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2015
10.07

立ち止まっても感謝すれば歩み出せる ―生きる目的をどこに求めるか―

2015100600012.jpg
〈「毒箭を抜かずして 空しく来処を問い 道を聞いて動かずんば 千里いずくんか見ん」髙橋高温先生書〉
(毒の箭(ヤ)で射られているのにそれを抜かず どこから誰が射たのかなどとうんぬんし せっかく仏道を聴いても実践しなければ 千里先の目的地へは決して到達できない)

 人生相談に来られる方々はどなたも、立ち止まってから、普段とは違う場所へと足を向けます。
 立ち止まる時は、立ち止まらせられている、とも考えられます。
 それは、〈普段どおり〉にやれない状況にぶつかっているからです。

 原因はいろいろあります。
 うまく行かない人間関係、テストの失敗、失恋病気など、何ごともなく過ごしていた日常生活に亀裂が入り、不安に苛まれる時、私たちは立ち止まります。
 未来はどうもよく見えない……。
 そしてようやく自分の足元を見ます。
 ――しばらくぶりに。
 あるいは、初めて。

 そして、「どうすればいいのだろう?」と迷った末に、根本的な問いを発します。
「私は何のために生きているのだろう?」
 答えが出なくて愕然とします。
 さまざまな情報に答を求めますが、得られません。
 家族や友人が答を持っているとも思えず、途方に暮れます。

 こうした皆さんの事情は、ある程度、お察しできます。
 小生も、受験の失敗で人生の目的を見失い(「目的」と手段を取り違えていたのですが、当時は気づきませんでした)、答のない問いを抱きつつ商売をやり、失敗しました。
 中年になってから出家し、また、〈探す旅〉を始めました。
 そして古希(コキ)になってつくづく、私たちは誰でも、〈誰かの何かの役に立っている〉と実感します。
 赤ん坊は100パーセント、家族などの手を借りなければ生きられませんが、その状態でもなお、生きて輝いている小さないのちとして、手をかける人々の希望や勇気などをかき立てます。
 年老いて誰かの介護がなくては生きられなくなったご老人も、「ありがとう」という心と言葉と笑顔によって、誰かの役に立てます。
 青い鳥のように、どこかで待っているのではなく、生きていることそのものに〈生きる目的〉は付随しています。

 かと言って、生きてればいいのか、と無頓着に好き勝手をしてよいとは思えません。
 一人前に社会生活をする大人ならば、生活の仕方、ふるまい方が〈その人〉を表し、その人と社会の関係を決めて行くからです。
 普段、私たちの人生は〈どう生きて行くか〉だと思っていますが、実態は〈どう生かされているか〉だからです。

 どう生かされるかを決める最も根本的なものは、感謝する心のあるなしではないでしょうか。
 感謝の心がある人は、「ありがとう」の言葉一つで、いつでも誰かの役に立てます。
 感謝する→笑顔が返ってくる→心が温かくなる。
 ここに生きる目的は達成されています。
 支え合っているからです。
 支え合わなければ生きられない私たちは、支え合いさえすればもう、存在する目的を探す必要はないではありませんか。

 生きる目的を見失って人生相談に来られる方々の多くが、自分が知らぬ間に誰かの役に立っていることを忘れておられます。
 あるいは役に立てることを忘れているか、気づかないでおられます。

 自分の中にいくら探しても究極的な目的は見つかりません。
 それは誰一人として、自分だけで生きてはいないからです。
 地位も名誉も財産もすべて手段でしかありません。
 それは、病気になったり、年老いたり、失脚したり、騙し取られたりした時、ようやく明らかになります。

 自分探しなどをして、自分に目を向けているだけでなく、むしろ自分を支えてくださっているあらゆるものへ目を向けてみましょう。
 人はもちろん、ネコも、花も、青空や空気さえも支えてくださっています。
 その真実に気づき、「ありがとう」と心でつぶやく時、もう、自分探しも、人生の目的探しも、意識から消えていることでしょう。

 この感謝を保つためには、気づくこと、言葉に出すこと、そして、ネコならなでてやり、花なら水をやり、青空や空気なら環境から汚れを取り除く意識で行動することです。
 そうすれば、立ち止まったあなたはもう、歩み出しているはずです。




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2014
04.26

慈愛への道を拓くものは何か ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(25)─

20140426004.jpg
〈当山の『自然墓(シゼンボ)』では梅が咲いています〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第四章 慈愛、そして性

1 真実の

宗教哲学慈愛への道を拓く

「修養を積み、瞑想を行えば、誰でもこのような真実の慈愛)をわがものとすることができるようになる。
 信心深いか否かは問題ではない。
 宗教哲学は、常に人をこうした真実の愛へと導いてくれるものなのだ。」

