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2012
11.11

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その33) ─へこたれない心をつくる─

20121110016.jpg
〈自然の恵みがご本尊様へ捧げられました〉

 ここでは、昭和6年に発行された小冊子を基にして子供たちの導き方を考えています。

32 「え」 偉くなる人辛抱する人

 すぐへこたれるようでは見込みがない。
 つらい苦しいところを辛抱する人だけが偉くなれるのだ。
 この精神を少年時代から鍛えよう。


 今は偉くなることをあまり望まない時代になりました。
 しかし、社会的な志のある人にとっては、努力をすれば偉くなるすなわち地位が上がるという結果がついてくるのは当然です。
 だから、昭和初期のように大臣や大将や医師といった手本となる偉人がいて「あの人のようになろう」と志すことを「偉くなる」と表現するのではなく、「志を果たす」と言えば違和感がないと思われます。
 クラレが4月に発表した最新の調査によれば、小学一年生の男児ならサッカーなどのスポーツ選手、警察官などが目標となっています。
 女児ならパン屋やケーキ屋、あるいはタレントなどがです。
 中学生になると、ほとんどの調査で男子はスポーツ選手・医師や歯科医・教師・会社員・研究者・警察官や自衛官や消防士などです。
 女子はペットを扱う獣医師など・幼稚園や保育園の先生・パン屋やケーキ屋や栄養士・福祉関係の看護師など・作家やマンガ家・タレントなどに人気があります。
 やはり、人生の理想に偉くなるイメージはほとんどなく、好きなことをやりたいという意志が読み取れます。

 ともあれ、「すぐへこたれるようでは見込みがない」のは確かです。
 では、子供をへこたれない人間に育てるためにはどうすればよいか?
 やはり、明星大学の高橋史朗教授が指摘する「いじめの根っこ」を考えることが、へこたれない、集中力と持続力のある精神をつくるのに欠かせないと思われます。
 教授は、共感性規範意識の欠如がいじめを生むとしています。

 共感性とは、他者の痛みを我がこととして感得する、見捨てておかれないといった思いやりの姿勢です。
 思いやりがなければ、自分の好き嫌いや都合がいつも最優先で、どこまでも気ままにやろうとします。
 その先には衝突や断絶しか待ってはいません。
 しかも、好き嫌いや都合を通して得られる満足感は常に一過性のものでしかなく、不満、苛立ち、敵対心などにつきまとわれます。

 規範意識とは、人間としてなすべきことと、なしてはならないことを峻別するきまりに従う姿勢です。
 弱いものを苛めるのは卑劣であると知って自分を律することができなければ、弱い者を従わせていっときは暗い満足感を得ようと、自分もまたいつか弱者となって誰かに苛められ、悲痛な思いを味わうことになります。
 規範意識の薄い人は同じような人々と共鳴し、共同して非人間的な行為に走り、自分も又、非人間的な扱いを受ける運命に堕ちてしまうのです。
 だから、人間が人間であるためには自分を律する規範意識が欠かせず、お釈迦様は、「気まま心に負けず、自分を律せよ」と生涯かけて説かれました。

 このように、共感性規範意識の欠如は必ず心と生活を乱れさせ、集中力と持続力のある精神は育ちません。
 最新の研究によれば、共感性規範意識を司る眼窩前頭皮質(ガンカゼントウヒシツ)は三歳までに形成されるらしく、まさに「三つ子の魂百まで」なのです。
 育つべき時期に育てられなかった心を後から開発しようとすれば、子供も大人も膨大な汗を流さねばなりません。
 小学校で学級崩壊が始まってからでは大変です。
 半世紀前の小学校の風景と現在の風景をまったく似ても似つかぬものにしたのは何か?
 共感性と規範意識の欠如であると思われてなりません。
 子供たちは、好きなことをしなさい、自分のために勉強しなさいとばかり言われ、家庭も学校も、自己中心の心を制御させない放任の方向へ進んできました。

 こうして考えると、〈いじめる子供〉も〈へこたれる子供〉も、そしてセクハラなどで苛める大人も、何をやっても長続きしない大人も、まさに時代の申し子です。
 へこたれない精神をめざすことは子供にとって大切なだけでなく、酷薄で脆くなってきた現代人の精神を変えるために欠かせないのではないでしょうか。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
09.28

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その25) ─「食べる」は「生きる」だけではない─

20120927004.jpg

25 「の」 飲み食いにも修養あり
 病気は多く口から入る。
 偉くなろうとする者は食べ過ぎをしない。
 飲み食いに負けることを恥と思え。


1 喰う自分

 ものを食べている自分の姿は気になります。

 東京の予備校へ入り初めて独り暮らしをしたおりは、食事どきに侘びしさを知りました。
 自分の姿を別な自分が眺めており、言いようのない哀れさを感じたものです。
 誰も見ていない空間でものを口にする時に必ず新聞か本を読む癖がついたのは、これがきっかけでした。

 他人の目がある場所では、無意識のうちに周囲から自分を眺め、心のどこかに緊張した部分があって途切れません。
 もちろん、酔っぱらってしまえば怪しいものですが……。
 後に、動物が最も危険に瀕するのは性交の時、排便の時、そして食事の時であると教えられ、とても納得できました。
 家の中にいるネコは餌が与えられるとすぐに飛びついて夢中になりますが、野良猫はそうはゆきません。
 時折、ハッとしたように首をもたげて後を確認したり、上目遣いに周囲へ鋭い目を光らせたりする様子を見ると無性に哀れをもよおし、「大丈夫だよ」と安心させてやりたくなります。

