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2009
04.14

匿名性社会の恐ろしさ

 自分の姓名を、自分が〈知られても良い人〉や〈知らせたい人〉へのみ、知らせる時代になった。
 姓名のような個人を特定するために必要不可欠な情報までが〈個人の所有物〉と認識され、積極的にであれ、黙認という形であれ所有者の同意なしには触れさせたくないという権利意識に問題はなかろうか。

 姓名とは、特定の個人を他の人々と区別するためにある記号であり、それは、人間が社会内存在であればこそ意味を持つ。
 Aさんは、「私をAと呼んでください」と願ってAと名乗り、それがあって初めて、Bさんへ「Bさん」と呼びかける資格を持つ。
 声をかけた方が先に名刺を出す慣習は、道義的な資格と義務が礼儀となったものだろう。
 こうして、姓名は個人を特定するために社会がその構成員全員へ持つことを要請するものであり、社会の共有物として初めて意義を持つ。
 もちろん、姓名は「子供が幸せな人生を送れるように」との親の切なる願いがこめられたかけがえのないものであるという側面を持つが、本来の意義は、たとえ番号になったとしても変わらない。

 姓名のもう一つの意義は、コミュニケーションの窓口になることである。
 コミュニケーションは、AさんがBさんを認識し、「Bさん、こんにちわ」と声をかけて始まる。
 人と人との出会いは見知らぬ同士によって始まるが、どこかの時点で互いに名乗り合うことによって縁が安心なものとなる。
 人助けなどを行って名乗らずに立ち去る方もおられるが、それは誤った権利意識によるものではなく人間の品位と徳性の問題であり、例外である。

 姓名を「自分のもの」として「しまっておきたい」という心性は恐ろしい。
 匿名によって自分を隠せるならば、人間はたやすく悪行へと走るからである。
 急速に若年化しているネットによる誹謗中傷や、ネットで知り合った同士が互いの姓名を知らぬままに結託して盗みや殺人を行う事件など、匿名性の蔓延がこれまでになかったほど人間の心性を劣化させた。
 学校から社会全体まで、「卑劣」という意識がどんどん欠落してゆくのは恐ろしい。
「ばれなければ、何でも思うままにやりたい」のは、煩悩を持った人間のありのままの姿であり、社会が姓名をきちんと管理していることは、人間を悪行へ走らせないための重大な防波堤である。
 それは、すべての人々が大きな名札をぶら下げていると想像してみればすぐに解る。
 実名なしにネットで情報を発信できなくなったと想像してみてもすぐに解る。
 ゴミのポイ捨てから殺人まで、いかに犯罪が激減することだろう。
「Aがやった」と知られたら恥ずかしいし、「A待て!」とすぐにつかまるであろうから恐ろしく、悪事は実行できにくいのである。
 個人情報への誤った執着と、匿名性をバックにしたネットの無原則な拡大は、社会をその正反対の方向へ向かわせているという重大な事実を、私たちはもっともっと真剣に考えねばならない。
 これ以上人間が卑劣にならず、互いの心を開き合う信頼と安心に満ちた社会を目ざすための転換点を作らねばならない。
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2005
07.23

お墓へ入れない人はどういう人か?ペットは人間の墓所へ入れないか?

 昨日、ご友人同士が同じ聖地で眠るべく、一区画へ墓石が二組並んだお墓が完成しました。中央に敬愛してやまない不動明王像を配した品格のあるできばえで、感心しました。
 また、当山には、故人が生前可愛がっていた番犬の姿をそのまま石で造り、お墓へ置いた方もおられます。
 この際、以前書いた文章を元にして、姓の異なる人やペットを同じお墓へ入れられるかどうかという問題についてはっきりさせておきましょう。
 
 俗信は山ほどあり、それを恭しくあるいは断定的に宣って人を不安にさせる手合はいつの世にもいるものです。
 見聞きしたことを鵜呑みにせず、「正思」をもって考えてみましょう。
 思惑や都合を小とし、み仏の教えに立つならば、姓の違いで決定的に区別し同じお墓へ入れないなどというのは、今の世にふさわしくない考え方です。
 一族に連なる人々はどなたであれ共に弔って当然です。
 また、心が通じ合う人同士が同じお墓へ入られるのも、お墓が供養の場である以上「理の当然」です。
 そもそも、供養の根本は万霊供養にあり、それは生者が死者を供養するだけでなく死者も生者を供養し(ご守護です)、死者と死者、生者と生者の間でもわけへだてなく行われるものである以上、この世で縁の深かった人々があの世でも縁を深くして悪いはずはありません。

「名」というものについても、世間には多くの誤解があるようです。
 名は体や形や価値を示すのみで、姓名は持つ人の意識へ多少の影響を与えても、それが生死の大事に関わったり運命を大きく動かしたりはしません。
 それは、親が子供へ名前をつける場合を考えればすぐに解ることです。
 親は、自分の希望や夢を子供に託して「こうあって欲しい」と必ず良いもの、善いもの、佳いもの、好いものを考えます。
 考えられる限りのすばらしい名前をつけます。
 しかし、子供たちの現状、あるいは子供だった人たちの行く末はどうでしょう。
 地獄へ迷いこんだ子供や極悪非道な行為をした人間の名前に価値ある文字は入っていないでしょうか。
 尊ぶべきは、より吉祥をもたらす名前をつけてやりたいと努力し、子供の幸せを願う親心です。
「親は懸命に親の役割をはたす、子供は感謝する」それがすべてです。

 戒名を並べて吉凶や成仏や一族の家運をうんぬんすることもあるやに聞きますが、戒名が子孫へ影響を与える影響は、それほど大きくはありません。
 戒名は、御霊そのものの心や人生などに含まれる徳を表現したものだからです。
 何よりも大切なのは、戒名をよく読んでその徳を偲ぶことです。
 そして、一族の者として感謝と誇りを持つことです。そうすれば「人の道」を歩む力が授かることでしょう。

 また、人間と他の生きものとは、役割や徳が異なるのみで、根本的な差別はありません。
 輪廻転生の理によれば、人に生まれる場合と他のものに生まれる場合とでは、徳が違ってそうなっただけです。
 金のために人を苦しめ、殺し、食欲にまかせて生きものを殺し、恩を仇で返し、権力のために矜恃を捨て、我欲のままに生きて事たれりとし、日々地獄道や畜生道などの六道を輪廻している人間が、自然界の掟に従って生きている動物などを差別する資格がありましょうか。
 ましてや、縁があって同じ屋根の下であるいは同じ敷地で暮らした生きもの同士が、死んだからといってすぐにバラバラになり、片方は手厚く弔われ片方はゴミになるなど、道理ではありません。
 ただし、徳が異なる以上、お骨を一緒にするわけには行きませんから、同じ墓地であっても、区別すべきところははっきり区別をし、それなりの法を結ぶ必要があります。
(「差別」と「区別」は別ものです。それを混同している世間の迷いに毒されないようにしましょう)
 当山では、ご希望により、ペットをも弔う正統な形をご指導させていただき、この世で畜生であった者も成仏し、やがては畜生道を脱することができるようきっちりと修法しておりますからご安心下さい。




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