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2016
11.17

煩悩を敵視しない ─心をまっとうに弾ませる智慧─

2016-11-11-210.jpg
〈救いを求めて〉

「あれこれと煩悩(ボンノウ)が多くて、悩みが絶えません。
 私みたいな者は地獄行きでしょうね」

 笑い話混じりでも、あるいは真剣な目でも、こうした質問は不断に続いている。
 小生はこんなふうに応えたりする。

「自分が一つの生命体として生きたいと思う以上、煩悩はなくなりません。
 でも、もし本当に、生きたいと思わなくなったなら、心は弾むでしょうか?
 心が弾む毎日であってこそ、生きている甲斐があるのではないでしょうか?
 問題は、どういう心がけで、どう弾むかにかかっています。
 この〈どう〉をつかむためには、智慧が必要です。
 知識ではありません。
 それは、仏教を学び実践することによっても得られますが、決してそれだけが得る道ではないし、仏教徒なら誰でも智慧を身につけているわけでもありません。
 多様な人生の多様なステージで、まっとうに、真剣にやっていれば、必ずなにがしかの形でつかめることでしょう。
 なぜなら、それは自分の心の中に求めるしか得ようのないものだからです。
 だから、悟りを得る方法として、『大日経』は『実(ジツ)の如(ゴト)く自心を知る』と説いています。

 もちろん、〝こんな気まま勝手な自分の心に大切な智慧などあるはずがない〟と思うかも知れません。
 自分は悟ったなどと公言する尊大な人の高慢さに比べたら、あなたの謙虚さは宝もののように貴いのですが、諦めてはもったいないと思います。
 私たちは一人残らず、み仏の子です。
 み仏からいのちと心を授かってこの世へ修行に来ている以上、心の核としての仏心は必ずあり、仏心を灯火として安寧と感謝で生きられるか、それとも憂き世の暴風雨に翻弄(ホンロウ)され、混乱と憤懣で生きるかは、仏心に気づくか気づかないかによって異なります。
 そして、人生がさまざまであるように、きづくチャンスもさまざまです。
 まっとうに、真剣にやっていれば、いかなる境遇でも、いかなる仕事をしていても、必ずチャンスは巡ってきます。

 もちろん、気づくとは言え、これが仏心だと指し示せるものではありません。
 ただ、深い感謝の念が特定の対象を超えて無限に広がり、あらゆるものと〈共に在る〉と実感され、自分を含めすべてが〈在る〉ことそのものに対して堪えきれないほどの愛おしさを覚えるようになれば、気づいた証拠と言えそうです。
 そうなった時、もはや煩悩があるかないかは問題になりません。

 自分の煩悩とその恐ろしさに気づいたならば、モグラ叩きのようにやっつけたいとイメージするのではなく、他者のよき生き方や、生きものたちが無心に見せるいのちの躍動に感応する心を錆び付かないようにしたいものです。
 そして、お手本として学ぶ謙虚さを失わないようにもしたいものです。
 そもそも私たちは、この世に生まれ落ちてから、いったい、どれほどたくさんのお手本のおかげで生きてきたのでしょう。
 心のありよう次第で、アリも、コスモスも、新聞配達のおじさんも、ホームの駅員さんも、すべてお手本に見えてきます。
 そうした意味で、み仏は究極のお手本です。
 だから密教では、即身成仏(ソクシンジョウブツ)つまり、お手本に成り切ってしまおうとします。

 自分の煩悩に気づき、これではいけない、情けないと意識する人は、大切なスタート地点に立っています。
 その謙虚な気持を失わなければ、きっと周囲に〈仏心の輝き〉を発見することでしょう。
 輝きを認めるすなおな気持を失わなければ、きっと自分もそうありたいと思うはずです。
 そこから先は、それぞれのタイプや生きて来られた過程や、今の環境などにより、千差万別の形で〈方法〉を探そうとされることでしょう。
 寺院へお詣りしたり、経典を読んだり書いたりするのも一つのやり方です。
 どうぞ、自在にお考えください。」

 人であれ、社会であれ、自然であれ、周囲にかけがえのない価値を感じ、自分がそのために役立とうとするならば、弾んでいる心のどこに煩悩があろうか?
 煩悩即菩提(ボンノウソクボダイ…迷いはそのまま悟りでもある)とはこのことである。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
10.19