 そして、食べている自分に対して、どことなく、浅ましさを感じてもいます。
 だから、どんなにおいしそうな食べものが出されても、決して食らいつけません。
 性交や排便と同じく、ネコやイヌと同じ生きものとしての〈ナマの姿〉になっているからでしょうか。

2 教育にならない給食の時間

 教師一筋の人生を送ってこられたAさんのお話に仰天したことがあります。
 ある学校で給食に立ち会ったところ、食事が全員へ行き渡ると教師が「喰えっ!」と号令をかけ、そのまま昼食に〈突入〉しました。
 しかも、教師はガツガツする典型的な〈犬食い〉で、Aさんは口もきけなかったそうです。
 やがて、この学級はうるさくて手に負えなくなり、助け船を求められたAさんがしばらくかけて平静な授業時間を取り戻しました。

 お腹をすかせたところへ食事が用意され、「さあ、喰え」と言われて飛びつき、無我夢中で飲み食いするならば、イヌやネコと何ら変わりありません。
 そうした光景を想像すると、おぞましさに戦慄が起こってしまいます。
 食事をするとは、生きものたちのいのちをいただくことであり、感謝を忘れず、勝手な好き嫌いをして無駄にせず、きちんと食べるという重要な教育は消し飛んでいます。
 犬食いをする教師は、礼儀作法について児童へしつけができません。
 学級崩壊同様の状態になったのも当然です。

 Bさんは異様な光景を見たそうです。
 小学校で給食が始まる時、皆が合掌をしたまではよかったのですが、リーダーが「いただきます」と発したところ、全員が合掌を解いて両手をダラリと下げ、「「いただきます」と声を揃えたのです。
 きっと、合掌をして「いただきます」を言えば特定の宗教行為であるという批判を受けるのでしょうが、残念な状況です。
 合掌と一体になった「いただきます」は、もはや日本の美風ともなっている伝統的な作法であり、もしも外国へ行った日本人がこの子供たちと同じ行動をとった後、見ていた人から説明を求められたならば、どう答えるのでしょうか。
「教育の現場では、憲法違反にならないよう細心の注意をはらっているので、日本では、宗教の香りがする古い伝統的な作法や慣習はなくなりつつあります」
 こう言って納得され、尊敬されるでしょうか。

 私は拙い宗教者ですが、信じている仏教以外の宗教行為に加わって信念が揺らぐなどという危惧はまったく持っていません。
 神社へ行けば所定の作法でお詣りし、教会へ行けば共に讃美歌を歌い、イスラム教の方が公園で礼拝をしている姿に接しては同じ敬虔な気持になります。
 そうしたことごとは、私の宗教心を高めこそすれ、信念に爪痕一つ着きはしません。
 学校で伝統的な作法を児童の身につけさせるのは、心を美しく、強くすることであり、そうした中で真の宗教心も育つのではないでしょうか。
 
 また、何でも「押しつけだ!」とヒステリックに排除する姿勢には、心を汚し、弱くする危険性があります。
 なぜなら、社会生活とは、暴れる自我を上手にコントロールしつつ霊性を磨いて行く人生修行だからです。
 気に入らないものを排斥し、何らのガマンもない中でしか生きられないとしたならその人はいつまでも幼子のままであって、周囲の人々から〈困り者〉とされながら生きて行くようになることでしょう。
 だから、『童子教』は「郷(ゴウ)に入らば郷に従え」と教えています。

3 食事のコントロールは心のコントロール

 この教えの眼目は「飲み食いに負ける」にあります。
 食べたいものを食べたいだけ食べ、食べたくないものは食べない。
 これが「負けている」状態です。
 それは、「自分に負けている」ことを意味します。

 なすべきことがなせる身体を作り、健康を維持するには何をどれだけ食べればよいかを考え、実行することなく、好き嫌いだけで食事をしているとしたら、その人は怠惰な〈気まま者〉と言わざるを得ません。
 気ままな人は強情でも、真に強い人ではありません。
 社会人としてまっとうに生きられる真に強い人は、自我をコントロールできる「自分に負けない人」です。
 なぜなら、譲り合いこそが、互いが認め合い尊重し合う理想社会におけるふるまい方であり、それは自我をコントロールできる人にしか実行できないからです。
 気ままな飲み食いの先には理想的人格も理想社会もありません。

4 結論

 〈人間にとっての食事〉を考え、〈教育としての食事〉を考え、〈修行としての食事〉を考え、子供たちを導きたいものです。
 ちなみに、食事のおりに唱える文言の一例です。

「一粒(イチリュウ)も天地の恵み、己(オノ)が身を他に与えて自他を養う定めの食物と天地に感謝し、おいしくいただき身と心とを養わん。いただきます


 たった一粒の米であっても、それができるためには、水、肥料、光、温度などさまざまな要因がすべて満たされなければなりません。
 虫に食べられないことや台風などに倒されないことも間接的な要因であり、さらに私たちの口に入るためには、農家の方の無事な刈り入れを初め、どれだけの要因があるのか数え切れないほどです。
 やっと実り、無事食卓までたどりついた一粒の米たちが、自分たちのいのちを捨てて私たちのいのちを養ってくれています。
 食べ物となるいのちと、天地として表れている仏神へ感謝せずにいられましょうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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