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2015
10.31

11月の運勢 ―嫉妬の問題―

2015103100022.jpg

 11月の運勢における留意点は、ものごとがうまくいったからといって、調子に乗り、嫉妬されぬことです。
 また、他人に嫉妬せぬことです。
 この時期、運勢的に危険性が高いのは嫉妬のやりとりによる思わぬ悪縁の発生です。
 嫉妬は最も克服困難な感情とされており、嫉妬は常に他人との比較において発生します。
 かつて、フランスの哲学者フランシス・ベーコンはこう指摘しました。

「比較のないところに嫉妬はない」


 だから、自分と他人をあれこれと比較さえしなければ無意味で心を穢す嫉妬は起こらないはずなのに、よりによって自分が〈下位に立つ〉分野で比較を始めないではいられないのが、私たちの宿命めいた成り行きです。

 さて、作家村木春樹氏は「自分のことがあまり好きじゃない」とこぼす読者へこう言いました。

「ほかのことについてどう考えるかという姿勢や考え方の中に『あなた』はいます。
 その関係性が大事なのであって、あなたが誰かというのは、じっさいにはそれほど大事なことではありません。
 そう考えていくと、少しらくになれるんじゃないかな。」


 この回答は二重の問題を含んでいます。
 一つは、〈自分〉というものは固定された実体がなく、他者との関係性の中で喜んだり怒ったりしているうちに、ようやく〈自分〉がどういう存在であるかが明らかになってくるということ。
 もう一つは、タマネギの皮がどんどん剥かれると最後は空っぽになってしまうように、究極的〈自分〉はどこにも見つけられないということです。
 とは言え、まぎれもなく〈自分〉が居る以上、まったく他人と無関係なままで生きることはできません。
 では、他人を意識しながらなお、比較しないで過ごすにはどうしたらよいか?

 自分を第一にする気持を離れて、他人を誉めればよいだけのことです。
 他人の長所を見出し、すなおに〝大したものだなあ〟と心から思っている時、嫉妬はどこにもありません。
 自意識が消え、〈相手より下の自分〉は意識されないからです。
 嫉妬が生じる前に、〈自分〉がいなくなっているからです。
 こうなれば、自分が勝っているという比較から起こる高慢心も起こりようがありません。
 ちなみに小生は、さまざまな状況下で、できるだけ頭を低くするつもりで礼をします。
 これは、自分を無にして相手を貴ぶ訓練になっています。
 皆様もぜひ、相手を問わず心から貴ぶ自分なりのやり方を見つけてください。

 どうぞ皆様、紅葉が心の窓に飛び込んでくるこの時期を、無事安全に過ごされますよう。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
03.04

建国記念日のいわれを説いた岩原豊起校長と聖徳太子の十七条憲法(その2)

201503040002.jpg

 日本が古来、いかなる国家像を目ざしてきたか、約1400年前に聖徳太子が作られた『十七条憲法』から抜粋、参照しておきたい。

「一に曰(イ)わく、を以(モ)って貴しとなし、忤(サカラ)うこと無きを宗(ムネ)とせよ。
 人みな党あり、また達(サト)れるもの少なし。
 ここをもって、あるいは君父(クンプ)に順(シタガ)わず、また隣里(リンリ)に違(たが)う。
 しかれども、上(カミ)(ヤワラ)ぎ下(シモ)睦(ムツ)びて、事を論(アゲツラ)うに諧(カナ)うときは、すなわち事理おのずから通ず。
 何事か成らざらん。」


(一に言う、をなによりも貴び、諍いを起こさぬことを根本とせよ。
 人はすぐに群れて流され、ものの道理をわかった人格者は少ない。
 だから、君主や父親に逆らい、近隣の人々とぶつかったりする。
 しかし、上に立つ者が権力的にならず人々と(ナゴ)み、下の者が仲良く睦み合い、ものごとを論議するならば、道理に合った皆が納得できる結果を得られよう。
 こうすれば、何ごとも、最もよい形で成就するであろう) 

