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2016
10.18

Q&A(その30)出家と在家の違いは何でしょうか?

2016-10-18-0001.jpg

〈ある基礎工事の現場です。地盤を掘り起こして地盤改良材を混ぜ、埋め戻して固め、溝をつける手際に惚れ惚れしました〉

 大乗仏教(ダイジョウブッキョウ)は出家在家を区別せず、仏性を発揮すれば等しく成仏できると説きます。
 だから、日本では、出家者が娑婆的生業(ナリワイ)で稼ぎ、在家者がプロの僧侶と同じように仏法を説いて人気を博したりといった現象が生じています。
 出家者が娑婆的事象に関わり過ぎたり、在家者がプロの領域へ踏み込み過ぎたりして、問題を起こしてもいます。
 では、両者の区別はなくなったのか?
 それでよいのか?
 仏法の衰退とそれは無関係なのか?

 小生はこう思います。
 出家者は〈仏法を生きる者〉、在家者は〈仏法を生きる柱とする者〉ではないでしょうか?
 これには二つの意味があります。
 
 一つには、生きる糧(カテ)の問題です。
 出家者は、ひたすらみ仏へお仕えし、その姿とはたらきに接する娑婆の方々が、み仏へお供えしてくださるお布施によってのみ、生きます。
 在家者は、世間的生業(ナリワイ)や役割を持ち、それだけでは自分の生き方に納得や安定が得られない時に、世間的価値観と次元が異なる導きの灯火として仏法を選び実践します。

 もう一つは、行き詰まった時の対処法です。
 出家者が解決を求める先は仏法僧の三宝のみであり、最後はご本尊様へ委ねます。
 芥川龍之介の小説『羅生門』において、お釈迦様が地獄へ垂れた一本の〈蜘蛛の糸〉を見つけられるか見つけられないかにかけるようなものであり、真剣の〈刃渡り〉を続けるしかありません。
 在家者は、たとえ一時的に仏法に背こうと娑婆的価値を守りぬきます。
 経営者が会社を守り、従業員を食べさせようとする時に袈裟衣をまとったままではいられません。

 中年まで娑婆にいた小生は、後者を体験してから前者へ移ったので、その移行には覚悟と、周囲の人々も巻き込み得る苦しみが伴うことを些(イササ)か知っています。
 また、娑婆と寺院とが互いに支え合い、この世をつくっていることの意義も実感しています。
 お大師様は説かれました。

「慈は能(ヨ)く楽を与え、悲は能く苦を抜く。
抜苦与楽(バックヨラク)の基、人に正路(セイロ)を示す、是(コ)れなり。
謂(イ)ふところの正路(セイロ)に二種あり。
 一には定慧(ジョウエ)門、二には福徳の門、定慧(ジョウエ)は正法(ショウボウ)を開き、禅定(ゼンジョウ)を修するを以て旨と為(ナ)し、福徳は仏塔を建て、仏像を造するを以て要と為(ナ)す」


(慈しみは人々へ楽を与え、憐れみは人々の苦を抜く。
 その基礎となるのは、正しい路を示すことに他ならない。
 いわゆる正しい路には二種類ある。
 一つは瞑想と智慧に生きるものであり、もう一つは人々へ福徳を施すものである。

 瞑想と智慧の路は正しい仏法を開いて深い瞑想へ入ることを旨とし、福徳を施す路は仏塔を建て、仏像を造ることを要点とする)
 ここにおける前者が出家、後者が在家です。
 もちろん、出家者はただ座っていればよいわけではなく、他のためになる布施行を欠かせず、在家者もまた、ただ寺院へ何かを納めるだけでなく、教えを学びたいものです。
 誰にとっても智慧と福徳、二つの要素は共に必要です。

 さて、出家しようとしまいと、心がけと生きざまによって、生き仏になれます。
 10月17日、NHKテレビは「プロフェッショナル 仕事の流儀」において、デザイナー皆川明氏を紹介しました。
 氏は「マイナスからプラスを見いだす」と言います。