この世の行状の落とし前 ─閻魔様とお地蔵様─

2016-10-19-0001.jpg
〈ダンダ幢を持った閻魔様〉

 私たちはこの世でそれぞれなりに生き、死んで行きます。
 因果応報が真理である以上、そして、この世でのすべての行為にすべての結果が伴ないきれない以上、その分は未来のいつの日か、どこかで、結果としての報いを受けねばなりません。
 ──善行への嬉しい報いも、悪行への苦しい報いも。

 そうした成り行きがいかなるものかを想像させるのがお地蔵様のお経です。
 そこには、閻魔(エンマ)様に調べられる様子と、お地蔵様の救いが説かれています。

 さて、調べはどのように進むかと言えば、以下のとおりです。
 
○その1 双童子(ソウドウジ)

 双童子は誕生の瞬間から人に寄り添そい善行悪行を記録する同生神(ドウショウジン)であり、善行を記録する者は吉祥天のように優しく、悪行を記録する者は羅刹のように恐ろしい。

「善を証明する童子は
 影のごとく相手から一瞬も離れず
 耳を低くして
 小さな善行も必ず記録する

 悪を証明する童子は
 響きが音を出す本体に応ずるように
 目を留めて
 小さな悪行も必ず記録する」

○その2 人頭杖(ニントウジョウ)

 閻魔王国へ入る鉄門の左右には、人頭杖(ニントウジョウ)がある。
 別名ダンダ幢(ドウ)という頭のような飾りを持つ幢幡(ドウバン…み仏の世界を表す旗)が立っており、この世での善行悪行も飾りに現れる。 
 ダンダは棒、杖だが、それが刑罰の道具にも用いられることから、刑罰という意味もある。
 黒闇天女(コクアンテンニョ)と、太山府君(タイザンブクン)がそれを持って閻魔王へ報告する。

○その3 浄頗梨(ジョウハリ)の鏡

 閻魔王の国には光明王院(コウミョウオウイン)があり、その中殿に懸けられている光明王鏡を浄頗梨(ジョウハリ)の鏡という。
 王の指示でそれに対面させられた死者は、自分の顔を鏡へ映すように、自分の歴史を見る。
 ここまでで、死者は、自分の過去がすべて明らかにされ、善悪の報いを受けねばならないことを知る。

 さあ、大変です。
 思い当たるフシがいろいろある人々は、震え上がることでしょう。
 悪行と無縁な人はいないので、全員が地獄へ行くかと言えばそうではなく、この国にはもう一つ、善名称院(ゼンミョウショウイン)もあります。
 そこは常に春であって花が咲き、同時に秋でもあって果実がたわわになっています。
 この浄土は、地蔵菩薩が入定(ニュウジョウ…瞑想に入ったまま悟りの世界へ行く)する宝処(ホウショ…尊い場所)であり、中央に座す地蔵菩薩は毎朝、瞑想から起つと無数の身を現じて、生きとし生けるもののそばへでかけます。
 信心して念ずる者には笑顔で智慧ある姿となり、不浄の行いをしている者がいれば自分の胸を指で刺して悲しみ、智慧の潤いをもって悪の報いによる苦を除こうとされます。
 地獄界や修羅界などの六道(ロクドウ)を輪廻(リンネ)する運命にある私たちのために、以下の様な願いを持っておられます。
 何とありがたいことでしょうか。

「私が真理を悟ったならば
 地獄の世界において、身代わりとなって苦を引き受けよう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 餓鬼の世界において、食べものを施そう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 畜生の世界において、飲み食いをさせよう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 修羅の世界において、争いを和ませよう
 それができなければ、決して成仏はしない

 私が真理を悟ったならば
 人間の世界において、心の平安を与えよう
 それができなければ、決して成仏はしない
 
 私が真理を悟ったならば
 短命を恐れて我を念ずる者に長命を与えよう
 それができなければ、決して成仏はしない」

 こうした教えをどう受けとめるかは、私たち次第です。
 報われぬ善行を嘆いたり、知らん顔でいたい悪行に内心怖れていたりするだけでは、どうにもなりません。
 善行はきっと童子が記録しており、ダンダ棒の人頭と浄頗梨(ジョウハリ)の鏡に映るので、愚癡を言う必要はありません。
 悪行の報いからは決して逃れられないので、すみやかに懺悔(サンゲ)して対応すると共に、善行によって悪行の影響を総体的に小さくしましょう。
 そして、思いがさらに進むならば、お地蔵様など身近に感じられる仏神へ祈るだけでなく、自分もいくらかはお地蔵様のような願いを持って生きましょう。
 ポイントは〈自分だけ〉にあります。
 決して自分だけ良い思いができるわけではなく、自分だけが辛い目に遭っているのでもありません。
 お地蔵様のように、〈共に〉生き仏となるイメージを持ちながら、この世を生き抜きたいものです。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2016
05.09