「六に曰(イ)わく、悪を懲(コラ)し善を勧(スス)むるは、古(イニシエ)の良き典(ノリ)なり。
 ここをもって人の善を匿(カク)すことなく、悪を見ては必ず匡(タダ)せ。
 それ諂(ヘツラ)い詐(アザム)く者は、則ち国家を覆(クツガエ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ホウケン)たり。
 また佞(カタマ)しく媚(コ)ぶる者は、上(カミ)に対しては則ち好んで下(シモ)の過(アヤマチ)を説き、下(シモ)に逢(ア)いては則ち上の失(アヤマチ)を誹謗(ソシ)る。
 それかくの如(ゴト)きの人は、みな君に忠なく、民に仁(ジン)なし。
 これ大乱の本(モト)なり。」


(六に言う、悪を懲らしめ、善を勧めるのは、古来からの良きしきたりである。
 だから、善行は明らかに認め、悪行は必ず正さねばならない。
 へつらい、あざむく者は、国家を危うくする武器であり、国民を滅ぼす鋭利な剣のようなものである。
 また、すなおでなく媚びへつらう者は、上の者へ下の者のあやまちを告げ口し、下の者へは上の者の失敗を誹謗する。
 こうした人々は君主への忠に欠け、国民への思いやりもない。
 これは国家に大乱が起こるきっかけとなる)

「十に曰わく、忿(ココロノイカリ)を絶ち瞋(オモテノイカリ)を棄(ス)て、人の違(タガ)うを怒らざれ。
 人みなあり、おのおの執(ト)るところあり。
 彼是(ゼ)とすれば則ちわれは非とす。
 われ是とすれば則ち彼は非とす。
 われ必ず聖なるにあらず。
 彼必ず愚なるにあらず。
 共にこれ凡夫(ボンプ)のみ。
 是非の理(コトワリ)なんぞよく定むべき。
 相共に賢愚なること鐶(ミミガネ)の端(ハシ)なきがごとし。
 ここをもって、かの人瞋(イカ)ると雖(イエド)も、かえってわが失(アヤマチ)を恐れよ。
 われ独(ヒト)り得たりと雖(イエド)も、衆に従いて同じく挙(オコナ)え。」


(十に言う、中の怒りを経ち、怒りを表面に出さぬようにし、他人が自分と異なる言動を行っても怒ってはならない。
 人にはそれぞれ異なったがあり、それぞれに思い定めるものがある。
 相手がよいと思っても、自分はよくないと思う場合がある。
 自分がよいと思っても、相手はよくないと思う場合がある。
 自分が必ずしも正しいことを知っている聖人ではない。
 相手が必ずしも正しいことを知らぬ愚か者でもない。
 自分も相手も、誰しもが共に、欠点を持つ凡人同士である。
 是非善悪の理路をいつも決められる聖人は誰もいない。
 誰もが、時には正しく、時には過ち、それは、机や箪笥の取っ手が輪になっていて、端はないようなものである。
 だから、誰かが怒っていたならば、それに対して自分も憤らず、自分に過ちがないかどうか省みよ。
 自分だけが真理真実をつかんだと思えても、独り善がりにならず、人々の意見や判断に従って行動せよ)

「十四に曰(イ)わく、群臣百寮(ヒャクリョウ)、嫉妬あることなかれ。
 われすでに人を嫉(ネタ)めば、人またわれを嫉む。
 嫉妬の患(ワズライ)その極(キワマリ)を知らず。
 ゆえに、智(チ)おのれに勝(マサ)るときは則ち悦(ヨロコ)ばず、才おのれに優(マサ)るときは則ち嫉妬(ネタ)む。
 ここをもって、五百(イオトセ)にしていまし賢に遇(ア)うとも、千載(センザイ)にしてもってひとりの聖(ヒジリ)を待つこと難(カタ)し。
 それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。」