自分ができないことに出会った時に、できない状態でいるよりは自分にできることを相対的に見つけてみる。
 社会的にはマイナスに見えることが、自分にとってはプラスになることがあると考えてみる。

 そういうことを、ずっとしてきた」


 これは時間的な感覚ですが、それを空間に表現すればマンダラになります。
 悟りの極地にある姿から、無惨で暴悪な姿まで、さまざまな仏や悪鬼が描かれたマンダラは、全体があって初めて世界が成り立つ真実を示しています。
 そして、〈こうした世界〉にしか、生きて救済される場はないのです。
 マイナスと見えるものはプラスへの可能性を孕(ハラ)み、プラスと見えるものは常にマイナスへ関わり合っており、その全体性を表すのが胎藏生マンダラであり、ダイナミックな活動を表すのが金剛界マンダラです。

 こう考えてみると、大切なのは〈姿勢〉であると言えるのではないでしょうか。
 娑婆にあれば娑婆にあるように、出家したならば出家したように、仏法と共に生き抜くこと。
 そうすれば、誰でもが生き仏になれるはずです。

 そこに仏法の解釈と実践の基礎を置くのが大乗仏教だろうと思います。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
11.06

死で終わる哲学から、よき生を繰り返す宗教へ ―この世を脱するか、この世へ戻るか―

201411060001.jpg
〈膨大なお塔婆に込められた善男善女の尊いお心に圧倒される思いでペット霊園『やすらぎ』さんの供養会を行いました〉

 前回、ブログ『輪廻(リンネ)思想は仏教の根幹』へ、「輪廻からの脱却を目的とするからこそ仏教の修行は成立しており、輪廻を意識しない出家者つまり、僧侶もあり得ない。」と書いた。
 問題意識は、「自分の中にあるつまらぬ考え方や悪しき欲望や愚かしい発言や行動、そして、傷つけ、騙し、殺し合い、自分勝手に生きる人間が構成する社会の様相は、〈これが永遠に繰り返される〉と思えば、限りなく恐ろしい。」というところにある。
 そして、お釈迦様は、輪廻から解かれ脱すること、すなわち解脱(ゲダツ)を目指して修行し、成功して仏陀(ブッダ…悟った者)となられた。
 だから、釈迦如来となったお釈迦様は再び、この世へ戻っては来られない。
 優れた弟子たちもまた、望みどおりに〈愚かしい自分〉から脱し、〈厭わしいこの世〉へ戻って来てはいないことだろう。
 現在もまた、同様に信じ、望み、実践している仏教徒がいて法灯は絶えない。

 さて、大乗仏教(ダイジョウブッキョウ)の行者である自分を省みると、お釈迦様の背中を追いながらも、相当に異なる道を歩んでいることを自覚せざるを得ない。
 宮元啓一博士が「歴史的に見れば、大乗経典というのは、ゴータマ・ブッダその人に源を発することのない、新たにこしらえたもの」であり、「『大乗非仏説』(大乗はゴータマ・ブッダが説いた教えとは無関係である)との、当然の批判が浴びせられました」と指摘したとおりである。
 では、お釈迦様が残されたナマの言葉と教えに近いとされる原始仏教(小乗仏教(ショウジョウブッキョウ))と、お釈迦様の入滅後300年ほどして起こってきた大乗仏教は、どう違うのか?

 博士は、著書「わかる仏教史」において大乗仏教の特徴を9つ挙げた。
 おおよそ、以下のとおりである。
1 超人的、超越的な仏菩薩(ブツボサツ)が衆生を救済する
2 無数の現在仏(ゲンザイブツ…現在、仏国土におられるみ仏)が衆生を救済する
3 悟りを開く途上の人々も菩薩とする
4 等しく仏性がある
5 在家者も仏教にかかわる
6 経典読誦などの功徳によって救われる
7 名号や真言を唱えて災厄を逃れる
8 無思考の瞑想で智慧が得られる
9 一足飛びに悟れる
 そして、「大乗仏教の起源につきましては、いまだにはっきりとした学問上の定説はありません」とした。
 おおまかには「救済主義的な民衆宗教として成功を収めつつあったヒンドゥー教にあこがれた仏教の在家信者たちが、同じような救済主義的民衆宗教としての、自分たちのための新しい宗教をつくろうとした」と見ている。