ミケ子はキジを獲り、人は人を殺す ─本来の仏が迷う姿─

2016-05-09-0001.jpg

 妻が騒いでいる。
「ミケ子がキジを獲ったみたいだよ」
 あり得ると思った。
 何しろ、小型でおっとりしているクロでさえ、かつてはスズメやモグラを獲って意気揚々と玄関へ運んで来たものだ。
 情報は、キジが歩いていたあたりでミケ子がウロウロしているという極めて曖昧なものだったので、それ以上の詮索はやめた。

 なぜか、最近、聴いた話を思い出した。
 かつてイラン・イラク戦争のおり、崩壊したイランのパーレビ王朝関係者がジャングルに亡命していて、侵攻したイラク軍兵士の暴虐ぶりを目にした。
 兵士たちはイランの女性を集めて暴行し、最後は一人づつコモにくるんで全員を爆殺した。
 飛んで来た肉片が近くへ落ち、この世の光景とは思えないものを見た彼は心のどこかが壊れ、時にはむやみと他人へ優しくするが、時には平然と冷酷な行動をとるようになったという。

 ケモノは節理に従うのみ。
 人間は真理道理に合わせるか、合わせないか、迷う。
 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は不殺生について説いた。
 

「一切衆生(シュジョウ)は我が子なるによって、一切有命(ウミョウ)の者に対すれば不殺生となる。
 一切有命の者が眼に遮(サエギ)れば必ず慈悲心生ず。
 この菩薩(ボサツ)の心をと名づく。
 この菩薩の心、衆生に本来具有のものなれど煩悩(ボンノウ)・業障(ゴッショウ)の深厚(ジンコウ)なるによって現ぜぬまでなり。」


(いっさいの生きとし生けるものは、我が子同様に、み仏からいのちを分けいただいた者同士であり、この心で生きとし生けるもののに接すれば不殺生という律の実践者となる。
 生きとし生けるものが目に入れば必ず思いやりの心が生ずる。
 おのづからそうなった菩薩の心が、の成就である。
 この菩薩の心は、生きとし生けるものを代表する人間には本来的に具わっているものだが、自己中心的な煩悩と、悪行の悪しき影響力、そしてそれが招く障りによって表れにくくなっているのである)

「もし残忍の心をたくましくして、罪なき者をことさらに殺害して、極大(ゴクダイ)の苦悩怨恨を生ぜしむる。
 この時、業(ゴウ)の種子(シュウジ)が成就して、他時異日(イジツ)、我が身に集まる。
 無しと言われず。」


(もしも残忍の心を逞しくし、何ら罪のない者をわざと殺害して、この上ない苦悩と怨恨を生ぜしめたとしよう。
 その時は、悪しき影響力の核がはたらき、やがて悪しき結果がその者の一身に集まる。
 因果応報は避けられない)

「殺生の、人道に背き、天命に背き、正道理に違うことを知り、みだりに殺さずみだりに悩まさぬが、世間相応の持者。
 殺生の業果(ゴウカ)空(ムナ)しからぬを信じ、殺さず悩まさず、憎み恨まぬが、出世間少分相応の浄持戒者なり。」


(殺生が人道に背き、天命に背き、人間としての正しい道理に違うことを知り、他の生きとし生けるものをみだりに殺したり苦しめたりしないのが、一般世間における持戒者である。
 殺生の悪業が因果応報の理によって必ず悪しき報いを生じさせると信じ、他の生きとし生けるものを殺さず、苦しめず、憎まず、恨まないのが、出家の立場としては、最低限度、資格が保たれる持戒者と言える)

「人間に生まれしことの尊重なるを憶念するは、道に達する要津(ヨウシン)なり。
 自ら自己人身に尊重の心あれば、自暴自棄の患(ワズラ)い無し。
 更に、微細の虫蟻に至るまで本性の平等なるに達す、これを不殺生戒全きと名づく。」


(人間として生まれた事実そのものの尊さ、重さを肝に銘じて忘れないのが仏道を成就するための要点である。
 み仏から授かった我が身を尊重する心があれば、何があっても自暴自棄になるおそれはない。
 さらに小さな虫や蟻までもが尊いいのちを授かった者として皆、平等であると知って害さず、苦しめないのが、不殺生戒を完全に成就した状態である)
 

