それは、あたかもガス漏れ警報のようなものであり、無視し続ければ、事故やケガや死が待っているのと同じく、精神が破壊され、行き着くところは〈人間としての死〉です。
恥知らずな人はまっとうな人間として生きられなくなり、社会人として通用しなくなります。
釈尊は、恥を知って良心(仏心)に違わぬ生き方をする者を「潔く生きる人」とし、恥知らずを「穢れて生きる人」と説かれました。
2月10日、NHK文化講座で共に学んだのは『法句経(ダンマパダ)』の「塵垢品(ジンクホン)第二十六」です。
「生を苟(イヤシク)もして耻(ハジ)無く、鳥の如く長喙(チョウケイ)に、強顔(ゴウガン)にして辱(ニク)に耐うるを、名けて穢生(エショウ)という」
「廉恥(レンチ)は苦なりと雖(イエド)も、義は清白(ショウビャク)を取り、辱(ニク)を避けて妄ならざるを、名けて潔生(ケッショウ)という」
(「人間として生きているのに恥を知らず、鳥のクチバシのように勝手気ままな口出しや自己主張を行い、厚かましく、恥じることなく平気の平左で生きる者を『穢れて生きる人』という」
「恥を知り、苦しくとも清廉潔白であろうと心がけ、辱められるようなことを行わず誠実に生きる者を『潔く生きる人』という」)
かつて当山のブログ「罪と罰 (その3)」に釈尊の言葉を記しました。
「慚(ザン)とは、自分の良心に従って罪を犯さないことであり、愧(キ)とは、他人へ良心に従う大切さを教えて罪を犯させないことである。
慚は自分の羞恥心に正直なことであり、愧は他人様を意識して恥をかかぬようにすることである。
慚は人に恥じることであり、愧は仏神天地に恥じることである。
これを慚愧という。
慚愧の念が無い者は人とは言えず、畜生と呼ぶべきである」
まことに厳しく、一点の疑念もない水晶のような、あるいはダイヤモンドのような教えです。
また、高級官僚の楊震を訊ねた王密が「誰にもわかりませんから」とワイロを渡そうとしたおりの有名な言葉も記しました。
「天知る、地知る、子知る、我知る」
秘密が漏れやすいという意味では「壁に耳あり障子に目あり(源平盛衰記)」が有名で、朝鮮では「昼間の話は鳥が聞き、夜の話はねずみが聞いている」と言うそうです。
いずれにしても、「どうせバレないから」という考え方は仏神を無視し、良心を無視したもので、そうした醜い生き方をすれば、因果応報の結果になるのは当然です。
あなたは畜生になるのですかという釈尊の教えを、自分の胸できちんと受けとめておきたいものです。
「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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恥じる心を慚愧(ザンギ)といいます。
み仏は、「恥知らずは人間ではない」と説かれました。
慚愧があって初めて人間であり、それがなければ畜生でしかないというのですから大変です。「慚は自ら罪を作らず、愧は他へ教えて為さしめず。
慚は内に自ら羞恥す、愧は発露(ホツロ)して人に向かう。
慚は人に恥じ、愧は天に恥ず。
これを慚愧と名づく。
慚愧無き者は名づけて人と為さず、畜生と為す」
○畜生とは、言葉によって善悪を考えられない存在です。
道理を考えられず、未来を志向できない蛾は自ら火へ入って「飛んで火に入る夏の虫」となり、魚は釣り人の獲物となります。
○畜生はいつも、飢えや乾きの恐怖と隣り合わせです。
常に空腹を満たすことに追われ、創造の喜びや情緒の感激を知りません。
○畜生はいつも対人間関係において使役される立場です。
隷属が宿命となれば、希望はありません。
○畜生はいつも弱肉強食の原理にあり、安心はありません。
私たちは、常に誰かからいのちを狙われている日々に耐えられましょうか。
こうなっては困ります。
さて、やってしまった悪行が悪果をもたらさないで済むような努力「慚愧」を考えてみましょう。
○「慚は自ら罪を作らず、愧は他へ教えて為さしめず」
犯した罪の重大さを認識し、これから先、自分が同じように罪作りな行為をくり返さないだけでなく、他の人も悪しき行為へ走らないように努力をすることです。
たとえば、思慮不足で誰かを傷つける言葉を吐いてしまったならば、反省するだけでなく、失敗談を話すことなどによって、他の人も同じ失敗をしないようし向けることがそうです。
○「慚は内に自ら羞恥す、愧は発露して人に向かう」
恥じる意識は自分自身の良心へ対して起こり、他人様の視線へ対して起こります。
当山が五欲の一つである名誉欲を頭から否定しないのは、ここに理由があります。
名誉そのものを目的として求め、名誉を看板として高慢心を満足させるのは愚かしいことですが、他人様からどう見えるかという意味で自分をしっかり保つ姿勢は、まっとうに生きる上で欠かせないものです。
名誉を得た人生の達人は往々にして名誉を誇らず、名誉を軽んずる人は往々にして恥知らずな生き方をするものです。
名誉欲が五欲の一つとして注意されるのは、それが高慢心を育てかねないからであって、名誉自体は決して無意味なものでなく、むしろ、人間の背骨をまっすぐに保たせる大切な観念であることを忘れないようにしましょう。
○「慚は人に恥じ、愧は天に恥ず」
恥じる心は、自他・人間社会へ対して発せられるだけでなく、仏神へ対しても同じように生じます。
この点については、中国に有名な故事があります。
人格識見共に抜きんでて高級官僚となった楊震の元へ、取り立ててもらった王密が訪ねてきて、お金を渡そうとしました。