「核兵器の照準を互いに相手に合わせて対峙していた冷戦のさなかでさえ、公式に相手を敵と呼び合っていたときでさえ、核戦争は双方の破滅でしかないという現実が、両者をして対話へと導いたではないか。
 彼らはそれを共存と呼んだ。
 したがって、人間社会の条件を考え合わせて、個々の人間のより重要な条件、より遠大な視野に立った条件を考慮すればいいのだ。」

「もし、われわれがネガティブな感情を、ポジティブな感情より優位に置き、その赴くままにさせるとしたら、われわれ人類に未来はない。」


 簡単に憎悪へと裏返るような愛ではなく、相手も自分も、安心に暮らしたい、幸せでありたいと願う同じ人間同士であるという実感に促され、相手を選ばずに深い思いやりをかける「真実の愛(慈愛)」は、誰か特定の仏神や自然など、何ものかに対して「信心深い」から生ずるのではない。
 歴史の時間を背景とした幾多の考察によって〈道理である〉と認められ、膨大な行者・聖者の体験と探求によって〈真実である〉と保証され、伝えられた宗教は、「常に人をこうした真実の愛へと導いてくれる」のである。
 そこには当然、哲学もはたらいている。
 哲の字には、そもそも、斧で木を切って神梯(シンテイ…神が用いるハシゴ)をつくるという意味があり、白川静は「神に誓約したり、神事に従うているときの清明な心を哲というのであろう」と説いている。
 私たちがどうにもならぬところへ追い込まれて苦しみ、これはいったいどういうことなのか?、と、普段、損得や好き嫌いや気分などによってはたらかせている思考ではない叡智が動く時、私たちは、自分では気づかぬうちに「哲」の世界へ入っている。
 ダライ・ラマ法王がここで説かれている「哲学」は、必ずしも学問としてではなく、苦しみの中から発せられる根元的問いに対する誠実な姿勢を意味するものだろう。

 私たちが、愛の切なさに身悶えし、憎悪の黒い炎と忿怒の赤い炎に心を焼き、狂喜や狂気に翻弄され、どうにもならなくなった時こそ、宗教哲学の世界が静かに開いている門戸に気づく。
 こうした〈どうにもならぬ状況〉は人間対人間としても、組織対組織としても、国対国としても起こり得る。
 そこで「個々の人間のより重要な条件、より遠大な視野に立った条件」に立たせるものこそ、自他を平等に観る宗教的視点であり、状況を根元的にとらえる哲学的視点である。
 こうした視点は仏神の眼に通じており、必ず〈解〉がもたらされる。
 そこに発する力をダライ・ラマ法王は、「ポジティブな感情」と説かれたのではないか。
 どこまでも我(ガ)から離れられず、〈解〉が得られないままに暴発するものを「ネガティブな感情」と説かれたのではないか。

 ちなみに修行と実践の一つとして『三十七の菩薩(ボサツ)の実践』がある。
 同名のブログに紹介した。

「わが子のように大切に育てた者が
 私を敵のように見なしたとしても、
 病気のわが子に接する母のようによりいっそうの愛情を注ぐ
 それが菩薩の実践である」


 我が子同様に育成した相手が、自分をあたかも敵と見なすかのような態度をとった時も、病気になった我が子のために一生懸命看病する母親と同じような心で、よりいっそう慈愛を注がねばならないという。
 これが、菩薩としてこの世に生きる者へ課された実践項目である。
 ダライ・ラマ法王は説かれる。

「一般的に『仕返し』や『復讐』というのは、自分自身の心を満足させるための行為です。
 そうすることでしか、自分の心を満足させられませんね。
 しかし、瞑想することで心が満たされるとしたらどうでしょう。
 満足するという点では同じです。
 ですから、瞑想することで、目的は達成されたことになるのです」
「とにかく、心が安らかになるためには、満足を得られる必要があり、満足するためには、自分の眼の前に嫌な相手を観想し、ひざまずくことができたなら、心は安らかになっていきます」


 失恋の後遺症に七転八倒し苦しみぬいたAさんは、み仏の学び、実践し、こうした心境にたどりついた。
「思い出をくれた彼女に感謝して、痛みさえを糧に」して、しっかり生きて行きたいという。
 実に、仏法は性愛に発する苦しみをも克服させ、「慈愛への道を拓く」のである。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2010
09.16

遺すもの

 お焚きあげには、さまざまなものが送ってこられ、持ち込まれもします。
 失恋して手放す手紙や指輪などはともかく、遺品に接すると、人の営みというものを考えさせられます。

 私たちの意志の多くは、モノを手に入れるために使われます。
 日本が〈戦後〉から脱しようとしていた時期には『三種の神器』である白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が求められました。
 高度成長期になると、カー(車)とカラーテレビとクーラーが人気になりました。
 今はさしずめ、デジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビといったところでしょうか。
 もちろん、いわゆる内需の柱である家の需要はずっと続いています。
 こうしたモノは豊かさを感じさせ、便利さを感じさせ、満足感を感じさせます。

