが幸福を望み、不幸を厭うという平等も観えてきます。
 ここまで来れば、ようやく正しい見解になりつつあると言えましょう。

 その結果、自分と周囲を固定したものとしてとらえ、執着心がさまざまにはたらいて「好(コウ)」や「悪(オ)」や無関心である「平(ヘイ)」となる煩悩(ボンノウ)が動きにくくなります。
 また、誤ったものの観方がなくなれば、それを原因として生じていた悪行は行われなくなります。
 そして、悪行の結果として生じた悪業が引き起こした問題へも根本的な対応ができるようにもなるのです。
 これが因縁解脱(インネンゲダツ)に至る道筋の一つです。

 ところが、〝そうか!〟とわかっても、これまでに染みついた正しくない見解とそれに馴染んだ反応の仕方は容易に消せません。 だから仏神へ祈ります。
 合掌をして。
 左手の自分が右手のご本尊様と一体になった感触が、古い見解と習慣を消す力となります。ご加護が降りるのです。
 当山が行う春祭厄除千枚護摩祈祷は、運気の流れによって正しい見解がはたらきにくくなり、〈厄〉が生じるところをご本尊様のご加護で動かし、皆さんの運が開けるよう祈るものです。
 祈り、守本尊様のお導きで正しい見解となり、悪業を滅していただきたいと願っています。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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