「人たる道に背き清浄妙心の中に地獄を建立す。
 大火を現ず。
 大水を現ず。
 仏と異ならぬ心を持ちつつ、自ら迷うて業相(ゴッソウ)の姿を構え、ここに死しては彼に生じ、しばらくも定かならず。
 生もなく滅もなき場所に、自(ミズカ)ら生死(ショウジ)を構えて種々に顛倒(テンドウ)す。
 自己心中に大安楽のあるを知らず迷うなり。」


(人間の人間たる道に背き、本来清浄で精妙な心の中に自分で地獄を現出させてしまう。
 無限の火炎地獄を生じさせる。
 無限の寒氷地獄を生じさせる。
 本来、み仏の子としての心を持っているにもかかわらず、自分から迷って悪業の結果として生じた姿になり、ここで死んだかと思えば、あそこに生まれ、迷いの世界を転々として彷徨うばかりである。
 本来、生死を超えた存在であることに気づかず、自分から生き死にの苦を招き、いのちを真理に反した形ではたらかせる。
 自分の心中に、無限の安楽があることを知らず、迷っている)




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2015
10.08

不殺生の人はどうなるか? ―お釈迦様の約束―

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 不殺生戒を念じ、無益な殺生ができない生き方になれば、10の功徳が得られると『大集経(ダイジッキョウ)』に説かれています。

1 どのような生まれをしようと、畏れがない。

 自分の心が慈悲心にあふれていれば、それが周囲の人々に感化を及ぼし、害意を起こさせず、畏れのない平安な日々が送られる。
 しかし、お釈迦様すら二度しか戦争を止められず、故郷の釈迦族は滅ぼされた。
 個々人の善行をたやすく踏みにじる戦争という巨大な悪行はどうしても止めねばならない。

2 どのような生まれをしようと、慈悲心が輝くようになる。


 生きとし生けるものに対して無益な殺生をしないと決心すれば、心中にある仏心が生き生きとはたらき続ける。
 殺生は、貪りか怒りによって愚かな考えが生まれるところに行われる。
 殺すことができず、不殺生戒そのものになって生きれば、貪り、怒り、愚かさが消え、心の核である仏心が遮るものなくはたらく。

3 悪しき習い性を脱する。

 私たちは鉄に錆が生じるのと同じく、悪業(アクゴウ)を積まずにはいられない因縁を背負っているが、戒めに従う清浄な生き方がそうした習い性を削ぎ落とす。
 歯磨きや顔洗いなど生活に習慣的行動があるのと同じく、心にも又、生まれと生活によってさまざまな習慣的はたらきが伴う。
 イジメなどもそうした「パターンの悪しき表れであり、殺せない生き方になれば、無慈悲な考えと行動も消えている。

4 悩みや憂いを離れ、善き決断を行える。

 因果応報の理法により、他のいのちをないがしろにする悪行(アクギョウ)が悩みや憂いをもたらし、善き決断を妨害するが、戒めに従う清浄な生き方は心の黒雲を除き、仏光の中ではっきりとなすべき決断をして善行(ゼンギョウ)に進むことができる。
 悩みや憂いは決して〈外から自分へ襲いかかる〉のではなく、自分の心に生まれ、善心のはたらきを妨げる。
 殺生という最悪の悪行を離れればそれを原因とする悩みや憂いは起こらず、善心は善行を存分に実践させる。

5 寿命をまっとうできる。

 心と環境は互いに影響し合うので、他のいのちを尊ぶならば、自分も生まれ持ったいのち分を尽くして生きられる。
 医師の話を聴くと、感謝し、笑顔を絶やさない人々の中には、科学的判断による確率からすれば考えられないほどの長寿をまっとうする例がいくらもあるという。
 他を慈しまないではいられない心にはきっと、計り知れないほどのエネルギーが隠されているのだろう。

6 神霊のご加護を得る。

 いのちの世界に宿る神霊は、いのちを尊ぶ者を喜び擁護する。
 花に興味のない人は、町並みを眺めても花屋さんが目に入らないかも知れない。
 人であれ、花であれ、山であれ、いのちに不思議さを感じ、精霊や神霊など異次元を感じとれる人はきっと、感得した何ものかから、非日常的なエネルギーをもらえるのだろう。

7 寝ても醒めても安穏で、悪夢に悩まされない。

 戒めに従う清浄な生き方は、周囲から守り育てる徳を集め、護られるので、いつも安心である。
 殺人犯が悪夢にうなされて自白したり、発狂したり、あるいは自殺してしまうといった例は数限りない。
 他者のいのちに手をかけない人には、そういった心配のあろうはずがない。

