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2016
08.13

4ヶ月ぶりに我が子を発見したご両親 ─東日本大震災被災の記(第186回)─

2016-08-13-0001.jpg
〈野辺の花にもある生と死〉

 8月12日、オリンピック男子体操で内村航平選手が逆転優勝し、新聞各紙のトップを飾った。
「もう何も出ないというところまで出し切れた」という言葉に国民が打たれた同日、さして大きくない記事も、〈やり切った〉人を紹介していた。
 4月14日に発生した熊本地震で唯一、行方不明のままだった大学生大和晃さん(22才)がついに発見されたのだ。
 父親の卓也さん(58才)と母親の忍さん(49才)は5月1日、県から捜索打ち切りを通告されてなお、職場の協力も得て、独自に探し続けてきた。

 被災したと思しき阿蘇大橋附近は峻険な場所で、激しく崩落しており、もしも埋まったなら発見は不可能だろうと思われていた。
 しかし、両親はあきらめなかった。

「布を見つければ息子の服ではないか、金属板を見つければ車の一部ではないか……。
 どんな小さな手掛かりも見逃すまいと河川敷を歩き、近づけない場所はカメラの望遠レンズを使って確認した。
 晃さんが乗っていた同型車や当日の服装の写真を載せたチラシも作り、川沿いの住民や工事関係者に配った。」


 そしてついに、手がかりを発見した。

「6月23日、阿蘇大橋の崩落現場から下流約5キロ地点で金属板を発見。
 晃さんの車と同車種の車体の一部だとわかった。
 いつしか、友人や知人が次々と捜索に加わっていた。
 我が子を捜し歩く姿をテレビで見て突き動かされ、現場を訪れ協力した人もいた。
 自宅には、『晃さんのお父様』の宛名で、全国から励ましの手紙が届いたという。

 そして7月24日。
 車体の一部を見つけた。
 忍さんは、取り乱した様子で車体を掘りだそうとしたという。
 忍さんは『私のこの手で晃を抱きしめるまでは諦められないんです』。

 7月30日、車体を見つけた現場に行った忍さんは、近くに折り鶴を置いた。
 毎日の捜索に向かう車中で折ってきたもので、1千羽を超えた。
 近くに、メッセージも添えた。
『もうすぐ連れて帰るばい』

 11日、遺体の収容を終えて、卓也さんは『手紙や励ましの言葉もたくさんもらった。ありがとうございました』と報道陣のカメラに向かって頭を下げた。
 忍さんは、晃さんにかける言葉を問われるとこう答えた。
『お帰り、きつかったね、苦しかったね』」(朝日新聞より)


 収容されたのが息子であると信じている卓也さんは語った。

子どもを手元に取り戻すことができた


 ここで言う「子ども」とは何だろう?
 ご遺体や遺品といったモノである。
 ご両親は、手がかりとしてのモノを100日以上、探して来られた。
 そして息子にかかわる確かな何かを手にしようとしておられる。
 それを確認し手にすることによって、息子との再会、息子の帰還が果たされる。
 それへ手を合わせることによって、あの世へ逝った息子と親との新たな絆が確信的に成立する
 
 ところで〈それ〉はあくまでモノである。
 この場合、モノは単なる物質としてのモノではない。
 あの世の御霊とこの世の私たちが、異なる世界にいながら通じ合うために、かけがえのない役割を果たす。
 だからこそ、人類は、世界中のどこでも、歴史が発祥した当初から、お骨や遺品の扱いには繊細な感覚をはたらかせてきた。
 そこが宗教心の根を形成する肝腎なところである。
 我欲に満ちた人間に汚れを抑制させる最後のよりどころでもある。


 しかし、東日本大震災の直前はどうだったか?
 人を送る宗教行為は限りなく貶められつつあった。
 評論家は過激さを競うかのように、お葬式とそれに関する諸々の行為を否定していた。
 それが、震災を期に鳴りを潜めた。
 一気に生じた膨大な死と弔いが、私たちの本源的な心性に気づかせたのである。
 ご遺体や遺品が単なるモノではないという当たり前の心を取り戻した。

