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2016
12.02

一年と一周忌供養 ─あの世でもこの世でも救われる話─

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〈四国の霊場にて〉

 一年は、人生の一区切りをはっきりと感じさせる長さである。
 来し方を振り返り、行く先を想う。
 亡き人に対してもそうだ。
 一周忌では「もう、一年が経った」と感じる人も、「まだ、一年か」と感じる人もおられようが、いずれにしても、はっきりと〈時間的区切〉を迎える。
 そこで勢至菩薩(セイシボサツ)が守本尊として故人を導いてくださることの意義は大きい。

 勢至菩薩は、その名のとおり、この上ない勢いでお救いくださるが、勢いの内容は智慧の光明である。
 百か日の観音様が無類のお慈悲で阿弥陀様のもとへ向かわせてくださる一方、その道行きが確かなものとなるよう智慧の勢いを与えてくださる。
 だから、大勢至菩薩、あるいは大精進菩薩(ダイショウジンボサツ)とも呼ばれる。

 御霊はその力で迷いを解きつつ、み仏の世界へ溶け込んで行く。
 一方、勢至菩薩へ祈るこの世の人々もまた、思慕・想い出・未練・感謝などが入り交じり、揺れ動く心にまとまりがついてくる。
 この世の人々も勢いのご加護をいただくのある。

 妻を亡くされたAさんは一周忌を迎え、言われた。
「何もかも妻に任せっぱなしでしたから、オロオロするばかりで、いまだに落ちつきません。
 それでも、妻が大事にしていた花に水をやりながら、枯らさずにここまで来ました。
 夢中で一年経ってみると、植物が何を求めているのか、ようやくわかるようになりました」

 夫を亡くされたBさんは一周忌を迎え、経典を唱えた後で言われた。
「この区切の日に、ご住職が何を言ってくださるか、とても楽しみにして来ました。
 日常生活の何もかもを私に頼るばかりだったあの世の夫に、勢至様が勢いをつけてくださると聞いて、とても安心しました。
 一緒に経典を唱えた私自身も、ご住職がいつも言われる生き直しが、ようやくできるような気になりました」

 勢至菩薩のお姿は、蓮華の蕾を左手に持ち、右手で開く勢いを与えている。
 蓮華菩提心(ボダイシン…悟りを求める心)の象徴であり、蓮華が徐々に開く過程は、阿弥陀如来の浄土へ向かう旅路でもある。
 それは何もあの世のことだけではない。
 御霊の冥福を勢至菩薩へ祈る清浄な心になった私たちも又、自心の蓮華を花開かせつつあるのだ。

 あの世では安心が増し、この世ではまっとうに、幸せに生きる力が増す一周忌供養を行うことの意義はまことに深いと思う。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2016
11.01

11月の守本尊は阿弥陀如来様です

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〈「ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞」を受賞した作家の村上春樹氏は「僕自身は小説を書くとき、物語の暗いトンネルを通りながら、まったく思いもしない僕自身の幻と出会います。それは僕自身の影に違いない。」と言いました〉

 11月は、立冬と小雪(ショウセツ)の霜月(シモツキ…11月7日より12月6日まで)です。
 11月は亥(イ)の月なので、守本尊阿弥陀如来(アミダニョライ)様です。

 阿弥陀如来様は、『遍處行智力(ヘンショギョウチリキ)』をもって、人々がどのような世界へ行こうとしているかをご覧になり、地獄界や餓鬼界などの悪しき世界へ入らぬよう、お導きくださいます。
 正しく念ずるならば、そのお力により、必ず善き所へ連れて行ってくださるのです。
 また、阿弥陀如来は、戌亥年生まれの善男善女を一生お守りくださる一代守本尊様でもあり、身体においては、主として脚をお守りくださいます。
 そして、特に今年、数え年で2才、11才、20才、29才、38才、47才、56才、65才、74才、83才、92才、100才の方をご守護くださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

