--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2012
05.25

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第103回)─何かを失い、自殺したくなったなら(その3)

20120524001.jpg

 家族がいなくなり、生きて行く術も失い〈手足ちぎられ〉た状態は、ある程度まで〈我がこと〉として想像できます。
 そこで前回は、喪失をどうとらえるかという視点から考えてみました。
 でも、大きな問題はもう一つあります。
 それは搾った牛乳をそのまま川へ捨てる作業をたった一人で行わねばならないという状況です。
 亡くなられた男性は「泣きながら捨てていた」という証言もあります。

 私たちは、いかなる作業も無目的に行うことはありません。
 そもそも作業とは、目的を持ち計画に従い精神や身体を道具として使いながら行う仕事です。
 もちろん、男性の行為は、乳牛を救い、かつ、放射能で汚染されていると思われる牛乳を流通させないという目的を持っています。
 しかし、原発事故が起こる前までは、牛を育て乳を搾る行為が一家を食べさせ、未来を描く牽引車でした。
 同じ行為が今は何の実りももたらさない。
 しかも、可愛い牛たちを生かすためにはあてもなく餌代を注ぎ込まねばならない。
 苦しくとも嬉しさを伴っていた労働は、いまや重い辛さしか伴わず、こうした状態へ追いやった原発への憎しみや怒りにも苛まれる。
 ここにおいて、一連の作業は、男性にしてみれば完全に目的を失っています。
 それどころか耐え難い刑罰にも等しかったのではないでしょうか。
 残った財産を食いつぶしながらあてもなく続く刑罰に耐えられるか……。

 ここにおいても、なかなか、男性の身になってみることはできません。
 アルベール・カミュの『シジフォスの神話』を思い出します。

「神々はシジフォスに、休みなく岩を山の頂上まで転がして運び上げる刑罰を課した。
 山の頂上に達すると石はそれ自身の重さで再び落ちて来るのであった。」
「無益で希望のない労働以上に恐ろしい刑罰はない。」


 神から石を山の頂上まで押し上げるように命ぜられて押し上げると、次の瞬間に石は転がり落ち、また同じように黙々と何度も何度も押し上げる行為をくり返さねばなりません。
 カミュは、私たちの人生はこうした「無益で希望のない労働」という「刑罰」を与えられているように不条理なものであると書きました。

「ひとは非合理的なものに直面する。
 幸福と理性への欲望が自分のなかでうずくのを感じる。
 このようにして、人間的な呼びかけと世界の不当な沈黙とが対置される。
 そこから不条理が生れるのだ。このことを忘れてはならぬ。
 これに必死になってしがみつかねばならぬ」


 自殺した男性にとって、搾った牛乳を捨てねばならない状況は「非合理的なもの」でしかありません。
 そして、もちろん、男性は妻子と一緒の希望に満ちた生活を望んでおり「幸福と理性への欲望」を持っています。
 ここに「不条理が生れ」ています。
 カミュは「人間的な呼びかけ」を捨てず「世界の不当な沈黙」という壁へあくなき挑戦を続ける実存的な生き方を選びました。
 しかし、男性は「人間的な呼びかけ」を捨て、「世界の不当な沈黙」に押しつぶされました。
 私たちは希望を失った時、非合理的な世界の沈黙を前にして「無益で希望のない労働」を続け得るものでしょうか?

 自分が耐えられるかどうかはわかりません。
 ただ、ナチスの強制収容所から帰還したフランクルの言葉は信じられそうな気がしています。
「人間は、いかに過酷な状況に置かれても、醜い本能をまるだしにしたり、劣悪な行動に走るような存在とは限らない。
 逆に、困難や苦しみを通して聖者のようになる人もいる。
 人間の本当の姿(実存)は、限りなく高貴で偉大な存在、高い次元に属する「精神」なのだ……。」
 そもそも私たちの人生は、途方もなく長いプロセスのごく一部でしかありません。
 過去の因縁を背負ってこそ特定の何者かとしてこの世に生まれ、善悪こもごもの業を積み、そのすべてを背負ってあの世へ行き、いつかまた、特定の何ものかとしてこの世へ修行の旅にやってきます。
 この世での生は一瞬の光芒であり、膨大な時間として待っているあの世こそが故郷です。
 お大師様は説かれました。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(クラ)し」
 何度生まれ変わろうと、本来持っているみ仏の智慧が光明となって輝かないうちはなかなか真実世界が見えず、本質的な苦から脱することはできません。
 きっかけさえあれば必ず光明を見いだせるのに。
 人生に起こるすべてのことごとは、そのきっかけたり得るのに。