 あれから5年、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではないが、またしても、ご葬儀はもちろん、家族も親も〈要らない〉という本がベストセラーになりつつある。
 言うまでもなく、著者のすべては親から生まれ、親子という家族関係の中で育てられ、ものを書いて売れる人間になったはずなのに……。
 評論家や宗教者から、お骨は単なるモノだとも、堂々と言われる。

 東日本大震災で津波に遭った被災地のあちこちでは、月命日となる11日に、各地で行方不明者の捜索が行われている。
 現場の方々は皆さん、真剣である。
 5年前によみがえった尊い感覚を大切にしておられる。
 それは、大和家の思いと通じている。
 大和家の報道に接してハッとしたなら、その心を大切にして行きたい。
 霊性が何かを教えてくれたはずなのだから……。




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「おん あらはしゃのう」
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2016
07.08

宗教者と教団の選び方 ─道具の話・あるべきようの話─

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〈自分自身で自分の「あるべきよう」を考えよと説かれた明恵上人〉

 宗教とかかわって失敗したという人生相談は絶えない。
 悪因縁を説き、善行が順調に進むよう、幾度も修法してきた。
 二つのポイントを記しておきたい。

○大切なのは、用いる道具がどうかということよりもむしろ、道具をどう用いるかである

 仏教は、教えが心身の血肉となる前は、数ある道具の一つでしかない。
 キリスト教も、イスラム教も、自由主義も、社会主義も、博愛主義も、果てはナルシシズムすらも道具である。
 包丁が料理に役立つ反面、人殺しの手段にもなり、火が清めと共に火事をもたらしたりもするように、道具には多様な可能性がある。
 そして、多くの場合、結果への道を決めるのは、用いる人間の心である。

 ある時、僧侶に裏切られたAさんが嘆いた。
「大学で学び、こんなにも深い仏縁に恵まれながら、何の縁で、このようなことをされるのか。」
 縁となった僧侶が、娑婆的現実に関して、常々の言動とはまったく別人のような面を露呈し、周囲が困り果てたのだ。

 ある時、新興宗教に引きずり込まれそうになったBさんが嘆いた。
「これだけが正しい、他は邪宗だ、これだけをやれば幸せになれる、他は捨てと教え込まれ、苦しくなりましたが、お釈迦様はそんなふうに説かれたのでしょうか?」
 有名な宗教団体なので行ってみたら、カルトや蟻地獄のような恐怖感を覚え、大変な目に遭いながらも、ようやく脱出したという。
 
 仏教に関して言えば、仏教経典を用いているから、まっとうな人であり、まっとうな教団であるとは言えない。
 教えの内容よりもむしろ、教えをどう用いているかが問題だ。
 標語は飾りであり、善良な信者たちが教祖や幹部の隠された〈狙い〉に気づかぬ例は山ほどある。

 もしも、宗教を説く人や教団との縁を深めようとする場合は、教えの〈内容〉から離れ、その人自身が一人の人間としてどう生きているか、その教団が社会内の存在としてどのように社会とかかわり、どのように運営されているか、その〈ありよう〉を客観的に眺めてみたい。
 まず、本分をもってきちんと自立できていなければいかがなものか。
 まず、教団か、それ以外の世間か、二者択一を迫るようでは危険だ。

 お釈迦様は、バラモン教と思想的に相容れないにもかかわらず、弟子たちへ、行者として清浄なバラモンたちへ学べと説いた。
 お大師様は、他の宗派と争わず、むしろ多様に学びつつ、より高いものを求めよと説いた。
 ダライ・ラマ法王は、宗教的立場を超えた地点で、互いに認め合い、互いを思いやろうと説いている。