「この御仏の説き給(タマ)う○悟りの智慧の根本は○一切諸法(ショホウ)の本性の○清浄なること現証(ゲンショウ)す」


(このみ仏がお説きになる悟りの智慧の根本は、ありとあらゆるものが本来、汚れなく、あるべきようにあることを、真実として明らかにするものである)

 私たちは、自分を中心として世界を眺めるので、気に入ったり、気に入らなかったりして、受けとめ方や感情がさまざまに揺れ動きます。
 しかし、悟ったみ仏の目からご覧になれば、何もかもがそれなりにあってこそ、この世は成り立っています。
 その真実にきづかない私たちの目を覚まさせるのが経典です。
 真実を求め、救いを求めて読誦し、阿弥陀様を観想すれば、必ずや、自己中心的にはたらく目のフィルターが外れ、確かな世界が感得できることでしょう。

観音・勢至(セイシ)を脇侍(キョウジ)とす○二十五菩薩従えて○念仏加持(カジ)する人々の○もとに来迎(ライゴウ)され給い○必ず浄土に引導(インドウ)す」


観音菩薩と勢至菩薩をはじめとする25尊を従え、両脇に従え、み仏を念じ、ご加護を受けようとする人々のそばに降りて来られ、必ず極楽浄土へお導きくださる)

 阿弥陀様は、極楽浄土を求める人びとの祈りに応じて、観音菩薩や勢至菩薩など25尊と共に降りて来られます。
 阿弥陀様は絶対的な安心(アンジン)の世界を統べておられ、私たちの個別具体的な事情や願いに対しては、それぞれに応じた菩薩様方が私たちへ直接、救いの手だてをとってくださるとされています。
 もしも、不安で暗く沈んだ心のまま死を迎えようとしている場合には、日照王菩薩(ニッショウオウボサツ)様が太陽のように明るい心にさせ、後悔の念に苛まれたまま死を迎えた時は、徳蔵菩薩(トクゾウボサツ)様が大いなる徳の力で足りなかったところを補い、安心を与えるとされています。

2012097.jpg
 
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた阿弥陀如来様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められています。(奉納受付中)

 11月守本尊阿弥陀如来(アミダニョライ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「おん あみりたていせい から うん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2016
09.12

病院のベッドから魂が抜け出して自分のお墓を見に行った話

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〈「唱歌を唄う会」でご指導いただいた小山裕之先生〉

 秋晴れのある日、母親と娘さんがおの引き渡しを受けに来られた。
 ご一家で考えに考えた理想のおがようやく完成し、母娘は笑顔だった。
 それから小一時間ばかり経って、寺務所へ電話が入った。
 お父さんが亡くなられたので枕経を頼むという。
 職員共々、驚いた。

 ご自宅へ駆けつけ、枕経の終了後、成り行きをお聴きした。
 病院で付き添っていた母娘は、数日前から悪化した各種の数値は気になるものの、引き渡しの約束をしていたので、当山へ向かった。
 思い通りのおを確認して間もなく、病院から至急、戻って欲しいと連絡が入った。
 まさかと思いつつ急ぐ途中で訃報を聞いた。
 厳しい闘病生活が続いていたにもかかわらず、お父さんは文字どおり眠っているようにしか見えなかったという。

「きっと、お父さん、一緒におを見に行って安心したんだよ」

 東京から駆けつけた妹が言うと、誰もが目に光を取り戻し、静かな笑顔になった。
 母親を車に乗せておを受け取りに向かった長女も急いで応える。

「きっとそうよ。
 毎日、付き添っていたのに、お母さんと一緒に病院のベッドを離れる時も、全然、心配しなかったよね。
 自分でおのスケッチを描いたりしたお父さんだから、私たちについて来て安心したんだね」

 みんなの視線があたらめて横たわるお父さんに集まり、厳粛な和らぎが居間に満ちた。
 本当にそう思う。
 住む家が完成して安心しない人がいようか。
 お父さんのあだ名は「観音様」だったという。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2016
08.30

漢文『法句経』を読んでみる(その7) ─真理を信じる力─

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 前回にひき続き、『法句経(ホックキョウ)』の「篤信品(トクシンボン)第四」を意訳します。
 この章では、信じるという宗教の基本的姿勢と価値について説かれています。