 しかし、家や車からシャツや蒲団のはてまで、亡き人の残したものはすべて人生の抜け殻です。
 遺品を前に、私は日々、故人やご遺族に代わって抜け殻に感謝し、因縁を解き、天地へ還します。
 家や車もやがては朽ちます。

 一方、なかなか朽ちないものもあります。
 それは生きている人たちの心へ刻まれた思い出です。
 平成18年に、ゆかりの方をお送りした時、小学校4年生のお孫さんが書いた「送る言葉」は忘れられません。
 再掲します。

 『大好きだったじいちゃん』

 じいちゃんは、六月二日に亡くなりました。みんなにそんけいされていました。
 じいちゃんは、いろいろな能力を持っています。ぼくが骨を折った時も、かべの絵が落ちて、「いやな予感がするな。」と思ったそうです。
 ほかにもあります。
 ぼくが生まれるとき、前の日にお母さんが東京に単身ふにんしているじいちゃんに電話をしました。
「一週間だって。」と言ったのに、おばあちゃんにすぐ電話をかけて、「こんばんか、明日だから準備しておくように。」と言ったそうです。
 その後、急におなかがいたくなって次の日にぼくが生まれました。
 ぼくは「テレパシーみたいだな」と思いました。

 まだあります。
 東京で電車に乗ってあばれている人がいて、その人をじいちゃんは止めました。
 お母さん達は、やめてほしいと思ったそうです。
 しかし、ぼくは包丁を持っている人を止めるなんてすごいなと思いました。
 けいさつにも名乗りでなかった所も「すごい」と思いました。
 じいちゃんは、家族をとても大切にしていました。
 まごたち七人と、おばあちゃんとみんなで出かけるのが好きでした。

 特に楽しかったのは、木ノ下大サーカスです。
 そのとき、ぜん息のぼくの声が出なくなりました。
 病院へ行ってからみんなと見に行くことができてよかったです。
 一番すごかったのは、バイクです。
 大きなあみの中を通りました。
 大きなブランコもありました。
 みんなとてもおどろいていました。
 他にも「まるまつ」とか、おろいろなレストランにも連れて行ってくれました。

 じいちゃんは、頭が良いので自分でトランプの手品を考えました。
 その手品をぼくだけが教えてもらいました。
 それは、すごい手品でした。
 その手品ができるのには時間がかかりました。
 むずかしすぎて、少し忘れてしまったからくやしいです。

 ぼくは、四年生の春から野球を始めました。
 じいちゃんは、病室でぼくと野球の話がしたいと言っていたそうです。
 野球が大好きなじいちゃんと一しょに、楽天の試合を見る約束をしていたのに残念です。
 じいちゃんのグローブを形見にもらいました。
 今、家でかざってあります。
「もらったよ」とお母さんから言われたときにはすごくうれしかったです。
 ぼくは右ききだから、じいちゃんにもらったグローブは、はめられません。
 ぼくは、野球をがんばっていて、今レフトを守っています。
 ぐう然、じいちゃんもレフトを守っていたそうです。
 それを聞いて、とてもうれしかったです。
 野球は、じいちゃんのためにもがんばろうと思っています。

 じいちゃんのおはかには、こだわりの石でできたいすとテーブルがあります。
 去年の夏に、まだ元気だったじいちゃんが自分で建てたおはかとテーブルです。
 そこはけしきがよくていい所です。
「何かなやみがあった時は、おはかに行ってすわっておにぎりでも食べてじいちゃんに話すんだよ。
 じいちゃんは必ず守ってあげるからね。」と言いました。
 いとこ達と話を聞いたとき、ぼくはこんなに早く、じいちゃんがいなくなるとは思っていなかったので、不思議なことを言うのだなと思っていました。
 じいちゃんは、すごい力を持っています。
 だから、じいちゃんは自分で分っていたのかもしれません。

 ぼくはじいちゃんともっと話がしたかったです。
 じいちゃんが亡くなってから、いろいろなことが分ったような気がしています。

 おかあさんから聞いたけれど、いつも行っていた老人ホームのひいおばあさんとじいちゃんは、小さいときに離れてくらしていて、やっとおじいさんの年齢になってから、自分のお母さんと会えるようになったから、家族をとても大切にしているのかなと思いました。

 ぼくは、本当にじいちゃんともっと話がしたかったです。
 そして、これからは、たまにはおにぎりを持っておはか参りに行きたいです。

 皆さんから持ち込まれた品々から気配が立ち昇る場合もあります。
 そんな時は祈りを深めます。
 み仏は、私たちの心に残るべきものと残さない方が良いものとを必ず区別してくださると信じています。
 お焚きあげのお品を前に、今日も祈ります。

〈いつしか、赤とんぼの時節になりました〉
22091522 0182_edited-1




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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