 このあたりから相手をよく見れば、失敗しにくくなることでしょう。

○人は知っているとおりには生きられない

 自分を振り返ってみよう。
 知っているとおりに生きているか?
 それができているなら、誰かを苦しめなかったはずだ。
 誰かと疎遠にならなかったはずだ。
 何かを奪わなかったはずだ。
 何かを失わなかったはずだ。

 私たちは、〈どう生きるべきか〉をおおよそ、知っているはずなのに、なかなかそうは生きられない。
 一方、確かなのは、〈こう生きたい〉と思う方向へ進もうとしていることだ。
 つまり、あるべきよう、ではなく、やりたいよう、に生きるのが私たちの現実だ。

 今から約800年前に活躍した明恵上人(ミョウエショウニン)は生涯、月輪観(ガチリンカン)の修行を欠かさず「月の行者」とも呼ばれた。
 その遺訓は、「阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ)」の7文字に貫かれている。

「人は阿留辺幾夜宇和(アルベキヨウハ)と云(イ)う七文字を持(タモ)つべきなり。
 僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至(ナイシ)帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。
 此のあるべき様を背く故に、一切悪(ワロ)きなり。」


(人は、「あるべきようは」という7文字を心に刻んで忘れないようにすべきである。
 出家者は出家者のあるべきよう、娑婆の人は娑婆の人のあるべきよう、国王は国王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきよう、を考え、それに背かぬようにせねばならない。
 この、あるべきよう、に背くために、一切の悪事が起こるのである)

 上人の言葉はこうも読める。

「ものの道理や人の道を知っているつもりでいるだけでは危うい。
 自分は自分の置かれた立場なりにどうあるべきか、その道理や道を常に問い、得た答に合わせる努力をし続けなければならない。
 それを怠るところから、この世のすべての過ち、悪行が起こってくる」

 また、気をつけねばならないのは、こうも説かれている点である。

「仏も戒を破りて我を見て何の益(エキ)かあると説い給(タマ)へり。」


(お釈迦様も、戒めに背いていながら、悟った人を崇めたところで何にもならない、と説かれているではないか)

 出家者と在家者を問わず、決して、拝めばまっとうに生きられるのではない。
 まっとうに生きるためには、自分自身を省み、外に学び、内に仏心の声を聴き、それに従う自分自身の努力が欠かせない。
 仏神に祈るのは、〈凡夫はいかに努力しようと何かが足りない〉からである。
 知っているとおりにはなかなか生きられない私たちだからこそ、いかに生きるべきかを常に問い、実践し続けねばならないのは、上人が説かれたとおり、置かれた社会的立場にかかわりなく共通の真実だろうと思う。

 このあたりから自分をよく見れば、失敗しにくくなくことでしょう。




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2016
03.29

Q&A(その22)お戒名はどうやって決まるか? ─テレビでは語られない〈宗教行為〉─

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 帰山したところ、たまたま「ぶっちゃけ寺」なるテレビ番組が目に入った。
 ある住職はお戒名を二つ作り、ご尊家様に気に入った方を選んでもらったり、二つから気に入った文字をご尊家様と一緒に組み合わせて完成させたりするという。
 司会者やコメンテーターのペースで、おもしろおかしく語られているのは〈経済行為〉でしかなく、死の絶対性に正面から向き合う〈宗教行為〉は語られていないと思われた。

 当山のやり方をもう一度、書いておきたい。
 当山では、故人の誕生日や命日などの情報を頭へインプットし、ご本尊様と一体になった状態で、ご本尊様から降りてきた文字を並べる。
 こうする理由は、一介の行者が、あの世という親元へ旅立つ〈みの子〉である御霊を特定するためのお戒名を求める場合、こうするしかないからである。

 この世へ生まれた私たちは、この世の親が〝──幸せな人生を歩めるように……〟と懸命に考え尽くした果てに現れた名前を授かって一生を過ごす。
 真であれ、華であれ、一生、自分の名前によって少なからぬ影響を受ける。
 だから名前は必ず、イメージのよい文字で構成される。