篤信品(トクシンボン)とは立道(リツドウ)の根果(コンカ)なり。因に於(オ)いて正見(ショウケン)ならば行(ギョウ)、回顧(カイコ)せず。
(篤く信じる心は、仏道を確立するための基盤であり、仏道がもたらすものでもある。正しい見解から始まる修行は、振り返って可否を問うまでもない)

〔七〇〕信・慚(ザン)・戒・意財(イザイ)、是(コ)の法を雅士(ガシ)は誉(ホ)む。斯(コ)の道(ドウ)は明智(メイチ)の説なり。是(カク)の如(ゴト)くして天世(テンゼ)に昇る。
(信じること、反省すること、戒めを守ること、布施すること、この生き方を、正しく品位ある人は賞める。この道は賢者の説くところであり、やがては神々の世界へも昇られるだろう)

〔七一〕愚かなるは天行(テンギョウ)を修せず、亦(マ)た布施(フセ)を誉めず。信施(シンセ)して善を助くる者は、是(コレ)に従(ヨ)りて彼(カシ)この安に到る。
(愚かな者は、神々の世界へ行けるほどの善行を行わず、布施も称賛しない。仏法僧へ布施をして善行の助けとなるものは、神々の世界の平安を得る)

〔七二〕信ずる者は真人(シンジン)の長、法を念ずれば住む所安(ヤス)し。近づく者は意(ココロ)に上(ジョウ)を得、智の寿(イノチ)は寿(イノチ)の中の賢なり。
(信ずる者は仏道修行の完成者であり、真理から離れなければ、どこにいようと心は平安である。完成者に近づく者は心が向上し、智慧に生きる者は、いのちある者の中で最も勝れている)

〔七三〕信は能(ヨ)く道(ドウ)を得、法は滅度(メツド)を致す、聞(モン)に従いて智を得、到る所に明らかなる有り。
(信じれば仏道が成就し、真理は絶対の安心の世界へ導く。教えを学べば智慧が得られ、どこにいても道が開ける)

〔七四〕信もて能(ヨ)く淵を度(ド)し、摂(セツ)もて船師(センシ)と為(ナ)り、精進(ショウジン)もて苦を除き、慧もて彼岸に到る。
(信じれば迷いの淵を渡り、煩悩を克服すれば人びとを迷いの淵から安心の世界へ渡す船頭となり、精進の徳と力は苦を消滅させ、智慧によって悟りの世界へ入られる)




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2016
07.14

Q&A(その26)「最期に苦しむ人」とならないためには? ─解き放たれ、委ねる─

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 ほとんどの人は幸せに生きたいと願う。
 そして、安心して死にたいとも、思う。

 幸せに生きるには、この世のことごとについて、この世なりの条理をつかんで処置すれば何とかなる。
 不運や不条理が大きく立ちはだかる時は、自分の心のありようを見つめれば、流れが転換できる。

 安心して死ぬには、まず、寝て、食べて過ごせるように、準備しておきたい。
 逃れられない死に対する恐怖感をどうするかが、最後の難問だ。

 森津純子医師は、医療相談とカウンセリングをもっぱらとし、たくさんの人々を見送った。
 医師が「最期に苦しむ人」と指摘したタイプのうち、二つを考えてみよう。

1 特定の思考に縛られる人

 宗教は人を救い、苦しめもする。
 仏神に守られているという確信は人を根本的に救うが、ドグマに縛られれば危うい。

 仏教の「因果応報」は道理として疑いにくく、倫理の基礎として動かせないからこそ、私たちは、自分なりの精進(ショウジン)を志向する。
 それは、1+1が2と確定していなければ計算が成り立たないのと同じ重要さを持っており、もしも人助けをして撲られ、人を傷つけて誉められるならば、私たちは意思決定できず、発狂してしまうことだろう。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通の「最後の審判」もまた、人を善行(ゼンギョウ)へと誘い、悪行(アクギョウ)を制止する思想である。
 善悪の基準がなくなれば、上記のとおりとなる。

 しかし、もしも、最期を迎えた時、自分が犯した過ちを〈上書き〉するだけの善行をしてこなかったと悔いるならば、どうなるだろうか?
 もしも、最期を迎えた時、自分の不安や苦しみを神が与えた罰と考え、押し潰されそうになったなら、逃れられようか?