(十四に言う、官吏たちはすべて、嫉妬を持ってはならない。
 自分が誰かを妬めば、相手もまた、自分を妬む。
 嫉妬がもたらす憂いや災厄は果てしない。
 だから、自分より智慧ある者に対してはすなおに認め喜ばず、自分より才能がある者に対しては嫉妬する。
 これでは、500年経とうと賢者に巡り会えず、1000年経とうと、たった一人の聖人の出現も望めない。
 賢者聖人がいなければ国家を治める人材はなく、まともな統治はできない)

「十五に曰(イ)わく、私に背(ソム)きて公(オオヤケ)に向うは、これ臣の道なり。
 およそ人、私あれば必ず恨(ウラミ)あり、憾(ウラミ)あれば必ず同(トトノオ)らず。
 同(トトノオ)らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。
 憾(ウラミ)起こるときは則ち制に違(タガ)い法を害(アオコナ)う。
 故に、初めの章に云(イ)わく、上下諧(ワカイ)せよ。
 それまたこの情(ココロ)なるか。」


(十五に言う、私心を捨てて公務に向かうのが公僕たる者の道である。
 およそ、人は私心ある時に怨みが生じ、怨みがあれば心を一つにした公務は果たせない。
 心を一つにした公務が行われなければ、私心による害悪が公務を妨害する。
 怨みがあれば制度に従わず、法律を破る行いも生ずる。
 だから、第一条で、上下共にを尊ぶべしと説いた。
 和を説いた理由はここにある)

「十七に曰(イ)わく、それ事(コト)は独(ヒト)り断(サダ)むべからず。
 必ず衆とともによろしく論(アゲツラ)うべし。
 少事はこれ軽(カロ)し。
 必ずしも衆とすべからず。
 ただ大事を論うに逮(オヨ)びては、もしは失(アヤマチ)あらんことを疑う。
 故(ユエ)に、衆とともに相弁(アイワキマウ)うるときは、辞(コトバ)すなわち理(コトワリ)を得ん。」


(ものごとを独断で行ってはならない。
 必ず、皆でよく議論をすべきである。
 些細なことならば、必ずしも議論を重ねずともよい。
 しかし、大事を決める際には、自分を過信せず、過つかも知れぬと怖れ、慎重になれねばならない。
 だから、独断を避け、皆でよく議論を進め、道理に合った結論を得るようにせなばならない)

 こうして読んでみると、憲法の精神には納得の連続である。
 しかるに……。

 和を尊んでいるか?
 善行と悪行がきちんと分けられているか?
 いきり立ち、自分だけが正しいという思いこみにとらわれてはいないか?
 嫉妬心につかまってはいないか?
 公私の別は大丈夫か?
 大事を行う際に公平な議論を重ねているか?

 現在の政治状況がどうであるかということではなく、聖徳太子の心が今なお、私たちの心へ響いてくることを確認しておきたい。




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「おん あらはしゃのう」
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2013
09.02

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その55)─股を刺しながら勉学に勤しんだ人─

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 江戸時代まで、寺子屋などにおいて庶民の教科書だった『童子教』を読んでいます。