楊震は断りましたが、王密は「ここには二人しかおらず、誰にも知られません」と言い、どうしても受け取らせようとします。
その時、楊震は有名な言葉を発しました。
「天知る、地知る、子知る、我知る」
まず、天が知っている、地も知っている、君が知っている、私だって知っているではないかと諭したのです。
天地万物として現れている〈大いなるもの〉への畏敬の念が楊震を大人物たらしめたことを忘れないようにしましょう。
恥知らずになることを恥と思い、やらかした失敗がこれからの糧となるよう、しっかりやろうではありませんか。
「おん あみりたていせい からうん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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このページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださいました。
頭が下がります。
勉強会などを通じて、ご縁の方々へご紹介しており、寺子屋の指針にさせていただきたいと願ってもいます。
三年 K・K
この間、朝会のとき、校長先生がお話ししてくださった「『校長先生、ごくろうさん』のことばで、つかれがふきとんだ。」という話が、わたしは いちばんすきです。
わたしは、あの、校長先生に声をかけた人を、みならいたいと思います。
また、ほめてあげたいです。
それから、校長先生が、ずっと前にお話ししてくださった「けいこうとうの話」もよくおぼえています。
わたしは「けいこうとう」にならないように、がんばりたいと思います。
◆
久美子さん、
四かい目のほめほめですね。久美子さんが、いつも、きれいな字を書いてくれるので、校長先生はうれしいよ。
「校長先生ごくろうさん」のお話をよくおぼえていてくれましたね。
あれは、運動場をなおしているときのことでしたね。
朝会の時に、あのお話をしてから、校長先生がお仕事をしていると、たくさんのお友だちが「校長先生ごくろうさーん。」と、言ってくれて、お返事をするのがいそがしいくらいです。
そしてときどき、「こんなに言ってくりゃあ、やりがいがあるのう。」といったりしています。
あいさつは、「おはよう」や「さようなら」だけではありませんね。
「ごくろうさま」「おつかれさま」「たいへんですね」など、いろいろなごあいさつのできる子どもになってほしいのが、校長先生のねがいです。
がんばってくださいね。
けいこうとうのお話も おぼえていてくれてうれしいよ。
「ごくろうさま」という感謝といたわりの言葉が相手を和ませ励ます大きな力になることを知り、言葉をかけるへ人も、かけられる人へも好感や親近感を持つようになるのはすばらしいことです。
その嬉しさは、気づかないうちに自分もそのどちらかになりたいという願いを生じさせ、やがて行動が起こり、人格が高まります。
しかも、こうした心の動きが「ほめほめ」を通じて習慣化されるとは、何と理想的な教育環境なのかと、あらためて脱帽する思いです。
「けいこうとう」の話とは何でしょうか。
◆ ◆ ◆
三年 S・E
わたしが帰るとき、三年生のげたばこのゆかに、すなが、たくさんちっていました。
それで、ほうきを持ってきて、はいていたら、どこかのおばさんが、いっしょに手伝ってくださいました。
そこへ、市原先生が、とおりかかって、「いいことしとるね。」といってくださいました。
わたしも、気もちがよかったけれど、おばさんも、気もちがよかったんじゃないかなと思いました。
◆
繁子さん、
はじめてのほめほめのように思いますが、どうでしょうか。
校長先生のほめほめのなかまが、また一人ふえたのでうれしいです。
きょうのほめほめは、三年生のくつばこのおいてある、ゆかの おそうじをしたという、おたよりでしたね。
おとうばんでなくて、自分からすすんでやってくれたようですね。
近ごろは、運動場がこおるので、ひるま、あたたかくなると、土がやわらかくなって、土やすなが、くつばこのところのゆかに、たくさん落ちてこまります。
それを、繁子さんが、きれいにしてくれたんだね。
おむかえにこられた、しらないおばさんも、手伝ってくださったのよね。
よかったね。
市原先生もほめてくださったのよね。
かみさまも「よい気もち」のごほうびをくださったと思うよ。
「ごくろうさま。」校長先生も おれいをいいます。
講演会で「ほめほめ」を紹介したところ、「『誰かに褒めてもらえるからやる』という習慣になる虞れはないんでしょうか?」とのご質問をいただきました。
確かにそうした危惧はあるはずですが、子供たちの年齢を考えると、今はまず、善行が誰かに認められ、褒められることによって嬉しい気持になるという体験を通じて善行の価値を知り、自分から善行を実践する人間になるように導くことが最も大切なのでしょう。
それは、「お天道様が見ているよ」と言って善行を勧め、悪行を止めることと似ています。
漢の時代、夜中に訪ねてきた王密(オウミツ)が「誰も知りません」と言って黄金の賄賂を渡そうとしたおり、主の楊震(ヨウシン)は「天が知っている。神も知っている。私も知っている。君も知っていりではないか。なぜ、誰も知らないなどと言えるのかね」と諭して断りました。
「天知る神知る我知る子知る」の故事です。
こうした境地になれば理想的ですが、一足飛びでは無理です。
もちろん、一生かかっても手前で挫折する人はたくさんいて、贈収賄事件は後を絶ちません。
まず、自他の善行を喜ぶ体験から確実に階段を登り、楊震さんの高みまで達したいものです。