 いかなる思想も宗教も、いのちと心の世界全体をつかみえない人間にとって、道しるべの一つとしての仮説であることを忘れないようにしたい。
 仮説をどう考え、どう用い、どう生きるかは、一人一人が個別に生まれ、他者と身体も心も交換し得ない絶対の個別性を持った個々人の判断にかかっており、仮説は、一人の人間が生きているという真実全体を動かす主人公ではあり得ない。

 いかなる〈道理〉も〈お告げ〉も、一人の人間の人生に対して責任を持ちようがない。
 そうしたものを生かす主体性を保つか、それとも縛られて自分を追いつめるか、結局は一人一人の問題となる。

2 狭い自分の世界に閉じこもり、他人の言葉に耳を傾けない人

 私たちのいのちは、一瞬たりとも〈おかげさま〉なしには保てない。
 無数の人々との目に見えない縁の糸で結ばれ、守られていればこそ、自分の家で起き、電灯を点し、水を飲み、歯を磨き、新聞を読み、テレビを眺め、朝食を摂り、仕事に向かえる。

 自分の手が届かないところで、お巡りさんが、電力会社の人々が、水道局の人々が、新聞配達員が、報道関係者が支えてくださっており、自分にとってそれらの人々は、言わば〈プロ〉である。
 こうしたプロへ対する畏敬の念を忘れれば、私たちは恩知らずになるばかりでなく、この面でも、あの面でも、どんどんと〈井の中の蛙(カワズ)〉になり、愚かになる。

 この愚かさを助長するのが高慢心である。
 高慢な人は、真の意味で他者をプロと認めず、いかなる面においても自分を常に最上位へ置かないと気が済まず、自分の無知に気づかない。

 しかし、私たちはそもそも、意識では自分が自分の主人公であっても、一瞬後に何が起こるかは、自分で決められない存在だ。
 歩いていれば、一瞬後に懐かしい人と再会するかも知れないし、決して顔を合わせたくない相手が不意に四つ角から現れるかも知れず、自分ではどうしようもない。

 何があっても自分を失わず、平静を保ち、適切な判断を誤らないためには、意外にも私たちは、心のどこかに〈委(ユダ)ねる〉という柔軟性を持っていなければならない。
 委ねる心理がはたらけば、好事や順境に舞い上がらず、悪事や逆境でへこたれない。

 私たちは無数の〈プロ〉たちに囲まれている。
 感謝し、信頼し、委ねた方が、自分を向上させつつ、心豊かに生きられるはずだ。

3 結論

 思想も宗教も、その究極的役割は、私たちを〈解き放つ〉ことにあるのではなかろうか?
 米大リーグのイチローは、徹底した自己管理によって、自在にボールを打てるようになった。
 私たちも、真剣に真理・真実を求め、研鑽して行けば、決して縛られるのではなく、解き放たれた地点に近づけるのではなかろうか?

 私たちは、自分があらゆる面で自分の主人公になろうとし、ありがたいプロの面々に囲まれていることを忘れているのではなかろうか?
 病気になれば病院に通いつつ、医者の言うことを信じずに、ネット上のおかしな情報に迷う。
 相手を見極めて信じ、委ねるのは、決して自分を失うことではなく、自分が柔軟になり、霊性がはたらきやすくなっていることを意味する。

 解き放たれ、委ねるならば、「最期に苦しむ人」とならずに旅立てるのではないかと思える。
 お釈迦様は、「川を渡ったならば、それまでの頼りだった筏(イカダ)は置いて、その先を自分の足で歩め」と説かれた。
 不安と苦しみの中で出会ったものを信じ、研鑽し、誠心を尽くした先にある広大で自由な世界が予感されるではないか……。




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