8 怨みや復讐を受けない。

 殺さず、害さない行いは、周囲に怨みや復讐心を起こさせない。
 日本では5世紀あたりから明治の初めまで仇討ちが社会に認められ、理由の如何を問わず、人を殺せば報いとして殺される可能性が現実的にあった。
 菊地寛著『恩讐の彼方に』は、敵対する同士の心の交流で制度的復讐としての殺人を超越した名作である。

9 地獄界や餓鬼界や畜生界に転生しない。

 慈悲心にあふれている人は、この世でも、あの世でも、殺生と無慈悲の風が吹き荒れる地獄界や餓鬼界や畜生界と縁にならない。
 出口の見えない地獄や、貪りたいの貪れない餓鬼や、咬み合う畜生にならないためには、その最も強力な原因である殺生とまず無縁にならねばならない。
 殺せず慈しむ人は決して、地獄の住人にならない。

10 死後、人間界か天界へ転生する。

 殺し害する心がなければ心身が優しい姿であり、頭に堅い角はなく、口に尖った牙はなく、手に鋭い爪もなく、慈悲心を持った者として生まれ変わる。
 人間界には争いがあり、天界の神々にも他の世界へ行かねばならぬ寿命はあるが、他を傷つける姿をしてはいない。
 あとは、心にも、口にも、手にも武器を持たぬことである。 

 どうでしょう。
 お釈迦様がありとあらゆる仏菩薩を集めてこう説かれたのです。
 共に、不殺生を念じませんか?




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2015
09.03

77年前の真実 ―『生きてゐる兵隊』の発禁、『ドイツ戦没学生の手紙』の発行―

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 軍隊教育中の女性自衛官が嬉々と過ごす様子を民放で観た。
 まるで学生のクラブ活動といった雰囲気で若い女性が躍動する番組構成に慄然とした。
 反射的に、石川達三著『生きてゐる兵隊』と、ヴィットコップ著・髙橋健二訳『ドイツ戦没学生の手紙』を思い出した。
 前著は今から77年前に発禁となり、後著はその年に発行された。

 振り返ってみれば、今から77年前の昭和13年は、戦争が加速した年だった。
 ウィキペディアから拾ってみる。

【2月18日】  石川達三著南京従軍記『生きてゐる兵隊』の掲載誌『中央公論』3月号が発禁処分。

 この原稿は2月1日からの10日間、「文字通り夜の目も寝ずに」「忘れ難い生涯の記念」として書かれたが、当時、陽の目を見ることは許されなかった。
 戦争への批判は犯罪とされていたのである。
 石川達三は、昭和21年、敗戦の翌年になってから発行されたおりに書いている。

「私としては、あるがままの戦争の姿を知らせることによって、勝利に傲った銃後の人々に大きな反省を求めようというつもりであったが、このような私の意図は葬られた。
 そして言論の自由を失った銃後は官民ともに乱れに紊れて遂に国家の悲運を眼のあたりに見ることになった。
 今さらながら口惜しい気もするのである。」

「私はたとえ十年の刑を受けようとも、国家社会に対する私の良心を擁護しなければならなかった。
 作家が、據って以て立つ自己の精神を守らなければならなかった。」

「戦場に於ける人間の在り方、兵隊の人間として生きて在る姿に対し、この作品を透して一層の理解と愛情とを感じて貰うことが出来れば幸である。」(原文は旧仮名遣いである)


 小生はこの本を3度、読み、兵となった人々の悲しみ、淋しさ、怒り、苦しみに震え、哀れさ、愛おしさに泣いた。
 もしも昭和13年の時点で人々の目に触れていたならば、世論も政治も、そして戦争の様相もいくばくかは違っていたのだろうか。

【4月1日】   国家総動員法公布 

 総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できることになった。
 政府が〈役立つ〉ものを決め、役立たないものは排除された。
 今の日本でも、学問の世界ですら役立つ分野と役立たない分野が国家によって決められ、予算配分に雲泥の差がつけられ始めた。
 文化に有用か無用かという尺度が用いられるのは危険である。
 
【10月1日】  陸軍が作戦要務令を制定 

 どう戦うかを決める戦術学の規範ができた。
 ガス戦や上陸戦の項目は秘密扱いとされ、国民には知らされなかった。
 
【10月21日】 日本軍、広東占領 

 東亜新秩序という概念を持ちだして中国を屈服させようとしたが、中国もアメリカも拒否した。
 日本は世界を相手にする戦争へ入っていた。

【11月9日】  ドイツでユダヤ人迫害開始(水晶の夜)