 親から授かった肉体の耐用年数が過ぎれば、今度は、の故郷であるあの世へ還って行く。
 肉体を離れ、霊性だけになった存在へ、今度はあの世の親であるみが名前を授けてくださる。
 それが、〝安心して欲しい〟〝迷わないで欲しい〟など、ご尊家様の希望に叶ったものであるよう、行者は至心に祈り、みからの応答を感得する。

 これが〈宗教行為〉というものであり、小生のような未熟者にとっては、こうするしかお戒名をお渡しする方法はない。
 ちなみに、お身内のお戒名をお送りしたAさんからいただいたお返事である。
「一文字一文字にとても感動し前向きに頑張りたいと思います」(Aさん、ありがとうございました。小生も頑張る力をいただきました)

 一文字一文字は、みの世界に連なっている。
 それを感じる時、私たちの心も、いのちも、清められ、本来の力を取り戻す。
 これが宗教の世界であり、お戒名をいただくという〈宗教行為〉の真実である。(宗教行為に値段のつけようがなく、まごころからのお布施によるしかない理由がいくらかはおわかりいただけただろうか……)




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2015
08.08

イスラム教を学ぶ ―黒田卓教授のお話―

201508080001.jpg
黒田卓教授〉

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〈東北大学広報誌『まなびの杜』よりお借りして加工しました〉

 日本が世界との関わりと交わりを深める過程において、現在はなじみの薄いイスラム教とうまくやって行かねばならない時がもう、そこまで来ている。
 今のままでは、無用の偏見や誤解や差別などが起こりかねない。
 ハラル食品(シャリーア法とイスラム原理に合った健全とされる食べもの)などが話題になる一方で、1月17日、安倍首相はエジプトにおいて表明した。
「私は、ISIL(いわゆるイスラム国)と闘う国々に対し、人材開発やインフラ整備などを支援するため総額でおおよそ2億ドルの援助を表明します」
 あとになって、人道支援だからイスラム国への挑戦ではないと釈明しているが、国際的に通用しないだろう。
 国際的に人道支援とは、対立する片方に肩入れしない〈中立性〉と、政治的、経済的、軍事的に特別な立場から離れ自主的である〈独立性〉が大原則である。
 しかし、今回の行為が敵対する勢力の一方を援助する政治的行為であることは明らかである。
 だから、IS側から見れば、「敵の側に立った」と判断するのは当然である。
 事実、ISはただちに「日本国民に告ぐ。おまえたちの政府はイスラム国と戦うのに2億ドル支払うという愚かな決定をした。」と反発し、邦人を殺害した。

 私たちは、報道されるISの残虐性や非人道性や暴力性などに眉をひそめ、融通性や包括性や許容性がある日本の文化との異質ぶりにとまどい、イスラムそのものへ対して拒否的心理になりがちだが、これが不幸の始まりであってはならない。
 仮に、日本のどこかでたった一回、爆弾テロ事件が起これば、過激的集団だけへではなく、ムスリム(イスラム教徒)全体とののっぴきならない対立的雰囲気が生まれかねず、それは、日本らしさの崩壊へとつながりかねない。
 だから、〈最初の一回〉が起こらぬよう、私たちは、世界で16億人(約4人に1人)を要するイスラム教について知り、ムスリムと友好的に共存するイメージを創って行きたい。
 何しろ、今世紀の半ばには、その勢力はキリスト教徒に匹敵し、世界中の3人に1人はムスリムになると予測されているのだ。

 そうしたわけで、8月7日、東北大学大学院国際文化研究所を訪ね、科長を務められるアジア・アフリカ研究講座の黒田卓(タカシ)教授に面会し、当山の寺子屋『法楽館』において、イスラム教に関する基本的知識と、ムスリムの生活ぶりなどについてのご教示を懇請した。
 教授は快諾され、9月12日の寺子屋でご講演をいただく方向で調整を始めていただいた。