「蘇秦(ソシン)は学文の為(タメ)に
 錐(キリ)を股(モモ)に刺して眠らず」

  
 昔の中国における故事です。

 雒陽軒里(ラクヨウケンリ)の蘇秦(ソシン)は、学問をするために10年間、家を離れ、ようやく帰ったところ、兄嫁は寝床にいたまま、何らのもてなしもせず、機織りに勤しんでいた妻も、言葉すらかけてくれません。
 蘇秦(ソシン)は我が身を深く嘆き、大夫(タイフ…領主あるいは県の長官)になって自分の力を示さねば、このまま兄嫁にも妻にも侮られたままであると考え、再び家を離れ、鬼谷(キコク)先生のもとで勉学に励みました。
 読書をしていて眠くなれば錐で腿を刺し、血が足まで流れるほどでした。
 わずかの時間も惜しんで勉学に励んだ結果、齋王(セイオウ)に仕える身となり、ついに丞相(ジョウショウ…君主を補佐する最高位の官吏)に上りつめました。
 そして、各国のトップが署名押印した重要な書類を携えて家へ向かいました。
 兄嫁も妻も、はるばる六十里先まででかけ、出迎えました。
 蘇秦は言います。
「昔は、私を見てもまったくもてなさなかったのに、こうして出迎えるとはどういうことなのですか?」
 兄嫁は答えます。
「貴男様は今、丞相となられ、国を動かす重要な書面を帯びて帰国されました。
 天下に名をあげ、一族の誇りとなったので、お迎えにきたのです」
 蘇秦は言いました。
「私がここまで立身出世できたのは、あの時、貴女が起きてくれなかったおかげです」

 
 私は昭和21年の生まれですが、同世代でこの故事を聞いたことのない人はいないと思われます。
 あらすじを詳しく覚えているかどうかは別として、志がある昔の人は、眠くなったら足を刺してまで勉強したものであるということは知っていたはずです。
 大学受験の歳には、幾度も思い出したものです。
(その割には怠けていましたが……)
 実践できても、できなくても、志と精進について〈あるイメージ〉を持つことは、大いに役立ちました。
 まず、自分自身をふり返り、恥じるようになりました。
 また、結果を出している人へ、すなおに尊敬の念を抱くようにもなりました。
 やるべきことをやりもしないで自己主張する愚かさ、つまらぬ嫉妬をする愚かさ、そして、いかなる道であれ精進している人の清々しさや高貴さも知りました。

 蘇秦の話は、これから先も、子供たちや若い方々に言い伝えられるべき故事であると考えています。




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2012
12.12

「あなたが欲しい」は愛なのか?

20121212001.jpg
〈負傷した足を救ってくれた故人用のイス〉

 の文字が氾濫している。
 若者にとって、至上の価値はにありそうだ。
 では、とは何か?
 普通、AさんがBさんをしているという場合、Bさんは、あくまでも〈AさんにとってのBさん〉だ。
 そこには必ず、Bさんは自分のものという所有欲がはたらいている。
 BさんはAさんのものだからこそ、(イト)しいし、愛(メ)でようとする。

 ところが、何かのはずみでBさんとの間に隙間ができれば、Aさんの愛はたやすく憎しみに変わる。
 Bさんを恨み、その行動に嫉妬し、あげくの果てはストーカーになり、殺人事件まで引き起こしたりする。
 こうなったのは、自分のものでなくなったからだ。
 Aさんの所有欲が満足させられている間は愛し、所有欲が充たされなくなれば憎む。
 何と自己中心的であることか。

 自己中心はBさんも同様だ。
 自分を大切にしてくれるAさんだからこそ近づきたい気持を受け入れ、愛したりもする。
 しかし、期待していたほどでなければ、愛が醒めたりする。
 これは自分の都合ではないか?
 やはり、関心があったのは〈BさんのとってのAさん〉でしかない。

 いかに小説やマンガで推奨されようと、こうした自己中心的な愛に人生をかけようとするなど、若気の至りと早く気づいた方がよい。

 み仏の慈悲慈愛はまったく違う。
 自己中心ではないからである。
 み仏にとっては〈私にとってのあなた〉という構図はないし、み仏は「まず自分ありき」を離れなければ自他共に救われないと説く。
 慈悲は、自分もあなたも同じという意識のあるところにしか生まれない。
 私もあなたも、あの人もこの人も、同じく苦を厭(イト)い楽を求め、同じく喜怒哀楽し、同じく衣装をまとい、同じく語り、同じく飯を喰い、同じく大小便を出し、同じく寝る。
 私への関心とあなたへの関心に違いはなく、あなたが虫歯の痛みをうったえれば、自分の虫歯が痛い時と同じく耐えられない気持になる。
 この時、あなたは、〈私にとってのあなた〉ではなく、〈あなた自身〉として私の関心の対象であり、さらに言えば、〈あなた〉と〈私〉と二つに分ける意識すらなくなっている。