 男性は絶望的状況でなお、家族を想い、牛たちを想って行動し、「醜い本能をまるだしにしたり、劣悪な行動に走る」ことをしませんでした。
 それどころか、自分の生命保険による後の処置を願い、原発への告発を一句にしたためました。
 見事と言うべきではないでしょうか。
 光明を見いだす努力を一緒にできなかったことは残念でなりませんが、最後まで刑罰的作業をこなし、決然と逝った男性のご冥福を祈ってやみません。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



スポンサーサイト
2007
02.26

遙かな愛

 運転中、NHKドラマ『蝉しぐれ』(原作:藤沢周平)の主題曲を初めてしみじみと聴きました。
 歌詞を追っているうちに驚きました。“これは現代を代表する恋歌ではなかろうか!”

遙かな愛
 作詞:及川恒平 作曲:小室等
 歌:普天間かおり

 もしも私
 生きているのが一年だけなら
 春の息吹をうけたらすぐに
 花を抱きしめ踊り出すのよ
 あなたと一緒に
 花を抱きしめ踊り出すのよ
 あなたと一緒に

 もしも私
 生きているのが一日だけなら
 朝の日差しに目覚めてすぐに
 鳥を集めて歌をうたうわ
 あなたと一緒に
 鳥を集めて歌をうたうわ
 あなたと一緒に

 もしも私
 生きているのがひとときだけなら
 誰に伝えることもしないで
 風になって遠くへ行くの
 あなたと一緒に
 風になって遠くへ行くの
 あなたと一緒に

 もしも私
 生きているのが一瞬だけなら
 うまれたままの心と姿
 悲しみじゃない涙をそえて
 あげます あなたに
 悲しみじゃない涙をそえて
 あげます あなたに


 生きている時を区切って「もしも」と言っていますが、時は一年であっても、一日であっても、同じことです。
 要は、自分に与えられた時のすべてを相手と共にいたいというのです。
 それも、「踊る」「うたう」「風になる」といった時でありたい、それが叶わぬほど短い場合は、自分をそっくりそのまま相手へ捧げると唄います。
 二人で一つのハーモニーを奏でることこそ、愛する者同士の最も望むものです。
「愛し合っている」とは「美しいハーモニーを奏でている」ことであるとも言えましょう。
 黙って見つめ合っても、セックスをしても、遠く離れて心を通わせ合っても、二人の間には二人だけのかけがえのない旋律が流れています。

 白眉は、「うまれたままの心と姿」にそえられる「悲しみじゃない涙」です。
 涙は不思議なものです。
 哀しいから、嬉しいから、あるいは寂しいから流れるとは限りません。
 この歌を聴き、切なさと一緒に胸に兆した涙は、魂の震えがもたらす「生の証」といった感があります。
「悲しみじゃない涙」とは、〈実存の全体〉〈自分に凝縮された世界のすべて〉といったものではないでしょうか。

 それにしても、こうした二人を引き離す「死」の近くで生きる自分の因縁を思わずにはいられません。
 不断に訪れる死は、必ず涙を伴っています。
 最近、ご主人を亡くされて3年以上も経った奥さんからいただいた手紙には、こうありました。
「夫の死は誰でもこたえます。いつも一人になると夫のことを思い出し、悲しいです」
 
 実際に流れようと流れまいと、涙は人生の伴侶です。
 ご縁のとなたとであれ同じ涙を共有しつつ、仕事をまっとうしたいと願っています。




back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。