 お聴かせいただいたお話のごく一部を記しておきたい。

ムスリムになる一番のきっかけは結婚である
 確かに、食事から礼拝まで、夫婦が別タイプの文化を生きることは不可能だろう。

ムスリムの第一の関心事は自らが救済されることにある
 自分がしっかり生きるための信仰であり、布教を目的とした宣教師のようなものはなく、〈伝える人〉としては、ムスリムの一人一人がそうである。
 仏教と対比すれば、一部の聖職者を除き、全員が〈在家信者〉のようなものである。
 私たちが思い描きかねない、武器とコーランによる世界征服といったイメージはまったく的外れである。

○商人マホメットに始まる宗教らしく、宗教が現実生活と別ものではない
 商売や交易などを通じてイスラム教は広まった。
 聖地への巡礼はあるが、基本的に宗教的行為は日常生活のリズムに組み込まれており、生きることがそのまま宗教的生活となる。

 教授は東北大学広報誌『まなびの杜』(2015夏号)に「ムスリムたちの近代との出会い」を寄稿されている。
 その中に印象的な文章がある。

「イスラームの宗教も思想も文化も、現実に創り出しているのは、ムスリムたちの人間的な営みです。」


 イスラム教には「コアに不変とも思える理念が確かに」あるが、現実生活によって生きられるイスラム教の歴史は、「大いに可変的で、事実、時代時代で否定しがたい変容をこうむってきた」ことに注目したいと説かれる。
 いかなる宗教も、人間の「人間的な営み」によって存続している。
 私たちがこうした視点を持てれば、つまらぬ対立や、愚かな誤解や偏見や差別はなくなるのではないか。
 それぞれなりの「人間的な営み」に健気さを感じ、哀しくも愛しいと思えれば、宗教が〈壁〉となる事態は避けられるのではないか。

 教授による9月のご講話が実現するようご期待申し上げたい。
 



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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2015
07.30

宗教の毒を直視する ―ダライ・ラマ法王の警告(3)―

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 ダライ・ラマ法王は、著書『ダライ・ラマ法王、フクシマで語る』においてモラルの重要性と宗教の毒を説く。

モラルを守る、すなわち正しい倫理観に基づいた生き方をするということは、計り知れない大きな力を私たち人類にもたらしてくれます。」

「愛と慈悲の心を高めていくことによって、私たちは自分の健康をもきちんと維持していくことができますし、一個人の心の平和、家庭のなかの平和、社会の平和、そしてひいては世界平和へと、少しづつ段階を踏んで、それを高めていくことができるわけなのです。」


 私たちは中学生か高校生の頃、儒教の基本的な教えとして「修身斉家治国平天下(シュウシンセイカチコクヘイテンカ)」を学んでいる。
 自分自身の生き方をきちんとすれば、家庭も波立たず、やがては社会の平安という大きな目標を達成することも可能になるという順番を教えている。
 人間一人一人がしっかりしないかぎり、人倫が守られるまっとうな社会にはならない。
 殺し、奪い、騙すモラルの薄い社会を恐ろしいと感じる情操が乾ききったならば、この世に救いはなくなる。
 霊性の警告がもたらす身震いにすなおでありたい。
 他者の愚かしい行為を見聞きした時、相手を軽蔑し社会を憤るだけでなく、〈自分自身にある黒い可能性〉を見逃さぬようにしたい。

「ここで私は来世の話をしているわけでも、神様の話をしているわけでも、仏陀について、天国について述べているわけでもありません。
 単に自分ひとりの、個人の心の平和を高めるために、そして家庭や社会や宗教における平和の心を高めるというその目的のために、私は申し上げているわけです。
 そのために教育が非常に大きな鍵となると思っています。」