 私は妻にそのことを教えられた。
 娑婆にいたおりも、出家してからも、妻はずっと私の戦友だった。
 妻が不機嫌になったり、不調になったりすれば、私は、勝手に退却しようとしている部下を抱えて突撃せねばならない将校だった。
 傷ついた部下をいたわる衛生兵でありながら、最前線で砲火を交える歩兵でもあり、かつ、戦況を考える隊長も兼務していた。
 自分の戦いから切り離せないという意味では一心同体だったが、妻は数年に一度、まるで思い出したように「お父さんが言うように、一心同体ではないよ」と口にした。
 別にケンカしたわけでもないのにこう言われると、私はおもしろくないというよりも、「何で?」と不思議だった。
 時折、抵抗はしても、決して裏切らずについてきてくれていたからだ。

 妻が一度目に倒れた時、私は、妻が背負っていた役割を補うのに無我夢中だった。
 妻は病魔によって〈役割を解かれた人〉として、ただ、そこにいた。
 私は、それを相手に、自分の新たな任務をまっとうすべく、睡眠時間を減らして戦った。
 戦いは劇的な勝利の瞬間を迎え、また、二人して新たな戦いを始めた。
 妻が二度目に倒れた時、妻は〈役割を解かれた人〉としてではなく、私と同じ人間として、そこにいた。
 温かい味噌汁を与えれば喜ぶ──。
 今まで、私が温かい味噌汁を与えられるのは、笹倉山に黒っぽい雲がかかればやがて風が吹き、次いで雨や雪がやってくるのと同じく、当然であり、一人の人間が一人の人間へ食事を与えることの重さに気づかなかった。
 ここまで生かしてくださった仏神への感謝があらためて起こった。

 こうして妻は負傷した戦友でありながら、同時に、私と同じ人間として、私の関心の対象となっている。
 私にとって、妻への関心は、私への関心と等しい。
 思えば、当病平癒を祈る時、願主の治りたいという思いを自分の思いとして祈ってきた。
 火葬場で最後の別れを行う時、ご遺族の身を斬られる思いを共有する気持で修法してきた。
 願主への関心も、ご遺族への関心も、私への関心と変わりはなかった。
 しかし、妻だけは戦う自分と一体であると思い込んでいたために、戦友としての関心しか持てなかったのかも知れない。
 今さらながらに、無口な妻の「一心同体ではないよ」へ込めていた思いが胸に迫ってきて切なく、情けなくなる。

 愚かな私は自分の棺桶を側へ置くような毎日を送るところまで来てようやく、勘違いに気づきました。

 定年を間近にしている方々よ、伴侶はあなたの戦友だけなのではありません。
 戦闘終結を向かえる前にできるだけ早く気づき、伴侶に対して、ご自身への関心と同じレベルの関心を持ってください。
 あなたが作った味噌汁を口にして微笑む伴侶の笑顔に、あなたが伴侶から与えられていたものの大きさを知ってください。
 そうすれば、熟年離婚の危機はかなり回避できることでしょう。
 もちろん、このあたりは、共稼ぎの方々にはとうの昔にわかっておられたことでしょうが……。

 若い方々よ、あなたが異性を欲しいと思う時、その気持をたやすく愛という名のこれ以上ない価値であると考えないでください。
 愛しいと思う気持に所有という我欲がベッタリと貼りついていれば、それは、自他を幸せにするみ仏の慈愛ではなく、性欲の発露です。
 そのレベルにとどまっている限り、性欲に伴う執着心が絶えずはたらき、自分を傷つけ、相手を傷つけ、共にズタズタになる危険性と隣り合わせで日々を送らねばなりません。
 性欲の対象は無数にあり、感情は常に変化し、執着心に染められた愛は憎悪嫉妬を裏面としたコインの表側でしかないからです。
 そこを入り口として、〈私にとってのあなた〉を超えた〈あなた自身〉という人間そのものへ深い思いやりをかけられるようになれば、本当の愛すなわち慈愛へ近づくことでしょう。