 博士のご見解には納得しつつも、今の時代に、ご縁の方々と共に仏法を実践している者として、四つほど、異なる点を述べておきたい。

1 大乗仏教の担い手は民衆でなく、卓越した能力を持ち優れた境地に達した仏教の天才的行者たちであり、そうした人々の感得した世界が新たな仏典として示され、その象徴として数多くのみ仏方が生まれたのではないか。
 経典を読誦し、祈っている者としては、民衆の〈作為〉ではなく、時代の空気を吸いながら修行する行者の霊性がもたらすイマジネーションこそが、新たなタイプの仏教を創造したと思える。

2 仏教に救いの可能性を感じる人々は、お釈迦様や高弟たちの「解脱」に憧れつつも、自分自身の問題として、解脱の内容である「不死(再び死なないこと)」と「不生(再び生まれないこと)」を望まなかったのではないか。
 二度とこの世に生まれないことは、ほとんど死のイメージと重なり、生きていられないほど追いつめられた特殊な状況でしか、明確なイメージとして望みきれない。
 一行者として生きている自分自身も、自分がそうした解脱の世界へ入るために修行し、ご縁の方々と接しているわけではない。
 悪しき因縁からは脱しなければならないが、理由は、それを放置したままで誰かのためになることなどできはしないからである。
 尊いお布施によって生きながらえることが許されないからである。
 因縁解脱の目的は決して自分の不死や不生にあるのではない。

3 行者であれ、民衆であれ真に望むこと、つまり仏教へ求めるものは自分が輪廻転生から脱して〈再び苦である生を得ない〉ことではなく、〈生きながら自分もこの世もよりよいものにする〉ことではなかったか。
 宮元啓一博士は説く。
「目覚めた人となったということは、当然ながら、根本的生存欲を断ち切ったということにほかなりませんから、ゴータマ・ブッダは、生きることに意味を見いださず、生きる意志をもたないという状況に入ったわけです。
 したがって、かれは、そのまま、朽ち木が倒れるように死んでいくはずでありました。」
 それでもお釈迦様は「みずからが体得した境地、その境地をもたらした智慧、さらにその智慧をもたらした修行法を、なんとかして人に伝えてみたいという気持もありました」という。
 そして梵天(ボンテン)に請われ、説法の旅を始めた。
 お釈迦様は博士が指摘するように、「慈悲というのは、それ自体が目的なのではなく、あくまでも、修行をよりすみやかに完成させるための手段であると、ゴータマ・ブッダは考え」て修行したのだろう。
 しかし、いつしか、慈悲は単なる手段ではなくなっていたのではないか?
 悟って苦を脱すること、しかし、それは自分だけの問題ではなく周囲の人々にも苦を脱してもらいたいこと、そして、〈共に苦を脱しようとする生き方〉にこそ、この世に生を承けた者としての究極的喜びがあること。
 お釈迦様が入滅してから3百年の年月は、人々へこうした方向を探求させ、たとえ悟りを開こうと自分だけが安寧(アンネイ)の仏界へ入ってしまわず、幾度でもこの世へ転生しながら万人を救いたいという菩薩のイメージに人間の理想像を発見したのではなかったか。
 この積極的なイメージが2千年の時をかけて育てられたのが現在の大乗仏教であり、私自身、現に仏教の行者でありながら〈再び苦である生を得ない〉ことを望まず、〈生きながら自分もこの世もよりよいものにする〉のみを望んでいる。

4 不死と不生である解脱を望まなくても、お釈迦様の説かれた仏教を信じ、修行することは可能であり、そこに、硬直したドグマから脱しにくい他の世界宗教と仏教との違いがある。
 お釈迦様が説かれた輪廻転生も因果応報もふまえつつ、大乗仏教の根幹をなす如来像思想も唯識哲学も中観哲学も成り立つ。
 この先、幾世紀か経つうちに、仏教はさらに深化し、発展するだろう。
 未来に生まれる行者も、信者も、その時代の空気を吸いながら、共に〈生きながら自分もこの世もよりよいものにする〉方向を目ざすことだろう。
 