 来世や仏陀について思考し、瞑想を続けている聖者が、そうした宗教的レベルを横へ置き、一人間として、お互い、実生活上を共によくする考え方を探求しようと呼びかけておられる。

「『宗教を通してではなく、一般的な世俗のレベルで倫理観を促進させていく、高めていく努力をすべきである。そのようなアプローチをすることで、私たちの心のなかに人としての正しい生き方を探る態度を高めていこう』
 こういう考えを私はもっていて、たくさんの方々とそれを分かち合いたいという気持ちでいます。」


 宗教がベースであり、宗教心がないと倫理は崩れるという考え方もあろうが、少なくともインドの歴史は、必ずしもそうではない人間の現実を示している。
 インドの伝統の一つは「一般的な世俗のレベルで倫理観を高める」ことである。
 インドでは古代から哲学的論争を行い、激しい批判の応酬もあったが、真剣に考え、議論し、主張する人はその真剣さから「聖人」とみなされ、見解を同じくする人からだけでなく、そうでない人からも「尊敬を受けてきた」のだ。

「その人のもっている見解と、その見解をもっているその人とをはっきり区別して考える、その上で、その人のもっている見解が間違ったものならば批判することはかまわないけれど、『その見解をもっている人に対する尊敬の気持ちを忘れてはならない』ということが、世俗のレベルにおける倫理観ではないかと思います。
 すなわち、この『世俗のレベルにおける倫理観』をもつということは、すべての宗教に対して尊敬の気持ちをもつということを意味しています。
 そのなかには宗教を信じていない人たちも含まれています。
『この宗教が良い、あの宗教は悪い』という区別をするのではなく、すべての宗教を等しく尊敬する気持ちをもつことこそ、大切な考え方であると思うわけです。」


 ここで、人を救済するはずの宗教が人を争わせ、邪慳にし、倫理に背く行動をとらせる理由が明らかになった。
 特定の神や経典が良くて、他のものは悪いという区別、そして、その先に待つ蔑視や差別こそが、宗教の持つ最大の毒である。
 宗教的信念が世俗のレベルすなわち、普通の社会生活に不要な、あるいはあってはならない波風を立てているのだ。
 その毒は、人と人とを遠ざけ、対立させ、殺し合いすらもたらし、倫理の崩壊を招いている。

「私たち人間のもっている価値感を高めていく方法としては、世俗のレベルを土台とすること、すなわち、『すべての宗派も越え、信心をもっているかどうかも越えて、ひとりの人間として、正しい生き方をするべきである』という認識を広めていくことこそ、今、現実的に必要とされていることだと思います」


 法王は、「ご自身の宗教をもつということと、世俗の倫理観を高めるべく尽力をされたことの間に一切の矛盾は」なかった例として、マハトマ・ガンディーとインドの初代大統領ラージェーンドラ・プラサードを挙げる。

 マハトマ・ガンディーは「インド独立の父」と呼ばれ、誕生日である10月2日は国連によって「国際非暴力デー」と定められている。
 昭和17年7月、日本軍がミッドウェー海戦で大敗北をこうむった直後、こうした文書を発表した。

「私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。
 あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。
 しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。
 そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。
 世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。
 しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。
 あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。
 ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。
 それが大きな誤解でありますように。
 あなたがたの友 ガンディーより。」

 昭和22年、インドはイギリスから独立したが、イスラム教徒の多いパキスタンがインドから分離・独立し、その翌年、ガンディーは自分が信ずるヒンズー教の狂信的信者によって暗殺された。
 3発の弾丸が撃ち込まれた時、ガンディーは、イスラム教の作法により自らの額に手を当てて相手を赦し、「おお、神よ」とつぶやいた。

 法王は世界中の宗教者、信者たちへメッセージを発した。
 世界を倫理の崩壊から救うため、自分の宗教という枠を超え、すべての人々と共に、一人の人間として正しい生き方をすべきである。
 今、世界でもっとも重要なメッセージの一つではなかろうか。 




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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