 私たちは、死ねば閻魔(エンマ)様のテストを受けねばなりません、
 洞窟へ追いやられ、仏性の輝いている人は洞窟を照らし出して安楽な道へと進めますが、輝いていない人は暗黒の世界へ行くしかありません。
 慈愛こそ仏性の発露です。
「あなたが欲しい」を超え「あなたのために」と真の愛を発揮しつつ生きたいものです。




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2011
05.05

『大日経』が説く心のありさま六十景 その33 ─鼠心(ソシン)─

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第32回目です。

31 心(ソシン))
 つながりを破壊しようとする心です。

「諸(モロモロ)の繋縛(ケバク)の断ぜんと思惟(シユイ)す」

 
 ネズミが小さな身体に不釣り合いなほど強い歯でいろいろなものをかじり、漏電させて火事をもたらす場合すらあるように、人知れず絆を切ろうとする邪な心です。

 高慢嫉妬心の強い人や、自信喪失の人や、中途半端な孤独感のある人や、愚癡の闇に沈んでいる人などは、師弟間であれ、友人間であれ、家族間であれ、信頼という糸で結ばれている人同士の様子が妬ましかったり、疎(ウト)ましかったり、癪にさわったりします。
 そして、ひそかに人間関係の破壊を企てたりもします。
 せっかく修行していても、自分がなかなかうまくゆかなくて焦っている時に、周囲が順調に進んでいるのを見たりすると、こうした気持が起こります。
 ここで心を育てたならば、人生の成功を妨げ、仏道修行を妨げる天魔に堕ちてしまいます。

 堕ちないために指導を仰ぐべき相手は師です。
 邪な心を持った同士が徒党を組んだり、他の師へ走ったり、あるいは道から外れたりすれば、道は成就できません。
 しかし、できない者同士が自分たちの未熟さを棚に上げ、一緒になって仲間や先輩や指導者を批判するのはよくあるまちがいです。
 他の師へ走り、惨めな過去を隠してしまおうとする逃亡も、よくあることです。
 そして、正当な修行など定められた方法以外で認められたいと考え、他の手段へ逃げるのもよくある生き方です。
 いずれにしても、自分が身を潜めている物陰から明るい世界をかいま見て心に暗い炎を燃やし、明るい世界の土台をかじろうとする心は、他を破壊するよりも先に、自分の足元を破壊しています。
 しかし、悲しいことに、本人は気づきません。

 心に陥らないためには、「うらやましい」と感じた瞬間に、「自分はネズミになろうとしているのではないか」と疑い、立ち止まりましょう。
「恥ずかしい」と思えたなら、そして心の再出発ができたなら大丈夫です。
 足が重くてならない時は、疑問や苦しさを師へぶつけましょう。
 自分より何歩か先を歩いている師は、必ず、似た体験を経ているはずです。
 だから、言葉であるかどうかにかかわらず、必ず、何がしかの答が出てきます。
 話題となっている伊集院静氏の小説『いねむり先生』は、そうした師弟間の関係を描いた傑作です。

 くれぐれも、ネズミになったまま、どこかへ逃げないよう。
 もしも、かりそめの衣をまとって光の当たる世界へ出ようと、衣の下に潜む陰は隠し通せるものではありません。
 観る目を持った人をごまかすことはできず、逃げたツケを払う時がやってきます。
 逃げるくらいならば、ネズミの惨めさと正直に向き合う方が早くトンネルを抜けられます。
 因果応報を信じましょう。
 誠実に、まっとうに生きていれば、み仏は決して見放しません。
 短所も欠点も持ったままで必ず救われるのです。

〈琢秀さんへ向かう途中で出逢った不思議な植物〉
230504 002



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