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2009
04.17

『法句経』物語 8 篤信品(トクシンボン)第四(第二話)

 昔、シュダラという大富豪がいました。
 数え切れないほどの財産を蓄えた後、関心はようやく道徳へ向かい、ある決心をしました。
「毎年12月8日に聖者と行者たちを招いて供養することとし、子々孫々に至るまで続けさせよう」
 やがて臨終を迎えたシュダラは、ヒダラという子供へ「この誓いを決して廃してはならない」と言い遺しました。
 ところがヒダラはだんだん貧しくなり、12月になっても供養の準備ができず、憂いは増すばかりでした。

 時期が来たので、釈尊は弟子モクレンを遣わしました。
「今月はあなたのお父さんが供養してくださることになっていたのですが、どうされますか?」
 ヒダラは答えます。
「亡父の指示を違えることはありません。
 8日の正午をお忘れにならず、いつも通り、どうぞおでかけください」
 モクレンは釈尊へ報告し、ヒダラは妻子を連れて妻の実家へ赴き、妻子を預けて百両を借り、家に戻って供養膳を調えました。
 釈尊は例年通り1250人の修行僧を引き連れて供養にあずかり、精舎へ帰りました。
 遺言を実行できたヒダラはただ歓喜するだけで、後悔の念は起こりませんでした。
 ところが、その日の夜、古い蔵々では財宝が自然に満ち満ちて、やがて裕福だった頃と変わりなくなりました。
 翌朝、蔵の様子を目の当たりにした夫婦は驚き、役人にどこから財宝を手に入れたかと詰問されるのを怖れ、釈尊のもとへ相談にでかけました。
 釈尊は答えました。
「安心して財物を意のままに用いよ。
 難事が起こるのをを怖れる必要はない。
 貴方は信義を守り、父の教えに背かず、持戒して自らの境遇を恥じ、父の死にもかかわらず方針を一貫させたので、信心や布施など仏道を成就するために必要な七つの財がそろったのである。
 目に見える財宝が現れたのもこうした福徳の結果であり、それは決して災いをもたらすものではない。
 男女を問わず、智者が道の実践を行った結果として財福を手にすることができるのは、自然な成り行きである」
 さらに、釈尊は詩をもって説きました。
信心と、戒律と、自分で自分を恥じる慚(ザン)と、他へ対して恥じる愧(キ)と、教えを聞く聞法と、布施と、智慧とを七つの財物とする。
 信心に従い、戒律を守り、常に清浄な心で真理を観じ、智慧をもって他のためになることを実践し、教えを大切にして忘れないのは、男女を問わず生まれながらにして具わっている財物なのである。
 それを知れば、生涯、貧困にはならない。
 賢者とは、この真実を知っている者である」
 この説法により、ヒダラはますます篤く信じ、仏足をおしいただき、歓喜して帰宅しました。
 つぶさにこのできごとを教えられた妻子は皆、信じ、受け継いで悟りを得ました。


 ポイントを整理しましょう。

1 仏道を実践すれば、苦を脱し悟りを開くために必要な財物はおのずから手に入る。
2 必要な財物とは、①信じる心。②戒めを守り自分を律すること。③自らを省みて恥じる慚(ザン)。④他へ対して自らを恥じる愧(キ)。⑤仏法を真剣に聞いて学ぶ姿勢。⑥見返りを求めずに他へ施す心。⑦真理・真実を見極める智慧の七つである。
3 誰しも、真の財物を生まれながらにして持っている。
4 それは、信心に従い、戒律を守り、常に清浄な心で真理を観じ、智慧をもって他のためになることを実践し、教えを大切にして忘れない生き方である。
5 真の賢者とはそれを知っていて、財物を活かして生きる人であり、決して貧困に陥らない。