 ドイツではホロコーストにつながる悪夢が幕を開けていた。 

 今こそ、昭和13年に翻訳発行された『ドイツ戦没学生の手紙』を読んでみたい。
 戦争の現場はいかなるものか〈戦争そのもの〉を想像できなければ、〈戦争について〉の思考は空回りし、人間の尊厳からかけ離れたものになりかねない。

○リヒャルト・シュミーダー
 ライプチヒ大学哲学科学生
 1988年1月24日生まれ、1916年7月14日、ベタンヴィル附近にて戦死

「ヴォードゥルザンクール附近の塹壕(ザンゴウ)にて 1915年3月13日

 決戦の場所はもう久しく右翼(フランデルン)ではなくて、スエン・ベルト附近のシャンパーニュです。
 2月6日以後のベルト附近の恐ろしい日々を味わったものは、これ以上凶暴な戦いはあり得ないという私の意見に同意するでしょう。
 ここでは兵隊の一騎打ちです。
 憎しみと憤りに燃え立った敵の一対一の戦いです。
 幾日もの間、同じ1平方メートルの土地を激烈に奪い合うのです。
 終いにその地帯全部が文字通り血と屍の畑になります。……」

「肉体的にも精神的にも疲れ衰えきっているのに、私たちは2月27日の朝、第8予備軍団に警急集合を命ぜられ、私たちの以前のリボンの陣地につかねばなりませんでした。
 そこですぐにフランス軍から異常な重圧と激しさをもって攻撃されました。
 それは、銃弾、砲兵、斧、手榴弾などをもってする大殺陣で、轟音、爆音、咆吼、怒号、まるで世界が破滅するかと思うようでした。
 3日間に友軍は200メートルの地帯で909名の損害を受け、敵は数千名の損害を出しました。
 青いフランスの服が灰色のドイツ服と地上に入りまじり、死者は場所によっては非常に高く積み上がっていたので、それを砲兵に対する掩蔽(エンペイ…土堤)にすることが出来る位でした。
 騒音の中で、命令が耳から耳へとどなり伝えられました。
 戦いの騒音と負傷者の呻き声の間に短い休止が生じると、高い青空に鳥が嬉々と歌い囀(サエズ)っているのが聞こえました。
 故郷の春の鳥の歌!
 あゝ、心臓をむしり取ってしまいたいような気持です。」

「負傷者たちの運命を聞かないで下さい。
 自分で医者のところに走って行けないものは、惨めに死ぬ外ありません。
 多くのものは死ぬまでに、いく時間も、いく日も、一週間も、苦しむのです。
 戦っているものは絶えず無頓着に負傷者を越えて突撃しました。
『君と握手することができない……永遠の生命の中に止まってくれ、よき戦友よ!』と言って。
 これにくらべれば、故郷の小屋で死ぬ犬はどんなに幸福だといえるか分かりません。 
 どんなに勇敢な兵隊でも声をあげて泣きたいほど嫌になることがあります。
 リポンの手前で、鳥の楽しげな歌を聞いた時、痛憤と激怒に世界全体を打ち砕くことが出来たら、と思ったほどです。……」


○カール・ゴルツェル
 ブレスラウ大学法科学生
 1895年4月6日ブレスラウに生まれ、1918年3月21日、戦死

「機銃は土に埋もれたり、射ちつぶされたりし、手榴弾はほとんど投げつくされた。
 銃砲火は再び加わる。
 頭が痛み、唇が燃える。
 今はもう何事も神の御手の中にある。
 誰の頭にも、生きては帰れないという考えがあるだけだ。」

「暗くなり、砲火も平常にかえる。
 僕は巻煙草に火をつけて、考えようと努める。
 死者を、負傷者を、人類の不幸を思い、――故郷を偲ぶ。
 だが、そんな考えは捨てよ。
 現在には現在の欲求がある。
 必要なのは男らしい男であって、夢想家ではない。
 食物が来る。
 そして飲む――飲む――看護兵が負傷者をできるだけ遠くへ運ぶ。
 援隊が来る。
 急いで取りかたづけ、死者を葬る。
 ――新しい日があける、前日よりもっと恐ろしい日が。
 これがソンム河畔の戦闘だ。
 ドイツの勝利のための血の格闘だ。
 ――この一週間は、人間の忍び得る最高度であった。
 それは地獄であった。」






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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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