 とても大切なのは、出家修行者だけが悟りを開けるのではなく、万人に備わっている宝ものに気づき活かす人へ、等しく救いの扉が待っているという点です。
 そして、在家の信者にとっては出家修行者の供養がそのきっかけになるという点も見逃せません。
 釈尊の初期の教えの中に、すでに、出家者と在家者を問わず悟りを開き得るという大乗仏教の教えが含まれています。
 こうしたことをふまえて、お大師様は「出家者は所定の修行により、在家信者は布施などの修行により、共に悟りへの道を歩める」と説かれました。
2005
11.14

プロの覚悟

 「自分は今、苦境にあって仏教へ大変関心があります。どうすれば良いのでしょうか?」
 中年にさしかかろうとする男性が、まっすぐこちらを見て質問されました。
 答えました。
 「まず考えるべきは、プロになるのか在家で信仰するのかを決めることです。
 もちろん、み仏のお救いに分け隔てのあろうはずはありませんが、ここをきちんとおさえてからいろいろ考えられてはいかがでしょうか」

 プロと在家は違います。在家とは聖職者以外のすべての方々です。
 何が違うかといえば、覚悟が違います。
 覚悟とは、いのちも含めてみ仏へ全てをかけるかどうか、全てをお任せするかどうかということです。

 娑婆で全財産を失ってこの道へ入った者としてはっきり解ったものごとの一つは、お任せできなければ真のプロにはなれないということです。

 理由は二つです。一つは、み仏へいただく浄財でいのちを永らえ寺院を維持する以上、み仏以外のものへ頼るなどということがあってはならないからです。
 み仏へ自らをお預けしていながら別の収入で生きることには矛盾があります。。
 我が身も家族のいのちも托鉢へかけるようになり、このあたりの理は、よくよく教えていただきました。
 明日の米に困っていながら、いくら歩いてもなかなか受けていただけない日は辛いものがありましたが、不思議なもので、もうこれで終わりというお宅で万札をいただき、妻や子の顔を思い出しながら帰山したといったできごとは、枚挙にいとまありません。
 み仏はこうして鍛えてくださり、お救いくださるのだなあと、幾度となく感涙にむせびつつここまで来ました。

 もう一つの理由は、前の理由と重なり面がありますが、他の収入へ頼るとプロとして必ず甘くなることです。
 これは、僧侶に限ったことではありません。
 もしも大工さんが宝くじで三億円を当てたなら、どうなりましょうか。
 腕前の鈍る方が現れはしないでしょうか。
 どんな職業であろうと、身につけた何ごとかをもって世間様から養っていただく以上、その力を磨き高めるよう全力投球をするのがプロとしての責務でありましょう。
 種々の事情から、一時「二足のわらじを履く」生活をした者として、矛盾を抱えた生き方の欺瞞性とそれに慣れてしまう堕落の恐ろしさは、身をもって体験しています。
 そうした観点からすると、ほぼ毎日のように投資関係の会社などから勧誘の電話が来る現況は憂うべきであると考えています。
 「こちらは修行寺ですから、ご縁のない話です。よそへ話をしてください」と断っても、「そんなことをおっしゃっても、私たちはあなたたちのやることをよく知っていますよ」とばかり、電話の向こうでニヤリとしている様子を感じたりすると、情なくなります。

 また、この方は、話を聞き終わった時「よく解りました。その内お茶飲みにあがります」と言われましたが、僧侶は世間様のようなお茶のみはしませんとはっきり申し上げました。
 皆さんとお会いする時は、常にプロです。
 たとえどんなにくだけた雰囲気になろうと、気を抜いてしまうことはありません。
 人生相談は、もちろん袈裟衣をつけご本尊様の前で法を結んでから行なうし、例祭が終わってお茶になり、和やかな世間話をしている最中も、構えは同じです。
 そうでなければ、寺院へ足を運ぶ方へ申し訳ないではありませんか。

 プロとそうでない方々の区別が限りなくあいまいになっている昨今、当山では、古くさくこんな風にやっています。




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